炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

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 ★三池築港~築港史と三池港の世界遺産としての価値~
             ~10/30(日)10時から 万田坑おもしろ講座開催~


 10月30日(日)の10時から、荒尾市の万田炭鉱館にて、「三池築港~築港史と三池港の世界遺産としての価値~」と題して、私(当ブログ管理人)がお話をさせていただきます。よろしかったら、ご参加下さいませ~

当日は、当ブログの書庫「三池築港百話」をもとにしてお話をします。このブログでは公開していない貴重な写真などもお見せしながら、話を進める予定です。三池港やそれに付随する鉄道、炭鉱に興味がある方はぜひご参加下さい。


◆荒尾市の関連サイトを以下に添付しておきますので、詳細はこちらでチェックして下さいね↓↓↓


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                        さくら



                        

                           ことしもさくらがさいた
                        
                           あかいれんがのたてもの
  
                           あわいぴんくのはなびら

                           かおるかおるさくらばな
  
                           ひとひらかがやくさくら

                                     

                                  

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▲ 萬田山ヨリ萬田宮原七浦坑ヲ望ム VIEW OF NANAURA MINE.

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 ▲夏の終わり   茂堂  2013.8.27  

 
 
  夏の終わり・・・茂堂(その2)
 
 “魚(いお)湧く海” ~不知火海
 今回は、ここ茂堂の海の幸を少しばかり紹介しましょう(*^_^*)
 
 白子(しろご) ~不知火海沿岸ではシラスをそう呼ぶそうです
 シラスは体長1~3㎝のカタクチイワシの稚魚
 水揚げされたシラスは、釜揚げやちりめんに加工されます(^o^)
 
 シラス漁は春と秋の2回~
 残念ながら、夏のこの時期は休漁中でございます
 
 
 
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 茂堂の入り江には、シラス漁の船がのんびり佇んでおりました・・・
 
 参考に茂堂の杉本水産を紹介したページを添付しておきますね
  釜揚げちりめん以外に、“サクラウニ”も美味しいですよ~
 
 

 
 ①杉本水産の無添加しらす
 
 ②咲いた。咲いた。サクラウニ
 
 
 
 
 
 
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▲茂堂の恵比寿さん

 
 
 
 

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  ▲夏の終わり   茂堂  2013.8.27  

 
 
  夏の終わり・・・
  ほら、見えるでしょう
  もう秋です・・・
 
  タコクラゲ
  のどかな湾内に大量発生したこのクラゲ・・・
  じきにカワハギがやってきて食べ尽くすらしい
 
  水俣は茂堂(もどう)の海
  昔から“魚(いお)湧く海”と呼ばれてきた豊饒の海である
 
 
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  海近くまで山が迫りくる湾内は波静か
  豊饒の海は山がつくる~
 
  夏の終わりの不知火海・・・
  訪れるものを穏やかにつつみこんでくれる
 

 
 
 
 
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  鶴ヶ浜海水浴場    芦北  2013.8.29 

 
 
 
 

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▲今月(6月)の一枚 : 薫風のみぎり 万田坑
  撮影日:2013年 5月 5日
  撮影地:荒尾市


  
風薫る5月
久々に万田坑を訪れた

西面より第二竪坑を見上げる
竪坑をめぐる煉瓦には、青々と蔦の葉が絡まり合い
空の碧と竪坑の銀とで万田劇場を共演する

一般公開のため周りの整備が進んだとはいえ
見る角度によっては以前と変わらない表情を見せてくれる

西面の眺めからも、万田坑の威厳を感じることができる
 

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                        蔦



                        五月晴れと蔦の緑に誘われて
                        久々にこの場所にやってきた

                        地に立って天空を見上げると
                        そこには澄みわたった青空に
                        蔦の新緑の緑が萌えはじける

                        「天空のラピュタ」の最終場面
                        緑なす幸福な光景が去来した

                        幾多の歴史をのみこんだ光景
                        この地から万田坑を思索する

                                     

                                    (つづく)

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 矢 弦 車



          5月晴れのもと、青空を背景に竪坑櫓を望む

          美しく塗装され竪坑の上部に
          二つの矢弦車がある

          今では深い地底へケージを降ろすこともなく
          じっとして回転することはない

          かつて頑丈なケーブルを巻き上げていた矢弦も
          静かなオブジェのように天空に鎮座している

                                      (つづく)

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    万田講堂の美しい庭ですが人物が邪魔して居ますね~
  祖母、従姉弟、私、叔父です。 

                                        ◇提供者 : 眉月さん (写真・解説文ともに)
 
 
 
“眉月” さん提供の写真・・・
第3回目は、万田講堂の庭での一コマ。
 
このお写真も戦前の撮影と思われます。
万田講堂には、この様な美しいお庭があったのですね。講堂のどちら側にあったのでしょう・・・。
写真奥に少しだけ二階屋の屋根が見えていますが、講堂のお隣にあった倶楽部でしょうか?
松やつつじの庭木が配置され、築山の上には休憩所まで設置されていますね。
庭石の様子からすると、写真手前には池があるように思います。
 
ところで、万田坑の周りには多くの社宅が存在しましたが、戦前の絵葉書などを見ておりますと社宅に付随した福利厚生施設の充実ぶりがうかがえます。
すでに当ブログ内の書庫「三池炭鉱絵葉書帖」にて紹介済みですが、以下に数枚その様子を添付しておきましょう。
 

 
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    ▲三池鑛業所 萬田講堂
 
 
 
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     ▲三井三池炭礦 講 堂
 
 
 
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    ▲三井三池炭礦 遊園地ノ櫻
 
 
 
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     ▲三井三池炭礦 山神社及運動場
 
 
 
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    ▲三井三池炭礦 水泳プール及保育
 
 

 
絵葉書にはありませんが、これらの施設以外にも ①テニスコート ②武徳殿 ③青年学校 ④三井病院万田分院 ⑤万田売店 ⑥託児所 ⑦三井万田尋常小学校 ⑧桜僚(戦後は鉱山学校)などがありました。
このように、万田坑を中心として一つの町が形成されてましたが、それは三井鉱山による計画都市といってもいいでしょう。ここ万田における戦前の様子を振り返ると、厳しい炭鉱での労働ばかりではなく、会社が社宅と同時にセットで用意したこれらの福利厚生施設、そして教育施設の充実ぶりもうかがえるのです。「遊園地ノ櫻」と題された万田公園の桜について、『ふるさとの想い出写真集 荒尾』には以下のような解説があります。
 

桜は大正9年に解散した万田共済組合の資金の一部で苗木が購入され、11年5月にこの公園化のため移植された。坑が昭和4年春、初めて「万田公園」を公開し、売店・余興などを添えて盛大な花見大会を開いてから、ここは荒尾の一名所となり、一時は「熊本百景」の一つとして絵葉書にもなった。

 
この解説によると、当初は社宅内の公園として一般には公開されていなかったことが分かります。
他の施設の一般への開放度はどれくらいであったのか?も気になるところです。とにかく、これら炭鉱の福利厚生施設が近隣の人々の生活にも大きな影響を与えていたことは確かなことだと思えます。
 
ところで、三井関連の企業で福利厚生といえば、鐘淵紡績の武藤三治を思い起こします。
 
 
武藤三治の詳細については上記のリンク先をご覧いただくとして、彼は「温情主義」「家族主義」の労務政策と進んだ技術による合理的経営を巧みに結びつけ鐘紡王国を築いていきます。時は明治後期から大正期頃ですが、「労働者の勤労意欲の向上が作業効率を上げ、ひいては会社の繁栄をもたらす」といった考えに基づくものといえます。
武藤は民間会社初の共済組合も設立していますが、これらのことが三井鉱山に影響を与えたかどうかは管理人の不勉強によって分かりかねます。しかし、万田社宅の様子を絵葉書で見たり、当時のプールなどの施設が時代の最先端を行っていたことなどを聞くにおよんで、大正から昭和初期頃の万田社宅での暮らしぶりに何らかの影響はあったのではないかと想像いたします。
 
負の遺産として語られることの多い炭鉱ですが、よく見てみると今回の様な福利厚生面や都市計画的側面についての調査、検討も必要ではないかと思います。個人的には、大正デモクラシーの時代から昭和の初め頃の万田社宅に興味をいだいた次第でございます。*注
 
今回も“眉月”さんご提供の写真をもとに、管理人が思いつくまま解説を書かせていただきました。それでは最後にもう一枚、絵葉書の封筒をご覧に入れお開きとしたいと思います。
 
 

 
 
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*注
 大正時代は、万田坑において米騒動や争議が起きた時代である。三井鉱山としては、この様な労働者の状況に対して、いわゆる「深川労務政策」により労働者の懐柔をはかった時代でもあった。「深川労務政策」については、山根房光『みいけ炭坑夫』p122124に以下のような内容が記されている。
 
①職員と坑夫の身分差の拡大 ⇒ 職員になれば裕福な暮らしができることを坑夫に示し、職員に登用                             されることが坑夫の願いとなるよう仕向けた。
②福利施設の改善拡張     ⇒ 講演会の開催や武道場の整備などをすすめると同時に、「改造」 
                         や「中央公論」などの出版物が危険視され、会社の新聞や雑誌の
                       強制購読をすすめた。
③「世話方制度」の強化     ⇒  社宅内に担当世話方をおき、坑夫の出勤督励や逃亡の防止を行わ
                       せるとともに、家族構成や思想などの調査を行った。
④「警備」の設置            ⇒  会社側の特高警察的な役職としておかれ、坑夫の思想調査や守衛、
                           世話方の勤務評定を行った。
⑤健康保険無傷病者の表彰
 
 
◆佛教大学大学院紀要  田中智子 『労働者の特性にみる戦前の三池炭鉱における労務政策の変遷と労働者の抵抗に関する考察』 を参考にして記載した。
 
 
 

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 巨大コンクリート壁 


巨大で頑丈なコンクリート壁がそびえ立つ

ちょっとやそっとでは壊れそうにない
100年以上経た今もビクともしないこの姿を見てくれ

それにしても、植物の繁殖力は旺盛なものである

この様な無機質のコンクリート壁にも
緑が五月の風にそよぐ・・・

あたかも、天空のラピュタのごとく
鋼鉄の櫓を支えていたコンクリート壁が
ここ万田に鎮座する


(つづく)

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