炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

タグ:485系

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   ▲ 485系ボンネットの “つばめ” 号がゆく 
    
       撮影日:1973 
       撮影地: 鹿児島本線 銀水~渡瀬(当時)
 


 
まだUPしていなかった、キハ82系気動車特急“なは”号の写真発掘
プリントのスキャナでございます~ネガは行方不明(*_*)    その5

“なは”はひとまず終了して~
発掘写真スキャナのつづきは、485系ボンネットの “つばめ”号
(この写真のみトリミングを施して、全体的に周りをカットしています)

この写真は、本当に管理人が自宅近くの鹿児島本線にて撮り鉄をはじめた最初の写真だと思いますね(^O^)
熊本発岡山行きの“つばめ”号ですが、よ~く見てください・・・

これは珍しい
管理人が撮影したのはこの一枚だけ!(^^)!
何が

それは、ヘッドマークの“つばめ”に注目~上下がグレーになっていませんか
九州鉄道記念館で本物(レプリカ?)を見たことありますが、かつて151系のころの“つばめ”はこの様なマークを付けていたのかな(?_?)
ということで、昔の写真を整理しながら、面白い発見をした管理人でした

◆九州鉄道記念館 ⇒ http://www.k-rhm.jp/shisetsu_honkan.html




(つづく)


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▲雪の日の485系300番台 “つばめ”号
 
   撮影日:1975.2.21
   撮影地:鹿児島本線 渡瀬~銀水(当時)


懐かしい国鉄時代の画
またまた、久々の再開でございます・・・
今回は~雪の日の485系300番台 “つばめ”号でござ~い
 
当時の撮影メモによると~ 
「運よくか、悪くか、名前なしの485系300番台のつばめであった。雪の日のつばめは、これでもう最後だろうか・・・」

たぶん、登校前に撮った写真です
前にUPした“あかつき”と同じ朝に撮ったものですね(^_-)
田んぼの細道を西鉄の東甘木駅にでも向かうのでしょうか?
この時間帯、この場所で “つばめ”号を撮ると、必ず写っている人影在り

今では、写真のような藁をこづんだ風景も見かけることはなくなりました・・・












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 最終日の481系ボンネット “つばめ”号
 
   撮影日:1975.3.9
   撮影地:鹿児島本線 銀水~渡瀬(当時) :現吉野駅にて

 

懐かしい国鉄時代の画
またまた、久々の再開でございます・・・
再開第3号は~481系“つばめ”号でござ~い

この写真は、新幹線博多開業前日の上り“つばめ”4号です(^_^)v
赤いスカートにクリーム帯の60Hz仕様は、きりりと締まっていいですね

この写真の撮影メモを繙くと~
「前面には列車名がついていなかった。つばめ最後の日なのに、列車名がないとは・・・ああ、だめだ~。でも、後方には名前が入っていた。もしかして後にはついているかなと思って、後追いをねらって写した。」

新幹線博多開業の前日は、あいにくの雨模様でした。この写真を撮って間もなくしてから雨が降り始めた・・・
在来線特急“つばめ”号の最後は、自宅から雨ににじむ赤いテールランプを見送りました。1975年3月9日、22時30分 (天気:小雨) のことでした





 

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▲ 下り1M 485系 “なは”号 が行く
 
   撮影日:1975.2.17
   撮影地:鹿児島本線 渡瀬~銀水(当時)

 

懐かしい国鉄時代の画
またまた、久々の再開でございます・・・
再開第2号は~485系“なは”号でござ~い

当時の列車番号は1M 
“なは”は、大阪発西鹿児島行きの優等列車でありました
これまでにも“なは”の写真はたくさんUPしてきましたが、
なかなかこれぞ という写真がありません・・・

同様のことは、この頃盛んに撮影していた“つばめ”号やブルートレインにも
言えることです。まあ、望遠なんて優れものも持っていなかったし、このような
単調な写真ばかり撮っていましたので仕方がないかな

それでも、このように新たにスキャンしてみると、往時の様子が偲ばれてきて
それなりにいいと言えるか~なんて、自己満足している次第です




 

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▲霜が降りた早朝の田んぼ ~485系300番台の上りつばめ4号~  
 
   撮影日:1975.2.11
   撮影地:鹿児島本線 銀水~渡瀬(当時)

 
懐かしい国鉄時代の画
今回は、拡大しないとわからないでしょうが~
485系300番台の上り“つばめ”4号でございます
 
光線の具合で、後追いの写真ですが、晩年の“つばめ”号に間違いなし
11両編成の国鉄色の眺めはいいものですな~
 
ところで~JR九州で唯一残っている485系Do32編成も余生は短いと聞き及んでいます・・・
 
九州から国鉄色の特急が消滅するのは淋しいです(*_*)
 

 
 

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ピッカピカの485系300番台 “なは”号 (つづき) 
 
   撮影日:1975.2.9
   撮影地:鹿児島本線 銀水~渡瀬(当時)

 
懐かしい国鉄時代の画
今回は、 ピッカピカの485系300番台 “なは”号~つづき(*^_^*)
 
前々回の、下り“なは”号の翌日上り列車でございます
これは、後追いの写真ですね(^_-)
もちろん? 愛称名はありませぬ
 
当時のメモを繙くと・・・
「例の“なは” (北陸線に使用されているであろう車)の上りを写した。やはり、名称は入っていなかった。番号を見たところ、先頭車が481-319であった。」
 
481-319&国鉄で検索してみると~
TOMIX 485系 スーパー雷鳥 クハ481-319  が沢山表示された
 
やっぱり、北陸本線で活躍したんだね(^O^)
 

 

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  余寒厳しき朝を行く 481系ボンネット “つばめ”号 
 
   撮影日:1975.2.9
   撮影地:鹿児島本線 銀水~渡瀬(当時)

 
懐かしい国鉄時代の画
今回は、冬の朝の 481系ボンネット “つばめ”号(*^_^*)
 
季節は2月~
まだまだ寒い朝の訪れでした
 
山にはすでに陽が当たっていますが、線路あたりは薄暗い夜明けの感じ
しかも、一面に霜が降りた厳寒の朝です
 
自宅すぐ前の丘から、正面に見える甘木山をバックにして撮影したこの一枚~
霜で真っ白な畑の中を、“つばめ”号が飛び立っていきます
手前の国道208号線には、車が一台も走っていませんね・・・
 
撮影時の、ピリリとした空気感が甦ってきました
 

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  ピッカピカの485系300番台 “なは”号 
 
   撮影日:1975.2.8
   撮影地:鹿児島本線 渡瀬~銀水(当時)

 
懐かしい国鉄時代の画
今回は、 ピッカピカの485系300番台 “なは”号(*^_^*)
 
写真からも、ピッカピカの感じが伝わってくるでしょう
実は、非貫通式の300番台“なは”号には、3回お目に掛かってます
この写真ではよく見えませんが、先頭車の列車名は表示されていません(*_*)
300番台では、200番台よりも列車名表示が大型となりましたが、新造時の字幕には“なは”の列車名はなかったのかな
残念ながら、ただの真っ白な表示となったままでした(>_<)
 
ところで、背後の丘にある看板に目がいきますね~
右側の大きい看板には達磨の絵が~
そうです(*^_^*) 大牟田の皆さんにはおなじみの「だるまわた」
中央の小さな看板は~「カクイわた」
 
くしくも、両方とも“わた”製造会社の看板ですな
手前の藁積みの風景といい、時代を感じさせてくれる一枚です(^O^)
 

 
 
 

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                     ▲485系ボンネット  “なは”号 の勇姿
 
                  撮影日:1975.2.2
                  撮影地:鹿児島本線 銀水~渡瀬(当時)

 
懐かしい国鉄時代の画
481系“つばめ”号に引き続き、485系の“なは”号(*^_^*) 
 
クリーム色のスカートが、あか抜けて見えますね
大阪発西鹿児島行きの1M “なは” 号~
優等列車の貫禄をたたえて、堂々の走行でございます(^O^)
 
ところで、この時代は運転士が2人乗務していました
写真の運転席にも、2人の人影があるでしょ
 
2人乗務は、その後に保安装置と乗務員無線が完備され1人乗務に
国鉄合理化と、国労や動労のストライキが頻発した時代と重なりますね・・・
 

 
 

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  “つばめ”号はボンネットが一番(*^_^*) 
 
   撮影日:1975.2.8
   撮影地:鹿児島本線 銀水~渡瀬(当時)

 
懐かしい国鉄時代の画
“つばめ”号はやっぱりボンネットが一番(*^_^*)
 
早朝の大牟田を、熊本発岡山行きの1番列車“つばめ”3号が行く
赤いスカートにクリーム帯の60Hz仕様は、きりりと締まっていいですな~
やっぱり、“つばめ”号には481系ボンネットが一番(*^_^*)
 
冬の7時半、やっと陽がさしてきた頃・・・
これまた線路際のきわどい場所からの撮影で反省でございます
 
 
さてさて、今後も1975年の撮影はつづくよ

 

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