炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: わたしの三池学

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与論島を出た民の歴史

大学時代に、神田で購入した書籍が手元にある。

森崎和江・川西到 『与論島を出た民の歴史』 たいまつ社 1975年 第二刷発行
カバーを開くと、次のような言葉が記されている。

明治三一年八月、与論島を襲った未曽有の台風は、島の殆ど全戸を倒し、直後に続く旱ばつ、悪病の流行は、全島を生き地獄と化せしめた。三井資本の誘いに応じて明治三二年、二四○名の島民が集団で長崎県口之津へ移住。 以後、数次にわたる集団移住を重ねる与論人は、口之津から大牟田(三池)へと移住する。本土の資本主義発展下、最下層の労働集団として在りつづけた民の歴史が、ここに掘り起こされ、ひらかれる。
 

故郷 大牟田を離れ、炭鉱の歴史に興味を抱きつつ、三池炭鉱関係の書籍を探し求めていた時に巡り会った本である。すでにいくつかの書籍を読んでいた私にとって、与論島から移住してきた人々が大牟田にいらっしゃることは知っていた。また、「ヨーロン」と呼ばれ差別を受けてきたことも知識としてあった。三井三池炭鉱をめぐっては、与論島出身の方々以外にも、戦時中の朝鮮人強制連行や連合国軍の捕虜、直轄夫に対しての下請け労働者、三池争議を契機とする第一組合と第二組合などなど、労務管理に関しては様々な軋轢を生じてきた。私がここで語る知識も経験も十分に持ち合わせているわけではないが、三池炭鉱を語るに際して素通りにできない事柄であることは間違いない。

その与論島出身の方々が、大牟田(三池)に移住して今年がちょうど100年を数える。
4日(土)には、与論出身者の共同納骨堂で「三池移住百年祭」が開催されたとのこと↓↓↓
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/163234


そして、本日の朝日新聞朝刊社会面の連載記事 『百年の春』に、「差別越え3年前やっと」の記事が掲載された。「3年前やっと」とは・・・大牟田の夏祭りである大蛇山まつりの総踊りのこと。炭坑節の踊りのパレードに、大牟田・荒尾地区与論会の会員の方々のエイサー姿が3年前からあることを語っている。

『与論島を出た民の歴史』はすでに112年の時を刻んでいる。大牟田(三池)の地での差別の歴史をも背負いつつ、ここにエイサー姿の炭坑節を踊る姿があることに、ユンヌ(与論)の人々の生きざまと誇りを感ぜずにはおられない。



ここ数日間の新聞記事を読めば、与論島出身の方々の歴史と現在に思いを馳せないわけにはいかないであろう。

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▲『見知らぬわが町 ~1995 真夏の廃坑~』


大牟田が舞台のNHKドラマ ~見知らぬわが町~

昨日(8/27)、大牟田市が舞台となるNHKドラマ『見知らぬわが町』の制作発表会がありました。
このドラマは、今年で開局80周年を迎えるNHK福岡放送局が制作する地域ドラマです。
昨日から大牟田市内や万田坑にて撮影に入った模様!(^^)!

「撮影は9月中旬ごろまで行われ、ことし12月10日に総合テレビで九州沖縄地域に向けて放送される予定」とのことです。(残念ながら、全国放送ではありません)


◆詳しくは、以下のHPをご覧下さい↓↓↓

NHK福岡放送局>福岡のニュース    http://www.nhk.or.jp/fukuoka/drama/wagamachi/index.html
主人公役の忽那汐里 (くつな しおり)   http://www.oscarpro.co.jp/profile/kutsuna/



ところで、このドラマの題名である『見知らぬわが町』は、ご存じの方も多いと思いますが1996年5月に発行された同名の本によります。

◆中川雅子 『見知らぬわが町 ~1995 真夏の廃坑~』 葦書房刊 

この本の著者の中川さんは、当時高校(明光学園)在学中でした。
その彼女がある夏の夕方、大牟田川河口のある「異様な建物」(南新開竪坑)をしばらく見つめるところからこの本は始まります・・・。

「あそこで、きっと遠い昔に、何か哀しい出来事があったに違いない」

ここから中川さんの『見知らぬわが町』への旅が始まります。それは、当時「不安定な精神状態」にあった彼女のとぎすまされた感性と心が織りなす旅です。

廃坑跡をめぐる内に、炭鉱の歴史とそこに生きた人々の証を探し求める中川さん。
囚人労働、強制連行、与論島、炭塵爆発・・・
そこはかとない深い情念をたたえるわが町“大牟田”

みずみずしい彼女の感性でもって、『見知らぬわが町』の姿が次第と明らかになっていくのでした。

たぶん、NHKのドラマも、高校生の彼女の目を通して見えた『見知らぬわが町』大牟田と、彼女の心の成長を重ねて描くような構成になっているのではないでしょうか。



ドラマをご覧になる前に、ぜひ中川雅子著『見知らぬわが町~1995 真夏の廃坑~』をご一読されることをお勧め致します。


◆葦書房HP>既刊本案内>炭坑本  http://www1.ocn.ne.jp/~ashi/tankou.htm




▼当ブログ関連ページ
NHKドラマ『見知らぬわが町』◇視聴記◇ ①~⑦

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▲海上より見たる三池港閘門


NHKドラマ『見知らぬわが町』  ◇視聴記◇ 

NHK福岡放送局開局80周年記念ドラマ 『見知らぬわが町』 を見ました。

全体を通じて、息を凝らしてじ~っと見ました・・・
というか、じ~っと息を凝らさずしては見れませんでした。



当ブログのプロフィール画像を皆さん気にかけられることがあるでしょうか?
炭坑夫のレリーフ、ヘッドランプ付きのヘルメットをかぶった炭坑夫の横顔のそれです。

ヘルメットの三本の線は、三池労組のしるし。
このレリーフ、実は三池炭鉱労働組合 結成30周年記念 の盾にあるレリーフなのです。
1946年結成から30年、1976年に作成された記念の盾・・・

レリーフの下には “団結・抵抗・統一” の文字が刻まれています。


ドラマ中の記者が語っていたように、今年は三池闘争50周年の年。
『見知らぬわが町』の中で奏でられたハモニカ、そして主人公の祖父の葬儀場面で歌われたあの歌・・・
“炭掘る仲間”を聞きながら、このレリーフを思い起こしていました。

「三池炭鉱労働組合は、組合員に新組合歌の歌詞を募り、48作品が集まったがどれも物足りず、グループで創作すること」になって誕生したのが、ドラマで印象的に奏でられたあのメロディーだったのです。

◆「 」内は、以下の新聞記事から引用した↓↓↓
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/kayou/20060821/20060821_001.shtml



全篇を通じて、じ~っと息を凝らして見らざるおえなかった理由・・・
それは、炭塵爆発の後遺症に苦しむ家族の姿と、主人公の精神的な苦悩が重なっていたからに他なりません。そのことは、とりもなおさず、わが大牟田が歴史的に抱えてきた「負の遺産」の苦悩でもあり、いまだその傷がいけない個々人の歴史でもあるのです。

このドラマ、私たちの世代(50代前半)やより若い世代にとっては、一度見てもその奥深さが分からないかもしれないと感じました。全篇を通じて、底流のように流れるそこはかとない情念のようなものを感じます。


ただ、最後に三池港の場面を持ってきた清水監督の思い、私なりに受け取りました。


最初の場面にて、万田坑のトンネルの闇から脱出した主人公・・・
このシーンがこのドラマの導入であり、またすべてでもありました。



個人的に楽しみにしていた三池港
石炭に泣き石炭に救われたわが町
三池港突堤に囲まれた航路をゆくタグボートと航路の風景


三池港のシーンに、わが町大牟田の未来を見た思いがいたしました。 




(つづく)

 

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▲夕闇が迫りくる 万田坑


NHKドラマ『見知らぬわが町』  ◇視聴記◇ その2 

NHK福岡放送局開局80周年記念ドラマ 『見知らぬわが町』 視聴記◇その2


息を凝らしてじ~っと見たドラマ
中でもハーモニカの音が耳から離れません・・・

前回も取り上げた“炭掘る仲間”のそれです。

福岡県大牟田市の大牟田労災病院の一室。元三池炭鉱労働者の清水正重さん(80)は、じっとベッドに腰掛けていた。右手には愛用のハーモニカが握られている。
(中略)
事故から今年十一月で四十二年。時は確実に刻まれている。
ハーモニカを口に運び、正重さんが組合歌を奏で始めた。
 「みんな仲間だ 炭掘る仲間…」        

    ◇西日本新聞 「闘争の果て 解散・三池労組の59年」より引用  2004.4.8 朝刊連載記事 



CO(一酸化炭素)中毒患者として生きてこられた清水さんと、ドラマのシーンが重なり合う。
そばに寄りそう奥さんの姿が新聞記事に写し出されているが、いしだあゆみさん演じるそれと重なり合う。
ドラマは、原作をもとに作られてはいるが、三池港のラストシーンのように新たに埋め込まれたフィクションも存在します。しかし、ハーモニカのシーンといい、阿蘇や杖立温泉の場所といい、大牟田に生きた人々の歴史や生き様をもまた確実に写しだしていたように思います。

そこがまた、じ~っと息を凝らさずしては見れなかった理由の一つでありました。



ところで、ハーモニカ~
ドラマ中に流れたハーモニカ、“炭掘る仲間”を演奏していらしたのは西川義夫さんであるようです。
*西川さんより、直接コメントをいただきました。正確な内容ははコメント欄をご覧下さいm(_ _)m

小学生のときに覚えたハーモニカを、難病治療のために入院した中国の山奥の村人たちとの素朴で温かい出会いを機に、6年前から本格的に演奏活動を開始しました。
毎月第3日曜日に福岡市中央区の天神中央公園(南西角)でストリートライブ(14時~)を行う他、福岡市西区で介護事業『あした葉』を運営するかたわら、福祉施設等での演奏活動や指導を行っています。           ◇西川義夫さんのHP harmonica のプロフィールより引用

▼西川義夫さんのHP「harmonica」はこちら↓↓↓
http://www.harmonica-web.com/index.html


西川さんのブログには、詳しくこのドラマへの関わりや思いが述べれていますので、是非ご覧下さい。
詳しいいきさつは分かりませんが、西川さんはブログの中で・・・
「20代の頃、“三池に魅かれて”誰一人知人もいない九州にやってきた私にとって、ハーモニカが劇中で大切な役目を担っていると思える記念のドラマで、三池に再び関わることになったことに、深い深い感慨があります」と述べておられます。

管理人の私も、父が使っていたハーモニカを今も手元に置いています。最近こそ、全く吹くこともなくその存在を忘れかけていましたが、ドラマを見て久しぶりに手に取ろうとした  のですが~
どこを探してもありません・・・。つい5,6年前に一度吹いた記憶があるんですが・・・

小学校の時によく吹いたのは、たしか『川は流れる』っていう曲だったように思います。
楽譜は読めないので、適当に探り吹きとでも申しましょうか、それでも好きでよく吹いてました。


見るものそれぞれが持つ心像風景や、大牟田が辿ってきた歴史を脳裏によみがえらせてくれた NHKドラマ『見知らぬわが町』・・・
年代によってドラマへの感想は違っていると思いますが、いずれにしても視聴者の脳裏に映し出された光景があるとすれば、それはこのドラマの持つ力に他ならないことでしょう。
また、その光景は一人一人違った光景でもあり、それぞれが感じた事もまた様々かもしれません。

ただ確かにいえることは、その脳裏に浮かんだ光景が人々に感動を与える源となったであろうということです。



(つづく)

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▲  『三池の母の詩』    『三池のこども』   ・・・


NHKドラマ『見知らぬわが町』 ◇視聴記◇ その3 

NHK福岡放送局開局80周年記念ドラマ 『見知らぬわが町』 視聴記◇その3


息を凝らしてじ~っと見たドラマ
三池闘争や炭塵爆発の事が頭から離れない・・・

 死体洗い場
 1963年11月9日 午前3時15分。
 458人もの労働者が殺された日。そして、いまもなお839人の頭脳を狂わせ、その家族をふくめて幾千人におよぶしあわせを、根こそぎ奪ったこの日を私たちは忘れることが出来ない。三池の大爆発の日。
 その11月9日、わたしは組合から天領病院へ、夫の姿を求めて夜の町をかけまわった。
「ここです」
 天領病院の耳鼻科のドアが開けられた。一歩入ったとたん、わたしは立ちすくんだ。なんということ!わたしがそこで見たものは、素っ裸にされたまま水で洗われる労働者の姿だった。
 金属製の荷物運搬台の上に、横たえられた労働者の、石炭と血と泥にまみれた遺体の、その青白い顔、そのいたいたしさ。こんなにも大変なことが起こっていたのか。初めて知るその驚きと恐ろしさ、悲しさ、情けなさ、その思いのあまり、わたしはありったけの涙がドオッと出て止まらなかった・・・

    ◆永江美由紀 『三池の母の詩 ~三池炭じん爆発 遺族の22年~』 1986年1月15日発行より


私の祖父も、あの日は天領病院にてこのような光景の一隅にいた。
母や父が同じように祖父を捜しもとめたらしい。
母は多くを語らないが、幼き日に聞いた話はこの文の中身と一緒だ。
幸い祖父には外傷は全くと言っていいほどなかったらしい。ただ、一酸化炭素中毒特有の肌の色をしていたらしい・・・。

私が知り得る内容は、ここまでである。
当時4歳だった私には、全くこの日の記憶は残っていない。



時は経て・・・1985(昭和60)年8月12日18時56分
日本航空123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ジャンボジェット
群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落・・・

乗員乗客524名のうち死亡者数520名、生存者(負傷者)4名

この事故のニュースを見ながら、炭塵爆発事故とあの日の天領病院を想起している自分がいた。



◆1963(昭和38)年11月 9日
 三井三池三川坑にて炭塵爆発
 死亡者 458名
 CO(一酸化炭素)中毒患者(重軽傷) 839名
   三池労組  死亡 163名  CO中毒(重軽傷) 319名
   新労組    死亡 242名  CO中毒(重軽傷) 427名
   職   組  死亡  25名  CO中毒(重軽傷)  59名
   組   夫  死亡  28名  CO中毒(重軽傷)  34名


この炭塵爆発がおきたのは、子ども達をも巻き込んて闘われた三池闘争の終結後、わずか3年の出来事であった。


(つづく)

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▲1960年 子ども達も一緒に “団結がんばろう”


NHKドラマ『見知らぬわが町』 ◇視聴記◇ その4 

NHK福岡放送局開局80周年記念ドラマ 『見知らぬわが町』 視聴記◇その4


息を凝らしてじ~っと見たドラマ
三池闘争の中から生まれた“団結がんばろう”を思い浮かべていた・・・

“団結がんばろう”

このブログをご覧になっている皆さん、“団結がんばろう” ご存じでしょうか?
若い方には何のことか分からないでしょうから、ちょっとだけ解説を~

☆“団結がんばろう” の手順は・・・
   ①左手を腰に当て、右手で握りこぶしを作る
   ②壇上のリーダーの「団結、がんばろう!」の声にあわせて~
    「がんばろー!」を3回繰り返す
   ③「がんばろー!」のかけ声と同時に、右こぶしを斜め前方へ突き上げる
TOPの写真や、前回TOPにある本の表紙を見ていただければ、おおよその感じは分かってもらえるでしょう。
ドラマの中では、この “団結がんばろう” の場面は出てきませんでしたが、三池闘争のデモの場面が映し出されていました。そして “団結がんばろう” とともに思い浮かべる歌はもちろん “がんばろう” 

☆がんばろう☆
 作詞:森田ヤエ子
 作曲:荒木 栄

   1.がんばろう 突き上げる空に
     くろがねの男の こぶしがある
     もえあがる女の こぶしがある
     闘いはここから 闘いは今から

   2.がんばろう 突き上げる空に
     輪をつなぐ仲間の こぶしがある
     おしよせる仲間の こぶしがある
     闘いはここから 闘いは今から

   3.がんばろう 突き上げる空に
     国のうちそとの こぶしがある
     勝どきをよぶ こぶしは一つ
     闘いはここから 闘いは今から オゥー
  

▼作曲者の荒木 栄についてはこちら↓↓↓
http://www.utagoekissa.com/ARAKIindex.html



私が所属する組合の定期総会の最後は、もちろん “団結がんばろう” でございます。
いまでは組合だけでなく、党派を超えてこの “団結がんばろう” が唱和される場面を見かけますが、そのルーツを辿ると三池に行き着きます。

ところで、ドラマにて主人公の父親が小学校の頃 「ガス患(一酸化炭素中毒患者)の子ども」 と言われいじめにあった事が語られていましたが、炭塵爆発といい三池闘争といい、大人だけでなく子どもの世界までも巻き込んだ熾烈な状況がありました。
三池闘争当時、中学生がこんな作文を残しています。

 そんなに職員になりたいの
 今、第二にはいっていなさる人は労働者をうらぎってまで、職員になりたいのだろうか。第一が勝っても、職場ではにらみあうと思う。そして、もし会社が勝ったとしたら第二組合の人達も首を切られると思う。そうしたら、第二にはいった人はなんにもならないから、はじめから労働者をうらぎってまで第二にはいらなくてもいいのに。
      ◇新読書社編集部編 『三池の子ども ~闘いの中から生まれた作文集~』 1960年発行 より


会社側の合理化案そして指名解雇に始まり、ついには組合の分裂を経て組合側の敗北に終わった三池闘争。その闘争は、子ども達の世界にも大きな影響を与えたのでした。そして、この総労働対総資本の闘いと呼ばれた三池争議のすぐ後、またしても大牟田の町を揺るがす出来事が起きたことは前回述べた通りであります。


それにしても、いまだ受け継がれる “団結がんばろう” には、人々の心を一つにする力があり、今なお元気をもらうように感じるのは、50歳を越えた年月がなせるものなのでしょうか・・・。



(つづく)

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▲1965年 三池工業・夏の甲子園全国制覇 


NHKドラマ『見知らぬわが町』 ◇視聴記◇ その5 

NHK福岡放送局開局80周年記念ドラマ 『見知らぬわが町』 視聴記◇その5


息を凝らしてじ~っと見たドラマ
三池工業の高い煉瓦塀の場面で語れた野球の話題・・・

現巨人軍の監督 原辰徳くん、 実は管理人の私と同級生であります。
とは言っても、実際に同じ学校に通っていたわけではありません(な~んだ?!) 
私との唯一の接点は、床屋さん(?_?)

今もその床屋さんはあるのでしょうか・・・
浅牟田町の三井東圧化学工場のすぐ北側、八尻町三丁目にその床屋さんはありました。
その床屋さん(内田理髪店)に私が通い始めたのは、三池工業が夏の甲子園大会で優勝をなしとげた頃です。

三池工業の甲子園優勝・・・
当時6歳だった私の記憶はというと、オープンカーに乗って実家近くの国道208号線をパレードが行く光景です。この時のパレード、何と小倉から大牟田までの約150㎞を走ったというから驚きです。当時の大牟田市の人口が約20万人(現在は約13万人)、そこに35万人もの人々が沿道を埋め尽くて三池工業ナインを迎えたといいますから、甲子園優勝を祝う大牟田の熱気はすさまじいものだったと想像できます。
今まで2回連続して、炭塵爆発に三池争議といった大牟田市民にとっては辛い出来事を取り上げてきました。当時、暗く沈み込んでいたであろう大牟田市民に、この三池工業の甲子園優勝が大きな希望と勇気を与えてくれたということは言うまでもありません。

そこで、先の床屋さんのお話。
実は、当時の三池工業野球部の監督は原 貢さん。原辰徳くんのお父さん、その人であります。その監督の奥さんの実家が、その床屋さんでありました。私の父親は、短期間でしたが大牟田高校の野球部顧問をしていました。その様な事もあってか、三池工業の優勝後わざわざ自宅から15分ほど車でかかるようなその床屋さんに、私を連れて通っていたのでした。たぶん、八本町の社宅に居たときからのなじみでの床屋さんでもあり、野球の話もしたかったのではないかと思います。どんな会話をしていたのかなどの記憶はありませんが、後に東海大相模高校の甲子園優勝記念のお皿が飾ってあったことを思い出します。

ところで、この時の三池工業の優勝が少年原辰徳に与えた影響は大きいものがあったでしょう。実際に原監督は、『炭鉱町に咲いた原貢野球』(TOP写真)の中で次のようなコメントを残しています。
僕は父親のバイクの後ろに乗せられて、三池工のグラウンドによく行ったんです。それが自然に野球に入って行くきっかけになりました。そして、全国制覇をしてパレードがあったとき、大牟田の街道に凄い人が集まった。野球というのはこんなに人を喜ばせるものなのか、凄いことを三池工のお兄ちゃん達とお父さんはやったんだ。それが僕の中で大きな出来事として現在も残っているんです。
  ◇澤宮 優『炭鉱町に咲いた原貢野球 -三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡-』現代書館

この原監督と雌雄を決する阪神の真弓明信監督もまた大牟田出身であることを皆さんご存じでしょうか?
日本球界を代表する球団の両監督が、ともに大牟田に縁のある人物とは愉快なことでございます。
ちなみにこのお二人、一時期大牟田市内の同じ社宅(当時の東洋高圧)に住んでいたというから驚きです。


最後に、原辰徳くんがお気に入りだったというお店を紹介して、今回の話題を終えるとしましょう。
そのお店とは・・・「ガード下食堂」 

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今も「ガード下食堂」は健在です。このお店の回転饅頭やうどんがお気に入りだったとか。
ガードというのは、もちろん炭鉱鉄道のガードでございます。このお店、一部は炭鉱鉄道の煉瓦造りのガードにくい込んで立ってます。

大牟田にお立ち寄りの際は、“ター坊”こと原辰徳くんが好きだった回転饅頭をご賞味あれ。 




(つづく)



◇参考までに◇

▼原辰徳 オフィシャルサイトはこちら↓↓↓
http://www.hara-spirit.net/top.html

▼真弓明信 オフィシャルサイトはこちら↓↓↓
http://www.joe72.jp/

▼両監督に関する更に詳しい大牟田関連サイトはこちら↓↓↓
http://bougaku.fc2web.com/T-G01.htm

▼当ブログ 三池監獄関連記事はこちら↓↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/28146607.html

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▲わが谷は緑なりき How Green Was My Valley

NHKドラマ『見知らぬわが町』 ◇視聴記◇ その6 

NHK福岡放送局開局80周年記念ドラマ 『見知らぬわが町』 視聴記◇その6


息を凝らしてじ~っと見たドラマ
わが谷は緑なりき How Green Was My Valley・・・

そうか、そうだよね、その通り~
清水監督の12/24の「制作こぼれ話」を読んで納得。

▼12/24の「制作こぼれ話」はこちら↓↓↓
http://www.nhk.or.jp/fukuoka/drama/wagamachi/s_hanashi/index.html


19世紀末、イングランドはサウス・ウェールズのロンダ渓谷に広がる炭鉱町を舞台にした映画。この炭鉱町住むモーガン家の男たちは、みな誇り高き炭坑夫だった。 しかし斜陽の石炭産業を取り巻く情勢は厳しく、賃金はカットされ組合結成をめぐってモーガン家の父親と息子たちは対立・・・。炭坑夫の一家の生活を通して、夫婦愛、親子愛、恋愛、隣人愛などの人間関係がほのぼのと描かれていきます。

映画の終盤、炭坑から落盤事故を報せる警笛が鳴り響く・・・


監督は、西部劇の神様と呼ばれた ジョン・フォ-ド監督。
第14回アカデミー賞5部門受賞:作品賞、監督賞(ジョン・フォード)、助演男優賞(ドナルド・クリスプ)、撮影賞(アーサー・C・ミラー)、室内装置賞
5部門ノミネート: 助演女優賞(サラ・オールグッド)、脚色賞、劇映画音楽賞、編集賞、録音賞
数々の賞に輝く、1941年制作の米国映画の名作です。


映画の冒頭、人々が賛美歌を歌いながら仕事に出かけていきます。

うるわしき 主のみこころ
おん手により 我は行く
み苦しみ 忍びたもう
導き主よ いつの日か
胸深く 刻みませ

キリスト教世界の日常がここには描かれているように思いますが、そこでNHKドラマ『見知らぬわが町』の賛美歌に該当する歌は・・・もちろん『炭掘る仲間』


1.みんな仲間だ 炭掘る仲間
  ロープ のびきる まおろし切羽
  未来の壁に たくましく
  この つるはしを 打ち込もう

2.みんな仲間だ 炭掘る仲間
  たたかいすすめた おれたちの
  闇を貫く 歌声が
  おい 聞こえるぞ 地底から

3.みんな仲間だ 炭掘る仲間
  つらい時には 手をとりあおう
  家族ぐるみの あと押しが
  明るいあしたを 呼んでいる

4.みんな仲間だ 働く仲間
  煙る三池の たてよこ結ぶ
  旗に平和と 幸せを
  三池炭鉱労働者
  三池炭鉱労働者


NHKドラマ『見知らぬわが町』もまた、夫婦愛、親子愛、家族愛、そして郷土愛を描いたドラマであると思います。その根底には、この『炭掘る仲間』の歌心があったと感じます。

国と時代は違っても、同じ炭鉱町を描いた映画 『わが谷は緑なりき』 に、清水監督の思いを見ました。


いつも、わが部屋の本箱に立てかけ眺めていた 『わが谷は緑なりき』 のDVD・・・
もう一度、一人でじっくり視たくなりました。


(つづく) 

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  ▲三池鉄道廃線跡から望む 万田坑竪坑櫓

NHKドラマ『見知らぬわが町』 ◇視聴記◇ その7 

NHK福岡放送局開局80周年記念ドラマ 『見知らぬわが町』 視聴記◇その7


息を凝らしてじ~っと見たドラマ
主人公が大牟田市立図書館で偶然手にした一冊・・・

中川雅子さんの原作『見知らぬわが町』では、囚人労働の足跡を追った内容が多く語られています。
実際のドラマ中にも、「一ノ浦囚人墓地」や「倶會一處の碑」を訪ねる場面が出てきました。

三池炭鉱の囚人労働の始まりは、官営時代の1873(明治6)年にさかもどります。
当時の三潴県(明治9年に福岡県と合併)が稲荷村笹谷に拘禁所を設置し、竜湖瀬坑から有明海沿いの海岸までの石炭運搬作業に囚人を使役した記録が残されています。
この時の人数約50名、三池炭鉱での使役人員に対する囚人の比率は、4.01%。

明治8年には、官営三池炭鉱三池鉱山支庁は石炭増産のために、近隣の福岡、小倉、大分、白川(熊本)、佐賀の各県に照会して囚人の出役を要請しました。これに応じて、明治8年に福岡県監獄三池懲役場が平野村字散田に開設された他、同9年熊本県監獄三池出張所、同10年長崎県監獄三池懲役所、同17年佐賀県監獄三池懲役所(いずれも稲荷村亀谷)が開設され、本格的に坑内の採炭作業に囚人達が使役されることになっていきます。そして1883(明治16)年には、内務省直轄の「三池集治監」(下里村諏訪畑・現三池工業高校)が、三池炭鉱専用の刑務所として設置されるに至ったのでした。
明治17年時点での人数888名、三池炭鉱での使役人員に対する囚人の比率は、36.54%。

以後、三池炭鉱が三井に払い下げられた後も囚人労働は続き、廃止されたのは1931(昭和6)年のことで、約60年間にわたり囚人を使役したことになります。

この間、消耗材としての囚人労働が行われ、様々な暴動や事件、事故などの発生が記録されていますが、
「熊本刑務所之廟」内にある「三池刑務所合葬碑」の奥付によると・・・
三池刑務所在所中死亡者 2,468名とあり、約50年間の三池刑務所(三池集治監時代より)での囚人労働による年間の平均死亡者数は、約50名ということになります。

これら非人間的な扱いを受け、非業の死を遂げた囚人達の墓地が、今も大牟田市内各所に残されているのですが、このことを、ドラマの原作者である中川さんはこう表現したのでした。

かつてこの町では1873年から1930まで、実に57年間にわたって囚人強制労働が行われた。多くの囚人たちが地底奥深くで苛酷な労働を強いられた。多くの生命が犠牲となった。彼らの多くはろくに弔いもされず、墓標も建てられず、この町のあちこちに埋められた。  (中略)
もしかすると、今、私のいる場所が囚人墓地なのかもしれない。私たちはそ知らぬ顔で過去に何もなかったように暮らしているが、実は死体の上で生活しているのかもしれない。
私はそのことをいつも心に留めて生きていこうと思う。         『見知らぬわが町』より


原作では、これら囚人労働に関する調査を通じて、作者である中川さんの心の成長が見て取れます。
不登校で不安定な精神状況であった時「世界で私が一番不幸せな人間だ」と思っていた中川さん・・・

「苦しいとき、落ち込んだとき、死にたくなったときには、生き地獄を生きぬいた、あるいは生き地獄で死んでいった彼らのことを思いだそう」と思い、闇から一歩先へと歩み始めるのでした。
ドラマでは、この中川さんの明日への歩みを通じて、様々な負の遺産といわれるものを背負ったわが町大牟田の、明日への一歩が示されていたと思います。



それでは最後に、ドラマにて出てきた囚人墓地関連の2つの場所と、勝立にある「解脱塔」の様子をお伝えいたしましょう。
中川さんは「一ノ浦墓地」を訪れたときに、缶ビールとたばこを携えて行かれたようですが、私も日本酒を携え、それぞれの場所にてお供えしたのでした。


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  ▲一ノ浦囚人墓地


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  ▲倶會一處(くえいっしょ)の碑


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  ▲解脱塔(げだつとう)



なお、「倶會一處の碑」と「解脱塔」については、以下のHPに詳しい解説がありますので、是非そちらをご一読下さいませ。

▼大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ>資料館>大牟田・荒尾の歴史遺産>1.三池炭鉱の関連遺構
http://www.omuta-arao.net/

▼また、大牟田市囚人墓地保存会のブログはこちら↓↓↓
http://omutasyujinbochi.blog.so-net.ne.jp/

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 三池炭鉱 「月の記憶」  ~そして与論を出た人びと~
  井上佳子著   石風社  2011.7.20 発行
 
 
久々に本を手に取った。
題名はご覧の通り・・・
 
与論島から大牟田に移住してきた人々を中心に描いたドキュメンタリー。
作者の井上さんは、熊本放送のテレビ制作部ディレクター。
 
ここまで解説したら、あ~ あのテレビ番組の・・・
と思い出される方もあるでしょう。
 
2009年2月11日に全国放送された、『月が出たでた ― お月さんたちの炭坑節』 の取材ノートといえるものです。(不覚にして、管理人はこの番組を見逃してしまった~どなたかVTR下さいm(_ _)mませ)
 
 
詳しい内容は本書を読んでいただくとして “月” に関して、昔読みかじったある書物を思い出した。
それは、ロシアの民俗学者 ニコライ・A・ネフスキイ著 『月と不死』。
岡正雄編の平凡社東洋文庫にて目にしたこの本は、次のような文章で始まる。
 
少し長いですが、ここに引用してみましょう。
 

 ずっと以前のこと、かのシベリアの大鉄道を旅行して、私が丁度バイカルを過ぎたのは、麗しい六月のことであった。天地に迫る涼味、寧ろ寒気が感ぜられる程で、威大な夜の光は、隈なく湖と程近く聳える山々を輝し、水面には己が姿を映していた。
私は汽車のプラットホームに出て見た時、其処には一人の日本人が佇んで、蠱惑的なシーンに見とれていた。暫しの間息もつかず、沈黙が僅かに規則的車輌の響に妨げられて続いてゆく。やがて彼の方から振り向いて来た。
「この様な月を眺めていると」と語り初めた。「夥しく湧き出て来る感情で、たましいは独り、満たされるものです。貴方も感ぜないわけにはゆきますまい。私達日本人は非常に月を愛します。今日の様な景色に接すると、詩が自然に口に浮びます。こうして、此処に私は既に半時間程佇んでいますが、どうしても離れて行くことが出来ないのです。こうしている間に、二三の詩を作りました。お聞かせ申しましょうか。」と云って二三の日本の短歌を続けて吟じ、露語に表わそうと努めて不充分の所、辛うじてほのめかし得た所を説明したのであった。

 
まさしく「読みかじった・・・」た書物でしたが、冒頭のこの文章が強く印象に残っています。
煌々と光り輝く月を愛でては、この冒頭の部分を思い出すのでした。
 
ところで、三池炭鉱「月の記憶」にある、描写された与論島のある光景に驚き、感銘を受けました。それは、“洗骨” の光景。
与論島では、土葬が今も行われていて、「亡くなってから5~7年経つと、亡骸は家族の手によって掘り起こされ、骨の一本一本がていねいに洗い清められる。そして、甕に納めて再び埋葬される」。 (「 」内は、三池炭鉱 「月の記憶」 より引用)
ただし、与論でも近年急速に火葬に移行しているようで、今では “洗骨” の光景もあまり見られなくなったとのこと。
 
ニコライ・A・ネフスキイは、宮古島の “変若水” (おちみず、をちみづ ⇒ 飲めば若返るといわれた水)伝承を今に伝えていますが、そこからは古来からの  “月” と生命の結びつきの強さを感じることができます。
 
ひるがえって、井上さん・・・
「月とは何か。この足かけ5年の取材で私がたどり着いた答えは、命、だった。月とは命。月とは私たちそのもの。私自身であり、あなたである。」
(「 」内は、三池炭鉱 「月の記憶」 あとがきより引用。この意味を知るには、本書をお読み下さい)
 
 
「与論よりも与論らしいのが大牟田」「大牟田イコール与論」「大牟田は与論の経済的支えだった」・・・
 
 
炭坑節にうたわれた、高い煙突に煙、そしてけむる月に思いを馳せた、三池炭鉱「月の記憶」の物語は、現代に生きる私たちに語りかける多くのもを含んでいます。
 
 
最後に、「新港町・与論の民の運動会」(昭和30年代はじめ頃)を紹介して、今宵はおひらきといたします。
 
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                                      (三池炭鉱 「月の記憶」 より) 
 
       ▼当ブログ内、与論関連ページ↓↓↓

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