炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 團琢磨 写真帖

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▲ 團 琢磨 : 昭和7年初春 石川島造船所にて


〈出典〉 『男爵団琢磨伝』   口絵写真より 

     右翼団体血盟団員に暗殺された年に撮影された写真。
     團琢磨は、三井合名会社へ出社するために三井本館へ入ろうとした時、菱沼五郎に撃たれて絶命・・・
     享年75歳でした。

     *この写真の関連ページ  http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/20494214.html

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   ▲ 三池炭鑛社新幹部


   〈出典〉 『男爵団琢磨伝』 挿畫より 

     この写真は、1889(明治22)年に撮影されたものと思われます。
     払下げ後に三池炭鉱が三池炭鑛社名義で営業を開始したのが、この年の1月3日。
     写真の題名にあるように、ここに三井による三池炭鑛社が発足したのでした。
     これは、その発足時の記念写真といえるものでしょう。

     この写真の前列、右から2番目のコートとステッキを持った人物が團琢磨です。
     その左斜め上が、吉原政道。
     事務長である琢磨の位置と、13名の面々がそれぞれバラバラな方向を向いているようなこの写真・・・。

     発足当時の三池炭鑛社の様子が偲ばれ、面白く感じられます。

     時に、團琢磨 41歳。    
     
     
     *この写真の関連ページ  http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/16882291.html

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 ▲ ボストン留学時代の團琢磨

   〈出典〉 『男爵団琢磨伝』     口絵写真より 
        写真左から團琢磨、金子堅太郎、栗野慎一郎  明治8年12月12日(写真裏の自署日付)


 この写真は、團のボストン留学時代の写真です。
     
1871(明治4)年、時の明治政府は岩倉具視を全権大使として、先進欧米諸国の視察と条約改正を目的に、大規模な欧米使節団を派遣したのは皆さんご存じのことと思います。同時に政府は、国家の近代化を図る目的で公家や大名達にはたらきかけ、その子弟や有能な家臣の青年達を選出して海外留学に派遣することを勧めていました。

これに福岡藩からは團琢磨と金子堅太郎が選抜され、藩主黒田長知に従って米国留学をすることなったのでした。 
     
この写真には、この時に共に留学した金子堅太郎と、遅れて留学が認められた栗野慎一郎の3名が写真におさめられています。    
     
團琢磨は、マサチューセッツ工科大学鉱山学科、金子堅太郎はハーバード大学法学部に留学。
     
金子は、帰国後は伊藤博文を助けて大日本帝国憲法の制定に大きな功績を残す一方、ハーバード大学の学友であったセオドア・ルーズベルトの支援を得て、日露戦争の講和会議でも活躍しました。
     
栗野慎一郎は、2人と共に留学の予定でしたが、「1867(慶応3)年、長崎で藩士金子才吉が英人水夫二名を斬殺ざんさつした時に、たまたま十七歳の栗野も現場に居合わせたことで、明治二年正月に禁固三年の処分が下り、留学を断念せざるをえなかった」とのこと。(注1)

2人に遅れること4年、栗野はハーバード大学に進み、1881(明治14)年に卒業して帰国。外務省に入省し、日露戦争当時の駐露公使をつとめました。     
     
ちなみに、團と金子は米国の小学校から始めて大学へ進学したとのことです。




◆注1 「 」内は、以下のHPの記述を引用いたしました。
  http://monokatari.jp/isitaki/file002.php?catid=580&blogid=163



 

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