炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 三池築港百話

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▲1891(明治24)年頃の “龍宮閣”              ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館
  

閘門築造 その1 「閘門はシングル・ゲートにすべし」

三池築港百話 第三十九話は・・・
『閘門築造 その1 ~閘門はシングル・ゲートにすべし~』

しばらくぶりの三池築港百話でございます。
今回から、いよいよ三池築港工事の要(かなめ)である、閘門築造について述べていきたいと思います。

時は、船渠築造とほぼ同じ頃の1905(明治38)年1月24日、閘門築造の根堀工事が開始された・・・
と、その詳細を述べていきたいところですが、残念ながら『三池港務所沿革史』には閘門築造に関する詳細な記述は見当たりません。
(私の読み込み、調査不足であるかもしれませんが)
よって、残された図面や写真をもとにして、私の説明できる範囲で閘門築造について見ていきたいと思います。

さて、“閘門”という語句を目にすることは、皆さんほとんどないのではないでしょうか。
あるとすれば、いずれも運河としての“閘門”であり、三池港のように港湾に設置された閘門は日本においては唯一の例といえます。(注1)

“港湾工学の父”と呼ばれた廣井勇が著した『築港』から、閘門に関する記述を拾い出してみると・・・(注2)

閘船渠ハ専ラ干満ノ差著シキ地ニ施設スルモノニシテ 殊ニ河港ニ於テ其多キヲ見ル 所以ノモノハ高潮ヲ利用シ其前後ニ存リテ河流ヲ遡ル船舶ヲ安全ニ繋留シ 貨物ノ積卸ヲ施スヘキ唯一ノ方法ナルヲ以テナリ  本邦ニ在リテハ (中略) 将来ニ於テモ恐クハ其施設ヲ見ルコトナカルヘシ 故ニ此等ニ関スル詳説ヲ省キ只其梗概ヲ記述スルニ止ムヘシ


このように、日本では例を見ない港湾の閘門としての三池築港ですが、実は三井鉱山が三池の地に閘門を築くのはこれが初めてではありません。干満の差が激しい(約5m)有明海に流れ込む大牟田川河口に、1891(明治24)年 最初の船渠である“龍宮閣”を築造し、その出入り口に閘門(水門)を設置したのが最初です。(注3)
この“龍宮閣”にあった閘門は、いわば木製の水門(注4)でしたが、それは三池港閘門の元祖とも言える存在でした。その“龍宮閣”の石炭搬出能力を超えることから、より近代的で大型船の入港を可能とする新たな築港計画が生まれたことは既に述べたところです。(注5)

この三池築港に関して、『男爵 團琢磨伝』は以下のように述べています。(注6)

この築港の特色は閘門がシングル・ゲート式なる点である。当時君(團琢磨)は範を英国に取りこれに新工夫を加へて設計した。


また、『牧田環談話』には、「港の設計はシングル・ゲートになって居りますけれども、是が大分問題になったやうに聞いて居りますが・・・」というインタビュアーの質問に対して、以下のようなくだりがあります。(注7)

それは水がぐうっと上がって来て十尺になると水門が開く。十尺以下になると水門を閉じてしまふから、其の間楽に船が通れる。ダブル・ゲートになれば何時までも出られるから其の必要はなからう。(後略)


簡単にこの内容を解説すると、ドック(船渠)の閘門としては、単純化すれば構造的にはシングル・ゲート(単門式)とダブル・ゲート(複門式)の2種類があります。ここで問題になったのは、閘門の門扉を一カ所にするのか、二カ所にするのかということです。

次回は、港の要である閘門について、シングル・ゲート(単門式)にすることが論議されたことに注目し、さらに考察を深めていくことにいたしましょう。


最後に、今回のTOPの写真は元祖三池港ともいえる“龍宮閣”の姿です。
大牟田側河口南側より見た写真で、船渠である“龍宮閣”の出口として機能した閘門(第三水門)が見て取れます。船渠奥の高架桟橋もまた、後ほど述べる三池港の高架貯炭桟橋・貯炭トンネルの原型といえるものでしょう。船渠内に林立する帆柱に、時代を感じることができます。




(つづく)




◆注1 正確には、三池港以外に港湾の閘門として、現在稼動しているものが以下の2例あります。
    尼崎西宮芦屋港(尼崎閘門:閘門式防潮堤)、名古屋港(中川口閘門:中川運河)

◆注2 廣井勇 『築港』 丸善株式会社 明治40年3月発行 
     【後編】第一章 船渠 16頁 「閘船渠」より引用

◆注3 詳しくは、当ブログ内の以下の記事を参照して下さい
     http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/11960014.html

◆注4 観音開き式のゲートであり、このような形式をマイターゲートと言う。三池港閘門のゲートも、鋼鉄製のマ     イターゲートである。

◆注5 詳しい経緯については、当ブログ内の以下の記事を参照して下さい
     http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/31436676.html?type=folderlist

◆注6 『男爵 團琢磨伝』昭和13年1月発行 
     【上巻】 第三十三章 大牟田の築港 282頁から引用

◆注7 『牧田環談話』 第二回   森川英正 『牧田環伝記資料』 日本経営史研究所 
     昭和57年12月発行259頁 所収

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▲1908(明治41)年3月 船渠側から見た三池港閘門    ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館
  

閘門築造 その2 「閘門はシングル・ゲートにすべし その2」

三池築港百話 第四十話は・・・
『閘門築造 その2 ~閘門はシングル・ゲートにすべし その2~』

前回に引き続いて、三池築港工事の要(かなめ)である閘門築造に関し、閘門をシングル・ゲートとした理由について論考を進めてまいりましょう。
早速、『牧田環談話』で述べられていた、シングル・ゲートとダブル・ゲートの違いについて見ていきましょう。

ダブル・ゲートの場合は、2つの門扉の間を閘室とよび、潮位が低い時に船をこの閘室内に入れ入口側の門扉を閉じます。その後、ドック側から通水口を通じて閘室内へ水を入れ、閘室内とドック内との水位が同じになった後にドック側の門扉を開き、船をドックへと進めます。この場合、干潮時にも閘門入口まで船が進入できれば、常時ドックへの入渠及びドックからの出渠が可能となります。
ところが、シングル・ゲートの場合は満潮を待たなければドック入口の門扉を開くことはできず、常時ドック内に船を進めることはできないことになります。
以上述べたような内容と同様のことを、二つの閘門の違いとして牧田環は先の談話で述べたのですね。(注1)

ちなみに、石黒五十二が計画した青写真によると、ダブル・ゲート方式で、ドック入口には閘室があり、その先には潮待ちの外渠が計画されていました。(注2)

これら二つの閘門のどちらを採用するかについては、計画段階で論議になったというのが『牧田環談話』にあるところの「港の設計はシングル・ゲートになって居りますけれども、是が大分問題になったやうに聞いて居りますが・・・」であると思われます。
結論的にいえば、三池築港においてはシングル・ゲートが採用されることになるわけですが、その理由をいくつか探るとすれば・・・

一つ目に、有明海の干満の差が最大で約5m。この干満の差であれば、シングル・ゲートにても、ドックへの入渠時間が十分確保することができること。
ちなみに、干満の差はカージフ港で約8m(注3)、仁川港で約9m(注4)、ル・アーブル港で約6m(注5)。カージフ港と仁川港の閘門はダブル・ゲート、ル・アーブル港の初期ドックはシングル・ゲートでした。

二つ目に、石炭積出専用港として、ある程度の時間的拘束は受けるものの、石炭の積み込み時間などを考慮するとシングル・ゲートでも十分対応できる。
廣井勇は『日本築港史』の三池港の項目の附記として、以下のように三池港のシングル・ゲートを評価、論評しています。(注6)

三池港ハ前述ノ如ク閘船渠ヲ其主體トナシ 仁川港ヲ除キテハ東洋ニ於テ他ニ類例ナク而モ単門式ニシテ運用上船舶ノ出入ニ對シテハ不便少ナカラサルヲ以テ一般ノ商港タルニ適セスト雖モ 其目的専ラ石炭積出ニアルニヨリ出入時間ノ制限ハ甚シキ苦痛タラサルノミナラス渠内水面ノ略一定セルハ陸上設備ノ連絡上ニ利便ノ多キ言ヲ俟タサルナリ 然トモ将来一般貿易港ノ大ニ発達スルアラハ複門式閘船渠ニ改築スルヲ利アリトスヘク 航路モ亦タ其幅及ヒ水深ヲ増大スルノ必要アルヘシ


三つ目に、シングル・ゲートの建設費は安価であり、ダブル・ゲートに比べる経済的に優位であることが理由として考えられます。また、設備の維持管理面においても安く済むことでしょう。

ところで、閘門の最大の要件は“ドック内の水を漏らさない”ということに尽きると考えられますが、この安全性・信用性において『團琢磨伝』は次のようなエピソードを伝えています。(注7)

当時物産会社の船長はいづれもこのシングル・ゲートを危険視して三池港には入船せずとまで反対したが、独り島原に居る愛蘭土生のキャプテン・ホルストロームは君の計画に賛成して干満潮の差英国のそれより少なき此地にはシングル・ゲートにて然るべき旨を主張し、今日まで入港の船体に何等の故障も無く一萬噸の運送船岸壁に無事横附けしつつある。最初はキャプテン・ホルストローム水先案内に当たって居たが今日は日本人にて其務を果たして居る。君もこの成績の良好なるには頗る得意であった。


以上、三池築港のシングル・ゲートにこだわって縷々述べてきましたが、築港後100年以上たった今も現役で、大きな事故や問題もなく稼働している閘門。シングル・ゲートの選択は間違いなかったと思われます。
ただ、時代は経て昭和を迎える頃には、閘門設計時に想定した船舶より更に大型の船を受け入れるため、閘門に守られたドック(船渠)とは別の荷役施設が必要となり、新たな岸壁が築造されたことを申し添えておくといたしましょう。

最後に、今回のTOP写真はドック側から見た閘門の姿です。まもなくドック内に海水が入れられ、三池港の竣工を迎える頃。
1908(明治41)年3月14日、井上馨侯を迎え船渠内に入水が開始されるのでした。



(つづく)


注1 閘門の構造の詳しいことについては、以下のページを参照して下さい。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%98%E9%96%80

注2 詳しくは、当ブログ内の以下の記事を参照して下さい。
    http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/20211795.html?type=folderlist

注3 イギリス 南ウエールズの港。詳しくは、当ブログ内の以下の記事を参照して下さい。
    http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/21338575.html?type=folderlist

注4 韓国 黄海に面した港。大正時代に、日本の手によってダブル・ゲートの閘門とドック(船渠)が築造された。    参考のため、ダブル・ゲートである仁川港閘門の築造時の写真を以下に掲載しておきます。

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▲絵葉書 朝鮮仁川港閘門        ◇管理人所蔵             


注5 フランス ドーバー海峡に面した港。廣井勇『築港』では、ル・アーブル港の閘門について以下のような記載    がある。
    「ル・ハーブル地方ニ於ケル干満ノ差ハ大潮ニ於テ七米余ノ多キヲ有セルノミナラス其滞水時間殊ニ長ク    シテ満潮ノ前後ニ於テ僅カニ十五糎ノ昇降ヲ呈スルニ過キス 是ヲ以テ其船渠ハ殆ント三時間ノ長キニ亘    リテ開放シ置クコトヲ得ヘシ 是レ単門式ヲ採用セシ所以ナリ」

注6 廣井勇 『日本築港史』 丸善株式会社 昭和2年5月発行
    三池港 附記 194,5頁より引用 

注7 ホルストローム船長については、後ほど別の項目(三井物産の船舶など)で詳しく触れることとしたい。

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▲三井三池閘門之景   WATER GATE AT PORT MIIKE  (停車場前山田発行) 

閘門築造 その3 「閘門通過の船は1万トン級にすべし」

閘門築造に先立って、その基本構造となるシングル・ゲートについての考察を2回にわたって進めてきました。
今回はゲートの幅に着目して、閘門の基本設計に迫ってみたいと思います。
題して、『閘門通過の船は1万トン級にすべし』

早速ですが、閘門の基本設計に関わることについて、『牧田環談話』には以下のような内容が記されています。
*注1

三池の港は干満の差が十八尺ある。其の間に十尺だけの潮をためてやると云ふのが三池の設計です。それで潮流の変化が多いから閘門を造らねばならぬ。閘門を造ると両方の門の防御壁が要る。ドアーの扉が要る。其の幅が此の中に入れる船の大きさに非常に影響する。その幅を広くすればどんな大きな船でも入るけれども、篦棒に金が掛かる。それで此処に入る船を一万噸にしよう。其の当時は一万噸を標準にする。船の幅は六十尺の幅までの船を入れる。六十六尺あるから三尺づつ隙間がある。隙間の間はずつと通して入れると云うことで設計して開いた。


要は、三池港閘門の基本コンセプトは、閘門通過可能な船舶は1万トン級とするということです。それでは、実際の閘門設計はどのようになされているのか?
その概略を『沿革史』や図面を元に確認しておきましょう。*注2

○幅  員  六十六呎(20.12m)
○高  さ  三十九呎六吋(12.07m) 
○水  深  L.W.L.(干潮位)  十八呎 (5.486m) 
       D.N.L.(渠内水位) 二十八呎(8.534m) 
           H.W.L.(満潮位)  三十六呎(10.97m)
○形  式  単門式(シングル・ゲート)
○門  扉  鋼鉄製門扉二葉  観音開き式(マイター・ゲート)
       重量 九十一噸四分(一葉)
○補助水堰  閘門両側 各五個一連 引上げ式(スルース・ゲート)

ここで、若干の解説を加えておきましょう。
閘門の幅員と高さは、ほぼ20mと12m。
牧田が言うように、1万トン級の船舶が通過できる幅で設計されていますが、高さや水深については特に解説が必要かと思います。
先に水深に関する用語ですが、詳しく記載すると L.W.L.(Low Water Level)は朔望平均干潮位、 H.W.L. (High Water Level)朔望平均満潮位、 D.N.L. (Dock Normal Level)船渠通常潮位 となります。牧田が述べていたとおり、三池港船渠(ドック)の通常の潮位は二十八呎を保つということが基本となっています。*注3
ということは、D.N.L.に合わせて門扉の設計もなされているわけで、門扉鉄板部分の高さは、D.N.L.と同じになっています。
また、花崗岩でできている閘門壁の高さは三十九呎六吋となっています。H.W.L.が三十六呎ですので、それより三呎六吋高いということになり、門扉の高さと同じとなります。ただし、この三十九呎六吋という高さは門扉の外側、すなわち内港側の高さであり、船渠(ドック)側の高さはこれより2呎高くというか“深く”なっています。このことについては、門扉の構造のところで、また詳しく触れることにいたしましょう。

さてここでもう一点解説が必要なことは、補助堰堤についてでしょう。『沿革史』では、この補助堰堤の役割について以下のように述べています。

閘門ヲ出入スル潮流ハ干満ノ差最大十八呎ニモ及ビ其ノ潮流ノ速度ハ急激ナル為 閘門ノ潮流ヲ緩和セシムルト共ニ 必要ニ応ジ渠内ノ水位ヲ六呎マデ低降シテ門扉開閉ノ時刻ヲ早メントスル水位調節ノ便ヲ計ル為メ閘門両側ニハ各五個ヲ以テ一連トスル補助水堰ガ設置サレテヲル

「必要ニ応ジ渠内ノ水位ヲ六呎マデ低降シテ」の箇所が疑問に思われるでしょうが、この補助水堰は閘門より高いところに位置しています。*注4
その底面は、D.N.L.より六呎低い高さで設計されています。この「水位ヲ六呎マデ低降」の意味は、この補助水堰の扉の高さと同じと考えます。要するに、潮が満ちて来るときには開門し、逆に潮が引く時には扉を降ろして閉門し、D.N.L.に合わせて閘門開閉の補助的役割をする・・・。

ちなみに、現在の補助水堰扉は、常時降りたままの状態になっています。


最後に今回のTOP写真は閘門竣工時の様子です。閘門外側から船渠(ドック)を眺めた様子となります。これから、船渠内に海水が注入されるところだと思われます。

閘門の青写真が、実際に目の前に実物となって現れた記念の写真と言えるでしょう。



(つづく)




注1  『牧田環談話』第二回 昭和14年12月21日談話
    森川英正『牧田環伝記資料』日本経営史研究所 昭和57年12月発行258頁より引用
    引用文中「尺」とあるが、これは「呎」(フィート)の間違いと思われるが、そのまま表記した。

注2  『三池港務所沿革史』第四巻 三池港 其一 を参考にした

注3  L.W.L.、H.W.L.については、下記HPをご覧ください。
    http://www.watanabesato.co.jp/pavements/knowledges/cwater.html

注4  前回の、第四十話『閘門築造 その2』TOP写真を参考までにご覧ください。

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▲閘門ゲート設置全般図  Design for Dock Entrance   
    2008年 三池港開港百周年記念展示複写  三池港物流カンパニー(当時)の許可を得て撮影

閘門築造 その4 「閘門は三池築港の要なり」

今回から、実際の閘門築造について、より具体的にその様子を見ていくことにいたしましょう。
題して、「閘門は三池築港の要(かなめ)なり」

閘門築造のはじめ、閘門部分の根堀工事が開始されたのは、1905(明治38)年1月24日のことでした。すでに1903(明治36)年頃には、船渠係船壁の位置決定と時を同じくして、閘門の位置決定がなされたのではないかと考えられます*注1

『沿革史』では、閘門に関する説明が以下のような書き出しで始まります。*注2

閘門ハ渠内ノ水源ヲ一定ノ深サ以上ニ維持シ 大型舩ノ渠内繋留ヲ完全ニシ 舩荷ノ積卸ヲ便ナラシメル為メ渠内ト内港トノ間ニ設備サレシモノデ 三池港築港工事中最モ重要ナル工事ニ属シテイル

『沿革史』の記述にたよるまでもなく、この閘門築造工事が三池築港の最重要工事であることは自明のことと思われます。
『鋼製ゲート百選』の巻頭言に記されている「ゲート五訓」中に、次のような言葉が述べられています。*注3

 大なる堤体にありて、大ならざるもその役割機能は人体の心臓のごとく枢要たるもの                                        それがゲートなり
まさしく、閘門の意義、その重要性を語って妙であると思います。

さて、当時の閘門築造工事の様子を、残された貴重な写真や図面を元に見ていくことにしましょう。
まずは、次の写真をご覧ください。

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▲1905(明治38)年頃 閘門基礎杭打工事と荷揚桟橋     ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館


この写真を見て驚くことは、閘門基礎部分の杭打ちの多さです。

“三池築港の要”とする閘門を象徴する写真ではないかと思います。閘門位置の選定については、当然できるだけ固い岩盤上に堅固な閘門施設を築くというのが基本的な考えではないかと思いますが、念には念を入れた基礎杭打ち工事を行ったのでしょう。写真からは、地盤の軟弱箇所でしょうか、場所によっては杭の密度が高いように思えます。また、TOPの図面からは、閘門水路部分の杭の密度が高く、両脇に設置された補助水堰部分に向けて階段状に地盤が高くなっていることが読み取れます。

さらに、写真からは杭打ち工事後のコンクリート基礎打ちの様子が見て取れます。
軽軌道を敷き、ナベトロにてコンクリートを運搬しています。図面にて、閘門部分断面図のコンクリート表示を見てみると、3種類のコンクリートがあったのではないかと考えられます。船渠係船壁で述べたような工夫がなされたのではないかと思われますが、詳細は不明です。*注4


次に閘門の外壁部の工事状況を見てみましょう。

基本的に花崗岩にて外壁部は作られていますが、水路に当たる部分の側壁は特に丈夫で大きな花崗岩を使用しています。また、図面を見てみると、水路底部にも花崗岩が緻密に敷きつめられていることが見て取れます。特に、門扉(ゲート)部分は円弧状を描きながら敷き詰められ、閘門底面閉口部には大きめの花崗岩が門扉閉鎖時に合わせて斜めに埋められています。*注5

写真や図面からは読み取れませんが、閘門から一段高くなった両脇の補助水堰部分へと連なる外壁には凝灰岩の石組みが補強として組まれ、閘門の姿をより堅固なものとして印象づけています。

花崗岩と凝灰岩がともに堅固に組まれ、その緻密さには美しさをも感じることができる三池港閘門です。

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▲1906(明治39)年頃 閘門基礎工事           ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館



次回は、閘門の門扉(ゲート)について、さらなる探索を進めたいと思います。



(つづく)




◆注1 第三十一話 『船渠築造 その4 ~繋船壁根堀工事~』 参照のこと

◆注2 『三池港務所沿革史』第四巻 三池港(其一)第二章三池港の維持 第三節 閘門 245頁より引用

◆注3 水門の風土工学研究委員会編  『鋼製ゲート百選』 技術堂出版株式会社
     2000年3月発行   竹林征三『鋼製ゲート百選』の発刊にあたり より引用
     なお、ここに引用した「ゲート五訓」は、ダムの堤体とゲートをもとに言い表したものであるが、ゲートの基     本的機能を言い表した言葉と考えここに引用した。

◆注4 第三十四話 『船渠築造 その7 ~船渠繋船壁場所詰コンクリート~』 参照のこと

◆注5 円弧上の部分にはレールが引かれている。詳細は、次回で触れる予定

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▲Thames Ironworks and Shipbuilding Company Limited   
  撮影:1903年     所蔵:National Maritime Museum, London

閘門築造 その5 「閘門は舶来のイギリス製なり」

今回から、鋼鉄製の門扉(ゲート)について詳しく見ていくことにいたしましょう。
題して、「閘門は舶来のイギリス製なり」

早速ですが、今までのおさらいとして、三池港の閘門門扉の基本コンセプトを確認しておきましょう。一にシングルゲート(単門式)、二にマイターゲート(観音開き式)であること。よって、二葉1セットの門扉からなる閘門であること。
この二葉の門扉は鋼鉄製で、イギリスの工場に注文して製作されました。発注先は、“テムズ鉄工所”と『五十年史稿』には記されています。*注1
それでは、この“テムズ鉄工所”なる工場はどのような会社であったのでしょうか。以下このことについて、多少の探索を試みたいと思います。

まずは、TOPの写真をご覧ください。これは、1903(明治36)当時の“テムズ鉄工所”と思われる写真です。この写真によれば“テムズ鉄工所”の正式会社名は、(Thames Ironworks and Shipbuilding Company Limited)訳すれば、“テムズ鉄工造船所”。
調べてみると、創業は1837年にはじまる造船会社で、1857年には“テムズ鉄工所”の元会社となる“テムズ鉄工造船エンジニアリング株式会社”(Thames Ironworks and Shipbuilding and Engineering Company Ltd.)が誕生しています。造船所があった場所は、イーストロンドンのテムズ川河畔、ビクトリアドックの近くでした。

この工場にて製造されたものとして、1859年完成のグレート・ウェスタン鉄道「ロイヤルアルバート橋」(Royal Albert Bridge)、1860年に建造された世界初の全鋼鉄製軍艦「ウォーリア」(HMS Warrior)などが代表的なものとしてあり、当時としては世界最高水準の鉄工・造船技術を擁していたと思われます。このように、造船に限らず高度な技術をもとにした橋梁やトンネルなどの土木関連製品、さらには自動車製造に至るまでその事業を拡大していった会社のようです。*注2

また、造船分野での日本との関係を見てみると、日露戦争に参加した日本海軍の主力戦艦6隻の内、「富士」「敷島」の2隻が“テムズ鉄工造船所”にて建造されています。*3

次の写真は、1898(明治31)年 11月 1日、 “テムズ鉄工所”における「敷島」進水式の様子と思われます。

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       ▲The launch of the Japanese battleship Shikishima at the Thames Ironworks   
          撮影:1898年    所蔵:National Maritime Museum, London


「敷島」の艦歴を調べてみると・・・

計画:1896(明治29)年度 六六艦隊計画(第二期拡張計画)
起工:1897(明治30)年  3月29日
進水:1898(明治31)年 11月 1日
就役:1900(明治33)年  1月26日竣工
除籍:1945(昭和20)年 11月20日

わざわざここに「敷島」の艦歴をあげたのには理由があります。進水した期日に着目です。1898(明治31)年11月 1日・・・これは、ちょうど団琢磨、牧田環、松原嶢の3名がイギリス視察の途上にある頃と一致します。*注4
三池港の閘門門扉が“テムズ鉄工所”に発注されたことから、このイギリス視察途中に一行が“テムズ鉄工所”を訪れたに違いないと推察しました。
早速、『牧田環伝記資料』を繙いてみると・・・ありました “テムズ鉄工所”が。

以下、牧田日記からその該当する部分を引用しましょう。*注5

十一月十一日

八時半起英国有名ノ霧深キコト連日、十一時団氏ト三井店ニ赴ク 直チニ正金銀行ニ立寄リ同店員ノ案内ニテBank of England 参観ニ赴ク (中略) 後三井店ニ立寄リ西川氏来訪 午後二時汽車ニテThames Iron Worksニ赴ク 桜氏ノ紹介ニテ工場ヲ観ル更ニVictoria Dock ニ赴キ一等甲鉄艦敷島ヲ観ル 一万五千噸許十四吋ノ甲鉄板ヲ用ユ 夕刻六時頃帰宿 団松原氏ト夕食更ニ西川氏宅ヲ訪フ不在福井氏方ニ立寄リ会談ス
十一時帰宿


ビクトリアドックにて、建造中の戦艦「敷島」を視察した牧田環ですが、日記中の桜という人物に注目です。この桜とあるのは桜孝太郎、当時の日本海軍主計少監という地位にあった人物のようです。
桜は、当時ロンドンにて「敷島」建造の監督会計官の任にあったと思われますが、その桜に伴われ、牧田環は“テムズ鉄工所”を訪ねたのでした。牧田環の日記には、閘門門扉について直接触れられた部分はありませんが、この訪問をもとに“テムズ鉄工所”への門扉発注が決定されたのではないかと思われます。また、門扉発注に関する助言を桜に求めたのではないかと想像できます。

これまで述べてきたように、『五十年史稿』に記載されていた“テムズ鉄工所”なる工場は、“テムズ鉄工造船所”(Thames Ironworks and Shipbuilding Company Limited)に間違いないものと思われます。*注6

当時、世界最高の技術水準を誇った“テムズ鉄工所”でしたが、1912(明治45)年には閉鎖されてしまいます。それは、石炭・鉄などの原材料調達に有利であったイギリス北部の造船所との競争に敗れたことを意味しています。イギリスの造船・鉄工業の中心は、テムズ川のロンドンからクライド川のグラスゴーやタイン川のニューカッスルへと移っていったのでした。

最後にもう一枚写真を・・・

この写真は、1898年頃の“テムズ鉄工造船所”です。建造中の艦船は、日本海軍の戦艦「敷島」とイギリス海軍の戦艦「アルビオン」(HMS Albion)であると思われます。

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▲The Thames Ironworks at Blackwall   
  撮影:1898年    所蔵:National Maritime Museum, London



(つづく)




◆注1 『三井鉱山五十年史稿』巻14 工作・動力  77頁 

◆注2 “テムズ鉄工造船所”の歴史については、以下のHPを参考にして記述した
      ①http://www.portcities.org.uk/london/index.php
    ②Wikipedia>「テムズ鉄工造船所」

◆注3 Wikipedia>敷島 (戦艦)、富士 (戦艦)を参考に記述した

◆注4 詳しくは当書庫 『明治31年 團・牧田の海外視察』 を参照のこと
      http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/20494214.html

◆注5 森川英正編著 『牧田環伝記資料』 日本経営史研究所 45頁

◆注6 福岡県教育委員会編 『福岡県の近代化遺産』 西日本文化協会 1993年
     第3章福岡県の近代化遺産例 66三池港閘門 などでは、閘門門扉の製造会社として「英国テムズ・シビ
     ル・エンジニアリング社」とあるが、この名称の会社は存在しない。たぶん、「テムズ鉄工造船所」の土木
     部門のことを指して、こうした名称が記されたのではないかと思われる。

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            ▲A view of the erecting yard at the Thames Iron Works   
              撮影:1911年     所蔵:National Maritime Museum, London

閘門築造 その6 「水圧に耐える門扉の技」

今回も引き続き閘門門扉(ゲート)について見ていきましょう。
題して「水圧に耐える門扉の技」

前回、三池港の閘門門扉は英国“テムズ鉄工所”製であることを述べました。TOPに載せた1911(明治44)年頃の“テムズ鉄工所”の写真には、ヤードにて組み立てられた鋼鉄製門扉が写し出されています。この写真の門扉は三池港のものではありませんが、三池築港当時に“テムズ鉄工所”で製作されたマイターゲートの特徴をいくつか読み取ることができます。

第一に、門扉の両面は平面と湾曲面とからなることです。特に、より水圧がかかるドック側の面を湾曲した形状とし、水圧荷重を分散させたものと思われます。と同時に、マイターゲート(観音開き式)である水門の、閉門時における水密性を高める効果もあると考えられます。

第二に、当時の鋼鉄製門扉は鋲接(リベット接合)であるということです。ちなみに、造船などで本格的に溶接技術が使われ始めたのは、1935(昭和10)年頃以降と思われます。写真には、鋲接によって組み立てられた、いかにも頑丈そうな鋼鉄製門扉が写し出されています。*注1

第三に、写真ではよく分かりませんが、門扉は水密構造になっています。このことは、その浮力を利用してマイターゲート(観音開き式)のヒンジ部(蝶番・扉の回転を支える部分)にかかる力を軽減する効果があると考えられます。

さて、1枚の長さ12.7m、高さ12.17m、厚さ1.20m、重さ91.30t ある三池港閘門の門扉は、どのような形態にて英国から運んできたのでしょうか。TOPの写真からすると、組み立て後の完成した形で三池に運ばれてきたのではないかと思われますが、実際はそうではありませんでした。

次の写真を見ればお分かりのように、分解された状態で運ばれ、閘門門扉設置の工事現場にて組み立てられたのでした。


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 ▲1907(明治40)年8月頃 鐵扉組立工事      ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館



この組立工事に関する詳しい記録は残っていませんが、英国人技術者などに頼ることなく日本人技術者によって組み立てられたと考えます。また、三池炭鉱では三池港築港以前にも宮原坑、万田坑の竪坑を鋲接によって組み立てた実績がありますし、三池製作工場(後の三池製作所)においては鉱山用機械やポンプをはじめとして、数々の技術の蓄積もありました。*注2  

ところで、実際にはどのような手順で門扉は組み立てられたのでしょうか。ここでは、『仁川築港工事図譜 解説』中の「概説閘門扉組立」を参考にして、その概要を述べてみることにいたしましょう。*注3

先の写真からも分かるように、まずは土台の輪木上にて門扉の骨組みを組み立てます。3つの垂直リブ(Rib)を基準にして、門扉の下から順次垂直リブを組み上げていく。 
組立中の写真上部の垂直リブには「7」の文字が読み取れますが、これは7番目の垂直リブを意味するものと思われます。よって、クレーンにて吊り上げられているリブは、8番目の水平リブとなります。図面からは、計11枚の水平リブによって門扉が製作されていることが読み取れます。*注4

参考までに、仁川港の閘門工事ではこの骨組み工事に関して、次のような解説がなされています。

(前略) 第一ノ水平桁ヲ水平ニ据付ケ両端及中間三ケ所ノ垂直桁ヲ取付ケ 次ニ第二水平桁ヲ置キ中間ニ間柱ヲ取付ク斯ノ如クシテ二段乃至三段ヲ進ミ始メテ コーイン・エンド・ポスト(石付竪軸)ヲ建テ込ミ取付ケ扉ノ水平及垂直ヲ完全ニ調整シテ竪軸ノ上部ヲ固定シ以テ一ツノ垂直定規トシ 順次上段ニ進ミタル後マイター・ポスト(合掌竪軸)ヲ取付ケテ最上段ノ水平桁ヲ置キ骨組工ヲ終ハルモノトス

このように、組み立て中の門扉を常に水平垂直に保つことの必要性が述べられています。


さて、これらの骨組みが組み上がったころで、次に左右の外板や継目板を門扉下部より順次鋲接(リベット接合)していきます。この鋲接に際しては、仮締めの後に鋲(リベット)を熱して軟らかくし、リベットハンマーでかしめる(焼き締め、固く密着させる)といった作業が必要でした。仁川港の4枚の門扉には、合計8万5千本余りの鋲(リベット)が使われたとありますが、三池港の2枚の門扉では、仁川港の単純に半数程度と考えて約2万本余りの鋲(リベット)が使用されたとものと想像されます。

このような行程を経て組み立てられた門扉は、溶接にて組み立てられる現在の鉄鋼製品とは違って、いかにも無骨で強固な印象を与えるものです。

何年間もの間、水圧に耐え抜かねばならない門扉(ゲート)は、このような工程を経て誕生したのでした。*注5




(つづく)



◆注1 鋲接については、以下のHPを参考にした
     http://www.ship-doctor.com/menu3/menu3_1.html

◆注2 三池製作所の技術力について、橋本哲哉氏は論文「1900~1910年代の三池炭鉱 ~石炭産業の産業      資本確立をめぐって~」三井文庫論叢 第5号 所収 26頁において、以下のように述べている。
      (前略) 電動エンドレスロープ機の修繕などを通じて、三池製作所の技術水準が向上し、1906(明治3      9)年にはその製作、すなわち自給が可能になったことをうかがい知ることができる。(中略)デービー・ポ      ンプの製作を中心とした製作部門の技術的進歩によって、三池の製作部門は社外の注文に応じ、筑豊      地方の各炭山用諸機械を引き受ける迄にその力量を高めた点に注目する必要がある。

◆注3 朝鮮総督官房土木局仁川出張所編 『仁川築港工事図譜 解説編』 朝鮮総督官房土木局             1919(大正8)年 発行 を参考にした

◆注4 第四十二話『閘門築造 その4』三池築港工事(15) の図面を参照のこと

◆注5 現在使用されている三池港の閘門門扉は、1952(昭和27)年に取り替えられたものである。この門扉(ゲ    ート)は、1912(明治45)年に予備扉として“テムズ鉄工所”から新たに購入し製作されていたものである。

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▲1908(明治41)年3月 閘門鐵扉組立完成      ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館
  

閘門築造 その7 「一滴の水も漏らさぬ門扉の技」

今回も閘門門扉(ゲート)にこだわって、その水密性について述べたいと思います。
題して「一滴の水も漏らさぬ門扉の技」

前回は、鋼鉄製門扉の組立工事をもとに、その構造や水圧に対する工夫を見てきましたが、水圧に耐えるだけでは閘門としての役目は不十分といえます。門扉の隙間からドック内の水が漏れ出すようであれば、閘門としての機能を果たしていないといえるでしょう。それでは、「一滴も漏らさぬ閘門」にするためにはどのような工夫が求められるのでしょうか。

考えるに、閘門での水漏れ防止のポイント箇所は3カ所あります。
一つ目は閘門水路外壁への門扉接合部、二つ目は2枚ある門扉の会合部、そして三つ目は門扉底辺の戸当たり部。これらの箇所の水漏れ防止に活躍したのが“グリーンハート” (Greenheart)と呼ばれる木材です。三池港の閘門では、これら3カ所すべてに、南米ギアナ産の“グリーンハート”が水密材として使用されました。それでは、この“グリーンハート”という木材はどのような性質をもった木材なのでしょう。
樹種の解説を、HP『世界の有用木材7800種』の“Greenheart ”から、要約して以下に引用いたします。*注1

樹高25~40m、稀に50mに達する大きな常緑樹。ガイアナのグリーンハートといわれているほど、ガイアナに多く生育する。隣国のスリナムや仏領ギアナ、アマゾン、西インド諸島にも分布している。商業材中最も重い材の1つであり、重さのわりに非常に強い材で、イギリス産のオーク材に比べて50%重いのに、衝撃への抵抗はそれの2倍あるとされている。接地や戸外露出の耐久性は大きい。防腐処理は不必要だが、もし薬剤を注入しようとしても難しく、完全に処理出来ない。また、海虫に抵抗力が高いとされている。加工は困難で、ねじ釘、木ねじ、木ビスを使うときは、割裂を避けるためにあらかじめ穴をあけておくことが必要である。用途は港湾施設用の埠頭、海水中の構造用、杭、柱材、ドック、水門、造船、橋梁、支柱、棧橋のデッキ、手すり、工場の床、化学工場の大桶、釣ざお、ラケットや弓などのスポーツ用品に使われる。


このように耐久性に優れ、耐水・耐塩性も高い“グリーンハート”が使われた3カ所を、さらに詳しく見てみましょう。

最初に閘門水路外壁への門扉接合部ですが、まずは下の写真をご覧下さい。

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▲1906(明治39)年12月 閘門工事      ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館


この写真は、建設中の閘門写真ですが手前に石材が多数転がっています。石材は花崗岩ですが、右奥の円弧形に削られた花崗岩に注目です。この円弧形に削られた石材こそ、閘門門扉接合部に対応する石材と思われます。接合部に使われた“グリーンハート”は、鋼鉄製門扉の接合部に半円形に加工されて取り付けられました。門扉の開閉に合わせ、“グリーンハート”が閘門外壁との隙間を埋めて回転することになります。*注2
おそらく、花崗岩と“グリーンハート”の円形への加工には、かなりの時間と技術が必要だったのではないかと想像されます。*注3 
ちなみに、開門した状態の門扉は、閘門水路の外壁にすっぽりと平行に納まるよう設計されています。

次に、門扉の会合部ですが、両方の門扉先端部に角材の“グリーンハート”が取り付けられました。左右の門扉は、干潮時に水圧で開かないように、ドック側が凸形で【く】の字形に閉まるよう設計されています。図面から測った【く】の字形の内港側の角度は約120度で、満ち潮では逆にゲートが開きやすいことになります。前回述べた、水圧に対応した設計思想がここでも見てとれます。

最後に、門扉底辺の戸当たり部にも、門扉と平行に角材の“グリーンハート”が取り付けられました。第四十一話で述べたように、【く】の字形の戸当たり部は2尺(60.61㎝)の段差があるように設計されています。この段差の戸当閾(しきい)石に密着するように、“グリーンハート”が取り付けられたのでした。

これらの“グリーンハート”は、1908(明治41)年3月の閘門完成以来、1952(昭和27)年の門扉取替工事にいたるまでの47年間、交換されることもなく使用されたのでした。*注4




(つづく)



◆注1 HP 『世界の有用木材7800種』 > GREENHEART    http://www.woodstar.biz/

◆注2 三井鉱山(株)発行『技術ダイジェスト』昭和59年8月号所収の論文、三池港務所技術部施設課 松藤義文「三池港閘門門扉補修工事について」には、現在の接合部グリーンハートの加工について次のように述べられている。
「扉の回転の中心と石垣の中心に約14㎜の偏心をもたせることにより、開門中は石垣とグリーンハートの隙間はあるものの、閉門する際、グリーンハートが石垣に少しずつ密着していく状態である。この際、グリーンハートが摩耗するため、門扉全体長を設計より10㎜長く製作している。これによる戸当たり部の隙間よりの漏水はL型パッキンを取り付けることにより完全に防止出来ている」
この様に、閘門門扉はミリ単位での設計がなされているが、ここにも三池港閘門の「一滴の水も漏らさぬ技」を感じることが出来る。

◆注3 『仁川築港工事図譜 解説編』中の「閘門扉軸當石之据付」の解説には、
「円弧形ノ白キ部分ハ即チ軸當石ニシテ門扉樞軸ノ接触スル所ナリ(中略)以テ之レガ工作及据付ハ最モ苦心セル所ナリ 石材ノ工作ハ軸當面ヲ凡テ小叩水磨トシ其他ヲ鑿切トセリ 而シテ一個ノ工作ニ対シ熟練ナル石工凡ソ二十三人乃至二十五人ヲ要セリ」
とあり、花崗岩の円弧形への加工と軸當石の据付けは困難を極めたことが述べられている。
三池港の閘門工事においても、石工を動員した同様な作業が必要であったと思われる。

◆注4 前回四十四話の注5で述べたように、1952(昭和27)年の門扉取替工事では、1912(明治45)年に購入された予備扉が使用された。この門扉には、新たに南米ギアナより輸入されたグリーンハートが水密材として使用されている。ちなみに、この門扉取替工事で取り外されたグリーンハートの一部が、大牟田市石炭産業科学館に展示されている。
また、現在の閘門は1983(昭和58)年に門扉補修工事がなされている。その補修目的は漏水防止で、水密材グリーンハートの腐食・欠落が原因であった。本文中に述べた3カ所すべてにおいて補修工事が実施されたが、以下簡単にそれぞれの補修内容を記しておく。
①接合部のグリーンハートは、築港当時より内港に埋蔵されていた予備グリーンハート6本を使って全面取替 ②会合部は、グリーンハートに代わってゴム(北側門扉)とステンレス(南側門扉)に取替 ③戸当たり部は、グリーンハートに代わってゴムに取替。ただし支持部との取り付け部は、支持部グリーンハートとの密着と摩耗を考慮してグリーンハートを使用。以上の内容は、注2にあげた『技術ダイジェスト』を参考に記述したが、論文の最後は以下の言葉で締めくくられている。
「今後は、グリーンハートという生き物が、一日でも長く生き延びて、渠内の潮位を保ち、安全な航行が出来ることを望むものである。」

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▲1908(明治41)年3月 外側より閘門を望む      ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館
  

閘門築造 その8 「水圧ポンプはエコなエネルギー」

三池港の閘門築造に関して、水圧に耐え一滴の水も漏らさぬ構造を今まで見てきましたが、今回のテーマは、イギリス製の閘門門扉を開閉する駆動装置についてです。

題して、「水圧ポンプはエコなエネルギー」でございます。

早速ですが、閘門門扉の開閉装置の動力源は水圧を用いています。ごく簡単にその仕組みを解説すると・・・
①水圧ポンプにて、高い水圧を作り出す
②その高圧水を管に流し、水平のピストン運動にかえる
③ピストン運動を扉の回転運動にかえる

実は、この水圧を使った駆動システムの歴史は、産業革命時代のイギリスにまでさかのぼります。時は1845年、場所はイギリスのニューカッスル(Newcastle upon Tyne)、開発者はW.アームストロング(William Armstrong)。

アームストロングといえば・・・歴史好きの方々には、薩英戦争時にイギリス艦船が使用した“アームストロング砲”や佐賀藩のそれを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。この“アームストロング砲”こそ、W.アームストロングその人の名を冠した大砲でした。*注1
彼は1847年、「W.G.アームストロング会社」(W.G.Armstrong & Company)を設立し、水力を動力源とする水圧クレーンの製造に着手します。*注2
この水力を利用したピストンエンジンは、クレーンの動力源に止まらず、閘門門扉(ドックゲート)の開閉や可動橋(旋回橋や跳開橋)などに利用されていきます。*注3

ここでの注目は、もちろん閘門門扉の開閉に利用された水圧機器でありますが、團琢磨一行のイギリス訪問時にも、これら水圧クレーンやドックゲートの開閉装置を目にしたに違いないと思われます。
さて、W.アームストロングが開発したこの水圧機器は、その後改良が加えられ水圧アキュムレーター (accumulator) の開発へと繫がっていきました。
“アキュムレーター”とは、「油圧(水圧)機器に使われる装置の一つで、流体の圧力を利用して仕事に供給する高圧流体を蓄えておく装置のこと。蓄圧器ともいう。」ものです。*注4
構造的には、鋳鉄製のシリンダーに、非常に重いおもりをつけたプランジャー (plunger) が取りつけられ、このプランジャーをゆっくり持ち上げて水を吸引し、重力による下向きの力でもってパイプに高圧力の水を押し込むものであったようです。*注5

ここで注目すべきことは、プランジャー (plunger)でしょう。*注6
『三池港務所沿革史』では、三池港閘門を開閉する駆動装置の原動機につては、“水圧ポンプ”と表現されています。実は、閘門門扉は以前述べたようにイギリス製ですが、今回話題にしている門扉開閉の駆動装置については三池製作工場(後の三池製作所)製であると考えられます。前回述べたように、当時の三池製工場はすでに高度の技術を持っていましたが、特にポンプに関する技術力には高いものがありました。
1893(明治26)年、勝立坑に導入されたデービーポンプにもプランジャーポンプが使用されていましたし、1900(明治33)年には宮浦坑にデービー社製の高圧水力駆動ポンプが設置されています。これらの技術的な応用が、三池港閘門の駆動装置であると推察されます。

実際の製造元を示す資料としては、『三井鉱山五十年史稿』 巻十四 工作・動力編にある「三池製作所 主要機械工事一覧表」にある閘門関係の記述があげられますが、そこには以下のように記されています。*注7

明治三九年度 三池港務所 閘門 
明治三九年三月九日着手 明治四一年四月十日完了
延日数 四一九   図面枚数 一三二

チェックチェーン、両側堰戸開閉装置、開閉機械、扉開閉装置、力水管及ドライビングバルブ類、
スルースゲート及排出口金物、水圧機、水圧原動機、同アツキユムレーター


竣工当時から現在も稼働し続けているこれら閘門開閉の駆動装置・・・
産業革命時代にルーツがある貴重な機器であり、それが未だ現役でることに心から敬意を表したいと思いますが、ここにW.アームストロングのエネルギー論を紹介し、今回のまとめといたします。*注8

W.アームストロングは再利用可能 (renewable) なエネルギー使用の擁護者であった。「石炭はすべての利用で、無駄が多く乱費されている」と述べ 、「2 世紀以内に英国ではコークスの生産を停止するであろう」と1863 年に予言している。水力発電の使用を擁護するのみならず、太陽エネルギーも支持し、「熱帯地域の 1 エーカー (4000 m2) で受け取ることができる太陽エネルギーの量は毎日 9 時間の 4000 匹の馬の出力に匹敵する」とも言っている。


三池港閘門の水圧ポンプは、水を循環して使用するといった非常にエコロジーなエネルギーです。
次回は、駆動装置の詳細について解説したいと思いますが、エネルギー問題が問いただされている昨今、はるか明治の技術に立ち返って、現代のエネルギーを考えてみることも一興かと思います。

最後になりましたが、TOP写真の解説を少しだけしておきましょう。
この写真は、竣工間近な閘門を閘門エントランス(内港)側から見たものです。すでに、イギリス製の門扉組み立ては完了し、今回取り上げた閘門開閉の駆動装置の最終工事が行われています。水圧原動機室の建屋がほぼ完成し、その北側(写真では左側)にアキュムレーターの姿が写し出されています。
通水後には見ることができない閘門の全容を、手に取るように見ることができる貴重な写真です。


(つづく)



◆注1 “アームストロング砲”に関しては、以下のHPが詳しい。
http://mailsrv.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/armstrong_gun/armstrong_toc.htm

◆注2 W.アームストロングは、動力源である水車を参考にして、水力を動力とするピストンエンジンを設計する。この技術をもとにして、ニューカッスルの港に水圧クレーンを設置し成功をおさめ、会社を設立した。その後、1854 年のクリミア戦争時に、後装砲の大砲を製造したが、これが幕末の日本で言うところの“アームストロング砲”である。また「エルスウィック大砲会社」(Elswick Ordnance Company)を設立し、野戦砲のみならず戦艦の大砲も手がけ会社は拡大し、1882年に「サー・ウィリアム・アームストロング、ミッチェル有限会社」(Sir William Armstrong, Mitchell and Co. Ltd.)となり、戦艦の製造に着手。当時の日本海軍も「浪速」「高千穂」などの巡洋艦を数隻購入している。更に 1897年には「サー・W.G.アームストロング、ウィットワース有限会社」(Sir W. G. Armstrong, Whitworth & Co Ltd.)となる。この会社は、水圧制御による旋回砲塔においては、当時世界一の技術水準にあった。

以上の内容については、以下のHPなどを参考にして記述した。
http://mailsrv.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/armstrong_gun/william_armstrong.htm

◆注3 アームストロング社製の旋回橋といえば、タイン川 (River Tyne )に架かるスウィング・ブリッジ(Swing Bridge)が有名です。詳しくは、以下のHPをご覧下さい。
http://www.kashiwashobo.co.jp/new_web/column/rensai/r06-47.html

また、イギリスを代表する可動橋といえば、もちろんタワー・ブリッジ(Tower Bridge)です。跳開橋であるこの橋の開閉にも、当初はアームストロング社製の水圧ポンプが使用されていました。

◆注4 「 」内は、Wikipedia>アキュムレーターから引用
ちなみに、アキュムレーターが発明される以前は、グリムズビードック塔(Grimsby Dock Tower)の様な給水塔を設置し、高水圧を作り出していた。詳しくは、以下のHPをご覧下さい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Grimsby_Dock_Tower

また、今もイギリスに残るアキュムレーターについては、ブリストル港(Bristol Harbour)の水力エンジン室(Hydraulic engine house)がある。詳しくは、以下のHPを参照して下さい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hydraulic_engine_house,_Bristol_Harbour

さらに、スペシャルポンプ(注6参照)にアキュムレーターを取り付けた例があるが、この場合のアキュムレーターの機能は、水圧の脈動を一定に保つ役目であった。

◆注5 先の注2と同じHPを参考にして記述した。 

◆注6 三省堂 大辞林 > プランジャー (plunger)の解説によると「シンダー内を往復して、流体を圧送する円筒形のもの。ピストンと同じ働きをするが、ピストンより高圧のポンプ・水圧機などに用いる。棒ピストン。」と解説されている。

ちなみに、三池炭鉱は坑内湧水に悩まされてきましたが、明治期の最初はスペシャルポンプが使われていました。このスペシャルポンプは、蒸気筒や水筒のパッキングがピストンの外周に嵌められ、シリンダーの内壁を往復運動します。構造上パッキングの取替が不便であったことなどから、蒸気や水漏れが多発し、プランジャー型へと進化していくことになります。プランジャー型の棒状ピストンであれば、パッキングがシリンダーの端に設置され取替も容易であることや、シリンダー内壁にピストン自体が直接触れることもなく、凹凸があても大丈夫で水筒の加工がしやすいといった利点がありました。

以上の内容は、児玉清臣 『石炭の技術史 摘録』 [下巻] 第五章 個別技術の発達経緯 第一節 排水技術をもとに記述した。

◆注7 『三池製作所沿革史』を繙けば、更に詳細な事実が判明すると思われるが、今だ未見である。

◆注8 先の注2と同じHPから引用した。

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▲三池港閘門扉開閉装置説明図(平面図)   
    2008年 三池港開港百周年記念展示複写  三池港物流カンパニー(当時)の許可を得て撮影
  

閘門築造 その9 「技術の粋を集めた閘門」

前回は、閘門門扉の開閉装置について概略をお伝えしましたが、今回はその駆動システムの詳細を見ていくことにいたしましょう。
題して 「技術の粋を集めた閘門」

早速ですが、TOPに示した図面をもとに、駆動システムの詳細を見ていきましょう。まず最初に確認したいことは、駆動システムの要(かなめ)は、前回紹介した水圧ポンプにあるということです。図面では、“水圧原動機”として示されていますが、その中心をなす水圧ポンプを動かす動力源は電気モーターです。『沿革史』によると、この電気モーターは、シーメンス・シュッケルト(Siemens-Schuckert)製と記されています。*注1
この電動機の回転をベルトにてクランクに伝えます。そして、クランクの回転をプランジャー(棒ピストン)の水平運動に変え、水圧ポンプを稼働させる構造になっています。

以上のことを、次の写真①で確認しておきましょう。

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   ▲写真 ① 


 この写真①は、現在の水圧原動機室の内部を撮影したものです。写真右にモーター、そしてモーターの回転をクランクに伝えるベルト、写真中央の大きな三連のクランク、更にその先(写真ではクランク手前)に、同じく三連のプランジャーが配置されています。このプランジャーのピストン運動によって、水溜タンクから誘導された水(図面の黄色配管)に圧力を加え、アキュムレーター(蓄圧機)へと送ります(同じく図面の黄色配管)。

このアキュムレーターに蓄えられた高圧水のエネルギーを使って閘門門扉の開閉を行うのですが、アキュムレーターからは2系統の配管が出ています。図面の緑色配管が北側(図面左側)門扉の開閉用、同じく青色配管が南側(図面右側)門扉の開閉用配管です。これらの配管途中にあるドライビングバルブ(水門開閉用弁)を操作することによって、図中にある閘門開閉機を動かし門扉の開閉を行うのですが、ドライビングバルブの先にあるこの開閉装置について更に解説を加えましょう。

閘門開閉機の端には水圧機(シリンダー)があり、この水圧機に高圧水を注入することによってピストンを動かし、それと連動したアームが門扉を開閉します。
閘門北側(図面の左側)で、より詳しく説明すると、閉じる時は図面にある水圧機の左側配管より圧力水を注入して、ピストンを押し出します。同時に、水圧機内にあった水は、水圧機の右側配管を通りドライビングバルブ部分の配管を経て、水溜タンクへと循環します(図面の赤色配管)。開ける時は、水圧機の右側配管より圧力水を注入してピストンを押し込めると同時に、水圧機内にあった水は、水圧機の左側配管を通って水溜タンクへと戻します。閘門南側(図面右側)も同様なシステムですが、ドライビングバルブより先の配管は長く、閘門の東端底部を横切って敷設されています。

次の写真②は、ドライビングバルブがある運転室を北側から撮った写真です。左(北側)右(南側)2系統の配管に、それぞれ赤の矢印(写真では北側のみ写っている)が印されていますが、下の配管が注入、上が排水です。

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   ▲写真 ② 


『沿革史』には閘門開閉の運転方法について、次の様な説明がなされています。*注2

開閉運転法ハ最初水門開閉用弁ヲ閉ジテ置キ 水圧ポンプヲ運転シ圧力水ヲ水門扉ノ開閉セシムルニ充分ナル程ノ量ニ至ルマデ蓄圧機ニ蓄ヘタル後 水門開閉用弁ヲ除々ニ開キ圧力水を水圧機ニ送リ水門扉ヲ開閉セシメル方法デアッタ  然ルニ此ノ方法ニ因ル時ハ 必要以上ノ高圧水(七五0封度/平方吋)ニテ作動セシムル事トナリ 従ッテ故障ノ発生モ多ク運転操作モ亦繁雑ナリシ為メ 次ノ様ナ現在(年月日不明)ノ運転方ニ改メラレタ

ソレハ水門ノ開閉時ニ応ジ 水門開閉用弁ノ何レカ一方側ヲ水圧喞筒側ニ開キ 水圧喞筒ヲ運転開始スレバ圧力水ハ水圧機ニ送ラレ水門ヲ開キ又ハ閉ザシメル 而シテ蓄圧機ハ水門ノ完全ニ閉扉又ハ開扉スル最終点ニ於テノミ働キ(コノ時ノ圧力ハ七五0封度/平方吋)此ノ最終点ニ至ル点ハ 潮位ノ高低ニ因リ普通一七0/三00封度/平方吋ニテ作動スルモノデアル *注3


最後に、門扉の回転について一つだけ付け加えをしておきましょう。
実は、門扉底部には次の写真③に見るようにローラー(車輪)が取り付けられています。常に海面下で、この目でローラーを確認することはできませんが、円弧状のローラー・パスが閘門底部には敷設されており、その上をローラー付きの門扉が回転していることになります。*注4

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▲写真 ③ 



以上、閘門門扉の駆動システムを細部にわたって見てきましたが、そこには坑内湧水に苦慮し、イギリス製ポンプを導入しながら、その技術力を蓄積していった三池炭鉱の歴史をかいま見ることができます。

一見、炭鉱とは無縁と思える三池港の閘門・・・実は、炭鉱の技術史と深く結びついているのでした。




(つづく)




◆注1 『三池港務所沿革史』 第四巻 三池港(其一)第二章三池港の維持 第三節 閘門
261頁 (別紙) 閘門設備機械主要事項より

◆注2 『三池港務所沿革史』 第四巻 三池港(其一)第二章三池港の維持 第三節 閘門
248、249頁より引用

◆注3 管理人が目にした現在の運転状況では、閘門閉鎖時には南側門扉から先に圧力水が注入されているようである。

◆注4 第四十二話 「閘門は三池築港の要(かなめ)なり」にある図面を参照のこと

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  少し長いお休みに入っておりますm(_ _)m
 
  閘門の次は  “突堤”、
  “突堤”の次は “浚渫“ とつづく予定です(*^_^*)
 
  おっとその前に、そろそろ築港工場長の植木平之允(うえき へいのじょう)さんに
  ご挨拶をしなくてはなりますまい・・・
 

  ◆写真は、開港100周年記念の “日本丸“
    2008.8.10 三池港
 
 
 
 

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