炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

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▲1965(昭和40)年
 *写真をクリックすると、より鮮明な画像にてご覧になれます

提供者:“くろしお”さん(写真・解説文ともに)

【荒尾市立緑ヶ丘小学校の運動会】
運動会の写真は昭和40年緑ヶ丘小学校グラウンド

背後は、増える児童に対して増築された平屋建ての校舎です。
石膏ボードのような建築材で建てられていました。




◆同時代を過ごしたものにとっては、とても懐かしさがこみ上げる光景です。
 管理人が過ごした、大牟田市立倉永小学校での運動会の光景とまるで同じです。
 
  テントの奥にあるポールから連なる旗
  女の子達の“ちょうちんブルマ”
  運動場にある上り棒? の遊具
  本部テント内の木の机・・・

 6年生の時の競技であった、棒引きや棒倒しのことを思い出します。
 トラックの石灰ラインに沿って、杉の木の葉を並べたような記憶が甦ってきました・・・。
 
                          
(管理人 記す)



▼関連する記事↓↓↓
 http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/34375115.html 

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▲今月(4月)の一枚:万田坑のさくら
撮影日:2010年 3月27日
撮影地:荒尾市 旧万田坑



今年も春がめぐり来て、さくらの季節がやってきました

閉山後13年目を数える今年の春

万田坑の補修工事もおわり
美しく整備された第二坑竪坑櫓と巻揚機室脇のさくらが満開となりました

周りの整備作業が始まろうとする早朝
うぐいすの鳴き声が清楚に響き渡る廃坑跡


4月からは、今までと違った顔を見せる万田坑です

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▲朝日に輝く万田坑

撮影日:2010年 3月27日
撮影地:熊本県荒尾市 旧万田坑

万田坑 近況報告 ~4/25の一般公開向け整備が進行中~


昨日、昨年の11月以来の万田坑を訪ねました。
しばらくの間、竪坑櫓や巻揚機室の補修工事が行われ、一般公開が中止されていた万田坑。
このほど、巻揚機室の補修工事(建物を鉄材にて補強する)も完了し、再びその煉瓦建築の全貌を見ることができるようになりました。

ところが、予想外のことが起きてました(@_@)
内部での補強工事と単純に考えいましたが、壁面に金属部分がむき出しになっています。(TOPの写真)一部煉瓦で埋められていた窓の部分が元に戻され、窓ガラスなども取り替えているようです。切妻上部の丸窓には、かつて“三井”の文字があしらわれていましたが、それは復元されていません。詳細にみると、他にも多くの変更箇所があるかも知れません。補修を終えた万田坑を眺めながら・・・捲揚機室の竣工当時はどのような姿だったのか?・・・ふと疑問がわきました。
とりあえず、今回の補修工事がこのように一部外観の変更をもって行われたことを報告しておきます。

竪坑や巻揚機室以外にも、万田坑周囲の整備が急ピッチで進んでおりました。
近くの沈澱池の周囲や元職員社宅があった一部の藪が取り払われ、現在芝生の植え付け作業中です。また、旧汽罐場や煙突土台周囲部、それに脱衣場があった部分は整地されて砂がまかれています。
沈澱池もきれいに清掃が行われ、その水面には万田坑が写し出されていました。このように周りの整地や藪が取り払われたことから、今まで目にすることができなかった様な万田坑の光景を見ることができるようになっています。しかし、一方ではあまりにも周囲の整備が進み、かつてのような廃坑としての趣がなくなったと感じる向きもあることでしょう。

私的には、補修工事などでの変更箇所は、必要最小限に留めるべきだと考えます。また、沈澱池や職員住宅など、周囲の環境についても同様だと思います。駐車場や観光客に対応する施設については、少し不便かも知れませんが離れた場所でもいい。そこから歩いてもらって、万田坑を含む炭鉱関連の遺産についての雰囲気も味わってもらう。それくらいの“不便”も、これら近代化遺産の保存と公開には必要だと考える次第です。

さて、4月25日には一般公開が再開されます。
色々なイベントも荒尾市で準備されているようですので、補修工事完了なった万田坑を皆さん訪れてみてはいかがでしょうか。

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それから、地下道に通じる通路もすっきりして、かつてのような姿を取り戻しています。できたら通路として復元し、中にも自由に入れるようにして欲しいと思います。

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隧道入口とカーブした線路、そして炭がん


旧選炭場の下、第二坑から第一坑にぬけるトンネル

第二坑側の入口を望む

カーブして連なるナローの線路、そして炭がん
半分土に埋もれながら、線路は職場へとのびている

少し荒れ果てた末場の炭鉱敷地
辛うじて解体をまぬがれたトンネルとか細い線路が今ものこる


散乱したようなパイプや赤い消化器格納箱が痛々しい



(つづく)

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隧道に連なる線路と炭がん


旧選炭場の下、第二坑から第一坑にぬけるトンネル

トンネル内から、第二坑側出口を望む
ナローの錆びた線路がつづき、第二坑と職場を結ぶ

その線路上に錆びた炭がん(炭車)と台車、
奥のほうには、ケージ(竪坑の昇降用エレベーター)がひっそりと今も佇む

このような光景をじっと眺めていると、
まるで、炭坑が生きていた時代にタイムスリップするかのような錯覚に陥る



耳を澄ませば、いまも竪坑の巻き揚げ機の音がしてくる・・・



(つづく)

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▲1967(昭和42)年頃
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提供者:“くろしお”さん(写真・解説文ともに)

【少年ソフトボール大会 ~四ツ山グラウンド~】
以前送った、昭和42年の四ツ山グラウンドでのソフトボール大会と同じ日
開会式の写真が出てまいりました

遠方に例の2階建て四ツ山社宅が見えます
煙突の建物は公共浴場でしょうか?



◆プラカード嬢つきの開会式ですね(*^_^*)
 背後の四ツ山社宅の独特な形状がよく分かります。
 煙突といえば、社宅にあった浴場でしょう。
 どなたか四ツ山社宅にお詳しい方、いらっしゃいませんか・・・
                          
(管理人 記す) 




▼関連する絵葉書
 http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/34568158.html

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第二坑と第一坑を結ぶ隧道

第二坑の傍ら

旧選炭場の下を、第一坑にぬけるトンネルがある


土と一体化したようなナローの錆びた線路
第一坑側出口は、半分土砂に埋もれたようなこのトンネル

映画やドラマの撮影にも使われたらしい


地底の坑道を思わせるような雰囲気が

今も漂う場所である



(つづく)

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▲今月(1月)の一枚 : 築港に沈みゆく 元旦の日の夕日
撮影日:2010年 1月 1日
撮影地:三池港



     「夕 日」

     もうすこしで
     ちっこうの
     さきにはいる
     お日さん

     がたにひかって
     まばゆい
     まばゆい


               海達 公子

     

         ちっこう:築港(三池港)   がた:潟(干潟)
     

◆海達 公子(かいたつ きみこ)   荒尾北尋常小学校(現荒尾第二小学校)2年生の時の作


 詩人北原白秋に「珍しい詩才の持主」と称賛され、大正末期から昭和初期にかけ、児童自由詩の少女詩人として全国的に注目された海達公子。
 彼女は昭和8年、3月16日、高瀬高等女学校卒業式の日に急病で倒れ、同月26日に死去した。児童文芸雑誌「赤い鳥」では、質量ともに最上の作品を残しており、日本の児童文学史上に特筆される人物となっている。

以下のHP内の 『高瀬高女時代の海達公子』 ~日記に拾う逸話~ 規工川佑輔著 より引用
大牟田市石炭産業科学館では、昨年の暮れから“少女詩人海達公子と万田坑”と題した冬の企画展が開催されている。(1/11まで)
http://www.higo.ed.jp/sh/tamanash/kaitatsu/kaitatsu.htm

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▲1965(昭和40)年頃
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提供者:“くろしお”さん(写真・解説文ともに)

【炭住(自宅)の前でのひとコマ ~山吹町~】
昭和40年、自宅(炭住)の前でのひとコマ
中央の少年は私です
他の手持ち写真では5人ほど男の子ばかりで写っています。
近所でもけっこう年齢の幅のある子供たちが
いつも一緒に遊んでいました。

この写真のお姉さん達は確か中学生だったと思うので
一緒に遊ぶのは珍しかったような気がします。

背景の煙突はご紹介した事がある共同浴場
その背後の丘の炭住は敷島町、その向こうにグリーンランドが広がっています。
正面の三角の屋根は商店長屋で、見えているのは酒屋さんですね
清酒2合とか量り売りで買ってました。
見えませんが八百屋、貸本屋、タバコ・駄菓子屋と続いています。
炭住と言えば社員だけかと思われますが
一部住宅は警察官官舎のような使われ方をしていました。
駐在所とまでは行きませんが、多少はそのような役割をしていたのかも。



◆昔は、けっこう異年齢の子ども達で遊んでました。
 近くのお宮さんの境内などでよく遊んだものです。
 小学校の通学には、いつもお隣のお姉さんにくっついて行ってました。

 量り売り・・・懐かしい言葉ですね。
 わが家も、醤油は「染料の売店」に買いに行ってました。
 酒屋は、日本酒を一杯ひっかける「角打ち」でしょうか・・・。

 (管理人 記す)

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▲1968(昭和43)年頃
 *写真をクリックすると、より鮮明な画像にてご覧になれます

提供者:“くろしお”さん(写真・解説文ともに)

【少年ソフトボール大会 山吹町チーム】
四ッ山グラウンドにて行われた少年ソフトボール大会
山吹町チーム
前から2列目右から3人目の帽子の庇を上げて被っているのが私です。
当時はどこの町も子供たちがごろごろ居たので
チーム編成も不自由なく出来たようです。

それではまた次回に・・・



◆管理人の私も、一度だけユニフォームに袖を通したことがありました。
小5の時に、倉永小校区の少年ソフトボール大会で、私たちのチームが優勝(*^_^*)
校区の代表として、大牟田市の大会へと出場した時のこと・・・。
1年先輩の小6の方々の活躍のおかげで出場できたようなものでしたが、
当時、中友小学校で行われた開会式での入場行進は忘れません。
グラウンドを行進した時の胸の高鳴りが、今でもはっきりと甦ってきます。

運動がそう得意でもなかった管理人も、休日にはソフトボールの練習をした時代・・・
その頃の人気アニメ、『巨人の星』世代ですからね~(^_-)
もちろん、いつもかぶっていた野球帽には巨人軍のマーク。
炭鉱鉄道の築堤脇、染料の売店前にあった尊徳帽子で買ったもらいましたが、巨人の野球帽しか売っていなかったような(@_@)

“くろしお”さん提供の写真を拝見しながら、同世代を過ごした自分の姿を写真に重ね、
しばし想い出を巡らせた管理人でございました。

 (管理人 記す)

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