炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

タグ:歴史

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▲ (三池名勝)大牟田市廳


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▲ 81.三池共愛購買組合 売店本部内部

          
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▲ 80.三池共愛購買組合 売店本部

          
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▲ 大牟田市工場街に夕月さやかなり 吉田初三郎畫伯筆


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▲ 三井三池炭坑事務所

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▲ 三井三池炭礦  四山坑

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▲ 79.給水濾過所

          
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▲三井三池萬田坑昇降機 An Eleva Tor of Mitsui's Manda Pit in Miike (津村寫停車場 山田發行)

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▲三池炭坑コークス工塲瓦斯發電所  VIEW OF MIIKE COAL MINE

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▲三井三池港内港ニ於ケル汽船ト浚渫船    STEAMER AND DREDGE IN MITSUI´S MIIKE HARBOR.   
◇絵葉書所蔵:管理人

浚渫工事 その6 「終わりなき浚渫工事」

これまで5回に渡って、築港工事に於ける浚渫工事を見てきました。“浚港丸”によって1902(明治35)年に開始された浚渫工事は、新造船“四山丸”と長崎から購入した“瓊ノ浦丸”の2隻を加え、いよいよ最終段階を迎えていました。1906(明治39)年8月からは“瓊ノ浦丸”が内港航路筋の浚渫を開始、翌1907(明治40)年8月には、“四山丸”と“第三浚港丸”による港口付近の浚渫が完了。そして、同年9月になると、3隻の浚渫船は内港に集結して、内港航路浚渫の仕上げ工事に着手します。1908(明治41)年3月、船渠、閘門に関する工事がすべて竣工し、堤防潮止工事の関係で最後まで保留されていた閘門入口付近の浚渫工事を残すのみとなったのでした。記録によると、最終的な航路浚渫工事の竣工は、1908(明治41)年11月であり、1902(明治35)年6月に開始された浚渫工事は、6年と6ヶ月の歳月を費やしてここに一応の完了を見たのでした。

さて、この章の最初に浚渫工事に関しては、「港の機能拡大のみならず、維持のための未来永劫の工事である」と述べておきました。浚渫工事の最終回として、「終わりなき浚渫工事」と題してここに築港工事後の浚渫工事について若干の補足をしておきたいと思います。
その手始めとして、開港以前の1908(明治39)年12月28日付にて、三井鉱山合名会社が福岡県に提出した「海面使用ヲ港湾修築二変更願」を見てみることにしましょう。この願いは、以下のような前文からはじまっています。

海面使用ヲ港湾修築ニ変更願

當會社ニ於イテ明治三十五年三月十五日附ヲ以テ御許可ヲ得候 福岡縣筑后國三池郡三川村地先海面使用ノ儀ハ 當會社三池炭礦石炭舩積場及貯炭場ニ専用スル目的ニシテ爾来着ニ工事ヲ進捗来リ候處 三池炭礦ノ出炭増加ニ伴ヒ 舩舶出入数モ従テ増加可致シ 付テハ将来ニ於ケル普通貨物輸出入ノ便宜ヲモ予想シ従来ノ設計ニ多少ノ変更ヲ加ヘ 港湾修築ノ工事ヲ経営仕度候間此段御許可被成下渡願上候

要約すると、以下のような内容となります。
「明治35年福岡県より海面使用許可をいただき、三池炭鉱専用の港建設工事を進めてきたが、三池炭鉱の出炭量増加や将来石炭以外の普通貨物取扱も予想されるので、これまでの築港計画を多少変更して、港湾修築工事を行いたいので許可のほどお願いします」

さらに、「海面使用ヲ港湾修築二変更願」では「港湾維持の件」として項目を設け、上記内容につづけて以下のような記述があります。

将来本築港ノ維持ノ完否ハ 當會社経営上大影響ヲ蒙ルベキヲ以テ 本港港湾維持ニ要スル費用ハ 當會社ニ於テ鉱業ヲ稼行致居候間ハ 奮テ之ヲ負担スル決心ニ御座候 依ッテ差當リ明治四十一年四月ヨリ明治七十六年三月マデ 満三十五ヶ年間次項絛件ノ下ニ於テ維持費ヲ負担可致候 尤モ満期后ニ至リ當三池炭礦鉱業存続致候場合ニハ 右期間モ自然延長相成候予メ御承認ヲ得度候

三井鉱山合名会社としては、築港工事にめどが立った1908(明治39)年末に、開港後における港の機能維持、拡大のための修築工事を福岡県に願い出ると同時に、港の公共性にも触れながらも、三池炭礦が永続する限りに於いて港の独占的な使用と維持費用の負担を願い出たのでした。三井鉱山合名会社という一企業の独力によるこの築港工事は、公共性が高い港湾建設という視点からすると非常に特異な存在であったといえるでしょう。
*注1

さて、この時点で修築工事として計画されていた内容は、まさに浚渫工事であります。先の願いでは、明治35年からの浚渫工事を継続して、以下のような2つの浚渫工事竣工期限が提示されました。*注2

本港浚渫工事 第一期 着手期 元海面使用許可当時
           竣工期 明治四十一年三月三十一日
          第二期 着手期 明治四十一年四月一日
           竣工期 明治四十七年三月三十一日

航路浚渫工事 第一期 着手期 元海面使用許可当時
           竣工期 明治四十一年三月三十一日
          第二期 着手期 明治四十一年四月一日
           竣工期 明治五十一年三月三十一日

このようにして始まった開港後の浚渫工事を、“浚港丸”改造についてと、年次毎の内港浚渫工事を中心に見ていきましょう。
まずは“浚港丸”の改造ですが、その目的は絶えず泥土が堆積する航路浚渫作業の効率化にありました。特に港口付近での浚渫作業は波濤の影響も大きく困難が予想されましたし、航路を船舶が行き交う中での作業となることから、“四山丸”や“瓊ノ浦丸”による排土管を使った浚渫作業は不適格です。さらに、現有浚渫船のすべてが非自航式であり、狭い航路内での浚渫作業を臨機応変かつ効率的に行えないといった課題もありました。そこで考え出されたのが“浚港丸”改造ですが、具体的には以下の3点にまとめることができます。

①土艙(ホッパー)を持つ木造船を新造する(横須濱造船所にて建造) *注3
②プリストマン機2台を有する(第二、三浚港丸の分を移設)
③自走のための機関を設置する(もと第一浚港丸のもので、一時火山灰製造機に利用した機関)*注4

この様にして、3隻の“浚港丸”をミックスして完成した新“浚港丸”は、1909(明治42)年8月に就航し、港口をはじめ航路の浚渫作業を始めたのでした。*注5

次に内港浚渫工事について、開港後の作業内容を、昭和初年頃まで年次毎に簡単にまとめておきます。*注6

1908(明治41)年:“瓊ノ浦丸”による航路筋両側拡張、入渠待ち船仮泊場となる航路南側浚渫干潮面以下八呎五吋(約2.6m)に浚渫した後、“瓊ノ浦丸”の能力限度である干潮面以下一五呎五吋(約5.3m)まで浚渫。

1910(明治43)年:“四山丸”にて航路北側、南側浚渫を開始。翌年には、航路北側を干潮面以下一二呎(約3.7m)に浚渫終える。残るは、約6分の1の洲のみとなる。

1913(大正 2)年:“四山丸”にて、大型船誘致策として東側繋船壁前を、長さ一,000呎(約304.8m)巾員六00呎(約182.9m)深さ二四呎(約7.3m)に浚渫を開始。

1915(大正4)年:航路付近を一八呎(約5.5m)に、その他は六呎(約1.8m)乃至 一八呎(約5.5m)に浚渫完了。上層軟泥土部分の浚渫を終え、以後下層硬質粘土層に入るため、“瓊ノ浦丸”を繋船することとする。(翌年、若松築港株式会社に売却)

1918(大正7)年:“四山丸”にて、北側全区域を二六呎(約7.9m)までの増深工事完了。大型船の入港増加に伴い、さらなる増深工事の必要が生じたため、“四山丸”の浚渫能力を高め、最大浚渫深度四六呎(約14.0m)とする。

1920(大正9)年:北側五万三千五百坪の全区域を、三0~三一呎(約9.1~9.5m)に浚渫終える。

1923(大正12)年:内港北側に、内港積本船繋留浮標設置のため、設置附近を三五呎(約10.7m)に浚渫する。*注7

1926(大正15)年:内港繋船壁築造、新式積込機設置に応じ、繋船壁附近を増深する。

1927(昭和2)年:内港航路筋を、西部は三一呎(約9.5m)、東部は三五呎(約10.7m)に浚渫完了。



浚渫工事については、内港における大型船の積み込みが可能になったことを見たところで終了いたします。
次回からは、いよいよ石炭の積み込み施設について述べようかと思いますが、調査・研究のためにしばしお休みいたします。『三池築港百話』の再開まで、今しばらくお待ち下さいませ。




◆注1 「海面使用ヲ港湾修築ニ変更願」の最後に、港名は三池港とすることが付け加えられている。

◆注2 「海面使用ヲ港湾修築ニ変更願」では、浚渫工事以外に ①港銭徴収の件 ②無料海面使用の件の2点について記載されているが、ここではその内容を省略した。

◆注3 横須濱造船所は、官営時代の1884(明治17)年につくられ、三井移管後は三井物産大牟田出張所所属を経た後、1894(明治27)年に三池炭鉱製作課付属の施設となる。

◆注4 築港で使用するセメントには火山灰が混和剤として用いられたが、その際に第一浚港丸から流用した機関を使った「火山灰製造機」によって火山灰を焼成したと思われる。

◆注5 ちなみに、プリストマン機を撤去された第二、第三浚港丸の船体には排土用のポンプが設置され、それぞれ三池港と大牟田川に係留しながら浚渫作業に活用された。なお、プリストマン機2台が設置された新浚港丸の写真は残されていないが、第57話で取り上げたHPに同様の機能を持った浚渫船が掲載されているので、参考までに以下に掲載しておく。

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▲DOUBLE DREDGER, FOR BRAZIL
 MESSRS. PRIESTMAN BROTHERS, HULL, ENGINEERS.

◆注6 三井鉱山五十年史編纂委員会編 『三井鉱山五十年史稿』1944年 (未刊行)
巻14:第7編 工作  83~86頁をもとにまとめた。

◆注7 この頃、これまで口之津港にて積み込みをしていた大型青筒船(英国の名門船会社 Blue Funnel Line は、所有船舶の煙突を青一色に塗っていたことから青筒船と呼ばれた)を三池港に回航し、内港にてエレベーター積施設にて積み込みを開始した。その様子は、当ブログ内の以下のページを参照のこと。
http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/36934492.html

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