炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 島鉄紀行

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撮影日:1978年 3月 2日
撮影地:島原鉄道 加津佐駅

加津佐駅ホームのユニ202

今を去ること、ちょうど30年前・・・
大学時代の鉄研春合宿が、島原半島の国民宿舎原城荘であった時です。
島原鉄道の終点である加津佐駅から、原城荘の最寄り駅である原城駅までの約10㎞を歩いたのでした。

大牟田は三池港の内港南岸壁桟橋(当時)から、島原観光汽船の高速船にて島原外港へ。
島原外港駅から加津佐駅まで、島鉄に揺られたあとの沿線紀行です。
限定10枚だけのコダクロームスライドを、今しばらくお楽しみ下さいませ。

第1回目は、加津佐駅のホームに佇む ユニ202 です。
30年前は、まだ貨物・荷物輸送のスジがあり、この時もD37が元気に活躍していました。
加津佐駅のホームでは、ちょうど荷物の積み込み作業中です。
ユニ202には、郵便マークに荷物標記がある歴とした「ユニ」でしたが、車番はキハ202のままだったような記憶があります(@_@)
よく見ると、諫早よりの車端には荷台がついていて、当時の私は古色蒼然とした感じを受けたものです。

車歴を調べてみると・・・
1933(昭和8)年5月 日本車両製
中国鉄道キハユニ110 ⇒ 国鉄キハユニ110 ⇒ 島鉄キハ202 ⇒ 改造 ですね。

何ともいえない味のある車両達が、ここ島鉄には在籍していました。

(つづく)  
 

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撮影日:1978年 3月 2日
撮影地:島原鉄道 加津佐駅附近

天草灘と長崎半島を望む

第2回目は、終点加津佐駅を目指す単行の気動車です。

加津佐から、国道251号線を口之津方面に歩いてきました。
この日は絶好の撮影日和で、天草灘に遠くは野母崎が望めました。
列車のすぐ先は「永瀬」の瀬があり、写真右手には加津佐の岩戸山が写ってます。
岩戸山には厳吼寺があり、頂上には大智禅師が座禅していたという座禅石がありました。

岩戸山をはさんだ南北には、白砂青松の前浜と野田浜の2つの海水浴場がある、美しい加津佐の町です。


(つづく)  
 

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撮影日:1978年 3月 2日
撮影地:島原鉄道 加津佐駅附近

加津佐の町を背に 一路諫早を目指します

第3回目は、加津佐駅を出発してすぐの気動車です。

国道251号線から、海岸線まで降りてきました。
加津佐の町をバックに、緩やかな上り坂をキハ20がやってきます。
当時は、自社発注のキハ20が3両在籍していたかな。
(2001~2003)

気動車の真後ろには、加津佐駅のすぐ南にある女島が写っています。
駅前の前浜海水浴場には、バンガロウ村がありましたが(今もあるかな)、
かつては、島鉄で使用されていたガソリンカーや客車の廃車体がバンガローとして使われていたそうです。
残念ながら、この時点では影も形もありませんでした・・・。


(つづく)  
 

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撮影日:1978年 3月 2日
撮影地:島原鉄道 白浜海水浴場前駅附近

海岸より島鉄の気動車を仰ぎます

第4回目は、白浜海水浴場より島鉄の気動車を仰ぎ見ます。
⇒肝心の気動車が・・・よーく見ないと分かりません(@_@)

加津佐駅を出た列車の次の停車駅は、白浜海水浴場前駅です。
この駅、開業当時は「女学校前」という駅名で、戦後の一時期には廃止された歴史もあるようです。
ところで、この写真の右側には白砂青松の美しい海岸線が広がっていたはずですが、あまり記憶がありません。
ただ、一つだけ記憶にあるのが“イルカ”です。
浜に打ち上げられた“イルカ”が一頭ありました・・・。

思えば、天草灘から島原湾にかけての早崎海峡にはイルカの群れが回遊していて、現在ではイルカウォッチングのスポットになっています。私も口之津対岸の天草 五和町から遊漁船に揺られて見に行ったことがあります。
「100%近くの確率でイルカの群れが見れる」のは世界でも珍しいと聞きました。
ついでに、この白浜海水浴場の砂浜には、アカウミガメが産卵にやってくることでも知られています。

島鉄は、風光明媚な海岸線を見ながら口之津へとその鉄路をすすめます。


(つづく)  

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撮影日:1978年 3月 2日
撮影地:島原鉄道 白浜海水浴場前駅附近

長崎乗り入れ急行 キハ20が行く

第5回目は、国鉄線乗り入れ(長崎行き) 急行のキハ20です。

写真の列車は、1977年5月の時刻表によると・・・
加津佐12:42発 → 諫早14:40着 → 諫早14:51発(2343D)→ 長崎15:27着
と思われます。ちなみに、この時刻表には島鉄内の急行料金の記載が見あたらないのですが、その前後の時刻表には記載がちゃんとありました。
1976年 7月現在 ⇒ 60円
1978年10月現在 ⇒ 10㎞以上 大人100円 子人50円

1978年の3月時点では、60円? 100円?
(どなたか、詳しい方がおられましたらご教授下さいませ)

さて、1958(昭和33)年4月に始まった長崎への国鉄乗り入れ(当初は島原湊~長崎間 2往復)ですが、順次 博多・小倉・佐世保へと拡大していきます。
しかし、1980(昭和55)年10月の国鉄ダイヤ改正時に、これら国鉄乗り入れ列車は廃止されてしまいました。国鉄線からはDC急行が次々と姿を消し、L特急なる列車が増発されて時刻表も味気ない紙面に変化する時代でした・・・。

 

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撮影日:1978年 3月 2日
撮影地:島原鉄道 口之津駅附近

D37牽引の貨物・小荷物列車のお通りですよ

第6回目は、D37牽引の貨物・小荷物列車です。

このディーゼル機関車 D37は、全部で3両在籍していました。
それまでのC12の後を引き継ぎ、1967(昭和42)年に島鉄にやってきました。
この写真撮影時は、まだまだ小荷物や貨物輸送の多くを鉄道が担っていた時代です。
この後、急速にトラック輸送に取って代わられていきますが・・・。

さて、写真のD37はワムにヨを連結していますね。
写真には写っていませんが、その後ろには加津佐駅で撮影したユニ202が連なっています。
貨物列車のスジなども調べることなく、ぼちぼち線路に沿って春の散歩を楽しんでいました(*^_^*)
そこへ、突然の(!_!) D37牽引の貨物・小荷物列車のお通りでございます。
何とかカメラをかまえて撮影した一枚でした。

ところで、D37は何号機でしょう?
記録に記憶も定かではありませぬ(*_*)

(つづく)

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撮影日:1978年 3月 2日
撮影地:島原鉄道 口之津駅附近

D37牽引の貨物・小荷物列車のお通りですよ 〈その2〉

第7回目は、D37牽引の貨物・小荷物列車のつづきです。

線路沿いに春の散歩を楽しんでいましたところへ、突然のD37牽引の貨物・小荷物列車のお通り(!_!)
前回のD37 サイドビューに続いて、後追いの写真をしっかり撮りました。
最後尾のユニ202がいい味出してます。
後ろの窓半分は埋められていたんですね。加津佐駅ではよく見てませんでした(@_@)

ところで、島鉄の小貨物・荷物輸送の変遷をたどると・・・

1980(昭和55)年 鉄道小荷物をトラック代行輸送へ
1982(昭和57)年 鉄道小荷物廃止
1984(昭和59)年 貨物輸送全廃

となっています。
ユニ202の活躍も、この写真の撮影後2年間は続いたのでした。

明日3/31で、この南目線ともお別れです(*_*)


(つづく)

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撮影日:1978年 3月 2日
撮影地:島原鉄道 有馬吉川~東大屋

貨車を従え キハ55急行列車が加津佐を目指します

第8回目は、キハ55の急行列車です。
一昨日をもって、島鉄南目線は廃線となりましたが、わがブログにては今しばらく運行いたします(^_^)v

佐世保10:22発、国鉄大村線普通列車829D長崎行きに連結されてきた島鉄キハ55。
南目線唯一のトンネルを抜け、終点の加津佐を目指します。
後ろには,キサハ211を従えていますよ。

かつて、島鉄にはキハ55が5両在籍していました。
キハ26同様に、一つ目玉(前照灯)と二つ目玉のタイプ(5506)があり、国鉄とはまた違った印象の車両もあります。
これらの車両は、国鉄の急行「出島」・「弓張」に併結され、博多、小倉への直通運転を行っていたのでした。

残念ながら、1994(平成6)年からキハ2500形の増備により廃車がはじまり、キハ26は1997(平成9)年、キハ55は2000(平成12)年に全廃されています。

できることならもう一度、クーラーと座席に白のカバー付き2つ目玉のキハに揺られたかったな・・・。

(つづく)

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撮影日:1978年 3月 2日
撮影地:島原鉄道 東大屋~有馬吉川

キハ55とキサハ211が行く 早崎海峡

第9回目は、キハ55とキサハ211の列車です。
島鉄南目線は廃線となりましたが、わがブログにては今しばらく運行いたします(^_^)v

天草灘から島原湾にかけての早崎海峡を望む地点にやってきました。
海峡を隔て、天草の島々が遠くに連なります。

ネギ畑先の築堤を、キハ55とキサハ211の列車が諫早を目指します。
キハ牽引のキサハ211は、実際は「ニ」と称すべき車両でした。

履歴を調べてみると・・・
1936(昭和11)年6月 日本車輌製造 
芸備鉄道キハユニ16→国鉄キハユニ40920→防石鉄道キハニ102→島鉄
ですね。

イルカ群れる美しい海を愛でながら、島鉄の線路は続きます。
逆光の写真で列車が見に見づらいですが、私にとっては懐かしい一枚です。

(つづく ~ 次回は最終回)

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撮影日:1978年 3月 2日
撮影地:島原鉄道 有馬吉川駅

有馬吉川駅を発車するキハ55普通列車

島鉄南目線廃線後も、今しばらく運行してきました当ブログ島鉄南目線でしたが、今回を以て運行を停止いたします。
第10回目(最終回)は、有馬吉川駅を発車するキハ55の普通列車です。
ここ有馬吉川駅にてのワンショットが、島鉄南目線の最後の撮影となりました。

加津佐駅からのんびりと歩いてきた「島鉄沿線の旅」も終わりです。
次の原城駅近くの国民宿舎原城荘が今夜のお宿でした。
大学時代の鉄研合宿は、いつものように大荒れの宴会だったかな(@_@)
合宿に行くたびに何かがおこる? 
「○○大学鉄研様は、次回からはお断り」なんて言われそうな(*_*)

でも、この時の合宿(宴会)は記憶にないので何も起こらなかったということか・・・。
記憶にあるのは、朝方 “ポン ポン ポン”とう漁船のエンジン音が有明海に響いていたことです。
有明海の、のどかな景色が窓に広がっていました。


さて、廃止から2週間ほどの日々が過ぎました・・・。

当地では、いつも聞こえていた踏切警報機や列車の通過音がなくなり、寂しくなっているのではないでしょうか。
私が歩いた頃の島鉄南目線の線路規格は低く、細い線路がよれよれと続いていた様な記憶があります。
線路継ぎ目の通過音など、乗車中には心地よく響いていたことを想い出しました。
(乗り心地の方は、ご想像にお任せいたします)


ここに、90年の歴史を有した島原鉄道南目線の記録を残し
書庫『島鉄紀行』を終了いたします。 

〈 完 〉


後追い写真発見(@_@) 逆光で没に・・・

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スライドを整理していたところ・・・
有馬吉川駅を発車するキハ55普通列車の後追い写真発見(^_^)
どうも、逆光写真であるため“没”にしてたようです。

見にくいですが、キハ55にキハ2603(たぶん・・・屋根のアンテナあり)+ユニ100の編成。
11枚目の島鉄でした。

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