▲四ッ山築港の眞景 VIEW OF YOTSUYAMA PORT. (末藤書畫店發行) 絵葉書所蔵:管理人
浚渫工事 その2 「目まぐるしき浚渫作業」
前回は、プリストマン式浚渫船の“浚港丸”によって、築港工事の先陣を切って浚渫工事が開始されたことを述べました。そこで今回は、“浚港丸”による浚渫作業はどの様に行われていたのか?その実際を詳しく見ていくことにしましょう。題して「目まぐるしき浚渫作業」。持てる3隻すべての浚渫船を投入して始まった三池築港の浚渫作業ですが、川幅も狭く軟弱な泥土を浚渫していた大牟田川での作業と、三池築港での作業は自ずと異なる条件がありました。その辺りの事情を、まずは『沿革史』の記述をもとに繙いてみることにしましょう。*注1
干満ノ差最大十八尺ト言フ稀レニ見ル所大ニ、潮流モ速キ箇所ハ三浬/時モアリ、亦地層ニ於テモ地盤下十二/十三尺以下は殆ンド砂利混リノ硬質粘土ナルガ故ニ、浚渫機艇モ普通の吸引式デハ殆ンド効果ナク、又プリストマン式或ハカッター式浚渫機ニシテモ甚ダ効果薄デ、殆ンド総テノ点ニ於テ可成ノ悪条件ヲ具有シテヰタ文ニ、本工事ハ相当困難ヲ供シタノデアル。
「干満ノ差最大十八尺ト言フ稀レニ見ル所大」は、大牟田川も同じ条件であったと言えますが、ただその作業規模が桁違いに大きかったといえます。プリストマン式浚渫船の“浚港丸”は、船体に浚渫した土砂を入れる土槽(ホッパー)は装備されていませんでした。よって、浚渫した泥土は、“浚港丸”に横付けした泥運搬船に積み入れ、所定の捨場まで回航するといった作業が発生します。*2
そして、泥運搬船を埋立地などの泥捨場に回航した後は、鍬をもって人力にて泥土を切り出すという、非常に労力と時間を浪費する方法がとられていました。しかも、浚渫された泥土は、当初はすべて第一期埋立工事の石垣根土(土台)として利用されていましたが、*注3 漲潮時でないと作業ができにくく、わずかの潮間に限って泥土を切り出さねばなりませんでした。
さらに、浚渫場所の周囲は前回掲載した『沿革史』に述べられているように、内港で干潮面以上6呎(約1.8m)もの干潟となるわけですから、落潮時にも浚渫ができるよう、潮がある内に泥運搬船を数隻準備しておかねば作業が中断してしまいます。この様な状況下での浚渫作業について、『沿革史』は次のように述べています。*注4
色々面倒ナ作業ヲ満潮前後僅カノ潮間ニ処理シナケレバヌノデ、其ノ間ノ泥船作業ハ非常ニ多忙ナ訳デ、当時泥船ノ作業ハ戦場ノ様ナ目苦シサヲ呈シタルトノコトデアルガ、水夫等ノ働キモ亦目醒シキモノガアッタト云フ。其為メ、当時潟切出シ作業ハ、切出坪数ニ依ル奨励歩増支給制度ガ設ケラレテアッタ。
以上の記述からは、当時の浚渫作業が非効率的であり、また干満の差が激しい有明海の悪条件がよく伝わってきます。この様に困難な作業でしたので、その能率を高めるため、船渠築造の折の潟堀人夫と同様、浚渫作業においても作業量に応じた奨励金が支払われたようです。
さて、次に注目したいのは、「地層ニ於テモ地盤下十二/十三尺以下は殆ンド砂利混リノ硬質粘土ナル」という部分です。内港の水底ボーリングの結果を見ると、泥土や青粘土層の間に小砂利混じりの粘土や泥土層が幾層にも積み重なっていることが見てとれます。*注5 大牟田川などと比較すると、浚渫する水底の地質が硬質であったと言えます。そのため、プリストマン式のグラブバケットは表層の軟弱泥土はともかく、地盤下十二/十三尺以下には食い込むことなく、浚渫不能であったといえます。また、吸引式やカッター式浚渫機を使用しても、その効果は期待できないと述べられています。*注6
そここで、これまで述べてきたような初期浚渫工事の状況を打開するために、新たな新造浚渫船が計画されることになりました。こうして誕生した新造浚渫船が“四山丸”です。次回は、この“四山丸”について詳しく見ていきます。
最後になりましたが、今回のTOP写真は、開港(1908、明治41年)頃の三池港です。注目は、干潮時の三池港内港の真ん中を貫く浚渫を終えた航路でしょう。ご覧のように、航路周辺の内港はいまだ浚渫が行われておらず、干潟が広がっています。この干潟を浚渫する工事が、開港後も地道に行われることになります。また、右上部には、1906(明治39)年に新たに導入された浚渫船“瓊ノ浦(たまのうら)丸が写っています。さらに付け加えると、絵葉書のキャプションは「四ッ山築港の眞景」となっており、三池港の命名が行われる以前は、「四ッ山築港」と呼ばれていたことが分かります。
(つづく)
◆注1 『三池港務所沿革史』第五巻 三池港(其二)第二章三池港の維持 第六節浚渫及埋立 第一項浚渫 85頁より引用
◆注2 『沿革史』では、泥運搬船を泥船(または土砂受船、土運船)と称している。1885(明治18)年に“浚港丸”が配備されると同時に、段平船(和船の一種で、船幅が広く喫水が浅い平底の船。団兵衛船、団平船などとも標記される)数隻が泥船として購入されている。当時は、1隻の泥船に4人の水夫が乗り込み、水棹にて回航していた。なお、三池築港工事が開始される際に、不足することが予想された泥船を、長崎物産支店長(三井物産長崎支店長)を通じ、長崎市の松尾長太郎(元、三井物産口之津支店長:第十九話参照)から18隻購入した記録が残されている。新たに購入した泥船には数隻の底開船が含まれていたが、これらの泥船はもっぱら航路突堤外の土砂捨場内における海中投棄に用いられた。
◆注3 「第一期埋立工事」とは、第一区として船渠周辺部の潮止堤防に囲まれた埋立工事を(船渠掘鑿土により埋立)、第二区として内港防波堤に沿った細長い埋立工事を指す。ここでは、内港防波堤の石垣根土(土台)として浚渫土が利用されたと理解できる。(埋立地の詳細は、第五十六話掲載の「築港計畫平面圖」を参照のこと)
◆注4 注1と同様 105頁より引用
◆注5 注1と同様 191頁掲載の 海床標高及土質「内港地域内(埋立地々層断面図、建築試錐第十一図、拾貮ヶ所試錐地平均)」による
◆注6 吸引式とは、船から吸込管を水底に降ろし、ポンプにて土砂を吸い上げるタイプの浚渫機。カッター式とは、ラダー(梯子状のもの)先端にとりつけられたカッターにより海底地盤を掘削するタイプの浚渫機。その多くは、掘削した泥土をポンプにより吸入・送泥を行う。