炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 逝きし時の面影

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▲1964(昭和39)年
 *写真をクリックすると、より鮮明な画像にてご覧になれます

提供者:“くろしお”さん(写真・解説文ともに)

【松屋屋上からの写真】
昭和39年松屋屋上からの各方向を撮った写真のようです。

とりたてて説明するような事もなさそうです。                   



◆大牟田“松屋”には、沢山の想い出が詰まっています・・・

この写真は、松屋の展望台から北方を望んだ写真です。
写真右下には、思案橋たもとにあった映画館「GRAND CINEMA」が写っています。
もちろんその屋根と重なるように炭鉱鉄道の浜線、そしてその奥に染料の売店があります。
かつての紡績工場跡地はグランドでしょうか?

左側遠方に、甘木山のなだらかな山系がシルエットになっています。
さてさて、そんなことよりもこの写真で一番重要なものは・・・
画面左手の四角い構造物上にある機器類です(*^_^*)

これこそ、皆さんよくご存じの松屋のミュージックサイレンでございます!(^^)!
ここ松屋の屋上から、朝夕流れていたミュージックサイレンの音は終生忘れることなく、
今も耳の奥で鳴り響いております~。

                         
(管理人 記す)



▼関連する記事↓↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/23153322.html

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▲1964(昭和39)年
 *写真をクリックすると、より鮮明な画像にてご覧になれます

    提供者:“くろしお”さん(写真)




◆この写真は、松屋の展望台から東方を望んだ写真です。

左上が、かつて山ノ上倶楽部や団琢磨の居宅があった山上町

左下には、大牟田松屋に連なる銀座通りのアーケードと国鉄線路に踏切

そして江崎耳鼻咽喉科の瀟洒な建物があって、写真中央の築町交差点から上官方面にぬける県道

さらに、築町交差点近くの国道208号沿いに、旧大牟田市民会館と市立図書館

右端には、大牟田商工会議所など・・・


見て取れます。
                       
(管理人 記す)

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▲大牟田 松屋デパート屋上の光景
 *写真をクリックすると、より鮮明な画像にてご覧になれます

提供者:“くろしお”さん(写真・解説文ともに)

【松屋デパート屋上】
デパート屋上の写真は昭和39年のものです。
松屋かもしれませんが、アルバム内近くのページに大洋デパートらしい屋上が写っているので、
そちらの可能性もあります。                  



◆“くろしお”さん、間違いなく大牟田松屋の屋上です(*^_^*)
1964(昭和39)年・・・管理人の私は5歳ございます。
写真左上の回転飛行機は何代目なのでしょうか?
ところで、左下の回転自動車、乗った覚えがあります(~o~)
どこかに写真があるはずだ~

松屋デパート屋上は、わが家のアルバムにも同じような写真がありますので、あわせてご覧下さいませ。

関連記事・写真↓↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/2400935.html
                        
(管理人 記す)

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▲指定鉱山労働者資格証明書  三鉱巻揚、三鉱列車操作 (三池鉱業所)
 
              *写真をクリックすると、より鮮明な画像にてご覧になれます

提供者: “くろしお” さん

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▲有資格者証明書   福岡鉱山保安監督部 発行
 
 【管発破】 石炭鉱山保安規則 第38条 第1項 第6号 

             *写真をクリックすると、より鮮明な画像にてご覧になれます

提供者: “くろしお” さん

▼参考となるHP 『異風者からの通信』↓↓↓
http://www.miike-coalmine.org/data/tenzisitu15.html

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三川鉱正門前。
 
昭和30年ころ、社宅を廻る駅伝があった頃主人も走り、父が私の長男を自転車に乗せて応援に行った思い出です。

                                        ◇提供者 : 眉月さん (写真・解説文ともに)
 
 
 
今回から6回に渡り、“眉月” さん提供の写真を掲載します。
第1回目は、三川鉱正門前の記念写真です。
解説文にもあるように、駅伝大会の折の記念撮影なのでしょう。
応援の方々も含め、盾や賞状を手にした方を中心に誇らしげに記念撮影。
きっと、良い成績を残された駅伝大会だったのでしょう。
 
 
この写真が撮影されてから、すでに55年あまりの歳月が流れています。
炭鉱が閉山して14年が経ちますが、この写真にある三川鉱正門はまだ健在です。
さまざまな歴史を見てきた三川鉱正門・・・
炭鉱に暮らし、働いた人々の喜怒哀楽をいまに伝えます。
 
 
 
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     ▲現在の旧三川鉱正門
 
 

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父が万田鉱に居た頃
万田講堂で、家族や鉱員の慰安会で労って居た頃の写真です。
 昭和16~7年ころ。

                                        ◇提供者 : 眉月さん (写真・解説文ともに)
 
 
 
“眉月” さん提供の写真・・・
第2回目は、万田講堂の慰労会の一コマのようです。
 
この写真には、お父様が役者姿で登場なされているのでしょうか?
とても、にわか仕立ての衣装とは思えないほど立派ですね。
 
この写真を見ていて思い浮かんだことがあります。
それは、当時は華やかであったろう大衆演劇の世界です。
 
万田坑界隈には、私が知るかぎり2つの劇場が存在しました。
一つは「一丸座」、そしてもう一つは「共楽座」。
「一丸座」は倉掛(現荒尾市)に、そして「共楽座」は桜町(現大牟田市)に芝居小屋を構えていました。
写真の頃の「一丸座」は、「一丸館」と名を改めて映画上映をしていたようですが、内装は昔ながらのマス席だったとか・・・。*注1
かたや「共楽座」・・・詳しいことは分かりませんが、座長が中西さんということは知ってます。
 
皆さん、“中西和久”さんをご存じでしょうか?
中西和久さんこそ、この「共楽座」の歴史を受け継ぐその方です。
その中西さんが、日本新劇俳優協会 創立50周年記念誌 [1958-2007]に寄せられた「僕の演劇原風景」と題された一文から、「共楽座」と大衆演劇に関する箇所を引用してみましょう。
 


〈前略〉
実は僕の家は、九州の炭坑町の片隅で「キョウラクザ」という芝居小屋をやっていました。
そこが小さい頃の僕の遊び場でもありました。ですから僕の演劇の原風景は大衆演劇、いわゆるドサです。


今春、紀伊國屋ホールで『中西和久のエノケン』という出し物をやっていた時、楽屋にヒョッコリ、沢竜二さんが訪ねてこられました。
沢さんは、お母さんの「女沢正」の時代からのお付き合いです。沢さんの「ロカビリー剣法」はかっこよくって、今でも目に焼きついています。


〈中略〉
沢竜二、美里英二、玄海竜二のような芝居は百年逆立ちしてもムリです。
浮き草稼業の役者ですから、ねぐらは何処でもいいのかもしれません。
自分は一体何ものなのか…。

自分探しの旅芝居はまだまだ続きそうです。
生みの親はドサかも知れませんが、育ての親はやっぱり新劇です。



中西和久さんといえば、ひとり芝居『しのだづま考』などで知られた存在です。
現在は「京楽座」と名乗っておられますが、もともとは「共楽座」でございます。*注2
 
炭鉱町の娯楽として隆盛を極めた大衆演劇・・・
今では温泉センターなどでの上演ばかりとなってしまった感がありますが、大牟田をはじめ筑豊などの炭鉱町には大衆演劇を上演する芝居小屋が数多くありました。
特に、飯塚の嘉穂劇場は、往時を今に伝える貴重な芝居小屋としてよく知られています。*注3
今年の9月には、嘉穂劇場にて恒例の全国座長大会が催されました。
また、田川市には「炭都劇場」という大衆演劇の常打ちの劇場が復活しています。*注4
 
現在の大牟田市では、市内の温泉施設にて大衆演劇が上演されることはあるようですが、筑豊のような常設劇場は残念ながらありません。「共楽座」以外にも、かつては本町の「三島座」(後に「新富座」)や須の鼻新地の「旭座」、不知火町の「大正座」(後に「聚楽座」→「丸山座」→「中座」)などの芝居小屋が隆盛を誇っていたようですが、その面影は全く残っていません。
 
しかし、かつての炭都大牟田の芝居小屋を渡り歩いた大衆演劇の文化は、今もしっかりと受け継がれているのです。
 
最後に、中西さんの文にて紹介されている沢竜二さんと玄海竜二さんのHPを紹介して、少々長くなりましたが  ”眉月” さん提供写真の解説に代えたいと思います。
 
 
◆沢竜二さんHP 
◆玄海竜二さんHP
 
 

 
◇注2 京楽座HP ⇒ http://www.d3.dion.ne.jp/~kyorakuz/index.htm
◇注3 嘉穂劇場HP ⇒ http://www.kahogekijyo.com/
◇注4 こちらの記事をご覧下さい ⇒ http://d.hatena.ne.jp/stnet/20110910
 
 
 

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    万田講堂の美しい庭ですが人物が邪魔して居ますね~
  祖母、従姉弟、私、叔父です。 

                                        ◇提供者 : 眉月さん (写真・解説文ともに)
 
 
 
“眉月” さん提供の写真・・・
第3回目は、万田講堂の庭での一コマ。
 
このお写真も戦前の撮影と思われます。
万田講堂には、この様な美しいお庭があったのですね。講堂のどちら側にあったのでしょう・・・。
写真奥に少しだけ二階屋の屋根が見えていますが、講堂のお隣にあった倶楽部でしょうか?
松やつつじの庭木が配置され、築山の上には休憩所まで設置されていますね。
庭石の様子からすると、写真手前には池があるように思います。
 
ところで、万田坑の周りには多くの社宅が存在しましたが、戦前の絵葉書などを見ておりますと社宅に付随した福利厚生施設の充実ぶりがうかがえます。
すでに当ブログ内の書庫「三池炭鉱絵葉書帖」にて紹介済みですが、以下に数枚その様子を添付しておきましょう。
 

 
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    ▲三池鑛業所 萬田講堂
 
 
 
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     ▲三井三池炭礦 講 堂
 
 
 
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    ▲三井三池炭礦 遊園地ノ櫻
 
 
 
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     ▲三井三池炭礦 山神社及運動場
 
 
 
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    ▲三井三池炭礦 水泳プール及保育
 
 

 
絵葉書にはありませんが、これらの施設以外にも ①テニスコート ②武徳殿 ③青年学校 ④三井病院万田分院 ⑤万田売店 ⑥託児所 ⑦三井万田尋常小学校 ⑧桜僚(戦後は鉱山学校)などがありました。
このように、万田坑を中心として一つの町が形成されてましたが、それは三井鉱山による計画都市といってもいいでしょう。ここ万田における戦前の様子を振り返ると、厳しい炭鉱での労働ばかりではなく、会社が社宅と同時にセットで用意したこれらの福利厚生施設、そして教育施設の充実ぶりもうかがえるのです。「遊園地ノ櫻」と題された万田公園の桜について、『ふるさとの想い出写真集 荒尾』には以下のような解説があります。
 

桜は大正9年に解散した万田共済組合の資金の一部で苗木が購入され、11年5月にこの公園化のため移植された。坑が昭和4年春、初めて「万田公園」を公開し、売店・余興などを添えて盛大な花見大会を開いてから、ここは荒尾の一名所となり、一時は「熊本百景」の一つとして絵葉書にもなった。

 
この解説によると、当初は社宅内の公園として一般には公開されていなかったことが分かります。
他の施設の一般への開放度はどれくらいであったのか?も気になるところです。とにかく、これら炭鉱の福利厚生施設が近隣の人々の生活にも大きな影響を与えていたことは確かなことだと思えます。
 
ところで、三井関連の企業で福利厚生といえば、鐘淵紡績の武藤三治を思い起こします。
 
 
武藤三治の詳細については上記のリンク先をご覧いただくとして、彼は「温情主義」「家族主義」の労務政策と進んだ技術による合理的経営を巧みに結びつけ鐘紡王国を築いていきます。時は明治後期から大正期頃ですが、「労働者の勤労意欲の向上が作業効率を上げ、ひいては会社の繁栄をもたらす」といった考えに基づくものといえます。
武藤は民間会社初の共済組合も設立していますが、これらのことが三井鉱山に影響を与えたかどうかは管理人の不勉強によって分かりかねます。しかし、万田社宅の様子を絵葉書で見たり、当時のプールなどの施設が時代の最先端を行っていたことなどを聞くにおよんで、大正から昭和初期頃の万田社宅での暮らしぶりに何らかの影響はあったのではないかと想像いたします。
 
負の遺産として語られることの多い炭鉱ですが、よく見てみると今回の様な福利厚生面や都市計画的側面についての調査、検討も必要ではないかと思います。個人的には、大正デモクラシーの時代から昭和の初め頃の万田社宅に興味をいだいた次第でございます。*注
 
今回も“眉月”さんご提供の写真をもとに、管理人が思いつくまま解説を書かせていただきました。それでは最後にもう一枚、絵葉書の封筒をご覧に入れお開きとしたいと思います。
 
 

 
 
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*注
 大正時代は、万田坑において米騒動や争議が起きた時代である。三井鉱山としては、この様な労働者の状況に対して、いわゆる「深川労務政策」により労働者の懐柔をはかった時代でもあった。「深川労務政策」については、山根房光『みいけ炭坑夫』p122124に以下のような内容が記されている。
 
①職員と坑夫の身分差の拡大 ⇒ 職員になれば裕福な暮らしができることを坑夫に示し、職員に登用                             されることが坑夫の願いとなるよう仕向けた。
②福利施設の改善拡張     ⇒ 講演会の開催や武道場の整備などをすすめると同時に、「改造」 
                         や「中央公論」などの出版物が危険視され、会社の新聞や雑誌の
                       強制購読をすすめた。
③「世話方制度」の強化     ⇒  社宅内に担当世話方をおき、坑夫の出勤督励や逃亡の防止を行わ
                       せるとともに、家族構成や思想などの調査を行った。
④「警備」の設置            ⇒  会社側の特高警察的な役職としておかれ、坑夫の思想調査や守衛、
                           世話方の勤務評定を行った。
⑤健康保険無傷病者の表彰
 
 
◆佛教大学大学院紀要  田中智子 『労働者の特性にみる戦前の三池炭鉱における労務政策の変遷と労働者の抵抗に関する考察』 を参考にして記載した。
 
 
 

 
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 三川鉱のお風呂や、繰りこみ場の横に有る綺麗な所でしたが、ここで一日間坑外に出てくるまでの「煙草の吸い収めをした」と聞いて居ります。

                                        ◇提供者 : 眉月さん (写真・解説文ともに)
 
 
“眉月” さん提供の写真・・・
第4回目は、三川坑の庭での一コマ。
 
入坑前のひとときだろうか~
入昇坑口近くにあったこの場所は、「煙草の吸い収めをした」ところであったらしい。
 
中央のヘルメットの方が、眉月さんのお父さん。
周りの方々は、仕事場の同僚の方々でしょうか?
お一人お一人の、性格をも写しとったような表情が印象に残るショットです。
 
この三川坑にあった中庭、先日行われた公開日の解説によると・・・
「太平洋戦争終戦後の昭和24(1949)年に、昭和天皇が三川坑に御巡幸された際に記念につくられた庭園」であるらしい。
と言うことは、この写真が撮影された時期は、昭和24年以降となります。
 
ところで、この三川坑の庭~ 今も現存しています(*^_^*)
「公開日には、ぜひこの写真に写る庭をこの目で見てみたい」と思ってきました。
11/3の公開日は、開門と同時に三川坑跡地に入り、まずはこの庭を訪ねたのでした。
 
それでは、現在のこの庭の様子、並びに庭の先にある入昇坑口、第二斜坑坑口、繰込場などの様子をどうぞご覧下さい。
 
 

 
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▲現在のお庭の様子。荒れ果てているが、手前のベンチはたぶん、眉月さん提供の写真手前にあるベンチであると思います。

 
 
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▲今も残る入昇坑口跡(青いシャッターを開けると、第二斜坑口へ降りる階段がある)。入昇坑口の向かって右側には、服装のチェックをした鏡がある。

 
 
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▲現在はコンクリートで塞がれている第二斜坑跡。傾斜角度は約11度。入気、材料、人員昇降の他に、排水用にも使用された。揚炭は、第一斜坑で行っていた。

 
 
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▲木造の建物が繰込場。通路を通って、入坑口に向かいました。今は、屋根の一部が落ちて危険な状態にあります。

 
 
 
11/3(土)の三川坑跡公開の詳細については、また後ほどご覧に入れる予定です。
 

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        ▲ EF 58 89  “みずほ”         2015 12.25  鉄道博物館







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         ▲ EF 58 89  “みずほ”     使い込まれたヘッドマークが渋い








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  ▲ EF 58 89  “みずほ”    できたらこの “あさかぜ” がついたゴハチも見てみたい




(つづく)

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