炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 三池築港百話

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▲四ッ山築港の眞景   VIEW OF YOTSUYAMA PORT.   (末藤書畫店發行)    絵葉書所蔵:管理人

浚渫工事 その2 「目まぐるしき浚渫作業」

前回は、プリストマン式浚渫船の“浚港丸”によって、築港工事の先陣を切って浚渫工事が開始されたことを述べました。そこで今回は、“浚港丸”による浚渫作業はどの様に行われていたのか?その実際を詳しく見ていくことにしましょう。題して「目まぐるしき浚渫作業」。

持てる3隻すべての浚渫船を投入して始まった三池築港の浚渫作業ですが、川幅も狭く軟弱な泥土を浚渫していた大牟田川での作業と、三池築港での作業は自ずと異なる条件がありました。その辺りの事情を、まずは『沿革史』の記述をもとに繙いてみることにしましょう。*注1

干満ノ差最大十八尺ト言フ稀レニ見ル所大ニ、潮流モ速キ箇所ハ三浬/時モアリ、亦地層ニ於テモ地盤下十二/十三尺以下は殆ンド砂利混リノ硬質粘土ナルガ故ニ、浚渫機艇モ普通の吸引式デハ殆ンド効果ナク、又プリストマン式或ハカッター式浚渫機ニシテモ甚ダ効果薄デ、殆ンド総テノ点ニ於テ可成ノ悪条件ヲ具有シテヰタ文ニ、本工事ハ相当困難ヲ供シタノデアル。


「干満ノ差最大十八尺ト言フ稀レニ見ル所大」は、大牟田川も同じ条件であったと言えますが、ただその作業規模が桁違いに大きかったといえます。プリストマン式浚渫船の“浚港丸”は、船体に浚渫した土砂を入れる土槽(ホッパー)は装備されていませんでした。よって、浚渫した泥土は、“浚港丸”に横付けした泥運搬船に積み入れ、所定の捨場まで回航するといった作業が発生します。*2  

そして、泥運搬船を埋立地などの泥捨場に回航した後は、鍬をもって人力にて泥土を切り出すという、非常に労力と時間を浪費する方法がとられていました。しかも、浚渫された泥土は、当初はすべて第一期埋立工事の石垣根土(土台)として利用されていましたが、*注3 漲潮時でないと作業ができにくく、わずかの潮間に限って泥土を切り出さねばなりませんでした。

さらに、浚渫場所の周囲は前回掲載した『沿革史』に述べられているように、内港で干潮面以上6呎(約1.8m)もの干潟となるわけですから、落潮時にも浚渫ができるよう、潮がある内に泥運搬船を数隻準備しておかねば作業が中断してしまいます。この様な状況下での浚渫作業について、『沿革史』は次のように述べています。*注4

色々面倒ナ作業ヲ満潮前後僅カノ潮間ニ処理シナケレバヌノデ、其ノ間ノ泥船作業ハ非常ニ多忙ナ訳デ、当時泥船ノ作業ハ戦場ノ様ナ目苦シサヲ呈シタルトノコトデアルガ、水夫等ノ働キモ亦目醒シキモノガアッタト云フ。其為メ、当時潟切出シ作業ハ、切出坪数ニ依ル奨励歩増支給制度ガ設ケラレテアッタ。


以上の記述からは、当時の浚渫作業が非効率的であり、また干満の差が激しい有明海の悪条件がよく伝わってきます。この様に困難な作業でしたので、その能率を高めるため、船渠築造の折の潟堀人夫と同様、浚渫作業においても作業量に応じた奨励金が支払われたようです。

さて、次に注目したいのは、「地層ニ於テモ地盤下十二/十三尺以下は殆ンド砂利混リノ硬質粘土ナル」という部分です。内港の水底ボーリングの結果を見ると、泥土や青粘土層の間に小砂利混じりの粘土や泥土層が幾層にも積み重なっていることが見てとれます。*注5  大牟田川などと比較すると、浚渫する水底の地質が硬質であったと言えます。そのため、プリストマン式のグラブバケットは表層の軟弱泥土はともかく、地盤下十二/十三尺以下には食い込むことなく、浚渫不能であったといえます。また、吸引式やカッター式浚渫機を使用しても、その効果は期待できないと述べられています。*注6

そここで、これまで述べてきたような初期浚渫工事の状況を打開するために、新たな新造浚渫船が計画されることになりました。こうして誕生した新造浚渫船が“四山丸”です。次回は、この“四山丸”について詳しく見ていきます。

最後になりましたが、今回のTOP写真は、開港(1908、明治41年)頃の三池港です。注目は、干潮時の三池港内港の真ん中を貫く浚渫を終えた航路でしょう。ご覧のように、航路周辺の内港はいまだ浚渫が行われておらず、干潟が広がっています。この干潟を浚渫する工事が、開港後も地道に行われることになります。また、右上部には、1906(明治39)年に新たに導入された浚渫船“瓊ノ浦(たまのうら)丸が写っています。さらに付け加えると、絵葉書のキャプションは「四ッ山築港の眞景」となっており、三池港の命名が行われる以前は、「四ッ山築港」と呼ばれていたことが分かります。


(つづく)




◆注1 『三池港務所沿革史』第五巻 三池港(其二)第二章三池港の維持 第六節浚渫及埋立 第一項浚渫 85頁より引用 

◆注2 『沿革史』では、泥運搬船を泥船(または土砂受船、土運船)と称している。1885(明治18)年に“浚港丸”が配備されると同時に、段平船(和船の一種で、船幅が広く喫水が浅い平底の船。団兵衛船、団平船などとも標記される)数隻が泥船として購入されている。当時は、1隻の泥船に4人の水夫が乗り込み、水棹にて回航していた。なお、三池築港工事が開始される際に、不足することが予想された泥船を、長崎物産支店長(三井物産長崎支店長)を通じ、長崎市の松尾長太郎(元、三井物産口之津支店長:第十九話参照)から18隻購入した記録が残されている。新たに購入した泥船には数隻の底開船が含まれていたが、これらの泥船はもっぱら航路突堤外の土砂捨場内における海中投棄に用いられた。

◆注3 「第一期埋立工事」とは、第一区として船渠周辺部の潮止堤防に囲まれた埋立工事を(船渠掘鑿土により埋立)、第二区として内港防波堤に沿った細長い埋立工事を指す。ここでは、内港防波堤の石垣根土(土台)として浚渫土が利用されたと理解できる。(埋立地の詳細は、第五十六話掲載の「築港計畫平面圖」を参照のこと)

◆注4 注1と同様 105頁より引用

◆注5 注1と同様 191頁掲載の 海床標高及土質「内港地域内(埋立地々層断面図、建築試錐第十一図、拾貮ヶ所試錐地平均)」による

◆注6 吸引式とは、船から吸込管を水底に降ろし、ポンプにて土砂を吸い上げるタイプの浚渫機。カッター式とは、ラダー(梯子状のもの)先端にとりつけられたカッターにより海底地盤を掘削するタイプの浚渫機。その多くは、掘削した泥土をポンプにより吸入・送泥を行う。

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▲明治37、8年頃の浚渫船 “四山丸” ①    ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館
  

 

浚渫工事 その3 「新造浚渫船“四山丸”就航」

前回、縷々述べてきた浚渫工事のさまざまな問題を解決すべく、新造浚渫船の必要性が強く望まれていました。そこで登場した浚渫船が、TOPに掲載した“四山丸”です。ご覧のように、プリストマン式浚渫船の“浚港丸”とは全く違った形式の浚渫船で、しかもかなり大がかりな浚渫機を備えており無骨な感じがします。この浚渫船の種類は、吸揚鋤鏈混合式浚渫機(Pump and Ladder Dredger)で、吸揚(喞筒=ポンプ)式と鋤鏈(バケット=バケツ)式機能を併せ持った400噸(トン:船体)の浚渫船でした。“四山丸”は、1903(明治36)年5月に大阪鉄工所に発注され、翌年6月竣工、7月より浚渫作業を開始したのでした。*注1

それでは、TOPの写真を参照しながら、“四山丸”の浚渫機能を詳しく見ていきましょう。
はじめに、鋤鏈(バケット=バケツ)式機能についてですが、まずは写真右側の船体の先端部(滑車ワイヤーあり)からラダー(Ladder:梯子状のもの)を水底に降ろします。船体の中央部にあるラダー頂の大きな歯車によって、ラダーに設置された多数のバケットを連結したバケットチェーンを回転させることにより、連続的に水底土砂を掘削・揚土していきます。*注2 
そして、ラダー頂部にて浚渫した土砂を入れたバケットが回転し、船体の土槽(ホッパー)、もしくは泥船に一旦土砂を落とし入れた後、同じく船体に設置されているポンプによって土砂は押揚げられ、連結された排土管を通り土砂捨場に運ばれます。*注3
なお、ラダー頂の真下中程から外側に向かって飛び出している突起物(横長箱状のもの:蒸気で見えにくくなっている)は傾斜桶(シュート)で、船体の両側に設置されており、ここから泥船に土砂を積み込むことができました。*注4

排土管については、最後に掲載している写真“四山丸”②をご覧下さい。これは“四山丸”の右舷から見た写真ですが、右奥には浮台上に連なった排土管が見て取れます。*注5
また、もくもくと煙を吐く煙突の付け根部分から円弧状に飛び出したパイプがありますが、これは一度泥船に積み込んだ土砂を吸揚し、排土管に送るためのパイプであると思われます。*注6

次に、吸揚(喞筒=ポンプ)式機能についてですが、TOPの写真“四山丸”①で、左舷に横長に取り付けられているのが吸揚管(土砂を吸い揚げるる管)です。蒸気の左手船腹が支点で、降ろすと水底まで斜めに設置された形となります(水深によって角度が異なる)。ポンプの揚水力は、1分間に900立方呎(約25.5㎥)、長さは30呎(約9.1m)ありました。 *注7

以上、“四山丸”の浚渫船としての機能を見てきましたが、“四山丸”建造決定に到るまでに、種々の浚渫条件を研究したことが『沿革史』にも述べられています。“四山丸”建造に当たって考察された5つの条件を紹介して、今回の「浚渫工事 その3」のまとめとしたいと思います。*注8


一、地質ノ硬軟ニ関ラズ浚渫シ得ルモノ
二、低床ガ平坦ニ浚渫出来ルモノ
三、浚渫場所殆ド固定シ排泄場所割合近ク然モ、風浪及潮流ノ影響少ナク、排土管使用ニ好都合ノ為メ、  浚渫土量ヲ直チニ埋築ニ利用シ得ルモノ
四、連続作業出来ルモノ
五、高度ノ浚渫能力ヲ有スルモノ


かくして、新造浚渫船“四山丸”による浚渫作業が開始されましたが、次回は浚渫作業の実際を少しですが覗いてみることにいたしましょう。



(つづく)




◆注1 大阪鉄工所(Osaka Iron Works)は、イギリス人実業家であるE・H・ハンター(Edward Hazlett Hunter)が、1881(明治14)年、大阪の安治川河畔に、息子平野龍太郎の名義で設立した造船会社である。1888(明治21)年に、日本初のプリストマン式浚渫船を建造しているが、1894(明治27)~1897(明治30)年に建造した鋤鏈式浚渫船(大阪築港:第二、第三大渫丸)の性能は悪く評価は低かった。その後、大阪鉄工所は、ドイツ製の鋤鏈式、吸揚式など、種々の浚渫船組立工事に従事したことを契機として、浚渫船建造部門で日本有数の技術力を培った。(参考:日本工業会『明治工業史』造船篇 1925)
なお、三井鉱山合名会社(当時)が、1903(明治36)年5月に大阪鉄工所と交わした四山丸契約書には、受負者として範多 竜太郎の名が記されている。また、大阪鉄工所は、現在の日立造船株式会社の前身である。

◆注2 写真には、ラダーに並んだバケットが見て取れるが、1個のバケットは14立方呎(約0.4㎥)の容量があり、計30個のバケットが連続して設置されていた。また、バケットは1時間当たりに27回転し、浚渫量60㎝の能力があった。なお、浚渫深度は約14m(大正7年改造時)であった。

◆注3 『三池港務所沿革史』第五巻 巻末資料「四山丸要目表」によると、右舷・左舷に横置ウォシントン型ポンプ設置の記載がある。ウォシントン型ポンプとは、米国の機械技術者であるウォシントン(Henry Rossiter Worthington:1817‐80)が製作した2シリンダーの往復ポンプ形式。往復ポンプは、シリンダー内でピストンあるいはプランジャーを往復運動させ、それに対応させて吸込管あるいは吐出管への流路を弁により開閉し、水を吸い込み、吐き出させるものである。(参考:世界大百科事典)
このポンプが排土用に用いられたのではないかと思われる。ちなみに、排土管の直径は22吋(インチ:約55.9㎝)であった。なお、“四山丸”の正確な竣工図表は未見であり、諸機能の詳細に関しては、先に記した「四山丸要目表」によることから、記述内容は不十分であり間違いの可能性があることを付け加えておく。

◆注4 明治37、8年頃の浚渫船“四山丸”②を参照。この写真では、“四山丸”の船体に横付けされた泥船が写し出されている。泥船の中央部あたりで、“四山丸”の船体から斜めに出ている箱状の突起物が傾斜桶(シュート)である。

◆注5 “四山丸”の船首部分は、おそらく煙突がある側であると思われる。船名の“よつやま丸”(ひらがな表記)が、煙突側の船腹先端部に記されていることからそのように判断した。ということは、バケットラダーの昇降機があるのは船尾である。なお、“四山丸”は不動(非自航)式の浚渫船であることを付け加えておく。

◆注6 円弧状のパイプについては、名古屋築港工事(明治31年に浚渫工事が始まり、翌年に浚渫船三隻を購入する契約が結ばれた後、明治33年から浚渫機による築港工事がはじまった)で使用されたポンプ式浚渫機船“権六丸”の絵葉書(写真③:管理人所蔵を参照)を参考にして記述した。“権六丸”は、土砂を積載した泥船の船倉に注水して土砂と撹拌混合し、これを揚土ポンプにて吸い上げ埋立地まで排送する作業船(バージアンローダー)であった。

◆注7 『沿革史』には、吸揚(喞筒=ポンプ)式機能に関する記述はなく、「四山丸要目表」や写真から判断して記載した。吸揚(喞筒=ポンプ)式機能については、開港後も継続して行われた内港の浚渫作業などで活用されたと思われる。

◆注8 『三池港務所沿革史』第五巻 三池港(其二)第二章三池港の維持 第六節浚渫及埋立 第一項浚渫 107頁より引用 



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▲明治37、8年頃の浚渫船 “四山丸” ②     ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館




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▲写真③ 名古屋築港ポンプ式浚渫船 權六丸     ◇絵葉書所蔵:管理人  
  

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▲四ツ山築港海岸  SEA COAST OF BUILD PORT YOTSUYAMA.  ◇絵葉書所蔵:管理人

浚渫工事 その4 「昼夜突貫の浚渫作業」

前回は、新造浚渫船“四山丸”の浚渫機能について詳しく見てきました。それに引き続き、今回は“四山丸”における実際の浚渫作業の状況を『沿革史』をもとに述べたいと思います。*注1
題して「昼夜突貫の浚渫作業」。

大阪鉄工所に発注された新造浚渫船は、1903(明治36)年に“四山丸”と命名され、翌年6月に竣工した後、四山沖に廻航されてきました。約2週間におよぶ運転準備期間を経た後、10日間の試運転を行い、1904(明治37)年7月7日から本格操業を開始しました。最初に取りかかった浚渫場所は、内港漏斗口(突堤のつけ根付近)で、突堤内の航路を沖に向って浚渫をはじめたのでした。
ここで、浚渫工事の内容を再度確認しておきましょう。航路の低幅は150呎(約45.7m)、両側三割の法を附し、干潮面以下18呎(約5.5m)に浚渫。そして、浚渫した泥土は、すべて排土管により南土砂止堤外に排出するといった工事内容でした。
最初は昼間のみ作業が行われ、11月15日までの約4ヶ月の間に、5,269立坪(約31,669㎥)、1ヶ月の平均にすると1,300立坪(約7814㎥)の浚渫量しかなく、期待された作業量をこなすことがでなかったようです。

その間の事情を、『沿革史』は次の様に述べています。*注2

之レハ乗組員ノ取扱不慣ガ大ナル原因ヲ為スコトガ判明シタノデ、係員以下、乗組員一同懸命ノ努力ト研究ヲ続ケ、大イニ之レガ向上ニ努タ。 (中略)*注3  其ノ後、四山丸ノ操業モ段々慣レルト共ニ、研究モ積ンデ本船ノ持ツ機械力ハ発揮出来ル様ニナリ、浚渫モ急グ所カラ十二月十一日ヨリ今迠ノ昼間作業ヲ昼夜作業トセシ結果、翌一月ハ一躍五、八七八立坪、二月ニハ七、四三五立坪、三月ニハ一一、○三二立坪ニ躍進シ、漸ク昭光ヲ斉スルニ至ツタ。


“四山丸”による浚渫作業の成績が上がらなかった理由は、乗組員の操作不慣れが原因であったようです。前回述べた浚渫機能を十二分に活用できていなかったということでしょう。しかし、乗組員の努力と研究、そして昼夜作業の甲斐あって、就航半年後の1905(明治38)年1月で当初の約4.5倍、2月で約5.7倍、3月で8.5倍と、飛躍的な浚渫作業の伸びを記録したことが分かります。また、1905(明治38)年3月には、第五十六話『突堤築造その5』で述べたように、「航路開鑿設計変更願」が出され、航路突堤のかさ上げが決定されました。これによって、排土管への潮流の影響も緩和されることになり、より一層航路部分の浚渫作業が進んだのでした。

ところで、“四山丸”の乗組員は、『三池港務所沿革史』第五巻 巻末資料「四山丸要目表」によると、係員2名、乗組員31名の計33名と記されています。この時代の昼夜作業は二交代制だったようで、実質は係員1名、乗組員15名によって運行されていました。具体的な作業内容や苦労話などの記述はありませんが、浚渫時にはかなり大きな音を立てながら浚渫機が動いていたようです。*注4
築港当時は、昼となく夜となく、三川沖に“四山丸”のバケット回転音が鳴り響いていたのでしょうか・・・。

最後に、今回のTOP写真について若干の説明を加えておきます。おそらく開港後の三池港内港の様子で、内港南側から北側を望んだ写真となります。内港中央部あたりに“四山丸”が写っていますが、右手の閘門側に向かって排土管が伸びているのが見て取れます。また、“四山丸”の手前には、桟橋軌道上に起重機がありますが、第五十五話で紹介した写真『明治37年頃 突堤覆石工事』に写っている起重機と同じではないかと思われます。(写真では、蒸気ボイラーが取り外されているように見えます)
この起重機についての詳細は不明ですが、三井三池製作所の年別設計一覧表中に、四山築港向けとして明治36年「ロコモチブクレーン」とあるのがこの起重機である可能性があります。


(つづく)



◆注1 『三池港務所沿革史』第五巻 三池港(其二)第二章三池港の維持 第六節浚渫及埋立 第一項浚渫 117~119頁を参考に記述した。

◆注2 注1と同様、118頁より引用

◆注3 中略の部分には、以下のような記述がされおり、船体自体のメンテナンス上でも配慮を要したことが述べられている。

「有明海ハ非常ニ海虫ノ被害多キ故、四山丸ハ廻航以来半年近クモナリ、船体ニハ牡蠣又ハブロ(長さニ/三寸径七/八分位ノ、ノレノレスル附着虫)ノ附着多ク、夏季ハ特ニ其レガ甚敷ノデ、船体ノ保存上半年ニ一度位ハペンキ塗替ノ必要ヲ生ズル。然ルニ困ッタ事ニハ、当時三池ニハ四山丸ノ如キ大型船ヲ上架スル設備又場所モ無イノデ、不得止長崎ニ廻航三菱ドックデペンキ塗替其ノ他ノ修理ヲ為ス事ニナリ、十月二十日三池ヲ出発シ、同所デ所定ノ修理ヲ終リ、同三十日帰港シタ。」

◆注4 中川原廣吉編『ふるさと歴史探訪-大牟田、柳川、大川、みやま、荒尾、南関-』 2011年 有明新報社 107頁「三池港の浚渫船」にて、“四山丸”が取り上げられている。執筆者である執行重吉さんの父親は“四山丸”の船長を務められていたとのことで、昭和期前半における“四山丸”の様子が描かれている。以下に、その一部を紹介しておく。
「通称“ガタ堀り船”と呼ばれ港内の海底を十数個連結したバケツでさらえて、砂はパイプ(いかだ積み)で対岸を埋め立てていました。船は振動がきつくすごい音でした。」
三池では、浚渫船のことを“ガタ堀り船”と呼んでいたようである。なお、「三池港の浚渫船」には「四山丸はドイツ製の中古浚渫船」との記述があるが、これは明らかな間違いである。当時の人々は“四山丸”の船歴を知ることなく、そのように言い伝えていたのであろう。ドイツ製といわれた所以は不明である。なお、“四山丸”が廃船になった時期は終戦頃であったとのこと。

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▲三池築港浚渫船瓊ノ浦丸   ◇絵葉書所蔵:管理人
THE TAMANOURAMARU, DREDGING-BOAT, AT MIIKE CONSTRUCTING HARBOR. (末藤発行)

浚渫工事 その5 「新たな浚渫船“瓊ノ浦丸”登場」

悪戦苦闘しながらも、何とか歩みはじめた“四山丸”による浚渫作業・・・突堤のかさ上げ効果もあって、その後も順調に作業は進みます。1906(明治39)年9月には、北突堤先端の灯台付近まで、干潮面以下18呎(約5.5m)まで航路浚渫を一通り終えたのでした。“浚港丸”による浚渫をはじめて以来約4年、“四山丸”が就航して約2年の歳月が流れていました。“四山丸”は、いよいよ最後の浚渫箇所である、外海より航路入口付近の航路浚渫に着手するに至ったのです。ここにきて、浚渫工事は最終局面を迎えたかに見えますが、またまた問題が噴出。最大の問題点は、開港(明治41年4月)までに予定されている最低限度の浚渫作業が終わらない可能性が出てきたことです。その原因について『沿革史』は、以下の3点を上げています。*注1
①すでに浚渫作業を終えた突堤内の航路にかなりの量の泥土が堆積しており、新たに追加の浚渫作業が必要であること。*注2 ②内港航路の浚渫作業がまだ完了していないこと。③“四山丸”がこれから取りかかる外港航路筋の浚渫作業の困難が予想され、予定通りに完了できるか不安であること。
さらに、開港後も継続する浚渫作業において、現有浚渫船の能力では不十分であることが憂慮されていました。

このような背景のもと、新たに増備された浚渫船が、今回話題にする“瓊ノ浦(たまのうら)丸”です。船名の「瓊(たま)」は美しい玉(宝石)のことで、「瓊ノ浦」とは「美しい玉(宝石)のように光り輝く海、港」という意味があります。実は、この「瓊ノ浦」というのは、長崎の古名(古い名前、地名)です。そして、“瓊ノ浦丸”はその長崎から三池にやってきた浚渫船でした。*注3
1906(明治39)年5月末、“瓊ノ浦丸”は長崎より廻航され、機械類などのメンテナンスを施した後に、8月より本格操業を開始しました。担当した浚渫箇所は、内港航路筋の浚渫作業です。*注4

さて、ここからはTOPの写真を参照しながら、“瓊ノ浦丸”の浚渫機能について詳しく見ていきましょう。写真を見て分かるように、先に見た“四山丸”とは全く違った船形をしていますが、浚渫機の種類は吸揚式浚渫機((Suction Dredger or Pump Dredger)です。『沿革史』ではアトラス式浚渫機械船とも記されているもので、正確にはカッター(Cutter:抉土器/土をえぐる道具)付き吸揚(喞筒=ポンプ)式浚渫機と言えます。*注5 
写真左手の船首部分に大きく張り出した桁から、ラダー(Ladder:梯子状のもの)を水底に降ろします(写真では水面下にあり、左右、上下に動く)。ラダー先端部には、カッターが取り付けられていて、回転しながら水底の泥土を抉(えぐ)ると同時に、カッター車軸の中央部に取り付けられた吸水管に泥水を吸い込みます。*注6 離心動ポンプによって吸い込まれた泥水は、途中ポンプ手前に設置された石箱にて礫(れき)を取り除かれ、排水管に送られます。*注7
排水管は海上の浮艇に連なって、最大総延長は1800呎(約548m)まで可能であり、浚渫された泥土はすべて第一期埋立工事区域に直接排土されたのでした。また、船体の中央部に注目すると、操業室を配置した上甲板が設置されており、作業に関する様々な操作を一括して行うことが可能であったことが“四山丸”とは違った特徴でしょう。

浚渫工事の最終コーナーにて新たに増備され、三池築港工事で活躍した“瓊ノ浦丸”・・・。実は、その浚渫能力ゆえ、いち早く三池港からその姿を消すことになります。“瓊ノ浦丸”は、硬質土層の浚渫には不適当であり、専ら内港における水底表面の泥土浚渫作業に従事していました。開港後の内港浚渫作業にもめどがついた1916(大正5)年、若松築港会社に75,000円(当時)にて売却されてしまいます。*注8 その後“瓊ノ浦丸”は、若松築港会社にてその役目を終え、油倉庫として利用されていたようですが、1931(昭和6)年2月5日に火災をおこし焼失したとのことです。
三池築港工事での使用期間は、10年余りと短かった“瓊ノ浦丸”の最期をお伝えして、今回の浚渫工事 その5「新たな浚渫船“瓊ノ浦丸”登場」を終えたいと思います。

(つづく)



◆注1  『三池港務所沿革史』第五巻 三池港(其二)第二章三池港の維持 第六節浚渫及埋立 第一項浚渫 142,143頁を参考に記述した。

◆注2 記録によると、18呎(約5.5m:実際は平均19呎程度に浚渫との記録あり)に浚渫した航路内で2、3呎(約61~91㎝)、中でも港口南側付近の航路はひどく5、6呎(約1.5~1.8m)もの土砂堆積があったようだ。その原因について、「内港海底に堆積した泥土が潮流や風涛によって崩潰し、浮遊泥となって放出されて航路内に堆積したもの」であり、「後年これらが除去されれば堆積量も漸次減少するであろう」と、当時は考えられていた。実際は、潮流による土砂流入が原因であり、現在の三池港においては、航路先端域で30~50㎝/年、航路内港側や内港泊地で10~20㎝/年という土砂堆積がある。(参考:沿岸技術研究センター論文集 No.11『三池港における航路埋没対策について』2011年)
なお、開港1年前の1907(明治40)年になって、航路内の浚渫深度は、干潮面以下21呎(約6.4m)に変更された。

◆注3 “瓊ノ浦丸”は、明治30年頃、長崎港湾改良工事に際して東洋浚渫株式会社(明治29年10月設立、設立時の社長は松田源五郎)が米国より輸入(製造所は不明)し、三菱長崎造船所で組み立てられた。1906(明治39)年5月、三井鉱山合名会社九州炭礦部(当時)は、東洋浚渫株式会社と売買契約書を交わし、85,000円(当時)にて購入した。

◆注4 “瓊ノ浦丸”が本格操業を開始した頃、“四山丸”は深川造船所(深川嘉一郎が、保有する船舶の修理を自前で行うために、明治16年に自前の修理施設を大川・若津港に設置したことにはじまる)にて、約3ヶ月間の定期修繕に入っていた。よって、浚渫工事は“第三浚港丸”の1隻のみが従事していた。

◆注5 アトラス式の名称由来を調べてみたが不明であった。おそらく会社名等が由来と思うが、どなたかご存じの方があればご教授願いたい。

◆注6 カッターの形状は、「直径7呎(約2.1m)、長さ6呎(約1.8m)、歯車9枚」、吸水管直径20吋(約51㎝)、ラダー長63呎(約19.2m)と記されている(注1と同様、207頁より引用)。

◆注7 「離心動ポンプ」は「渦巻きポンプ」とも呼ばれるもので、羽根車(Impeller)の回転による遠心力を用いて送水するポンプのこと。ちなみに、排水管直径18吋(約45.7㎝)で、船体の左右から排水することができた。

◆注8 「若松築港会社」は、1890(明治23)年に、 北九州の若松港を石炭積出港として建設することを目的として設立され、現在も「若築建設株式会社」として存続している。また、「若築建設株式会社」は、会社に関する資料を整理し公開しており、登記上の本店(北九州市若松区浜町1-4-7)に 「わかちく史料館」が併設されている。この史料館には、“瓊ノ浦丸”の図面(一部改造されている)が展示されている。

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▲三井三池港内港ニ於ケル汽船ト浚渫船    STEAMER AND DREDGE IN MITSUI´S MIIKE HARBOR.   
◇絵葉書所蔵:管理人

浚渫工事 その6 「終わりなき浚渫工事」

これまで5回に渡って、築港工事に於ける浚渫工事を見てきました。“浚港丸”によって1902(明治35)年に開始された浚渫工事は、新造船“四山丸”と長崎から購入した“瓊ノ浦丸”の2隻を加え、いよいよ最終段階を迎えていました。1906(明治39)年8月からは“瓊ノ浦丸”が内港航路筋の浚渫を開始、翌1907(明治40)年8月には、“四山丸”と“第三浚港丸”による港口付近の浚渫が完了。そして、同年9月になると、3隻の浚渫船は内港に集結して、内港航路浚渫の仕上げ工事に着手します。1908(明治41)年3月、船渠、閘門に関する工事がすべて竣工し、堤防潮止工事の関係で最後まで保留されていた閘門入口付近の浚渫工事を残すのみとなったのでした。記録によると、最終的な航路浚渫工事の竣工は、1908(明治41)年11月であり、1902(明治35)年6月に開始された浚渫工事は、6年と6ヶ月の歳月を費やしてここに一応の完了を見たのでした。

さて、この章の最初に浚渫工事に関しては、「港の機能拡大のみならず、維持のための未来永劫の工事である」と述べておきました。浚渫工事の最終回として、「終わりなき浚渫工事」と題してここに築港工事後の浚渫工事について若干の補足をしておきたいと思います。
その手始めとして、開港以前の1908(明治39)年12月28日付にて、三井鉱山合名会社が福岡県に提出した「海面使用ヲ港湾修築二変更願」を見てみることにしましょう。この願いは、以下のような前文からはじまっています。

海面使用ヲ港湾修築ニ変更願

當會社ニ於イテ明治三十五年三月十五日附ヲ以テ御許可ヲ得候 福岡縣筑后國三池郡三川村地先海面使用ノ儀ハ 當會社三池炭礦石炭舩積場及貯炭場ニ専用スル目的ニシテ爾来着ニ工事ヲ進捗来リ候處 三池炭礦ノ出炭増加ニ伴ヒ 舩舶出入数モ従テ増加可致シ 付テハ将来ニ於ケル普通貨物輸出入ノ便宜ヲモ予想シ従来ノ設計ニ多少ノ変更ヲ加ヘ 港湾修築ノ工事ヲ経営仕度候間此段御許可被成下渡願上候

要約すると、以下のような内容となります。
「明治35年福岡県より海面使用許可をいただき、三池炭鉱専用の港建設工事を進めてきたが、三池炭鉱の出炭量増加や将来石炭以外の普通貨物取扱も予想されるので、これまでの築港計画を多少変更して、港湾修築工事を行いたいので許可のほどお願いします」

さらに、「海面使用ヲ港湾修築二変更願」では「港湾維持の件」として項目を設け、上記内容につづけて以下のような記述があります。

将来本築港ノ維持ノ完否ハ 當會社経営上大影響ヲ蒙ルベキヲ以テ 本港港湾維持ニ要スル費用ハ 當會社ニ於テ鉱業ヲ稼行致居候間ハ 奮テ之ヲ負担スル決心ニ御座候 依ッテ差當リ明治四十一年四月ヨリ明治七十六年三月マデ 満三十五ヶ年間次項絛件ノ下ニ於テ維持費ヲ負担可致候 尤モ満期后ニ至リ當三池炭礦鉱業存続致候場合ニハ 右期間モ自然延長相成候予メ御承認ヲ得度候

三井鉱山合名会社としては、築港工事にめどが立った1908(明治39)年末に、開港後における港の機能維持、拡大のための修築工事を福岡県に願い出ると同時に、港の公共性にも触れながらも、三池炭礦が永続する限りに於いて港の独占的な使用と維持費用の負担を願い出たのでした。三井鉱山合名会社という一企業の独力によるこの築港工事は、公共性が高い港湾建設という視点からすると非常に特異な存在であったといえるでしょう。
*注1

さて、この時点で修築工事として計画されていた内容は、まさに浚渫工事であります。先の願いでは、明治35年からの浚渫工事を継続して、以下のような2つの浚渫工事竣工期限が提示されました。*注2

本港浚渫工事 第一期 着手期 元海面使用許可当時
           竣工期 明治四十一年三月三十一日
          第二期 着手期 明治四十一年四月一日
           竣工期 明治四十七年三月三十一日

航路浚渫工事 第一期 着手期 元海面使用許可当時
           竣工期 明治四十一年三月三十一日
          第二期 着手期 明治四十一年四月一日
           竣工期 明治五十一年三月三十一日

このようにして始まった開港後の浚渫工事を、“浚港丸”改造についてと、年次毎の内港浚渫工事を中心に見ていきましょう。
まずは“浚港丸”の改造ですが、その目的は絶えず泥土が堆積する航路浚渫作業の効率化にありました。特に港口付近での浚渫作業は波濤の影響も大きく困難が予想されましたし、航路を船舶が行き交う中での作業となることから、“四山丸”や“瓊ノ浦丸”による排土管を使った浚渫作業は不適格です。さらに、現有浚渫船のすべてが非自航式であり、狭い航路内での浚渫作業を臨機応変かつ効率的に行えないといった課題もありました。そこで考え出されたのが“浚港丸”改造ですが、具体的には以下の3点にまとめることができます。

①土艙(ホッパー)を持つ木造船を新造する(横須濱造船所にて建造) *注3
②プリストマン機2台を有する(第二、三浚港丸の分を移設)
③自走のための機関を設置する(もと第一浚港丸のもので、一時火山灰製造機に利用した機関)*注4

この様にして、3隻の“浚港丸”をミックスして完成した新“浚港丸”は、1909(明治42)年8月に就航し、港口をはじめ航路の浚渫作業を始めたのでした。*注5

次に内港浚渫工事について、開港後の作業内容を、昭和初年頃まで年次毎に簡単にまとめておきます。*注6

1908(明治41)年:“瓊ノ浦丸”による航路筋両側拡張、入渠待ち船仮泊場となる航路南側浚渫干潮面以下八呎五吋(約2.6m)に浚渫した後、“瓊ノ浦丸”の能力限度である干潮面以下一五呎五吋(約5.3m)まで浚渫。

1910(明治43)年:“四山丸”にて航路北側、南側浚渫を開始。翌年には、航路北側を干潮面以下一二呎(約3.7m)に浚渫終える。残るは、約6分の1の洲のみとなる。

1913(大正 2)年:“四山丸”にて、大型船誘致策として東側繋船壁前を、長さ一,000呎(約304.8m)巾員六00呎(約182.9m)深さ二四呎(約7.3m)に浚渫を開始。

1915(大正4)年:航路付近を一八呎(約5.5m)に、その他は六呎(約1.8m)乃至 一八呎(約5.5m)に浚渫完了。上層軟泥土部分の浚渫を終え、以後下層硬質粘土層に入るため、“瓊ノ浦丸”を繋船することとする。(翌年、若松築港株式会社に売却)

1918(大正7)年:“四山丸”にて、北側全区域を二六呎(約7.9m)までの増深工事完了。大型船の入港増加に伴い、さらなる増深工事の必要が生じたため、“四山丸”の浚渫能力を高め、最大浚渫深度四六呎(約14.0m)とする。

1920(大正9)年:北側五万三千五百坪の全区域を、三0~三一呎(約9.1~9.5m)に浚渫終える。

1923(大正12)年:内港北側に、内港積本船繋留浮標設置のため、設置附近を三五呎(約10.7m)に浚渫する。*注7

1926(大正15)年:内港繋船壁築造、新式積込機設置に応じ、繋船壁附近を増深する。

1927(昭和2)年:内港航路筋を、西部は三一呎(約9.5m)、東部は三五呎(約10.7m)に浚渫完了。



浚渫工事については、内港における大型船の積み込みが可能になったことを見たところで終了いたします。
次回からは、いよいよ石炭の積み込み施設について述べようかと思いますが、調査・研究のためにしばしお休みいたします。『三池築港百話』の再開まで、今しばらくお待ち下さいませ。




◆注1 「海面使用ヲ港湾修築ニ変更願」の最後に、港名は三池港とすることが付け加えられている。

◆注2 「海面使用ヲ港湾修築ニ変更願」では、浚渫工事以外に ①港銭徴収の件 ②無料海面使用の件の2点について記載されているが、ここではその内容を省略した。

◆注3 横須濱造船所は、官営時代の1884(明治17)年につくられ、三井移管後は三井物産大牟田出張所所属を経た後、1894(明治27)年に三池炭鉱製作課付属の施設となる。

◆注4 築港で使用するセメントには火山灰が混和剤として用いられたが、その際に第一浚港丸から流用した機関を使った「火山灰製造機」によって火山灰を焼成したと思われる。

◆注5 ちなみに、プリストマン機を撤去された第二、第三浚港丸の船体には排土用のポンプが設置され、それぞれ三池港と大牟田川に係留しながら浚渫作業に活用された。なお、プリストマン機2台が設置された新浚港丸の写真は残されていないが、第57話で取り上げたHPに同様の機能を持った浚渫船が掲載されているので、参考までに以下に掲載しておく。

イメージ 2
▲DOUBLE DREDGER, FOR BRAZIL
 MESSRS. PRIESTMAN BROTHERS, HULL, ENGINEERS.

◆注6 三井鉱山五十年史編纂委員会編 『三井鉱山五十年史稿』1944年 (未刊行)
巻14:第7編 工作  83~86頁をもとにまとめた。

◆注7 この頃、これまで口之津港にて積み込みをしていた大型青筒船(英国の名門船会社 Blue Funnel Line は、所有船舶の煙突を青一色に塗っていたことから青筒船と呼ばれた)を三池港に回航し、内港にてエレベーター積施設にて積み込みを開始した。その様子は、当ブログ内の以下のページを参照のこと。
http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/36934492.html

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