炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 炭鉱電車◆機関庫

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撮影日:1995年11月 3日
撮影地:三池港

15tB 5号機 概要


1908(明治41)年、アメリカ GENERAL ELECTRIC社製の電気機関車。
三池港の築港完成に合わせて輸入される。
『三池港務所沿革史』(稿本・未刊行)には、“積込電車”(または、小型電車と呼称)と記載されている。

“積込電車”とは、三池港の貯炭場にある石炭を「積込む」ことであり、
その名の通り、三池港の背後にあった貯炭場より石炭を岸壁まで運ぶのが役目であった。
したがって、三池炭鉱専用鉄道の本線上を走行することはなく、ひたすら三池港の貯炭場にて石炭を運んでいたのである。また、三池港での荷役増加にともなって、石炭以外の雑貨・コークス・工業塩など鉱石類の運搬も行っていた。
このように、15t電気機関車は、三池港での入替専用機ということができるであろう。
以上のことから、先の『三池港務所沿革史』においては、本線上で活躍した20tや45t電気機関車と区別して、“積込電車”と表現したと考えられる。

さて、15t機関車のL型の形状は非常にユニークである。
その形状と、のんびりしたスピードから地元では“ガメ電車”と呼ばれ親しまれてきた。
「ガメ」とは方言で、「亀」のことである。
また、写真を見ての通り、運転台への入り口は窓しかない。
車輌前方(写真では後方)の窓から運転台に入るのである。

“ガメ電車”こと15t電気機関車は、優に100年以上の歴史を誇る貴重な電気機関車なのである。


(つづく)

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撮影日:明治末期頃    ◆写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館
撮影地:三池港     


15tB 覚え書き その1 “運転室は縦長だった”

三池鉄道の中で、最も古い電気機関車はこの15tB型の電気機関車である。(注1)
前回の「概要編」で述べたように、最初の15tBは、1908(明治41)年、アメリカ GENERAL ELECTRIC社製であった。
*注1 万田坑の坑内で使用された電気機関車に、これより古いがものがあった。同じGE社製である。

全部で14輌の15tBが在籍していたが、その導入の歴史を簡単に記しておく。

1~6号  : 1908(明治41)年 7月 予備電動機2台と合わせてGE社より購入
7~10号 : 1910(明治43)年12月 GE社より購入
11,12号 :1920(大正9)年   自社(三池製作所)製造
13,14号 :1923(大正12)年   自社(三池製作所)製造

14輌が在籍していた15tBであるが、事情は不明であるが機号の改番が行われている。
1952(昭和27)年8月、【3~6】を【1~4】に、【7~10】を【5~8】にそれぞれ改番された記録がある。
また、13,14号機は、1952(昭和27)6月に20tB型に改造され、それぞれ31,32号機に生まれ変わった。
もともとの機号の1,2,11,12の行方の詳細は不明である。
また、現在保存されている5号機は、もとの7号機ということになる。

さて、TOPの写真は、明治末期の三池港繋船壁におけるNO.1号機の写真である。
一見してお分かりのように、現在の15tBとの最大の違いは、その運転台にある。
原形は、車体より若干狭い幅で縦長の形状をしていた。坑内用の電気機関車に運転室を追加で設置したかのような印象をうける。
そばに座り込んでいるのが運転士であろうか? 運転台には運転士の姿は見えない。
通称“ガメ電車”は、窓から運転席に入ったことでも知られるが、原形ではどうだったのであろうか?
おそらくは、運転台にドアが設置されていたのではないだろうか・・・。
運転士は、坑内用の電気機関車と同様、機関車端に横向きに座って運転したと考えるのが普通であろう。

ところで、運転台拡幅工事は大正10年~14年にかけて行われているが、その理由は「推進運転の場合に、炭車に前方を遮られて見通しが利かず運転上危険である」というものであった。
同様の理由にて、20tB型の運転室の拡幅がなされていることを付け加えておこう。

さらに、原形ではポール集電であるし、機号の表記も今のものとは違っている・・・


(つづく)

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撮影日:明治末期頃 
撮影地:三池港 

  ◆絵葉書『三池港貯炭トンネル TUNNEL AT MITSUI'S HABOR (大牟田驛前山田製)』より一部

15tB 覚え書き その2 “積込電車たる由縁”

今回は、15tB“がめ電車”の、積込電車たる由縁をテーマに、覚え書きを記すとしよう。

そもそも、三池港船渠(ドッグ)の背後に設置されていた貯炭場から、船渠繋船壁(岸壁)の船積機まで石炭を運搬することが、15tBに課せられた役目である。
船渠の背後にあった貯炭場には、5条の高架桟橋と貯炭トンネルがセットをなして建設されていた。

今回のTOPの写真は、この貯炭場を北側から見下ろしたものである。
(絵葉書の一部を拡大・複写したもの)
坑口での選炭を終えた石炭は、炭種ごとにこの貯炭場に送り込まれ、注文に応じて繋船壁の船舶まで運搬を行い積み込む。
5条の高架桟橋下に貯炭された石炭は、トンネル両肩に設置されていた漏斗(シュート)を通じて、トンネル内部にて炭車に積み込まれたのである。

さて、TOPの写真をよく見ると・・・トンネルの出口付近の傍らに、トンネル内部から伸びた細長い構造物があるのが認められる。
これは、トンネル内に設置されていた第三軌条の先端部であると思われる。
『三池鉱業所沿革史』(未刊行)の総年譜中、電気課の年譜を参照してみると、以下のような記述が見られる。

明治42年4月 三池港石炭積込作業のため四山に電車用変電所を設け6屯電気機関車6台を使用
単線架空式墜道内は第三軌條式 (備考:坑外電気機関車使用)

記述内容からして、6屯とあるのは15屯の誤りではないかと思われるが、今後の検証が必要であるかも知れない。
トンネル内での石炭積み込み作業に、作業員が架線に接触することなどの危険性があるため、このような第三軌条方式が採用されたものと考えられる。
しかし、この第三軌条は貯炭トンネル使用開始後、約1年の短さで廃止されている。
理由を『三池港務所沿革史』(未刊行)によってたどってみると・・・
危険防止にはさほどの効果がなかったことと、その取扱が不便であったことがあげられている。

いずれにせよ、15tBが明治42年に導入時された時点では、トローリー式以外に第三軌条式の集電装置を合わせ持っていたことは確かな事実のようである。
15tBの残された写真などからは、残念ながらこの第三軌条式の集電装置を確認することは困難である・・・


(つづく)

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▲今も現役 宮浦停車場に憩う18号電車

  18号電車は、汽車会社と芝浦製作所が共同して製造した機関車

凸型の東芝製戦時型機関車の初期車輌としてよく知られている18号電車。
今も、遼機である19号電車とともに、三井化学専用鉄道にて現役の車輌である。この電気機関車の経歴について、その多くは東芝製との記述を見かける。1937(昭和12)年製造であることが記されていれば、これまたかなり細かな記述となるのだが、1937年においては未だ東芝という会社は存在していない。よって、正確には芝浦製作所製ということになる。

さて、杉田 肇著 『私鉄 電気機関車ガイドブック 西日本編』 における記述をしても、製造所として東芝と記されているし、現在現役である18号電車の車体にもTOSHIBAの白文字記載がなされている。三池炭鉱専用鉄道から引き継がれた現三井化学専用鉄道においても、東芝製と名乗っていることになる。三井三池港務所の時代から、この表記がなされていることから、今も昔もこの機関車は東芝製と一般的に思われてきた。

ところが、この機関車は正確には汽車会社と芝浦製作所が共同で製造した電気機関車である。車体機械部分(台車も含む)は汽車会社が製造、電気部分は芝浦製作所が担当して製造されたというのが正確なところである。最終的な完成は芝浦製作所にてなされ、三池への納車も、おそらく芝浦製作所が行ったであろう。このことが、汽車会社の名が忘れ去られる原因となったのではないかと想像される。

実は、この三池の機関車に先立ち、汽車会社と芝浦製作所が共同で製造した電気機関車に八幡製鉄所の60tBB電気機関車 E601がある。先に取り上げた、杉田 肇著 『私鉄 電気機関車ガイドブック 西日本編』 の新日本製鉄八幡製鉄所専用鉄道の記載では、製造所が芝浦、製造年が1929年3月と記載されている。しかし、この記載も不十分であり、正確には三池の18号電車と同じく、2社が共同で製造した機関車である。60t機と45t機の違いはあるが、両機のスタイルは非常に似通っていることは、見比べればすぐにお分かりのことだと思う。さらに、2社共同製造の電気機関車のルーツをたどると、1926(大正15)年、撫順炭鉱に納入された73tBB電気機関車2両に行き着く。つづけて、1928(昭和3)年、同じく撫順炭鉱向けに80tBB電気機関車3両が製造されたが、これらの機関車は、汽車会社における凸型電気機関車のルーツといえる。
その後の歴史をたどると、1939(昭和14)年に芝浦製作所は東京電気と合併し、東京芝浦電気株式会社が誕生し、単体で電気機関車の製造をはじめることとなる。一方、汽車会社は東洋電機と組んで電気機関車を製造しはじめる。


最後に、三池の18号電車が汽車会社製造である証拠をお見せして、今回の覚え書きを終えるとしよう。それは、台車に残る汽車会社の銘板である。今でも18号電車の台車には、“昭和11年 汽車會社 東京支店”の銘板が堂々と残されているのである。


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つづくかな・・・?
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【 写真①】旧三川坑跡に保存されている“ガメ電”こと、15tB形5号電気機関車


  “ガメ電”は国内に現存する最古級の電気機関車 ~最古級の正体を探る~


〈はじめに〉
皆さんは、かつて三池炭鉱の専用鉄道で活躍していた電気機関車が4両保存されているのをご存じでしょうか?一昨年(2016年)の夏より、旧三川坑跡地に展示されていますが、その内の一両である通称“ガメ電”こと15tB形5号電気機関車は、4両の中で最も古い電気機関車です。【写真①】 
大牟田市が設置した“ガメ電”に関する説明文には「1908(明治41)年にアメリカのジェネラル・エレクトリック社で製造された、国内に現存する最古級の電気機関車として貴重な存在です。」と記されています。今回は、この説明文中の「最古級」にこだわって、“ガメ電”にまつわる歴史を探っていきたいと思います。そこで、「国内に現存する」の文言はさておき、日本国内で最古の電気機関車はいったい、どこで、いつ頃使用されたのでしょうか?そして“ガメ電”は、日本で何番目に古い電気機関車なのでしょうか・・・。
 



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【 写真②】足尾銅山の電気機関車 『古河足尾銅山写真帖』1895年発行より


〈日本最古の電気機関車〉
 早速ですが、日本における鉄道史上で最古とされる電気機関車は、足尾銅山で使用されたものとされています。1891(明治24)年、古川市兵衛経営の足尾銅山にて、坑外線の一部区間が電化され、日本初の電気機関車が走った記録が残されています。詳細については不明な点もあるのですが、足尾銅山でこの時使用された電気機関車が日本最古のものとみて間違いはなさそうです。【写真②】この電気機関車は、運転台に屋根を取り付けた独特の形状をしていますが、“ガメ電”を製造したアメリカのジェネラル・エレクトリック社の設計図をもとに、足尾銅山工作局で製造されたと伝わっています。この電気機関車のゲージ(軌間:線路の幅)は、610㎜という狭いもので、足尾銅山に続いて日本各地の鉱山(小坂、日立、別子など)やトンネル工事現場などで、同時期にこの様な狭いゲージの産業用小型電気機関車が使用されていきます。
 



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【 写真③】八幡製鉄所のE2電気機関車 『製鉄所写真帖』1914年発行より


〈“ガメ電”は何番目に古いのか?〉
 さて、“ガメ電”のゲージはというと1,067㎜で、JRの在来線のゲージと同じです。それでは、鉱山などの狭いゲージの軌道を除いて、このゲージにおける日本最古の電気機関車は、いつ、どこで走ったのでしょうか?その答えは、1903(明治36)年に、八幡製鉄所で使用されたものと思われます。【写真③】
この凸形の機関車は、ドイツのアルゲマイネ社が製造したもので、八幡製鉄所内でのコークス運搬用として使用され、計3両が輸入された記録が残っています。そして、これに次いで二番目に古い電気機関車が、われらが“ガメ電”でございます。


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【 写真④】三池港貯炭トンネル 大牟田駅前山田製絵葉書より



  ここで、“ガメ電”について、少し詳しく説明をしておきましょう。そもそも“ガメ電”は、三池港の開港に合わせてジェネラル・エレクトリック社から計10両が輸入され、石炭荷役、炭車の入換用として使用されました。具体的には、坑口から三池港の貯炭トンネルに送られた石炭を、ドックに面した船積機(通称:ダンクロ)に運ぶのです。【写真④】

実は、この“ガメ電”には、「最古級」に関係するもう一つの事実があります。それは、まさしく日本最古のもので、貯炭トンネルに設置されていた設備で、第三軌条方式と呼ばれる集電システムです。この方式は、1911(明治44)年に国有鉄道(当時は鉄道院)初の電化区間(信越本線:横川~軽井沢間、アプト式)に採用されたことで知られていますが、実はその3年前に三池港の貯炭トンネルに採用されていた事実はまったくと言っていいほど知られていません。この第三軌条方式とは、3つめのレールを敷設しそこから電力を得る方式で、現在も東京地下鉄の銀座線や丸ノ内線などはこの方式で運行されています。貯炭トンネルにて、架線ではなくこの方式が導入された理由は、トンネル内での作業の安全性を考慮してのことでした。ただし、記録によると危険防止にはさほどの効果はなく、また取り扱いが不便であったことから設置1年後には撤去されたらしい。残念ながら、保存されている“ガメ電”5号機には、その痕跡を見いだすことはできませんが、ぜひ知っておきたい“ガメ電”の日本最古なのです。





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【 写真⑤】足尾銅山観光銅資料館に保管されている電気機関車



〈国内に現存する最古の電気機関車は・・・〉

最後に、本題の「国内に現存する最古の電気機関車」について明らかにしましょう。実は、〈日本最古の電気機関車〉で述べた電気機関車で現存するものはありません。そして、八幡製鉄所で使用された電気機関車も現存しません。ということは・・・“ガメ電”は、現存する日本最古の電気機関車であると言いたいところですが、1つだけ気になる電気機関車が足尾銅山の資料館に保存されています。【写真⑤】この電気機関車は、ゲージ476㎜の坑内用電気機関車で、〈日本最古の電気機関車〉で述べたものより少し後(明治時代後期)に製造された可能性がありますが、正確な製造年が不明です。よって、“ガメ電”は、「ゲージ1,067㎜の電気機関車」という条件はつくものの、「国内に現存する最古の電気機関車」といっても過言ではないでしょう。



(おわり)

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【写真①】“ガメ電”こと、15tB形5号電気機関車(現在は三川坑跡にて保存されている)


                                   “ ガ メ  電 ”  物 語    


〈はじめに〉
 “ガメ電”・・・はて、いったい何?“ガメ電”と聞いて、「かつて三池炭鉱専用鉄道で活躍していた電気機関車」と言える方は少ないことでしょう。今回の物語の主役は、国内に現存する最古級の電気機関車、通称“ガメ電”でございます。“ガメ電”・・・なんとも奇妙な呼び名ですが、何はともあれ写真をご覧下さいませ。【写真①:保存されている“ガメ電”】
 現在“ガメ電”は、旧三川坑跡地に展示・保存されていて、正式な名称は15tB形電気機関車(保存機は5号機)といいます。
 
〈名前の由来〉
 皆さん、“ガメ電”の「ガメ」は何を意味するかご存じでしょうか?筑後地方の方言で、「亀」のことですよね。よって、“ガメ電”は「亀電車」ということになります。ちなみに、三池炭鉱専用鉄道では、電気機関車のことを“電車”と称していました。それでは、なぜ「亀」なのでしょう?それは、一つはその平らな形状から称される様になったと思われます。運転席側が亀の頭と見立てて下さい。そして、この“電車”のスピードは亀のようにのろかった。単に“ガメ”とも呼ばれたこの“電車”は、1908(明治41)年のアメリカ生まれです。




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         【写真②】保存されているGE社製機関車


〈パナマ運河で船を曳いていた〉
 突然ですが、パナマ運河の一部区間では船を電気機関車が牽引しています。そのパナマ運河で「“ガメ電”が船を曳いていた」という話を聞いたことがありますが本当かな?実は、パナマ運河開通から40年間ほど使用されていた電気機関車は、アメリカのジェネラル・エレクトリック社製で、“ガメ電”も同じ会社で製造された電気機関車です。(現在のパナマ運河では、日本製の電気機関車が使われています)パナマ運河で使用されていた電気機関車も平らな形状をしていますが、両端に運転席がありました。【写真②:保存されているGE社製機関車】
 パナマ運河の開通が1914(大正3)年、牽引力や形状からしても“ガメ電”そのものがパナマ運河で使われたとは思われませんが、製造した会社が同じであること以外にもう一つ、両者にはある共通点がありますが、それは次のお話しで述べましょう。



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【写真③】ダンクロと“ガメ電”


〈三池港専用の電気機関車〉
 そもそも“ガメ電”は、三池港の開港に合わせてアメリカから計10両が輸入され、三池港での石炭荷役、炭車の入換用として使用されました。具体的には、坑口から三池港の貯炭トンネルに送られた石炭を、ドックに面した船積機(通称:ダンクロ)に運ぶのです。【写真③:ダンクロと“ガメ電”】
実は、この“ガメ電”には、まさしく日本最古の施設が貯炭トンネル内に設置されていました。それは、第三軌条方式と呼ばれる集電システムで、この方式は1911(明治44)年に国有鉄道(当時は鉄道院)初の電化区間(信越本線:横川~軽井沢間)に採用されたことで知られています。ところが、その3年前に三池港の貯炭トンネル内にすでに設置されていたのです。ただし、記録によると取り扱いが不便であったことなどから、設置1年後には撤去されたらしい。この第三軌条方式とは、3つめのレールを敷設しそこから電力を得る方式で、東京地下鉄の銀座線や丸ノ内線などは、開業当初からこの方式で運行されています。先に紹介したパナマ運河でも、この方式が採用されていたのでした。



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【写真④】 導入当初の“ガメ電”


〈寝そべって運転していた〉
 最後に、“ガメ電”にまつわる逸話をもう一つ紹介して、物語のお開きとしましょう。それは、「寝そべって運転していた」・・・どうしてその様なことになったのか?導入当初は、車端真ん中の運転席に座って運転していたのですが、炭車を押して運転するときに前が見通せないという問題が発生。
【写真④:導入当初の“ガメ電”】そこで、運転席を両脇に広げたところ、寝そべるように横になって運転する羽目になってしまった。ちなみに、“ガメ電”の運転席には前面の窓から忍び込みます。
皆さん、“ガメ電”に会いたくなったでしょう。ぜひ、旧三川坑跡地を訪ねてみて下さい。



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▲“ガメ電”の運転席








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