炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

タグ:福岡県

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        ◆ 残そう! 大牟田市庁舎本館 続報 ② ◆


『残そう! 大牟田市庁舎本館 続報①』を報告して以来、いつのまにか1ヶ月もの日々が流れました・・・ 
この間、保存・活用に向けた様々な動きがありましたが、当ブログでは詳細を報告することができませんでしたm(_ _)m
そこで~詳しくは、以下の大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ】のブログにて確認をお願いします↓↓↓


なお、【国登録有形文化財 大牟田市庁舎本館の保存と活用をめざす会】が、3月14日より「国登録有形文化財市庁舎本館の保存と活用を求める署名」を開始しています。先のファンクラブブログより、署名用紙がダウンロードできますので、趣旨に賛同される方は、ぜひご活用下さいませ<(_ _)>



さて、今回は大牟田市庁舎本館に関して、最近いただいた別書庫へのコメントから少しだけ記事にしたいと思います。
       題して  “かつて市役所からも定時に音楽が流れていた”

“かつて市役所から~” も、というのは、もちろん大牟田松屋のミュージックサイレンを意識したものであります(^O^)  「松屋のミュージックサイレン」記事に寄せられた、ある方からのコメントは以下の通りです。


朝日新聞でミュージックサイレンの記事を読み、大牟田駅から初めて東京に旅立った日のミュージックサイレンを思い出しましたので検索してみたら、このブログがヒットしました。 昭和32年高校を卒業した年の3月末か4月初めだったか今は定かではありませんが、夜行列車の出発時刻に鳴っていた「椰子の実」のミュージックサイレンの音色は今も忘れられない思い出の音です。その時のミュージックサイレンが松屋のものかどうか知りませんが、大牟田のミュージックサイレンはこのブログの冒頭に書いてある昭和33年よりもっと前から鳴っていたのは事実です。


このコメントが寄せられた記事はこちら↓↓↓ 


このコメントをいただいて直ぐに思い起こしたのが、以下の昭和40年1月19日付の西日本新聞 筑後版記事です

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この新聞記事をもとにして、先のコメントに次のようなお返事をさせていただきました・・・


早速ですが、再度資料を調べましたところ、松屋のミュージックサイレンの担当者の方の証言によると、昭和34年から流れていたようです。
(参考にした資料は、次のHPにある証言記載です→http://bougaku.fc2web.com/
ところで、松屋のミュージックサイレン設置以前の昭和33年に、市役所屋上に“愛の鐘”と称したサイレンが設置されいたようです。このサイレンは、朝7時に“ウエストミンスターの鐘”、夕方5時に“椰子の実”、夜10時に“ブラームスの子守歌”のメロディーを流していました。管理人はまったく記憶がないのですが、松屋のミュージックサイレンよりは音量が小さかった?(ちなみに、管理人は倉永小校区の住人でした)昭和40年1月9日発行の西日本新聞筑後版に、「鳴る日はいつ“愛の鐘”」という記事が掲載されています。市役所のサイレンが壊れて鳴らなくなったようで、そもそもの設置者であった防犯協会が復活させて欲しいと要望を出している旨の記事です。昭和40年頃まで、市役所屋上(正確には塔屋の屋上)にサイレンが設置されていたことは明らかです。




TOPに掲載した絵葉書は、おそらく昭和30年頃の市庁舎本館と思われます。この絵葉書には、市庁舎本館の正面向かって左屋上に大きなサイレンがあるのが見て取れます。このサイレンと、新聞記事の“愛の鐘”は明らかに別物で、塔屋屋上に設置されたもののようです。(新聞記事に掲載されている写真に、塔屋屋上にそれらしきサイレンが写っています)

管理人は、市庁舎本館のミュージックサイレンはまったく記憶にないのですが、聞き覚えのある方いらっしゃいますか






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        ◆ 残そう! 大牟田市庁舎本館 続報 ① ◆


大牟田市による、大牟田市庁舎本館の解体方針ニュース記事を掲載してから丁度一週間が経ちました。この間、様々な動きがありましたので、『残そう! 大牟田市庁舎本館 続報』としてここに報告いたします。

その前に~「登録有形文化財」についてのお勉強を、文化庁のHPからの引用をもとに少しばかりしておきましょう。


 私たちの周りには、 残していきたい風景がたくさんあります。身近な建造物であっても、地域に親しまれている建物や、 時代の特色をよく表わしたもの、 再び造ることができないものは、貴重な文化財です。この文化財建造物を守り、 地域の資産として活いかすための制度<文化財登録制度>が平成8年に誕生しました。
 登録有形文化財建造物は、 50年を経過した歴史的建造物のうち、 一定の評価を得たものを文化財として登録し、 届出制という緩やかな規制を通じて保存が図られ、 活用が促されています。既に10,000 件を超える建造物が登録されています。これからも、 この制度を利用して、 多くの建造物が保存され、 まちづくりや観光などに積極的に活用されることが期待されています。

                           ◆文化庁 『登録有形文化財建物制度の御案内』 より



まさしく、保存・活用を期待しての登録制度である訳です。ヘリテージ(受け継がれる文化・歴史的遺産、伝統遺産)への関心や、文化財建造物の保存・活用の推進が世界的にも注目を浴びる中、自ら登録を抹消して解体するといった方針について、前回にも述べたように納得できませんし、信じがたい思いがいたします。

13日(水)のRKBニュースでは、九州大学の藤原 惠洋(ふじはら けいよう)先生が今回の大牟田市庁舎解体の方針についてコメントを述べられていましたが、登録制度の趣旨とは相容れない今回の解体方針について述べられていました。(残念ながらニュース映像のリンクはありません)

▼ 藤原 惠洋先生のプロフィールはこちら↓↓↓

▼こちらのブログには、先生撮影の大牟田市庁舎本館の写真がたくさんUPされています↓↓↓



さて、この一週間の動きを簡単に以下に記しておきましょう。

2/8(金)
“登録文化財大牟田市庁舎本館の保存と活用を目指す会”の新谷肇一会長が、大牟田市長・市議会議長宛に「登録有形文化財大牟田市庁舎本館の保存と活用に関する意見書」を提出。
http://qbiz.jp/article/148576/1/ (西日本新聞社)
2/12(火)
市議会全員協議会にて、市庁舎解体の方針を説明。
2/13(水)、14(木)
大牟田市が、「大牟田市庁舎整備に関する基本方針(案)」についての市民説明会を開催。
2/15(金)
大牟田市は、2度開催された市民説明会での要望を受け、追加の市民説明会を2/24(日)、25(月)、26(火)に開催することを発表。
 (大牟田市役所) 

具体的でより詳しい内容については、以下のブログをご覧下さいませ↓↓↓

▼  「大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ」 ブログ






最後に、TOPの絵葉書について少し解説を加えておきましょう。
(三池名勝)大牟田市廳 と銘打たれたこの絵葉書は、周りの植木なども小さいことから竣工したばかりの頃の市庁舎を撮影したものと思われます。(三池名勝)と謳われていることから、市庁舎は三池・大牟田地域の見所の一つであると評価されていたことが分かります。
写真ではわかりにくいと思いますが、当時の市庁舎壁面にはスクラッチタイルが貼られていました。今よりも、さらに重厚な感じがしたであろう市庁舎です。

▼ スクラッチタイルとは↓↓↓



またの続報につづく・・・

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     ◆市庁舎は大牟田のランドマークそして心象風景 ◆


先日来の新聞報道によると・・・大牟田市庁舎本館解体の方針


 福岡県大牟田市は5日、国登録有形文化財の市庁舎本館を解体し新庁舎を建設する方針を発表した。1936年完成の本館は老朽化で耐震性が低く「維持や改修に多額の費用が見込まれる」と判断した。
 文化庁によると、登録有形文化財になったコンクリート造りの官公庁舎解体は異例。地元市民団体は「大牟田空襲で焼け残った本館は市民の歴史とともに歩み、景観的にも市のシンボル」と改修した上で保存するよう求めている。
 市庁舎は新館や北別館、南別館など隣接する複数棟に分かれる。本館は正面に位置し、中央に塔屋がある左右対称の造り。内部に彫刻が施された議場もあり、建築史家の評価は高い。屋上には戦時中の防空監視哨が残る。ただバリアフリー対策は不十分で、診断の結果、耐震性は基準に達していないと指摘されていた。
 登録有形文化財は昨年11月現在、全国で約1万2千件あり、届け出れば改修や解体もできる。文化庁によると、解体などで登録が抹消された建造物は190件だが、民間物件が多く、コンクリート造りの官公庁舎が壊された例は旧加納町役場庁舎(岐阜市)しか確認できないという。

▲西日本新聞 2/6(水)朝刊より引用(一部抜粋)



管理人にとっては、耳を疑う信じられないような方針です(@_@)
記事にもあるように、大牟田市庁舎本館はまさしく 「市民の歴史とともに歩み、景観的にも市のシンボル」 であります

JR大牟田駅に降り立ち、国道208号線にでると、まず目に飛び込んでくるのは大牟田市庁舎です。塔がそびえ立つ威厳ある大牟田市庁舎を見上げるに度に、「あー大牟田に帰ってきたな~」と思うものです。大牟田を代表する建造物といえば(炭鉱関連の近代化遺産を除いて)、誰もがこの市庁舎本館と、今はなき“大牟田松屋”と答えることでしょう
(個人的には、三井化学の白亜のJ工場も加えて大牟田の三大歴史的建造物(^O^)
大牟田在住者のみならず、かつて大牟田に住んだことのある多くの人々にとって、市庁舎本館はまさしく大牟田を象徴する建造物であります

確かに、記事にもあるようにバリアフリー対策は不十分で、診断の結果、耐震性は基準に達していない」という面があることは認めますが、新庁舎の建築と併行して現在の市庁舎本館を保存・再生・活用する方途があるはずです。記事や大牟田市の方針とこれまでの経過を見ていると、最初から「大牟田市庁舎本館の解体ありき」のような感じを受けてしまいます。国の登録有形文化財である市庁舎本館を保存・活用する発想は大牟田市にはないとしか思えません。耐震面では、市庁舎としてではなく新たな施設として活用していけば、十分耐えうる耐震基準が得られると建築の専門家からはお聞きしました。経費面についても、保存・活用の方針があれば市民にのみ負担させることなく、クラウドファンディングなどの方策も考えられます。とにかく、今の大牟田市には、大牟田のそして大牟田市民(かつての市民を含めて)の記憶や思い出を残してくれるであろう市庁舎本館を残すという考えはないということでしょう。

大牟田市自らがその文化財としての価値を認め、国に申請して登録有形文化財として認定されている貴重な建造物である市庁舎本館を、自らの手で解体するとは本当に考えられません。ぜひとも、市庁舎本館を保存し、その再生と活用について再度検討されることを強く願うものです。


▼以下に今週のTVニースに取り上げられた大牟田市庁舎本館解体についてのリンクを貼っておきますの、どうぞご覧下さい。(しばらくすると削除されると思われます)

▼ 市庁舎本館保存に関するサイトを貼っておきます。
https://ameblo.jp/tankou-funclub/entry-12435956050.html (大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ)
  https://ameblo.jp/tankou-funclub/entry-12427357438.html (大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ)
(新建築家技術者集団 福岡支部)


▼ 大牟田市のHPより本館解体に関連するページを貼っておきます。
  (大牟田市庁舎整備に関する基本方針(案)
   (大牟田市庁舎整備に関する基本方針(案)説明会開催のお知らせ)




最後に、大牟田市庁舎本館の見所を写真にて簡単に紹介いたします。本館には立派な議場がありますが、大牟田市民であっても議場に入られた方は少数ではないでしょうか?
また、4階の市民協働総務課(旧貴賓室)にはマントルピースが、同じく4階の教育委員会(旧正庁 : 儀式や式典などの公式行事や重要な会議の場として使われた部屋)には、御真影奉安所(かつて天皇皇后両陛下の写真を掲げた場所)が残っています。さらに、屋上には、防空監視用のコンクリート製哨などの戦争関連の遺物も現存しています。
それでは、正面玄関からどうぞお入り下さいませ


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▼ 議場

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▼ 正庁(現 教育委員会)

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▼ 防空監視用のコンクリート製哨

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▼ 高射砲の台座

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▼ 塔屋

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▼ ライトアップされている大牟田市役所本館

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今後とも保存についての活動やニュースがあれば、随時お知らせいたします。
(管理人)



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▲ 絵葉書 長崎港ニ於ケル汽船石炭積込ノ景


 

    「ヤンチョイ」 ~与論の民の誇りとして後世に語り継がれるべき仕事~

 火野葦平の小説『花と龍』は、みなさんご存じでしょうか。19576月から約1年間に渡り「読売新聞」に連載された後に単行本として刊行され、これまでに4回映画化もなされています。物語は明治35年にはじまりますが、北九州若松港を舞台とした、作者である火野の両親と自分自身の波瀾万丈物語です。小説では、若松港の石炭船積み作業で競い合う港湾労働者が登場しますが、そこで迫力をもって描かれているのが「天狗取り荷役」といわれる日本独特の荷役方法です。
この「天狗取り荷役」が、一躍海外に名を馳せたことがありました。それは、日露戦争における旅順港封鎖作戦の最中、長崎港での「天狗取り荷役」作業の驚くべき速さでした。当時、限りある日本の船舶はその回転率を上げるべく、石炭の積込作業を迅速かつ確実に行う必要に迫られていたのです。“人間ベルトコンベア”とも称される「天狗取り荷役」の迅速さに、イギリスをはじめとして世界が驚いたのでした。


さて、この「天狗取り荷役」、長崎港での様子が絵葉書として多数残されていますが、艀(はしけ)から石炭を石炭輸送船へ、または客船などの焚料炭(たきものたん:当時の船は石炭を燃料としていた)を船のバンカー(石炭庫)に積み込む荷役作業のことです。絵葉書に見られるように、本船の舷側に雛壇(ひなだん)のように板子の棚を吊り下げ、そこに並んだ多数の労働者がザルに入れた石炭を手繰りして荷役を行うというもの。ところで、この「天狗取り荷役」のルーツを辿ると、口之津港での石炭荷役に行き着くと思われます。口之津港といえば、三池港ができる前の三池炭の海外積出港として重要な地位を占めていました。三池炭鉱の経営が官営から三井に移ってからも、三池の石炭は長い間大牟田川の河口から小舟で有明海を渡って口之津港まで運ばれ、大型船に積み替えられ上海などの海外市場に輸出されていたのです。炭鉱は石炭の採掘はもちろんですが、石炭をいかに運び出すかが重要な産業です。三井のドル箱ともいえる三池炭鉱は、この口之津港での石炭荷役なくしては発展を遂げることはできなかったのでした。


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▲ 明治30年代の口之津港



この口之津港で、石炭荷役の中心を担ったのが与論島の人々です。三池炭鉱の石炭輸出量が増加の一途を辿っていた明治31年、与論島を襲った未曾有の台風は島のほとんど全戸をなぎ倒し、直後に続く干ばつ、悪疫の流行もあって、島はさながら生地獄と化し多くの住民が苦渋の生活を強いられたのでした。その時もたらされたのが、口之津に移住して石炭荷役に従事するという誘い。与論島では、村長の上野応介が率先して住民の先頭に立ち、多くの住民を引き連れ口之津に集団移住したのです。口之津で与論の人々が従事した石炭荷役は、沖合に碇泊している大型船に手繰りで石炭を積み込む沖作業。この作業は荷役のかけ声から「ヤンチョイ」と呼ばれたと伝えられています。カガリと呼ばれたザルに石炭を詰めて「ヤンチョイ、ヤンチョイ」とかけ声を掛け、時には危険で荒ぶる沖合の海上にあって、昼夜分かたず生きんがためにわが身を投げ出す命がけの荷役作業であったと思われます。当時の様子を、14才から働いたという竹ハル婆ちゃんは次のように語っています。「時間ナいっちょもきまりがござっせん。西洋の船はあせがりますから、石炭を全部積み込んでしまうまでは、夜十二時過ぎても、徹夜になってもやめられまっせん。二晩でも三晩でも、徹夜することもあります・・・」(平原直『物流史談-物流の歴史に学ぶ人間の知恵』より)


三池港が開港した後、口之津から与論の人々は再度大牟田に移住し、三池港にて引き続き石炭荷役の仕事に就くことになります。大牟田での与論の人々の歩みも、100年を越える時を積み重ねています。与論の人々が苦難の上に編み出した「ヤンチョイ」は、「天狗取り荷役」として日本の経済的発展を支えた史実とともに、ユンヌンチュ(与論の民)の誇りとして後世に語り継がれるべき仕事であると思います。



(おわり)



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三池港の夕陽~ ◇レトロ大牟田カメラお散歩  その29◇  
 
   撮影地 : 大牟田市 三池港
   撮影日 : 2017 12.2

  

レトロ大牟田カメラお散歩シリーズ・・・その29
久々に三池港の夕陽を眺めに行きました(つづき)

解説は不要でしょう~
三池港突堤とともに、沈み行く夕陽を眺めました


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▲ 船出 ~三池港~ ◇レトロ大牟田カメラお散歩  その28◇  
 
   撮影地 : 大牟田市 三池港
   撮影日 : 2017 12.2

  

レトロ大牟田カメラお散歩シリーズ・・・その28
久々に三池港の夕陽を眺めに行きました(つづき)

日没前、
ちょうど大型船の出港に出くわしました
石炭を積み降ろした大型船は、船腹の喫水線をあらわにし
水先案内のタグボートを従えゆっくりと航路を進んでいきます

夕暮れ迫る三池港の船出をカメラで追ってみました


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岸壁を離れた大型船は、方向を転換して突堤に守られた航路に向かいます。
2隻のタグボートが離岸をお手伝いしますが、その内の1隻はドックにお戻り~

遠く雲仙岳のシルエットが美しい・・・
三池山を正面に“かなめ丸”が閘門を通過していく


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もうしばらくすれば、真っ赤な夕陽が有明海の先に沈みゆく頃
突堤先端の燈台を右手に見ながら大型船は有明海へ進み行きます

水先案内をすませたもう一隻のタグボート“きりしま丸”もドックにご帰還です
今宵は満月かな
月は東に日は西に・・・



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(つづく)

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夕陽にひとり 三池港 ◇レトロ大牟田カメラお散歩  その27◇  
 
   撮影地 : 大牟田市 三池港
   撮影日 : 2017 12.2

  

レトロ大牟田カメラお散歩シリーズ・・・その27
久々に三池港の夕陽を眺めに行きました

三池港突堤の先の有明海のそのまた先に
冬の夕陽が落ちゆく

夕暮れの海風が体にしみてくる時間帯
夕陽にひとり佇む



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▲ (大牟田名所) 五月橋ヨリ泉町附近ヲ望ム

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 夏近づく 大蛇山 ◇レトロ大牟田カメラお散歩  その26◇  
 
   撮影地 : 大牟田神社 第二区祇園
   撮影日 : 2017 6.18

  

レトロ大牟田カメラお散歩シリーズ・・・その26
九州は、昨日来大雨が降るような梅雨まっただ中ですが~

大牟田では、夏祭りの準備が着々と進んでおります
みなさんご存じ “大蛇山”

たまたま通りかかった銀座通りの大牟田神社入り口
大蛇山の作成が進んでおりました

大牟田の夏と言えば “大蛇山”
幼い頃に 「かませ」 を経験した方がたくさんおられることでしょう
無病息災を願う神事で、子どもが泣けば泣くほどご利益あり

私も大蛇の口に入れられ、大泣きした記憶が残っています
もちろん、わが家の子ども達も 「かませ」 ました(~o~)


▼まつりHPはこちら↓↓↓







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