炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: わたしの三池学

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 ▲貯炭場  ~現在の大牟田市新港町~
 

    「福岡俘虜収容所第17分所」  ~新聞記事より◇大牟田市~

今日の西日本新聞WEB版にて、大牟田にあった捕虜収容所の写真に関する記事を読む。
 
◆西日本新聞 10/5付 朝刊↓↓↓
 
捕虜収容所について詳しく調べたことはないが、かつて三池港の新港町にあったこと、戦後の極東軍事裁判において元所長ら4人が戦犯として絞首刑となったことは知識としてあった。正確には、「福岡俘虜収容所第17分所」で、使役企業はもちろん当時の三井鉱山三池鉱業所。
 


◆参考資料 
大牟田三池分所
1943年8月10日、福岡俘虜収容所第17分所として、福岡県大牟田市新港町に開設。使役企業は三井鉱山三池鉱業所。終戦時収容人員1737人(米730、豪420、蘭332、英250、他5)、収容中の死者138人。このうちアメリカ兵1人は営倉内で餓死、他の1人は逃亡を計り刺殺された。戦後の戦犯裁判で、これらの責任を問われた分所長の由利敬中尉、福原勲大尉ら4人が死刑となった。
POWPrisoner of War=戦争捕虜)研究会HPより引用
 


 
「福岡俘虜収容所第17分所」に収監された捕虜には、フィリピン「バターン死の行進」をさせられたアメリカ兵捕虜505人もふくまれていたようだ。最盛時には2000人余りもの捕虜を収容し、敷地面積は1万1000坪、敷地内には三井鉱山の作業員宿舎を流用した33棟の建物があったとのこと。この「福岡俘虜収容所第17分所」は日本最大の収容所であったらしく、また炭坑の坑内作業をさせるという苛酷な作業を科した収容所の一つであったことに間違いはない。この収容所の初代所長が由利敬少尉、二代目所長が福原勲大尉であり、先にも述べたようにこの2人は捕虜虐待の戦犯として絞首刑となる。そして、実は戦犯として絞首刑となった第1号が由利中尉、第2号が福原大尉だった。
 
三池炭鉱をめぐる「負の遺産」といわれるものの一つが、この捕虜にたいする強制労働と虐待ということになるであろう。囚人労働に関することや与論島を出た民の歴史、また炭塵爆発事故などについて今までも簡単に触れてきたが、この捕虜収容所に関することも、またきちんと事実を知ることが必要だと思う。
 
そこで今回、大牟田市石炭産業科学館に寄贈されたという米軍が撮影した捕虜収容所の24枚の写真。
今まで目にすることがなかっただけに、「福岡俘虜収容所第17分所」の詳細の一部が明らかにされるのではないかと期待したい。写真の寄贈者である石さんは「大牟田に収容所があった歴史を忘れないでほしい」と答えておられる。これを機に、大牟田にあった捕虜収容所に関する調査が進むことを期待しょう。
 
なお、大牟田にはこの「福岡俘虜収容所第17分所」以外にももう一カ所収容所があった。それは、「福岡俘虜収容所第25分所」で、1944年9月29日に大牟田市新開町に開設されたもの。使役企業は電気化学工業大牟田工場。終戦時収容人員390人(英388、米2)、収容中の死者4人と記録されている。
 
以上、西日本新聞の記事から大牟田における捕虜収容所に関することを簡単にまとめてみました。より詳しくお知りになりたい方は、以下の書籍などが参考となりますので、興味がおありの方はご一読をすすめます。
 


 
ジョージ・ウェラー 『ナガサキ昭和20年夏』     2007 毎日新聞社発行
 
山下 郁夫 『罪祭 -極東・横浜軍事裁判絞首刑第1号大牟田俘虜収容                       所長・由利敬中尉-』 1983 創思社出版 発行
 
寺井 敏夫 『巣鴨に消ゆ -BC級戦犯 福原勲と妻美志子-』 
                               2004 山陰中央新報社 発行
 


 
また、捕虜収容所にBC級戦犯といえば、2008年に公開された映画『私は貝になりたい』 を思い起こされる方もおられるでしょう。この映画やテレビドラマの原作とされるのは、加藤哲太郎 『私は貝になりたい ―あるBC級戦犯の叫び―』 1994 春秋社発行 です。 
 
 

 
◆10/6日 追加記事
 
 今回の記事を契機として、いくつかの貴重なサイトに出会うことことができました。
アメリカのサイトですが、一部は日本語訳での閲覧が可能です。
大牟田の収容所のみならず、日本各地にあった捕虜収容所の詳細な体験記やレポート、写真を見ることができます。特に、W.INJERDさんのHPは貴重なものとなっています。
実はこのW.INJERDさん・・・当ブログ書庫の 『IAB春日物語』 にて紹介している資料や写真の提供者でもあります。彼が日本在住の頃、とあることから知り合いとなり、米軍板付基地をより詳しく知るきっかけとなりました。
2002年に離日され、いまはアメリカ在住のW.INJERDさん~、大牟田にあった「福岡俘虜収容所第17分所」に関し、WEB上にて再会を果たすことになろうとは思ってもみませんでした(*^_^*)
 
それでは、関連HPを以下に貼り付けておきます。
大牟田関連の写真や体験談、レポートもありますので、興味がおありの方は是非ご覧下さい。
 
 
US-JAPAN DIALOGUE ON POWS
米国カリフォルニア州の非営利団体 「US-JAPAN DIALOGUE ON POWSにより、運営されてるサイトこのサイトをもとにして、リンク集にある日本の捕虜収容所関連のサイトを見るとよい。
 
★このサイトのリンクや記事を参考にして、以下のサイトを紹介する。
 
 
Prisoner of War Camp #1 Fukuoka, Japan 
http://home.comcast.net/~winjerd/POWCamp1.htm

③Center for Research Allied POWS Under the Japanese
http://www.mansell.com/pow-index.html
福岡に長く住んだウェス・インヤード氏のサイト。
日本国内の捕虜収容所に関する公文書、写真などが掲載されている。もちろん大牟田の第17分所も取り上げられている。
 
 
JAPANESE  WWII  POW Camp Fukuoka #17
http://www.lindavdahl.com/

リンダ・ダール氏が管理するサイト。
「福岡俘虜収容所第17分所」の歴史・名簿・体験・情報・写真が掲載されている。今回、大牟田市石炭産業科学館に寄贈された写真もこのサイトにあるかもしれない。
 
⑤THE WALL STREET JOURNAL
ウォール・ストリート・ジャーナル紙に掲載された、レスター・テニー氏の意見記事 「日本での強制労働から66年―尊厳を求める元米兵捕虜」 の日本版ページ
 
 
 
 

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 熊谷博子 『むかし原発 いま炭鉱』 中央公論社
  炭都[三池]から日本を掘る
  
 ▼帯のキャッチコピーより

        日本の根っこと未来へ向かう坑道がある。
           原発は何を残そうというのか?
          話題の映画『三池』監督、渾身の書き下ろし      

 
私はかねてから大牟田学が成り立つと思っている。
 
炭塵爆発事故の教訓は、その後の安全管理に生かされてきたであろうか?
労働組合と会社との軋轢は、その後の私達に何をもたらしたのだろう・・・。
 
明治の精鋭達が築き上げた炭鉱関連の様々な施設や機器類は、現代にどのようにいきづいているのだろう・・・。
“負の遺産”といわれるものがあるが、それは現代の私達から見たらどのような意味づけができるのだろうか?
 
そして、国のエネルギー政策の歴史が物語る炭鉱が語る今とは何だろう・・・。
 
三池が内包する様々な切り口は、知れば知るほど奥深いものをもっている。それをひとたび知ってしまった映画監督が、熊谷博子氏である。
大牟田市との共同作業となった記録映画撮影の裏話は、非常に興味深いものがある。この本に登場する内容を一通り知るものにとっては、真新しい事実はこれといってないのだが、この映画の製作過程の記述は非常に面白い。
 
争議に炭塵爆発の当事者、もしくはそれを経験した大牟田市民にとって、感情的にも冷静に語り、話しを聴ける内容ではない。事実、管理人の私でさえ祖父が亡くなった炭塵爆発事故当時の詳細を母親から聴くことは今だできずにいる。
 
組合分裂の真相が、会社側の当事者によって語られる場面、試写会会場の固唾を呑んでいる雰囲気が熊谷監督には伝わってきたそうだ。今にして語られることもあろうけど、真実は闇の中のまま、歴史の彼方へ過ぎ去ってしまうこともあるのだろうか。
 
この本のあとがきにある映画『三池』に寄せた下村健一さんの「動きの悪い組織の中で自分の思いを実現する秘訣10ヶ条」の一番目にある ①「外の力を利用する」
は、まさしく映画『三池』と熊谷監督そのものを語っていて妙である。
 
この本にて語られていることこそ、熊谷監督という「外の力」に他ならない。
 
下村健一さんのは次のように述べられている。
「外の目は新鮮だから、地元で生まれ育った人には当たり前で気づかないことを、見つけ出せる。しがらみがない熊谷さんたちは、どこにでもインタビューで入っていった。」
 
管理人の世代(50代前半)は、少しは距離をおいて三池炭鉱の様々な歴史や事実を見ることができるのではないかと思う。熊谷監督のように、「外の力」も借りながら、三池・大牟田の新たな魅力を引き出すことができれば、大牟田市民にとってこの上ない幸せとなるのではないだろうか。
 

 
 
▼関連新聞記事、HPはこちら↓↓↓

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 ▲九州のうたごえ祭典 in 大牟田  ~荒木 栄  没50周年記念~
 
  撮影日:2012年10月21日
     撮影地:大牟田文化会館 大ホール
 

 
荒木 栄の歌を、この日初めて生の合唱で聴きました。
 
荒木 栄・・・
このブログをご覧いただいている方の、どれくらいがご存じでしょうか(?_?)
 
大学生になった頃、故郷大牟田のことが知りたくて、いくつかの本を手にしました。
その中の一冊が、森田ヤエ子著 『この勝利 ひびけとどろけ』 大月書店刊でした。
 
同じ頃、荒木栄作品集 『不知火』 (株)音楽センター刊のLPと楽譜全集を仕入れました。「がんばろう」の歌は聴いたことがありましたが、このLPで初めて聴いた「地底の歌」と「三池の主婦の子守歌」に言いしれぬ感動を覚えたのを今も覚えています。
 
この日もこの2曲が歌われましたが、管理人の私にとっては、実体験のない、いわば過去の歴史でしかない三池闘争が眼前に迫ってくる思いがいたしました。
 
LPで聴くときもそうでしたが、「三池の主婦の子守歌」を聴くたびに、写真や映像でしか見たことのない三池闘争の場面が目に浮かんでくるのです。
そして、あの「雨の降る夜はつらかろね ホッパーにらんで夜明けまで・・・」ではじまるメロディーが流れるたびに、涙がほほをつたいます・・・
そして、「地底の歌」からは、炭鉱労働者としての誇りを感ぜずにはおれません。
 
先にあげた楽譜全集には、「三池の主婦の子守歌」につて、以下のような解説文が添えられています。
 

 
 
 
 歴史的な三池大闘争の最も困難な時期に、中国・朝鮮・日本労働代表は三池闘争支持の共同声明を発表し、日本全国から結集したうたごえ行動隊は創作班に参加して、闘う大衆の中から創作を引き出す活動を展開しました。この曲は、、闘いたけなわの5月、作曲者が大谷社宅の主婦たちと懇談し、分裂のくやしさ、警官へのにくしみ、ホッパーを守る男たちへの愛などをあけすけに語る主婦たちの顔とひとみの美しさに感動し、涙を流しながらノートした主婦たちのひとつひとつのことばを寄せ集めて作詞作曲したものです。正義の闘いの中で感情と思想をこの上なく豊かにしていった三池の主婦たちの姿が、いきいきと曲にあふれています。

 
色々な主義・主張はあるかもしれませんが、これらの歌は、当時の三池炭鉱を取りまく様々な状況を、みずみずしい感性で歌い上げていることに間違いはないと思います。
そして、これらの歌が声高らかに歌われた後にやってきた炭じん爆発事故を思うとき、総資本対総労働と言われた三池闘争とはいったい何だったのか? なぜ多くの命が奪われることになってしまったのか? といった疑問と怒りがこみ上げてきます。
 
今に歌い継がれている荒木栄の歌声・・・
現代に生きる私達にも、多くの勇気と連帯、そして働く者の誇りをもたらしてくれるように感じます。
 
 
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 ▲大牟田文化会館大ホール入り口に掲げられていた 手作り横断幕
 
 
 
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▲パンフレット表紙より・・・ 
 
 
 
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 ▲大牟田文化会館大ホールの緞帳を前にしてオープニング前のセレモニー 
 
 
 
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▲荒木 栄 作品全集 表紙より
 
 
 

 
▼荒木 栄  参考HP 
①うた声サークル おけら>荒木栄 特設コーナー 
 
②うたごえ喫茶 のび>荒木栄について
  
 

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  ▲第50回三池大災害抗議集会  11月3日(日)  主催:三池CO現地共闘会議

 
 今年は、1963年11月9日に発生した炭塵爆発事故からちょうど50年でした。
新聞紙上には様々な記事が掲載されましたし、抗議集会や慰霊の式典なども開催されました。今日は、この三池炭塵爆発事故に関するテレビ番組を2つ紹介したいと思います。一つめは、再放送で本日(11/17)となりますので、どうぞお見逃しなく。
 

 
① NNNドキュメント'13
  消えたヤマの告発 ~三池CO大災害から50年~  【30分】
   福岡放送 製作
  
  BS日テレ 11月17日(日) 11:00~
  CS日テレニュース24  11月17日(日) 18:30~
 
 「お互い年とったね…」清水栄子さん(83)は夫・正重さん(89)に静かに語りかけた。事故から50年。その多くを病院で過ごす元炭鉱マンだ。1963年11月9日、戦後最悪の労働災害といわれる爆発事故が起きた。福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる三井三池炭鉱。死者458人、一酸化炭素中毒の患者は839人にのぼった。知能の低下、記憶障害、性格の変化といった後遺症。会社の責任を問う民事裁判に、労災病院の廃止問題。被災した炭鉱マンと家族は、常に闘いを強いられてきた。三池炭鉱はすでに閉山。事故の風化とも闘い続ける。弱い立場にしわ寄せがくる構図は、何も変わっていない―その訴えをのせた労働歌が、今も病室に響く。「闘いはここから 闘いは今から」
                                     ◆ 「NNNドキュメント'13」HPから引用
 

 
② NHK・ETV特集
  三池を抱きしめる女たち ~戦後最大の炭鉱事故から50年~ (仮題)
  NHK Eテレ 近日中(11月30日以降の番組で) 23時から
 
 
皆さま
三池炭鉱、炭塵爆発事故にからみ、私の方からもお知らせです。
11月23日(土)23時からNHK・ETV特集で、「三池を抱きしめる女たち~戦後最大の炭鉱事故から50年」(仮題)を放映します。この50年間、妻たちは、夫を抱きしめ、子どもたちを抱きしめ、事故を抱きしめ、そして日本最大の炭鉱であった三池を抱きしめて生きてきました。それは国と企業に翻弄され、生活を奪われていった労働者と家族の姿でもあります。“三池”を生き抜く女性達の、愛と正義の物語。(仮題)がとれた時点で、また改めてご案内させていただければと思いますが、ぎりぎりの完成で、その時点ではたして余力が残っているかどうか不明で、あらかじめのご案内となりました。
どうかよろしくお願いいたします。
                            ◆HP「ちきゅう座」交流の広場(10/20)より引用
 


 
 
熊谷博子監督とは、11月3日に大牟田でお会いしました。
ちょうど番組の取材中とお聞きしましたが、上記の11/23(土)には完成しなかったようで、次の11/30(土)以降の放送になるのではないかと思います。
 
 
さて、TOPの写真は、11月3日(土)に荒尾シティモールにて開催された「第50回三池大災害抗議集会」の様子です。管理人は、この集会に初めて参加しました。集会は、「炭掘る仲間」の全員合唱から始まりました。事故当時4歳であった私の記憶にはほとんど残っていない事故と亡くなった祖父の面影・・・。
“みんな仲間だ 炭掘る仲間” ではじまる三池労組の組合歌を共に歌いながら、涙があふれて止まりませんでした。事故当時の様子や労組のことを詳しく知っている訳ではないのですが、歌詞に込められた炭鉱マンの思いや時代の空気を感じました。わが家族の歴史とも関わるこの事故を、自分事として感じることができたということかなと思います。記憶に残っていないこの事故が、すこしは私の身近な事になったということでしょう。以後も、この事故については関心を持ち続けていこうと思います。
 
最後に、写真にある巨大な赤旗にある文字 「やがてくる日に」 を紹介して、三池炭塵爆発事故関連のテレビ番組紹介を終えるとしましょう。
 
 


 
やがてくる日に
 
 歴史が正しく書かれる
 やがてくる日に
 私たちは正しい道を
 進んだといわれよう
 私たちは正しく生きたと
 いわれよう

 私たちの肩は労働でよじれ
 指は貧乏で節くれだっていたが
 そのまなざしは
 まっすぐで美しかったといわれよう
 まっすぐに

 美しい未来をゆるぎなく
 みつめていたといわれよう
 はたらくもののその未来のために
 正しく生きたといわれよう

 日本のはたらく者が怒りにもえ
 たくさんの血が
 三池に流されたのだと
 いわれよう
 
    (三池の闘いの中で読み人知らず)



 
 

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▲立坑櫓の解体が始まった頃の有明坑     2012.8.23  みやま市

 
 
三井三池有明鉱の火災事故から30年
 
今日(2014年1月18日)、三井三池有明鉱の火災事故からちょうど30年を迎えました。1984年の1月18日・・・雪が降りしきる寒い日だったと記憶しています。管理人は大牟田を離れ、一人暮らしをしておりました。
 
火災は、坑口から2・5キロ入った斜坑のベルトコンベヤーで発生し、死者83人と一酸化炭素中毒患者16人をだすという大事故となります。
原因は、旧式のベルトコンベアの整備不良がもとで発火し、付着堆積していた炭粉に着火、一気に火焔が坑道を走ったというものでした。
 
この事故の時に、「あの近代設備を誇る新鋭有明鉱で・・・」といった言葉がささやかれたようですが、同じような言葉はあの三川鉱での炭塵爆発事故でも聞かれたことです。一流の大企業、最新鋭の設備、最先端の技術~、それでも事故は起きる。
炭塵爆発事故の原因である炭車の連結部分の金属破断、その材質が非常に粗悪で、「そのような粗悪なものをあの三井さんが使っていたとは・・・」といわれるような“一流の最先端の設備”と思われていた事実を、私たちはどのようにとられればいいのでしょうか?
 
有明鉱事故においても、炭塵爆発事故と同じような構図が見えてきます。「旧式のベルトコンベア」「整備不良」「付着堆積していた炭粉」・・・いったい、炭塵爆発事故の教訓はどこに活かされているのか? 保安要員は? 定期的な保守点検、安全確認は?
全くもって、炭塵爆発事故の教訓は活かされることはなかったと言えるのではないでしょうか。そして、またもや尊い人の命が多数奪われることになった。それも、炭塵爆発事故と同じ一酸化炭素中毒によって。
 
 
災害発生時点での入坑者は約700名で、発火地点より深部にいた99名が閉じ込められた形となったとのことですが、その内下請組夫の方々が多数を占めていたとも聞きました。要するに、当時会社直轄の鉱員ではなく、下請けとして入坑していた労働者が多数存在したということです。具体的には、当時の有明鉱直轄員960人に対して組夫が360人、鉱員の約3割が下請けの労働者であった。そして、その下請け労働者から多数の犠牲者をだしてしまった。
こうした労働者側からの視点から、この事故を検証するということも重要な事であると思います。
 
 
今まさに原発に関する議論が盛んに行われていますが、三井三池で発生した2つの大事故は多くの教訓をもたらすものだと思います。有明鉱火災事故から30年を契機として、これからの日本のエネルギー問題を、労働問題を、安全性の問題を考えてみることは、事故の記憶を風化させないためにも大切なことではないかと思います。
 
 
最後に、この事故に関する新聞記事を以下に紹介しておきます。
 

 
①遺族「絶対の安全なんてなか」 三井三池有明鉱火災30年 (西日本新聞)
 
②有明鉱火災、風化させず  (読売新聞)
 
③有明鉱火災で慰霊祭 みやま市長、発生30年機に (西日本新聞)
 
 
 
 
 

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▲福島・三池・水俣から「専門家」の責任を問う  ~三池CO研究会編~ 

 
 
 弦書房から『福島・三池・水俣から「専門家」の責任を問う』が発行されました。
この本は、昨年の11月9日に九州大学医学部百年講堂会議室で行われた「原田正純追悼 炭塵爆発五○年 三池、水俣、・・・そして福島 ~ 専門家の責任とは何か」と題して開催されたシンポジウムが元になっています。シンポジウムの主催&この本の著者は、三池CO研究会です。*注
 
管理人は、昨年開催されたこのシンポジウムにも参加させていただきました。その時点で記事にしたいと思っていましたが・・・忙しさにかまけてとまとめができずに1年が経過しようとしていたところ・・・このほど(発行は7月)、TOPの写真にあるような書籍としてシンポジウムの内容が刊行されました。
 
ここにシンポジウムの内容について、主催者の開催趣旨などを掲載して皆様にお知らせしたいと思います。詳しく知りたいと思われる方は、是非書籍をお買い求め下さいませ。
(ちなみに、価格は1600円+税で、150ページ余りの小冊子です)
 
 
*注 三池CO研究会 1971年、三井鉱山を相手取った裁判の可能性を検討する会として発足した(1次)。その後、提訴に向けた原告支援の活動を本格化させるため、1972年12月1日に再発足した(2次)。美奈川成章、増子義久、原田正純(故人)ら、法律家や医師、ジャーナリストらが参加した。
1993年3月にあった福岡地裁判決後に自然解散したが、史料集を刊行する目的で、1999年10月25日、新たに立ち上げ、現在に至る(3次)。史料集は2期にわたって『三井三池炭じん爆発事件史料集成』として柏書房から刊行された。1次から3次まで、会長は技術論が専門の星野芳郎(故人)が務めた。3次では原田と美奈川が副会長を務めた。星野、原田の死去を受けて、2013年8月7日、会長には美奈川、副会長には大原が就く。
                                                  (本の掲載から引用)
 
 
 
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▲本の元となったシンポジウム~ 原田正純さんの写真と、炭塵爆発の現場写真が貼られた~

 
 
●企画趣旨
三池の炭じん爆発は死者458人のほか、労災認定されただけで一酸化炭素(CO)中毒患者839人を出す戦後最悪の炭鉱事故となりました。
この事故で問われた最も重要な論点が「専門家の責任」でした。
「風化砂岩説」を持ち出して会社側の過失を放免しようとしたのは九州鉱山学の権威とそれに付き従う工学の専門家でした。
また「組合原性疾患」という非科学的な見方を医学の診断に持ち込み、患者の切り捨てに手を貸したのは九州大学医学部を中心とする医学者たちでした。
行政は「専門家の意見に従った」と言い、専門家は「決めたのは行政だ」と言いました。
当事者たちはこうした専門家の「お墨付き」をひっくり返すのに膨大な時間と費用を強いられました。
こうした専門家が当事者と対立する構図は時期を重ねるように水俣でも起こりました。
三池や水俣で起こった歪な専門家の立ち位置はただされたのでしょうか。
主催者の三池CO研究会で副会長を務めていた原田正純は三池や水俣での体験に根ざして、亡くなる直前まで福島原発事故を招いた「専門家の責任」を問うてきました。

(福島第一原発)事故から2年半が経ちましたが、いっこうに収束の道筋さえも見えず、いまも15万人以上もの人たちが避難生活を強いられています。
「安全神話」を振りまいていた専門家は沈黙を守るばかりです。
また、福島県は県民健康調査を実施して県民の「被曝と健康」の関連を探っています。
多くの子どもたちに小児性甲状腺ガンの疑いが指摘されていますが、「被曝との関係はない」と片付けていいものでしょうか。
三池や水俣にかかわり、いま福島でも発信を続ける講師の方々をお招きして、三池や水俣を通じて光を当てられた「専門家の責任」を明確にしながら、その教訓はどのように福島などで生かされるべきか、当事者と専門家はどのような関係にあるべきか、それらを考えていきたいと思います。

●問い合わせ
福岡城南法律事務所(美奈川弁護士):092・771・3228

●主な式次第
■演題
原田正純追悼 炭じん爆発50年
三池、水俣…そして福島 ~ 専門家の責任とは何か
■主催
三池CO研究会(会長・美奈川成章、副会長・大原俊秀)
■日時
2013年11月9日12時~(終了予定:16時30分)
■場所
九州大学医学部百年講堂会議室(福岡市東区馬出3?1?1、電話:092-643-8867)
■入場料
700円(資料代として)
■主な内容
《基調報告》
美奈川成章(三池CO研究会会長)
「炭じん爆発50年 ~ その教訓と課題を探る」(仮題)
《報告》
鎌田慧氏(ルポライター)「三池と福島」(仮題)
津田敏秀氏(岡山大学教授)「水俣と福島」(仮題)
《現地からのメッセージ(ビデオ)》
松尾蕙虹(三池CO研究会、元三池CO家族訴訟原告)
《パネルディスカッション》
テーマ「専門家の責任とは何か」
司会 木村英昭(三池CO研究会、朝日新聞記者)
パネラー 鎌田慧氏、津田敏秀氏、美奈川成章
《総括報告》
黒田光太郎氏(名城大学教授)

 
 
■当ブログ内 関連記事
やがてくる日に~三池炭塵爆発事故から50年~ 
NHKドラマ『見知らぬわが町』 ◇視聴記◇ その3
三井三池有明鉱の火災事故から30年
 
■西日本新聞社 書評


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        世界遺産の土産に 「炭鉱電車」 はいかが(*^_^*)

西日本新聞WEB版にて、このような記事を見かけました↓↓↓

「世界文化遺産になった三池炭鉱関連施設がある福岡県大牟田市の菓子組合が、石炭などを運んだ「炭鉱電車」をパッケージにした土産品を作った=写真。20日から西鉄旅行の世界遺産バスツアー客に渡す・・・」

記事のつづきは、以下のHPで~

2010年に、炭鉱電車のパッケージはお目見えしたのですが、それ以来あまり話題となることもありませんでした。そこで、今回の世界遺産登録を追い風に再登場




ところで、この記事~終わりの方はなかなか機知に富んだ記事とも読めますが・・・あまりパッとしなかた炭鉱電車パッケージは“負の遺産”だった(?_?)

ちょっと待て~この「パッとせず“負の遺産”に」というたとえには、少し違和感を感じてしまいます。パッとせず・・・パッとしないことが“負の遺産”となるということか?
“負の遺産”という使われかたは、三池炭鉱の歴史の中で囚人労働、強制連行、炭塵爆発事故などの出来事をたとえて使われる用語であると認識しています。
これらのいわゆる“負の遺産”も含んだものとして、三池炭鉱関連の産業遺産群を捉える必要があると、管理人はつねづね考えています。そこで、「わたしの三池学」なる書庫を立ち上げたのですが、ここでは“負の遺産”をただ単に知識として伝えるだけではなく、これらの出来事、事実を通じて、学問のあり方や人々の生き方、社会のありようなどを考える契機となればと考えます。
原田正純さんは、足尾鉱毒事件の田中正造の「谷中学」をヒントに、「水俣学」を提唱されたと聞き及んでいます。おそらく、被害の現場や当事者に学べということが、その基本にあると思います。このことを基本にして、様々な切り口、学問分野から水俣病にアプローチしようと主張されたのだと思っています。そして、“負の遺産”はマイナスで語れることが多いのですが、そのことから学ぶことで将来に望みを託す意味合いもあると考えています。

そこで、今回の「パッとせず“負の遺産”に」~
こんなことまで考えて記事を読むことはないと言われるかもしれませんが、どうしても先の出来事の当事者や歴史が軽く扱われているように感じられてしかたありません。管理人は、大牟田菓子組合の取り組みを応援する立場の思いを持っていますが、記事中の“負の遺産”というたとえが気になり、少しばかり考えを巡らせたところでした。実は、このような記事を書くつもりではなく、炭鉱電車のパッケージ復活をただよろこんでいただけだったのですが・・・。
ここまで、管理人につきあって記事を読んで下さった皆様に感謝m(_ _)m






▼ トップ写真のブログ内記事はこちら↓↓↓


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▲ 絵葉書 長崎港ニ於ケル汽船石炭積込ノ景


 

    「ヤンチョイ」 ~与論の民の誇りとして後世に語り継がれるべき仕事~

 火野葦平の小説『花と龍』は、みなさんご存じでしょうか。19576月から約1年間に渡り「読売新聞」に連載された後に単行本として刊行され、これまでに4回映画化もなされています。物語は明治35年にはじまりますが、北九州若松港を舞台とした、作者である火野の両親と自分自身の波瀾万丈物語です。小説では、若松港の石炭船積み作業で競い合う港湾労働者が登場しますが、そこで迫力をもって描かれているのが「天狗取り荷役」といわれる日本独特の荷役方法です。
この「天狗取り荷役」が、一躍海外に名を馳せたことがありました。それは、日露戦争における旅順港封鎖作戦の最中、長崎港での「天狗取り荷役」作業の驚くべき速さでした。当時、限りある日本の船舶はその回転率を上げるべく、石炭の積込作業を迅速かつ確実に行う必要に迫られていたのです。“人間ベルトコンベア”とも称される「天狗取り荷役」の迅速さに、イギリスをはじめとして世界が驚いたのでした。


さて、この「天狗取り荷役」、長崎港での様子が絵葉書として多数残されていますが、艀(はしけ)から石炭を石炭輸送船へ、または客船などの焚料炭(たきものたん:当時の船は石炭を燃料としていた)を船のバンカー(石炭庫)に積み込む荷役作業のことです。絵葉書に見られるように、本船の舷側に雛壇(ひなだん)のように板子の棚を吊り下げ、そこに並んだ多数の労働者がザルに入れた石炭を手繰りして荷役を行うというもの。ところで、この「天狗取り荷役」のルーツを辿ると、口之津港での石炭荷役に行き着くと思われます。口之津港といえば、三池港ができる前の三池炭の海外積出港として重要な地位を占めていました。三池炭鉱の経営が官営から三井に移ってからも、三池の石炭は長い間大牟田川の河口から小舟で有明海を渡って口之津港まで運ばれ、大型船に積み替えられ上海などの海外市場に輸出されていたのです。炭鉱は石炭の採掘はもちろんですが、石炭をいかに運び出すかが重要な産業です。三井のドル箱ともいえる三池炭鉱は、この口之津港での石炭荷役なくしては発展を遂げることはできなかったのでした。


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▲ 明治30年代の口之津港



この口之津港で、石炭荷役の中心を担ったのが与論島の人々です。三池炭鉱の石炭輸出量が増加の一途を辿っていた明治31年、与論島を襲った未曾有の台風は島のほとんど全戸をなぎ倒し、直後に続く干ばつ、悪疫の流行もあって、島はさながら生地獄と化し多くの住民が苦渋の生活を強いられたのでした。その時もたらされたのが、口之津に移住して石炭荷役に従事するという誘い。与論島では、村長の上野応介が率先して住民の先頭に立ち、多くの住民を引き連れ口之津に集団移住したのです。口之津で与論の人々が従事した石炭荷役は、沖合に碇泊している大型船に手繰りで石炭を積み込む沖作業。この作業は荷役のかけ声から「ヤンチョイ」と呼ばれたと伝えられています。カガリと呼ばれたザルに石炭を詰めて「ヤンチョイ、ヤンチョイ」とかけ声を掛け、時には危険で荒ぶる沖合の海上にあって、昼夜分かたず生きんがためにわが身を投げ出す命がけの荷役作業であったと思われます。当時の様子を、14才から働いたという竹ハル婆ちゃんは次のように語っています。「時間ナいっちょもきまりがござっせん。西洋の船はあせがりますから、石炭を全部積み込んでしまうまでは、夜十二時過ぎても、徹夜になってもやめられまっせん。二晩でも三晩でも、徹夜することもあります・・・」(平原直『物流史談-物流の歴史に学ぶ人間の知恵』より)


三池港が開港した後、口之津から与論の人々は再度大牟田に移住し、三池港にて引き続き石炭荷役の仕事に就くことになります。大牟田での与論の人々の歩みも、100年を越える時を積み重ねています。与論の人々が苦難の上に編み出した「ヤンチョイ」は、「天狗取り荷役」として日本の経済的発展を支えた史実とともに、ユンヌンチュ(与論の民)の誇りとして後世に語り継がれるべき仕事であると思います。



(おわり)



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