炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 筑豊紀行

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▲採銅所駅にてキハを撮る  (その3) 
  
  撮影地: 日田彦山線 採銅所駅
  撮影日:2014.12.25

 
 
用事の合間をぬって~
日田彦山線の採銅所駅を訪ねてきました~その3
 
最終回の今回は、採銅所駅の側線など構内の様子をお伝えしましょう(^o^)
これまででも、構内の様子はかなり伝わっているかもしれませんね~
でも、あれこれ眺めてみると・・・昔ながらの「駅」を感じさせてくれるアイテムがそろっております(^_-)
 
それでは、私の目線で「これはいい~」って感じた風景を、以下にいくつか紹介しましょう
 
まずは、こんなのいかがでしょう~
 
 
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▲2番線横の留置線にはこのようなピットが残っています~ 蒸気機関車時代の名残でしょうか

 
 
 
 
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              ▲2番線ホームの先には~ 人が歩んでできた小径が・・・

 
 
 
 
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▲駅を出てすぐの香春寄りには~ 開業当時からの立派な石造りの採銅所トンネルがあります

 
 
 
 
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▲この雰囲気たまりませんね~ 貨物積込用のホームと線路が残っていますし、桜がまたよし

 
 
 
 
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▲最後はキハさんを登場させないとね~ TOP写真のつづきで、2番線に列車が到着します

 
 
 
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▲山間の静かな駅のひととき~ 降車した2人の乗客を残して、まもなく発車いたします 
 
 
 
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▲エンジン音を響かせながらキハが出発、そして小さくなっていきました~ 静かなる山の叫び

 
 
 
(おわり)
 
 
 
 

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▲採銅所駅にてキハを撮る  (その2) 
  
  撮影地: 日田彦山線 採銅所駅
  撮影日:2014.12.25

 
 
用事の合間をぬって~
日田彦山線の採銅所駅を訪ねてきました~その2
 
今回は、来年の4月で開業100年を迎える駅舎を眺めてみましょう
小倉鉄道時代からのこの木造駅舎・・・
JR九州では、老朽化していたこの木造駅舎の解体を予定していましたが、地元の保存運動によって2010(平成22)年、JR九州から地元香春町に駅舎が無償譲渡されたことは記憶に新しいですね
翌年には改修工事も行われて、現在このような美しい状態に保たれています
 
ところで~採銅所とは昔この地で銅が産出したことに由来します。
駅の近くにある “神間歩(かみまぶ)”には、以下のような解説(一部)がなされているようです・・・
 
香春町採銅所は、金・銅・鉛鉱などの採掘や精錬地で、官営の機関・採銅使が置かれたところである。奈良時代、清祀殿と「神間歩(俗に蟹間歩(がにまぶ)ともいう)」は、銅を精錬し宇佐八幡宮へ御神鏡鋳造・奉納した所縁の地であると、「古宮八幡宮御鎮座伝記・長光家文書」などに記されている。
 
 
ちなみに “間歩” とは坑道のことです。石見銀山にも、多くの“間歩”が残されていますが、ここ採銅所近くの山中にも古い手堀の坑道が残存しているようです
(次回は、採銅所のこれらの鉱山遺構も探索したいですね(^O^)
 
鉄道が敷設された時代以降の採銅所駅は、石灰石の積み出し駅でした。側線が残る広い駅構内の様子からは、往時の繁栄のよすがを偲ぶことができます
 
それでは、採銅所駅の詳細をカメラにおさめてきましたのでどうぞ~
 
 
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▲2番ホームから眺めた採銅所駅舎です~ 3線あった線路は現在は2線となっています

 
 
 
 
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▲香春方面の駅舎側面です~ この色は開業当時なんでしょうか?瓦もふき替えたんですね

 
 
 
 
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▲なかなかに凝ったデザインが施されています~ 窓が塞がれてしまっているのが残念ですね

 
 
 
 
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▲待合室の天井も凝った作りです~ 開業当時はどんな明かりがついていたんでしょう・・・

 
 
 
 
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             ▲待合室から改札口を望むと~旅心誘う こんな感じです

 
 
 
 
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▲一枚くらいは、題名にあるキハさんも登場させないといけませぬ~ 上り列車の発車です

 
 
 
 
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            ▲ホームにある木のベンチでひねもす過ごすのも悪くないかも

 
 
 
(つづく)
 
 
 

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▲採銅所駅にてキハを撮る  (その1) 
  
  撮影地: 日田彦山線 採銅所駅
  撮影日:2014.12.25

 
 
用事の合間をぬって~
日田彦山線の採銅所駅を訪ねてきました
 
採銅所駅と言えば・・・旧小倉鉄道時代の唯一残された木造駅舎として、その名が知られていますね
その木造駅舎は、またのちほど紹介するとして
城野方面からの列車がもうすぐやってきます~カメラをかまえなくては(^O^)
 
早速、2番ホームの先端部に陣取り、進入してくる列車を激写
昨日は好天に恵まれ、背後にそびえる竜ヶ鼻の急峻な山肌がまた美しいこと
 
思わず、何枚もシャッターを切った管理人でした(*^_^*)
それでは、TOPの写真の続きをどうぞご覧あれ・・・
 
 
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▲だんだん迫ってくる列車~ 冷たい北風が吹いていましたが、空気が澄み切って気持ちよかったな

 
 
 
 
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▲1番ホームにそろそろ差しかかります~ ちょっとだけ広角気味かな・・・2両編成のキハが到着

 
 
 
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▲ホームに停車した列車を逆光にてとらえます~ 乗降客が数名ありましたよ(^_-)

 
 
 
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▲竜ヶ鼻とその山並みの景色があまりにも美しいので、こんなカットも撮影してみました

 
 
 
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▲列車が出発したあとに、駅周辺を散策~ 駅の南側からの眺めでございます・・・よか雰囲気

 
 
 
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▲この日田彦山線 採銅所駅は、来年の4月1日で開業100周年を迎えます~

 
 
(つづく)
 

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▲三菱飯塚炭鉱第二坑巻上機台座
 
  撮影地 : 飯塚市平恒
  撮影日 : 2013.12.8

 
後藤寺線にてキハ31を堪能したしたのちは~
せっかく筑豊に出かけましたので、もう一つ炭鉱関連の遺構を訪ねました(*^_^*)
 
ここは、飯塚市平恒でございます
煉瓦づくりの頑丈そうなこの遺構は、筑豊でも最大級の斜坑巻上機台座遺構であります!(^^)!
一般的には、三菱飯塚炭鉱巻上機台座といわれますが、正確には三菱以前の中島鉱業によって大正時代に建造されたものです
それにしても存在感ありますね~、そしていかにも頑丈そうです
 
ちょっとだけ解説すると、斜坑は2つ一組で、TOP写真奥(飯塚側)が本卸、手前が連卸の台座となります。本卸が入気・石炭搬出、連卸が排気・人車運搬に使用されていました。
それにしても、台座の上にはどのような建物、機械があったのか興味津々です~
そこで、この遺構にある解説板が非常に役に立ちます
早速、解説板にある絵をご覧にいれましょうね(~o~)
 
 
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解説板によると蒸気で運転されていたとありますが、近くにボイラーの施設やらは見あたらないし、巻上機室の小屋の中にそれらの設備があったということも考えられないよな?ちなみに、煙突がついておりますね~他にも数々の疑問点が・・・・
運転係はどこから上った?
鼻みたいな突起状のものはいったい何?
側面の四角い穴は何?
 
本物をつぶさに観察すれば何かが分かるかな
 
何か稼働当時の写真などないかと思い検索しましたところ~
次なる写真を発見(^_^)v
 
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*写真をクリックすると大画面になります(^_-)
 
 
本卸の巻上機室の煙突からは、白っぽい煙が出ておりますね
蒸気のように見えますな~
台座の下の方からも蒸気が上がっているのが確認できます
絵に描かれていない重要なものとしては、巻上機室につながる空中通路?みたいな構造物です。四角い支柱に支えられているように見受けられます
動力源の蒸気は、パイプとかで揚げたのかな?
絵にはないいろいろな設備が沢山ありそうです~
 
ということで、管理人はこの巻上機の構造はよく分かりませぬ(>_<)
でも、台座の形といい絵から受ける巻上機室の形状といい、とても愛嬌のある建造物であるよう思いますがいかがなものでしょう(^_-)
 
それでは、遺構をいろいろな角度から見てみましょう
 
 
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           ▲こうして眺めてみると、まるで神殿のような本卸台座です
 
 
 
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           ▲連卸台座は、民家の物置兼駐車場みたいになってます

 
 
 
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▲西側から眺めてみました。台座下のガードレールのところが上山田線跡です

 
 
 
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▲少し視点を飯塚寄りに振ると、ほら住友忠隈炭鉱のボタ山が望めますよ~

 
 
 
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▲ついでのもう一枚どうぞ~ この門は旧麻生炭鉱中野倶楽部跡です

 
 
付け加えると~上の写真の場所は、麻生炭鉱中野倶楽部以前は、中島鉱業の創業者である中島徳松の別邸だったらしいですね。今では、煉瓦塀とこの門だけが残っています。
 
さてさて、半日でしたが筑豊の鉄道と炭鉱関連遺構を満喫いたしました(*^_^*)
 
 
▼後藤寺線のレポートはこちら↓↓↓
 
 
 
(ひとまず終わり)
 
 

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▲後藤寺線逍遙 ~キハ31を撮る~ 
 
  撮影地: 後藤寺線 下鴨生駅
  撮影日:2013.12. 8

 
12/8(日)~
嘉麻市にて、午前中の用事を済まし後藤寺線へGO
近郊区間の大回りにて、何度か通過したここ下鴨生(しもかもお)駅ですが、車で訪ねたのは初めてでした
駅前の駐車場に着くやいなや、ちょうど新飯塚行きの列車がやって来た(*^_^*)
フェンス越しに撮った写真がTOPのものでございます
 
さて、列車が発車した後のホームに入り、次なる列車を確認~
昼間の時間帯は、上下各1本の列車しかないようですね(^_-)
駅の周りを散策しながら待つこと20分あまり
後藤寺行きの列車が、緩やかなカーブを通り下鴨生駅に進入してきました~
 
 
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 ▲先ほど、写真右側の線路を発車していった列車が後藤寺方面に戻っていくよ (^_-)

 
 
 
さて、ここ下鴨生駅からは、かつて漆生線が分岐していました。
次の列車まで、漆生線の廃線跡を少しばかり探索してみましょう(^_^)v
 
下鴨生駅から後藤寺方面に向け、右側にカーブして漆生線が分岐していました
車にて道なりにカーブして進んでゆくと、すぐにかつての鴨生駅跡の公園にたどり着きました(^-^)
 
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 ▲鴨生駅跡の公園にあるモニュメント(*^_^*)

 
 
公園の背後には、かつて三井山野炭鉱がありました
丘の上には、ナローの線路がひしめき合っていましたが、残念ながら写真でしかお目に掛かったことがありませぬ(>_<)
しかし、幸いなことにここで活躍したナローの凸型電気機関車が、田川の石炭・歴史博物館に保存されています。
 
さらに詳しくこのナローの線路をご覧になりたい方はこちらへどうぞ~
 
かつて炭鉱があった背後の丘に登ってみましたが、炭鉱を偲ばせるものは見ることができませんでした。ただ、かつての正門までは行ってみました。朽ちた建物がいくつか見えましたが、それ以上のことは・・・
 
 
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 ▲ここがかつての正門です~  正面あたりに竪坑があったのかな(~o~)


 
 
 
瞬く間に時間は過ぎ、次なる新飯塚行きの列車が通過す時刻となりました
旧山野炭鉱の丘をおり、筑前庄内駅近くにやってきましたよ(^O^)
筑前庄内駅を出て飯塚方面にカーブすると、しばらくは一直線の線路が続きます
そこを行く列車を、遠景の山を入れて望遠にてねらいます
 
 
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               ▲ちょっと遠いですが、なかなかのロケーションでしょ!(^^)!


 
 
 
 
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 ▲キハ31様の横構図アップでございーい(^-^)

 
 
 
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 ▲振り返りざまにもう一枚~ 線路際の狭い農地と勾配標がいい味出してます(^O^)

 
 
 
さあ、もう1時間ねばって、下鴨生駅と上三緒(かみみお)駅間にて撮影を試みてみようかな
次の列車が来るまでにロケーションを済ませてっと・・・
 
お次にやってきたのは、上三緒駅の先にある築堤です(^_^)v
ちょっと逆光気味なのですが、築堤を見上げての構図が気に入りました
 
 
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 ▲この築堤には、2カ所のアーチ煉瓦通路があります~こちらも必見ですな(^-^)

 
 
 
最後のショットは、線路をまたぐ道路からの俯瞰撮影です
なかなか楽しめた、後藤寺線逍遙の3時間でした
 
 
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                 ▲端正なお顔立ちのキハ31でございます(*^_^*)


 
 
 
(おわり)

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  ▲ 坑内馬

  ◇『炭坑(ヤマ)の語り部 山本作兵衛の世界 ~584の物語~ 』より
    編集・発行
    田川市石炭・歴史博物館   田川市美術館

山本作兵衛の世界 (3) 「坑内馬」

山本作兵衛の原画や日記などが、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「メモリー・オブ・ザ・ワールド」(MOW、通称・世界記憶遺産)に登録されたことを記念して、ここにその一部を紹介したいと思います・・・第三回でございます。

馬車鉄道とともに、坑内馬の様子も山本作兵衛は描いています。

筑豊では、絵の解説にもあるように、明治から昭和の初めまで坑内馬が使用されていたようですが、三池でも状況はほぼ同じでした。

三池炭鉱では、坑内での馬による石炭運搬のことを馬匹(ばひつ)運搬と呼んでいましたが、その最初はいつからかと問えば・・・・
「明治11年 初めて馬匹10頭を大浦坑にて使用す」との記録が残されています。
もちろん、坑内の石炭運搬につては機械化が進行していくのですが、最先端の技術が導入されていた三池においても、昭和5年まで片盤坑道(採炭切羽と本線をつなぐ水平坑道)で坑内馬が使用されていました。

この昭和5年という年は、三池にて囚人労働と女坑夫が全廃された年でもあります。
馬匹が最後まで行われていたのは、修羅坑といわれた宮原坑・・・

囚人労働に馬匹、そして女坑夫・・・
どれも坑内の劣悪な作業にかり出すための、安価で使い捨てができる労働力であったと思われます。
四山坑や宮浦坑が開坑し、坑内の機械化が進むにつれて古い坑口も廃止され、これらの労働力も駆逐されていくのでした。

武松輝男は、その著書 『坑内馬と女坑夫』 のあとがきの最初に次のように記しています。
「坑内馬の供養塔をぜひ造りたい。(中略)そういう願いを持つようになっていったのは、坑内での使役の仕方があまりにも惨めすぎる、と思ったからだ。」

三池での坑内馬の生存期間を平均すると、わずか二年十ヶ月であったとのことです。




明治中期より
坑内馬
昔の中小ヤマは 排水困難のため あまり深い坑内はなかったが
横に広く掘進するので片盤(水平坑道)が遠くなる。
二百メートル以上になると 馬を使う。
浅いヤマは 毎日日没頃にあげるが 深いところは一週間位あげぬ。
久し振りにあがった馬は、娑婆の風に吹かれ 欣喜跳躍する。
坑内馬は 背の低い強力なものを使うが 水を多く呑ませるから
腹ばかり膨れておる。

これは明治だけでなく 昭和の初期にも入坑させておるヤマもあった。
坑内用炭函を五台位曳いていた。
三屯 または二屯半




大正時代 坑内に電気登場
その曳電の際 馬は感電が早いと言う
蹄鉄の関係か
人に感ぜぬのに
馬は倒れる。



(つづく)

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  ▲明治三十二年頃嘉麻川西方から見た麻生上三緒炭坑

  ◇『炭坑(ヤマ)の語り部 山本作兵衛の世界 ~584の物語~ 』より
    編集・発行
    田川市石炭・歴史博物館   田川市美術館

山本作兵衛の世界 (2)「明治三十二年頃嘉麻川西方から見た麻生上三緒炭坑」

山本作兵衛の原画や日記などが、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「メモリー・オブ・ザ・ワールド」(MOW、通称・世界記憶遺産)に登録されたことを記念して、ここにその一部を紹介したいと思います・・・第二回でございます。

かわひらたの衰退とともに、陸蒸気の隆盛を第一回でご紹介しましたが、ここで少し陸蒸気以前の鉄道にタイムスリップいたしましょう(*^_^*)

陸蒸気以前の“鉄道”といえば~
そうです!(^^)!馬車鉄道です。

筑豊の馬車鉄道の写真は、以下の写真以外にはいまだ見たことがありません。


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この写真は、明治35年 貝島鉱業菅牟田炭坑での石炭運搬風景であります。
三池炭坑でも、陸蒸気を用いた近代的鉄道の敷設以前は、この様な馬車鉄道を利用して石炭を搬出していました。


筑豊にしろ三池にしろ、採炭はもとより運炭、坑内排水、港というのは、石炭産業にとっては重要なポイントです。
山本作兵衛の原画には、港こそ出てきませんが、採炭、運搬、排水はもとより、炭坑に暮らしをえた人々の生活の様々な場面が描かれています。
さしあたり、管理人の好きな鉄道を中心に原画をピックアップしていますが、一つ一つの原画がどれも貴重な歴史の証人であるかのような存在です。

そのようなわけで、584の物語の一つとして見落とすわけにはいかないのであります(*^_^*)

さて、TOPの原画に添えられた文を紹介するといたしましょう。


明治三十二年頃西方から見た 麻生上三緒炭鉱(昭和三十九年廃山)
昭和二十七年九月に開坑(シバハグリ)廿九年開坑の山内坑同じ麻生太吉氏のドル箱であった。
坑主が悩む 石炭運送は芳雄まで約三キロ 複線単路で馬に曳かせていた。
一回七台二頓余 当時の貨車八頓に約三十台いったという。
山内坑も、同大熊町の新野氏が数十頭馬を使い馬車納屋と称されていた。
明治三十二年には、三井山野炭鉱が二キロ余 上三緒まで車路を作り
それより芳雄まで共同線道であった。
明治三十五年 九鉄開通で馬車は追放された。


昔の山の鉱主が倒産
するのは 大事故 以外
運送不便 坑内湧水
多量による 出費膨大
が原因であった

石炭のカロリーや低層も
あるが  それは 第二であった。



(つづく)

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  ▲船頭と陸蒸気

  ◇『炭坑(ヤマ)の語り部 山本作兵衛の世界 ~584の物語~ 』より
    編集・発行
    田川市石炭・歴史博物館
    田川市美術館

山本作兵衛の世界 (1)「船頭と陸蒸気」

山本作兵衛の原画や日記などが、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「メモリー・オブ・ザ・ワールド」(MOW、通称・世界記憶遺産)に登録されたことを記念して、ここにその一部を紹介したいと思います。

これから紹介する山本作兵衛の原画は、平成20年11月1日~12月7日の約1ヶ月間にわたり、田川市石炭・歴史博物館と田川市美術館の共催で展示されたものの一部です。
題して 『炭坑(ヤマ)の語り部 山本作兵衛の世界 ~584の物語~ 』
“二本煙突築百周年/田川市石炭・歴史博物館開館二十五周年記念 特別企画”と銘打たれたこの展覧会。なんと、山本作兵衛の原画584点が展示されるという、過去に例を見ない展示会なのでした。
私はその展示会の最終日に訪れ、二期にわたって展示された584の物語の半分を目にしたのでした。

半分だけでも、一つ一つを観賞するには有に最低でも1日費やすような展示なのです。
それは、山本作兵衛の絵にとどまらず、絵に添えられた自筆の解説がまた詳細を究めるからであります。
絵とともに、その一つ一つの解説がまた面白く、興味つきません。

それでは、山本作兵衛ワールドの一部を紹介していくといたしましょう。

★原画については、田川石炭・歴史博物館所蔵です。直接原画をご覧になりたい方は、田川石炭・歴史博物館をお訪ね下さい。(原画は常設展示しているとは限りませんので、各自お確かめの上ご訪問下さい。また図録の販売は、田川市美術館では行っていません。)


1回目は、鉄道好きのチョイスです。
鉄道の開通によって、遠賀川などを利用した水運が一挙に衰退していった・・・

明治二十二年に筑豊興業鉄道株式会社で、若松、直方開通
同 二十八年 飯塚、碓井、三十年四月 九州鉄道株式会社
三十一年 大隈、三十四年 上山田、  天道、長尾(桂川)
三十五年(山野、貨車) 三十六年 田川線 四十四年 伊田線

鉄道は日進月歩 枝を伸ばす。石炭運送の川船船頭は  失業者急増
廿八年頃より(舟多くして ヤマにのりあげる)ものが続いた。
もとより 体力強健な男が多く ヤマのゲザイニンになれこむのも早かった。
船頭のグチ言
ウーム オカジョウキーメ 
いよいよ おいらの 飯
茶碗を叩きつぶした。
おとされた


明治三十一年春 嘉麻川
芳雄鉄橋上を通る
オモチャの様な汽カンシャ
八屯ツミの貨車十二、三台
飯塚駅より緩坂を青イキ
吐息で進行していた。
シンチュウのストンガップ
だけがピカピカ
光っていた。

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▲貝島私学校の小学校再現 ~木の机のぬくもり~

 撮影日:2010.8 .18 
 撮影地:宮若市石炭記念館  福岡県宮若市上大隈

宮若市石炭記念館へ

久しぶりの筑豊紀行~

今回からしばらくは、かねてより訪ねてみたかった“宮若市石炭記念館”
そして“直方市石炭記念館”の二本立てにてお送りいたしましょう(*^_^*)

今宵は、志免の竪坑を鑑賞した後の“宮若市石炭記念館”のレポートでございます。


鉄道好きの私のお目当ては、当然の事ながらアルコの22号蒸気機関車なのでしたが・・・
この記念館で一番印象に残ったのは、懐かしい木の机だったかもしれません。

記念館2階の教室に、一歩足を踏み入れた途端 ~  懐かしい光景が目に飛び込んできました。
大牟田育ちの私も、小学校低学年の頃、蓋のある木の机を使ってました。
パカッと四角い蓋を開けるんですよ。案内の館長さんから一通り説明を受けた後、すぐさまこの教室にやってきて、椅子に座ってその蓋をそっと開けてみました。

玉手箱のように、昔の光景が甦って来ます(@_@)

使い込まれたこの木の机、2人がけなんですよね。
幼い頃、「隣は誰になるかな~」なんてドキドキしたことを思い出しました(^_-)


館長さんの話によると、この木の机達、映画の撮影に貸し出したりすることもあるらしい・・・
最近も 『信さん・炭坑町のセレナーデ』 なる映画の撮影に使用されたとのことでした。


▼映画 『信さん・炭坑町のセレナーデ』 公式HP↓↓↓
 http://shinsan-movies.com/



この机達と教室の話題はまた後ほどすることにして、当初のお目当てだったアルコの22号蒸気機関車にごあいさつするといたしましょう。

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▼宮若市石炭記念館の外観
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▲田川伊田駅のガーター橋

   撮影日:2008.12. 7
   撮影地:田川伊田駅近く

山本作兵衛と旧三井田川鉱業所への旅(最終回)

『炭坑(ヤマ)の語り部 山本作兵衛の世界 ~584の物語~ 』の最終日に何とか暇を見つけて行ってきました・・・筑豊は田川へ(~o~) の最終回です。

ずいぶんと、ご無沙汰していました。
なんと、いつの間にやら、この旅から1年の歳月が流れているではありませか(@_@)
つい最近の様な気がしていますが、最終回のUPが1年後を過ぎてしまいました・・・。

石炭記念公園をあとに、ちょっとだけ田川伊田駅界隈を散策致しました・・・のつづきでございます。
駅の小倉寄りにあるガードを覗いてみましょう。

思わず、時代を感じさせてくれる煉瓦づくりの橋台と、朽ちたガーダー橋に見とれました。
無骨なこのガーダー橋、リベットのアクセントがきいてます。
銘板を捜して、下からのぞき込んでみましたが、よく分かりませんでした。

よく見ると、橋台が二段になっているようです。
段差のところで、ガーダー橋を支えたということでしょうか。


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その煉瓦橋台のすぐそばというか、橋台に食い込むように民家の一角があるのには恐れ入りました。
かつては、この民家のすぐ上を石炭を満載した列車が走っていたのでしょうか(~o~)

ここ田川伊田駅界隈を少しだけ散策しただけで、遥か石炭の時代と鉄道全盛期の香りを偲ぶことができたように思います。
筑豊は、ちょっとした風景にも、その近代史の歴史を感じさせてくれるものが沢山ちりばめられているように感じます。

短い滞在でしたが、また訪れてみたい筑豊は田川の炭鉱と駅でした。

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▲田川伊田駅の風景 その1


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▲田川伊田駅の風景 その2


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▲田川伊田駅の風景 その3



(おわり)

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