炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 三池築港百話

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▲1904(明治37)年5月5日 潮止工事外側        ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館
            

船渠築造 その2 「第一期埋立地潮止堤防」

三池築港百話 第二十九話は・・・
『船渠築造 その2 ~第一期埋立地潮止堤防~』

前回(8月)から『三池築港工事』と題し、三池港築港工事の実際を辿りはじめましたが、しばらく時間が空いてしまいました・・・。
本日から、またぼちぼち再開いたします。

時は、築港工事の鍬入式があった1902(明治35)年11月3日から、2年後の1904(明治37)年5月5日頃となります。

鍬入式を待つことなく着手された、二頭山切崩工事を手始めとして、いよいよ本格的な築港工事が始まります。
鍬入式から始まった本工事の最初は、三川海岸沖の埋立工事です。
三池築港の埋立工事は、今から述べる第一期埋立工事から第二期・第三期埋立工事へと、長い年月をかけて進められてきました。
また、第一期埋立工事は、第一区と第二区の工事に区分されるもので、ここでは築港のメインとなる埋立工事である第一区工事をみていきます。第一区工事は、以下の地図中に示した色つきのラインに囲まれた海域の埋立工事であります。
それでは、以下の地図をもとに、埋立工事の実際を見ていくことにいたしましょう。

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▲潮止堤防工事計画図    ◇絵葉書をもとに管理人が作成したもの
          *画面をクリックすると、より鮮明な大画面にてご覧いただけます

工事は、茶色のラインで示した海岸線の北方、諏訪川河口より潮止堤防を築造することから始まりました。諏訪川河口南岸から北に延びる甲潮止堤防(460m)、その先端部から西に延びる乙潮止堤防(1213m)、さらに内港の北端角となる地点より南へ延びる丙潮止堤防(1102m)、そして内港の南端角から四ツ山に至る丁潮止堤防(37m)が築かれることになります。
二頭山や七浦採石場からの石材は、捨石として軌道や船にて運搬され海中投棄され、堤防の基礎が築かれました。完成した堤防の高さは、最高満潮面以上6呎(1.8m)、幅員は15呎(4.6m)、海に面しては、間知積石垣の堅固な堤防が築かれたのでした。
内港に面する丙潮止堤防には、干潮時の堤防内部の排水口として開閉式の扉をもつ暗渠が2箇所設置されるとともに、幅40間(73m)に渡る潮止口(開口部)が3箇所設置され、当面の潮の出入り口とされました。

これら潮止堤防の完成をみた1904(明治37)年5月5日、「同時に職工一千四百余名を招集して、干潮時一潮の短時間内に、三箇所同時に潮止工事」(注1)が決行されたのでした。

その時の様子が、今回のTOPの写真であります。
三井鉱山社史編纂資料『原磯熊、山川清雄氏談話』(注2)では、この時の工事の様子を次のように伝えています。

四山築港汐留工事は、明治37年5月5日堤防石垣完成と共に小汐の時を見計い、蛇籠を置いて木の柱を立て三寸板二寸五分板二寸板と、三段に分けて一気に塞いで了ったもので、五十名宛三組に分けて競争させました。汐留工事が完成した時は、祝いとして当時の出役者に酒肴料として各人に十銭宛与えましたが、約千四百人分でした。

TOPの写真からは、当時の人海戦術の作業が偲ばれます。
写真では、潮止口の基礎戸渡り部分には矢板打コンクリート工が施され、その前後に木の柱が立ててあるように見えます。この後に、三段からなる仕切り板を設置して一気に締め切ったのでしょう。
また、背後に見えるのは、四ツ山の山系です。

全体の石垣工事の完成をみたのは、1904(明治37)年8月31日のことでした。


今回は、総延長2842mにわたる潮止堤防によって、約36.5万坪の干拓地が出現したことを確認し、これにて話を終えるといたしましょう。


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▲1904(明治37)年5月5日 潮止工事完成        ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館


(つづく)


◆注1  『五十年史稿』巻14 工作・動力 75頁より引用

◆注2  『三池港務所沿革史』(未刊行) 第四巻 第四編 三池港(其の一)
      第一章「三池港の沿革」 第二節「築港計画の理由」に記載されている内容をもとに引用                ※以後、上記の資料については、略して『沿革史』とのみ記載する 

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▲1904(明治37)年5月5日 潮止工事        ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館
            

船渠築造 その3 「三池海面埋築株式会社」

三池築港百話 第三十話は・・・
『船渠築造 その3 ~三池海面埋築株式会社~』

前回は、第一期埋立予定地が潮止堤防にて締め切られ、干拓される様子を見てきました。今回は、埋立工事や船渠築造工事を具体的に見ていく前に、「三池海面埋築株式会社」について少し触れてみたいと思います。
時は、築港工事が始まる以前の1901(明治34)年頃まで遡ります・・・。

実は、今回話題にする「三池海面埋築株式会社」については、『五十年史稿』 『沿革史』ともに触れた箇所は見あたりません。しかし、三池築港の埋立工事に関して「三池海面埋築株式会社」が設立され、三井鉱山主導の下に工事が進行していったことは間違いないことと思われます。

この事について『大牟田市史』には、三池築港第一期から第三期埋立地の説明として、次のように記されています。

三井鉱山は、最初から港を開設するつもりで、團琢磨の経営する「三池海面埋築株式会社」より二万円で土地を買い、第一期埋立工事を完成させた後、一端埋築した今の船渠の部分を再び掘って八メートルの水深とし、第二期、第三期と工事は進み、明治41年に全部竣工している。
                                   『大牟田市史 中巻』 昭和41年 289頁より

この記述内容のポイントは、以下の二点にあるでしょう。
①團琢磨が経営する「三池海面埋築株式会社」
②二万円で土地を買い、第一期埋立工事を完成させた

今、私の手元に「三池海面埋築株式会社定款」なる小冊子があります。
この定款の 第一章 総則には、次のような内容が記されています。

第三条
当会社ノ営業ハ 福岡県筑後国三池郡大牟田町海岸ニ於テ 反別九拾七町貳反六畝廿七歩ノ埋築ヲナシ 使用者ニ貸附其貸地料金ヲ徴収シ及売却スルヲ以テ目的トス
第四条
当会社ノ資本金ハ 貳萬圓ニシテ之ヲ四百株ニ分チ 株ノ金額ヲ五拾圓トス
第五条
当会社ノ存立時期ハ 設立免許ノ日ヨリ満拾ヶ年トス


第三条にある埋立面積は、ほぼ第一期埋立工事面積に相当するものであり、また資本金の二万円は第一期埋立地の売却金額と同じであることが分かります。

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▲三池海面埋築株式会社定款      ◇管理人所蔵   


さらに、「三池海面埋築株式会社」について調べていくと・・・
「払込資本金二万円のうち三井鉱山が一万円を引き受け、三池炭鉱より山田直也・安部唯吉両名(注1)を代表として送り込んでいる」ということと、三井鉱山が三池築港以前である1904(明治34)年12月27日の第九一回三井営業店重役会の可決をへて、大牟田町横須浜海面四四町余を「三池海面埋築株式会社」より購入していることが判明しました。(注2)

私が「三池海面埋築株式会社」について調べえた事実はここまでで、これ以上の詳しいことは分かりません。しかし、以上の内容から考えると「三池海面埋築株式会社」は、三池築港工事を円滑に進めるために三井鉱山が出資して設立した会社ではなかったか・・・。先にも取り上げたように、漁業者の中には築港工事に反対する声もあり、対三井鉱山という構図よりも、地元大牟田の土建業者や漁業関係の有力者をも巻きこんだ形の会社組織を立ち上げたのではないか? と思うのです。巨大プロジェクトであった三池築港、この工事が地元土建業者を潤しかつ多くの雇用をつくり出したことは容易に想像できます。このように、地元大牟田経済にとっても大きな影響を及ぼしていくであろう三池築港工事。その地元土建業者達の姿を、今回話題にした「三池海面埋築株式会社」の裏面に見た思いがいたします。

最後にTOPの写真に戻って、今一度潮止工事の様子を見てみましょう。前回写真と同様の場面を、違う角度から撮影したものですが、写真左手のはっぴを身につけた人物に注目です。三人のはっぴ姿が見えますが、一番左側の人物の背には“阪”の文字が染め抜かれています。『沿革史』を繙いていくと、以下のような工事請負人の名前がでてきます。
山﨑忠三郎、坂梨松太郎、野田石蔵、宗村貫一、明石組・・・
先のはっぴの人物は、坂(阪?)梨組の人夫であるということが言えるでしょうか。

何れまた、これら地元の土建業者については調査をしてみたいと思いますが、今回はここまで・・・


(つづく)


◆注1 山田直也は、当時の三井鉱山合名会社三池炭鉱事務長、安部唯吉は同事務所主事

◆注2 加藤幸三郎 『九州炭鉱部成立の諸前提 ~三井財閥形成過程によせて~』 三井文庫論叢 第2号       1968 所収  285頁による  「 」内は、同論文よりの引用

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▲1904(明治37)年10月頃 繋船壁根堀工事        ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館
            

船渠築造 その4 「繋船壁根堀工事」

三池築港百話 第三十一話は・・・
『船渠築造 その4 ~繋船壁根堀工事~』

前回は、「三池海面埋築株式会社」について、現時点で分かる範囲の概要を述べてきました。今回からは、潮止工事完了後に始まった本格的な船渠築造工事について、その詳細を見ていくことにいたしましょう。
時は、潮止め工事完了後の1904(明治37)年頃となります。
まずは、船渠築造工事に関する主な工事略歴を『沿革史』(注1)から繙くことにいたしましょう。

*突堤工事 南突堤(528間)南土砂止(896間)、北突堤(434間)北土砂止(934間)
                      M36年 1月着手      M41年4月竣工
○繋船壁根堀工事          M37年 7月15日着手  M39年 2月14日竣工
○船渠堀鑿位置測定並に着手   M38年 1月 7日着手  M41年 3月 竣工
○船渠周囲護岸石垣         M39年 3月着手      M41年 3月 竣工 
○閘門位置測定 M38年 1月24日  根堀土工着手  
                      M38年 1月10日着手  M41年 2月22日竣工
○閘門外航路陸堀開始       M39年 1月着手      M41年 2月竣工


この略歴からは、船渠繋船壁の工事が最優先に着手され、その後に船渠掘鑿や閘門建設工事が行われたことが読みとれます。それでは、船渠築造の最初の工事となった繋船壁根堀工事について見ることにいたしましょう。

『五十年史稿』(注2)によると『繋船壁の位置決定には、土質調査のみで約2年半を要した』という記載があります。先の略歴にある「繋船壁根堀工事」の開始が1904(明治37)年7月とあるので、単純計算しても1902(明治35)年の初旬頃から繋船壁の位置決定に関する調査が開始されたということになります。だとすれば、築港の起工式が1902(明治35)年11月3日でしたので、それをさかのぼること約半年前以前より調査は始まっていたといえるでしょう。この調査の詳細について、『沿革史』(注3)は次のように述べています。

繋船壁ハ非常ニ大事ナ工事デシタカラ 候補地ヲ撰定スル為ニ四山築港内丈テ何百本ト云フボーリングヲ打ッテ土質ヲ調査シテ居リマスガ 此ノ調査ニ二年半カカリマシタ 先ズ一チェーン(約20m)毎ニ深サ38尺(約11.5m)カラ40尺(約12.1m)ノボーリングヲヤッテ土質ノ調査ヲシマシタガ 之デモ不十分ト云フノデ更ニ半チェーン(約10m)毎ニボーリングヲ行ヒ土質ノ調査表ヲ作リ 之ヲ基礎トシテ 明石組ニ掘ラセマシタ


また、この土質調査の開始約1年後の1903(明治36)年6月には、現閘門の外側航路近くにて湧水量の調査と合わせて土質調査を開始。「煉瓦枠図型試験井戸を穿鑿」(注4)しての約1年の調査にて、「湧水量は予想のほどではなく、毎分二二立方尺程度なることが分かり、又土質も詳細が判明し、以後の施工上貴重な参考となった」(注5)のでした。
これらの予備調査を経て開始された船渠繋船壁の工事。まずは、繋船壁下の根堀工事(注6)から始まりました。また、同時に湧水対策としての排水ポンプ井が掘られ、船渠築造工事には「セントリーヒューガル・ポンプ四台、ダルマ・ポンプ大小四台」(注7)が使用されたのでした。


最後に写真解説をして、今回の話は終わりにしたいと思います。
TOPの写真は船渠繋船壁工事を北方から南方方角に望んだ写真で、奥に四ツ山の山系が見て取れます。『沿革史』の解説によると、明治37年10月頃とあり、繋船壁の床堀が進行している様子がわかります。下の写真も同時期の繋船壁工事の写真です。おそらく船渠の北端部に当たる位置の工事ではないかと思われます。この写真には、排水ポンプの管が写し出されています。

2枚の写真をご覧になって分かるように、工事そのものは全くの手作業であり、現在のように重機などの機械類は使われていません。掘った土砂の運搬用には小軌道が敷設されています。当時の船渠築造工事の苦労が偲ばれる写真でもあります。


(つづく)


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▲1904(明治37)年10月頃 繋船壁根堀工事とポンプ     ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館



◆注1 『沿革史』第四巻 三池港 其一  第一章 第一節「三池港の略歴」より

◆注2 「 」内は、『五十年史稿』巻14 工作・動力 75頁より引用

◆注3  社史資料 第十六冊 原磯熊、山川清雄氏談話より 『沿革史』第四巻 三池港 其一 所収

◆注4、5、7 「 」内は、『五十年史稿』巻14 工作・動力 76、77頁より引用

◆注6 根掘とは、石積みにあたり、石垣の最下層の石である根石を据えるために地盤を掘ることである。         田渕実夫 『石垣』 1975年 法政大学出版局 石工用語集を参考に解説文を作成

◆注7 「セントリーヒューガル・ポンプ」とは、遠心ポンプのこと(詳しくは、以下のHPを参照)
      http://www.mohno-pump.co.jp/learning/manabiya/a_class/a1a.html
    
     また、「ダルマ・ポンプ」は、皮革やゴムの隔膜を上下に動かし、吸上げ弁を上下させる構造の手押しポン     プ(ダイヤフライムポンプともいう)

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▲工事中の四ツ山築港  Engineering Yotsuyama-Port.     所蔵:福岡県立図書館

       *明治後期頃の絵葉書 : 表示画面では不鮮明ですので、拡大してご覧下さい
  

船渠築造 その5 「潟掘人夫」

三池築港百話 第三十二話は・・・
『船渠築造 その5 ~潟掘人夫~』

前回は、船渠築造の最初の工事となった繋船壁根堀工事について見てきましたが、今回は船渠掘鑿工事でのある逸話を紹介するといたしましょう。

それは、1904(明治37)年5月に完成した潮止め工事に前後して行われたであろう、潟土を除去する作業についてです。これまでもいくつか紹介をしてきた、原磯熊氏が述べた社史資料談話集からの引用です。(注1)この逸話は『五十年史稿』にその一部が、『三井事業史』(注2)に全文が掲載されているので、すでにご存じの方もおられると思います。

さて、「潟掘人夫」の“潟掘”とは何かと申しますと・・・

遠浅の有明海では、干潮時に広大な干潟が現れることは皆さんご存じのことでしょう。この干潟には膨大な量の潟土(泥土)が堆積しています。この潟土は、有明海に注ぎ込む河川によってもたらされたもので、風化した花崗岩や玄武岩などの土砂や火山灰からなるものです。これら有明海に流れ込んだ「微細な粒子は、遊泥としてはるか沖合におよぶが、わが国最大といわれる干満の差(平均約5m)により再び運搬され堆積し干潟となって露出」(注3)するのです。大牟田・三池沖にも、矢部川や筑後川などによって運ばれたこれら潟土が大量に堆積しています。潮止め工事によって区切られた船渠築造予定地にある、これら潟土を取り除く作業が今回話題にする「潟掘人夫」の仕事でありました。

すべてに於いて人海戦術の手作業であった明治期の築港工事・・・いったいどのような逸話があったのでしょうか?  早速『沿革史』より、「潟掘人夫ノ事」と題した全文を紹介することにいたしましょう。


船渠掘鑿工事(潟掘人夫ノ事)(原氏)

築港内ノ潟ヲ切リ取ッテ船(底開キニナッテヰル団平船?)ニ積込ムノニ非常ニ骨ガ折レマシタ  掘リ取ッタ潟ノ傍迄船ハ来ルガ潮ガ流レルノデ船トノ距離ガ遠クナリ 結局モウ一度船ノ近クマデ潟ヲ運バネバ船ニ積込メナカッタノデ二度手間ニナッテ困リマシタカラ 其処デ私ガ「千葉縣ノ農民ガ使ッテヰルヤウナ鋤ガアレバヨイガ」ト云ヒマスト 服部サンダッタカ誰ダッタカ「熊本縣ノ農民ノ中ニ鍬デ土ヲ掬ッテ巧ク投ゲル者ガ沢山居ル」ト言フ事ダッタノデ 牧田サンノ許可ヲ得テ其ノ農民ヲ募集シテ潟積人夫ニ使ヒマシタ  其ノ時ハ一人一人試験ヲシマシタガ 其ノ試験ノ方法ハ鍬デ土ヲ掬ッテ投ゲサセ 五間以上ノ距離迄投ゲル者ヲ「甲種人夫」五間以下ノ者ヲ「乙種人夫」ト称シテ 「甲種人夫」ニハ「三十五銭」乙種人夫ニハ三十銭支給シテ居リマシタ  其ノ中ニ乙種人夫ノ中ニダンダント仕事ニ熟煉シテ五間以上投ゲル者ガ出ルト 其ノ都度ニ「甲種人夫」ニ繰上ゲマシタ  ソシテ此ノ熊本カラ募集シタ農民ニ限リ 冨川サンノ発明ニナル丸木小屋ニ合宿サセマシタ


この潟掘りの作業がいつ開始されたかの記述はありません。談話の内容(船で潟土を運んだ)からすると、潮止堤防が完成する以前からの作業であったかもしれません。ちなみに、内港に面する乙潮止堤防には2箇所の排水用暗渠が設けられていました。潮止工事完成後も、かなりの量の海水が貯まっていたことが予想されます。何れにしても、三川海岸に堆積していた多量の潟土を、農民達が手作業で除去していった事は間違いないことでしょう。
そういえば、筑後平野には数多くのクリークがありますが、田植え前の春先に水を落としてクリーク内の泥土を浚う作業をします。浚った泥土は栄養分が高く、そのまま田んぼに投げ入れていたような記憶があります。談話中にある熊本県の農民の方々は、どのような農作業をしていたのでしょう?

広大な干潟にて、鍬を手にした多くの農民達が潟土を掬っては船に投げ入れる・・・。そのような光景を思いうかべると、潟掘り作業の苦労と努力が偲ばれますが、どことなくユーモラスな情景が展開されていたのではないかと想像いたします。ちなみに「五間以上の距離迄投げた甲種人夫」、五間とは約9mの距離となります。こんど鍬をもって、一度潟土を掬って投げる実験をしてみたいと思った次第です。


最後に、今回のTOPの写真は明治後期頃に発行された絵葉書の一葉です。おそらく、潟土が取り除かれた後の本格的な船渠掘鑿工事の様子ではないかと思われます。
船渠の底の部分になるのでしょうか、段々に規則的に土が削られていく様子がうかがえます。もちろん手掘り作業であり、掘られた土は軽軌道に馬を使って搬出しています。これらの船渠掘鑿工事で排出された土は、すべて船渠周囲の埋立て用として利用されたのでした。『五十年史稿』によると、船渠掘鑿工事の総掘鑿土量は、「石垣床掘 27.524立坪(予定坪数 30.508立坪)、船渠内 127.238立坪(予定 116.400立坪)に達した」と記述されています。(注4)




(つづく)



◆注1 社史資料 第十六冊 原磯熊、山川清雄氏談話より 『沿革史』第四巻 三池港 其一 所収

◆注2 『三井事業史』本篇第二巻 第九章 三井合名会社の成立  714・715頁所収

◆注3 「 」内の記述は、以下のHPから引用した
     http://suido-ishizue.jp/daichi/index.html
     大地への刻印-水土の礎->土地応じた開発>干拓から沃野へ、有明海干拓

◆注4 「 」内は、『五十年史稿』巻14 工作・動力 77頁より引用

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▲1906(明治39)年2月頃 船渠繋船壁工事         ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館
  

船渠築造 その6 「船渠繋船壁工事」  三池築港工事(6)

三池築港百話 第三十三話は・・・
『船渠築造 その6 ~船渠繋船壁工事~』

前回は、船渠掘鑿工事での“潟掘人夫”の逸話を紹介いたしましたが、今回は船渠築造工事のその後を見ていくことにしましょう。前々回の「繋船壁根堀工事」の続きとなります。
時は、船渠繋船壁が完成した1906(明治39)年頃となります。

さて、「繋船壁根堀工事」完了後の繋船壁工事は、基礎の杭打工から始まりました。今回も『沿革史』を中心に、その工事内容を繙くことにいたします。(注1)
まずは、基礎の杭打工を見る前に、船渠繋船壁の基本設計について触れておきましょう。船渠東側の正面に位置する繋船壁は、「社船萬田丸ノ如キ六千噸級ノ船舶ヲ仝時ニ三艘横付ケ繋留シ得ル様」(注2)に設計されたもので、総延長は一千三百八十呎(約420.6m)あります。岸壁の高さは、基礎工事の上面(渠底)から四一呎六吋(約12.6m)。ちなみに、船渠閉門時最低水位が三十呎(約9.1m)、最大満潮位が三八呎(11.6m)となっています。また、壁面の勾配は下部一六呎(約4.9m)が8分の1、上部二四呎(約7.3m)が20分の1の設計であり、見た目にはほぼ垂直の様に感じられます。

「繋船壁根堀工事」の記事中にも触れましたが、この繋船壁の位置決定については、綿密なる土質調査が行われています。その調査結果をもとに位置決定がなされた繋船壁ですが、420mほどある総延長の中心部は固い岩盤上に築造されました。『沿革史』によると 「中央部八百六十八呎(約264.6m)を岩盤上ニ 北部ハ二百六十一呎六吋(約79.7m) 南部ハ二百五十呎(約76.2m)ニシテ共ニ杭打工デアル」と記されています。
また、壁面には徳山産の花崗岩が、壁胴は場所詰コンクリートが施されています。さらに、場所詰コンクリート背面部、土砂との接触面には粘土が詰め込まれました。
なお、繋船壁の頂面には花崗岩の笠石が置かれ、鉄製の繋船柱26個が設置されるとともに、第一バース四百二十呎(約128m)、第二バース三百八十呎(約115.8m)、第三バース二百六十呎(約79.2m)が設定されました。

以下に、『五十年史稿』(注3)の附図より、繋船壁の断面図を載せておきます。
これまでの、繋船壁工事の解説と合わせてご覧下さい。

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▲三池船渠繋船壁断面図         


ところで、山﨑組施工による繋船壁工事が竣工したのが1906(明治39)年2月14日。
TOPの写真は、竣工頃のものではないかと思われます。船渠掘鑿工事も進み、渠底からは見上げるほどの繋船壁がそびえ立っています。右下の人影と比較すると、その巨大さが想像できることでしょう。
これから、繋船壁背後の石炭積み込み施設の建設が始まるのでした。

この繋船壁は、築造以来100年以上経過していますが、もちろん今なお現役です。
最後に、現在の船渠繋船壁の様子をお伝えして、今回の三池築港百話を終わることにいたしましょう。

次回は、繋船壁のコンクリートにまつわる話題を取り上げ、セメントについての探索を試みたいと思います・・・。


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▲現在の船渠繋船壁 (北側より南方を望む) 撮影日:2009年8月17日         

(つづく)



◆注1 『沿革史』第四巻 三池港 其一  第二章 第二節「繋船壁」(1)船渠繋船壁 より   

◆注2 「 」は、注1の『沿革史』より引用

◆注3 『五十年史稿』巻14 工作・動力 の附図による 
     なお、君島八郎『河海工学』丸善 第五編上(または第六編)第三章 港岸 に同様の断面図
     と解説がある。この断面図には、繋船壁北部と南部の杭打工が描かれている 

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▲1904(明治37)年冬 潮止完成後の諸工事着手       ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館
  

船渠築造 その7 「船渠繋船壁場所詰コンクリート」

三池築港百話 第三十四話は・・・
『船渠築造 その7 ~船渠繋船壁場所詰コンクリート~』

前回は、繋船壁工事の様子を断面図などを織り交ぜて見てきましたが、今回はその繋船壁壁胴部分の場所詰コンクリートについて少し詳しく探索してみたいと思います。
時は、前回同様に船渠繋船壁が完成した1906(明治39)年頃となります。

さて、三池港築港に使用されたコンクリートについては、『沿革史』はもとより『五十年史稿』にも触れられた部分がありますが、最も詳細な記述は『牧田環談話』の記載でしょう。『牧田環談話』は、第1回~第6回の記録が残されていますが、その重要な部分は『牧田環伝記資料』(注1)に再録されています。今回から、数回に渡ってこの『牧田環談話』の記載内容を中心にして、三池港築港時にまつわるコンクリートの探索の旅に出たいと思います。

まずは、『牧田環談話』の記載内容に入る前に、『沿革史』に記載されている繋船壁場所詰コンクリートに関する 原磯熊、山川清雄氏談話の内容を見てみましょう。(注2)

繋船壁ハ前ト後ト別種類ノコンクリートヲ用ヒテ居マス 図ノ如ク別種ノコンクリートヲ交互ニ組合セテ居マス 即チセメントノ混合割合ノ良イモノヲ甲トシ混合割合ノ悪イモノヲ乙トシテ此ノ甲乙二種ノコンクリートヲ交互ニ組合セテ居マスガ 組合セノ所ガ普通ノ方法デハセメントガギッシリ詰ッタ様ニ見エテモ囲ヒ板ヲ取除イテ見ルト コンクリートノ内部ニ小サナ空洞ガ出来ルノハ防ゲナカッタノデ 空洞ノ出来ナイ様ニ図解ノヨウナ特別ノ工作ヲ施シテオリマス


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▲船渠繋船壁場所詰コンクリート組み合わせ図     *『沿革史』の図をもとに管理人作成 

        
〔註〕 此ノ図面ノ如クセメントヲ充填シ中央◆印ノ所ヲ一ケ所一尺四、五寸平方ニ明ケテ置キ 周囲ノセメントガ固リカケタ頃ヲ見計ッテ中央部ニセメントヲ充填スレバ 此ノセメントが楔ノ代用トナッテコンクリート内ノ空洞ノ発生ヲ防グ

これらの記載内容から、場所詰コンクリートによる繋船壁工事の工程が読み取れますが、談話中の「セメントノ混合割合ノ良イモノヲ甲トシ 混合割合ノ悪イモノヲ乙トシテ」・・・この甲乙のセメントについての詳細な記載は見あたりません。この「混合割合ノ良イモノ、悪イモノ」とは、一体どのようなセメントを指しているのでしょうか?

そこで思いつくのは、火山灰の混合割合についてです。先に紹介した『牧田環談話』の第1回に、次のような談話記録が掲載されています。

『・・・其の当時セメント一に火山灰一の割合で混ぜると、セメント二でやったのと同じ働きをするとうことが西洋の雑誌に出てい居たから、早速実験をした。それは勝立には阿蘇の噴火をした火山灰の層がある。厚さは大きいのは二十尺位ある。セメント一に此の火山灰一の割合で混ぜて固めて見ると、セメントと同じ力が出ることが分かった。是は大変な発見だ。それから火山灰の地面を買っちゃった。勝立の坑夫の宿舎を造ると云う名目で買った・・・』

これを読むと、またまた次なる疑問点が湧き出てきます。「セメント一に火山灰一の割合で混ぜると、セメント二でやったのと同じ働きをするとうことが西洋の雑誌に出てい居た」・・・牧田環が目にしたこの“西洋の雑誌”というのは何だったのでしょう?
セメントに火山灰を混ぜることの研究史を追ってみると、たぶんドイツのミハエリスの研究に行きつくのではないかと思います。これらの研究史については、三池築港の顧問であった石黒五十二と同時代に活躍していた廣井勇が著した『築港』に詳細が述べられています。(注3)
その内容を要約すると「セメントに適質の火山灰を混ぜて使用することによりセメントの耐海水性が向上するとともに経費を節減するメリットがある」(注4)ということです。

実は、牧田環は火山灰の使用に関して、その経済性にまずは着目します。そして、永久的な築港工事の完成を考えた時に、莫大な築港費用を軽減することの利便性と同時に、牧田の脳裏にはセメントに関する研究の必要性が浮かんできたのでした・・・。

次回は、更なる三池築港に関するセメント事情の探索を試みてみましょう。



(つづく)

 

◆注1 森川英正編著 『牧田環伝記資料』 日本経営史研究所 昭和57年12月発行

◆注2 社史資料 第十六冊 原磯熊、山川清雄氏談話より 『沿革史』第四巻 三池港 其一 所収

◆注3 廣井勇 『築港』 丸善 明治40年発行  前編 第四章 工事用材「ポルトランドセメント」

◆注4 「 」内は、北海道開発土木研究所月報 No.630 2005年11月所収の下記論文より引用
     林 誉命・佐々木秀郎 『廣井ブリケットに関する事実』      

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▲三井四ツ山築港全景 (其四)
THE WHOLE VIEW YOTSUYAMA PORT BELONGING TO MITSUI FAMLIY (PART4)
     
      ◇管理人所蔵の絵葉書    *表示画面では不鮮明ですので、拡大してご覧下さい 

船渠築造 その8 「火山灰混合セメント」

三池築港百話 第三十五話は・・・
『船渠築造 その8 ~火山灰混合セメント~』

前回は、牧田環談話をもとに、火山灰混合セメント(注1)の経済性と耐久性に触れたところでした。築港の永久性からして、火山灰混合セメントの研究の必要性に至った牧田でしたが、今回は三池築港以前に立ち返って、この火山灰混合セメントについての探索を試みたいと思います。

時は1895(明治28)年、所は佐世保海軍第一船渠、キーワードは“小野田セメント”、そしてキーマンは三池築港の顧問技師である石黒五十二。
では、さっそく佐世保海軍第一船渠とセメント事情についての探索に出かけるといたしましょう。

1895(明治28)年8月、完成したばかりの佐世保海軍第一船渠では大問題が発生していたのでした。それは、「排水試験を行ったところ、渠口壁をはじめとして殆ど全部漏水し、積石は押しだされる」(注2)といった有様で、船渠としては使いものにならない状況であったのです。この失態は、当時の帝国議会の問題とするところとなり、海軍当局は政党各派の攻撃の矢面に立って窮地に立たされたとのこと・・・。

そこで、その原因究明の調査委員の一人に選出されたのが、後に三池築港の顧問技師となる石黒五十二だったのでした。この時の調査委員会が出した結論は、「海水のためにセメントが分解したもの」ということでした。実は明治のこの時代、横浜や大阪の築港工事でもコンクリート塊(ブロック)に亀裂や崩壊が生じるといった問題が相次いで発生し、コンクリートそのものに対する信頼が大きく揺らいだ時代でもありました。

さて、この佐世保海軍第一船渠の漏水問題に取り組んだのは、当時佐世保海軍鎮守府建築科技師 眞島健三郎(後に海軍省建築局長)でした。眞島は、小野田セメントを使って火山灰を混ぜた様々な供試体をつくり強度試験を繰り返し行た末に、船渠の漏水問題を解決したのです。三池築港時に石黒も参考にしたであろう、佐世保海軍第一船渠改築工事が完成したのは1903(明治36)年のことでした。
この辺のセメント事情について、『小野田セメント五十年史』(注2)に眞島本人が寄稿した一文が掲載されています。その寄稿文の一部を、以下に紹介するといたしましょう。

(前略)私が佐世保の船渠工事を施工するに当たって、第一選に上せたものは小野田セメントであった。任を受くると間もなく、私は小野田に出張し、セメント製造の実況を視察し、笠井眞三氏の説明を求めた。その結果、如何にせば海水に堪へ得るかの試験を幾度か繰り返したが、容易に私の理想とする結果を得られなかった。笠井氏も亦再三再四佐世保に出張して熱心に研究されたのであるが、最後に小野田セメントに加ふるに火山灰を以てするという新しい工夫が案出されたのである。
昔、長崎県五島の鬼岳附近に産する火山灰を海水面に使用して成功したことがあるが、小野田社では此の五島の火山灰を取り寄せて粉末とし、セメントの中に約四分の一ほど混入した処が、非常な好成績を示し、之が為に第二船渠は殆ど完全無缺のものが出来た、明治三十四年八月のことである。 (後略)


三池築港工事が始まったのが1902(明治35)年、船渠築造工事の開始が1904(明治37)年であることから、眞島と笠井による新たなセメント技術は、三池港船渠繋船壁のコンクリート工事に影響を与えたことが予想されます。

ところで、最初に述べていたキーワードの“小野田セメント”、そしてキーマンである石黒五十二・・・
次回は、この両者の接点を求めて、更なるセメント事情探索の旅に出たいと思います。


最後になりましたが、今回のTOPの写真は、船渠繋船壁が完成した1906(明治39)年頃のと思われます。写真左端には、ほぼ完成した姿の船渠繋船壁が、中央には建設途中の四ツ山発電所、そしてその脇に連なる運炭鉄道の築堤が姿をあらわしています。すでに発電所横の築堤をくぐる人道トンネルは完成していますが、貯炭トンネルについては、まだその姿をまったく見ることはできません。この一葉、三池築港工事中の記録として大変貴重なものと言えるでしょう。
なお、この絵葉書は裏焼きになっていて、反転処理をしてここに提示しています。よって、文字が逆になっているのは、この理由によるものです。  



(つづく)

 

◆注1 コンクリートの材料は、セメント、水、砂、砂利ですが、コンクリートの性質を改善するために「混和材」が使用されています。現在では、高炉スラグ微粉末(製鉄時の副産物)やフライアッシュ(石炭が燃焼した際の灰)、シリカフューム(金属シリコン生産時の副産物)などが使用され、コンクリートの耐久性や水密性の向上に欠かせないものとなっているようです。明治時代に使用された火山灰は、これら「混和材」と同等の働きをしたものと思われます。ここでは、セメントに火山灰を混合して使用したことから「火山灰混合セメント」という表記にしました。

参考文献:土木学会関西支部編 『コンクリートなんでも小辞典』 講談社 ブルーバックス B-1624 2008年発行

◆注2 眞島健三郎 『我国セメントの発達を促した三大築港工事 -失敗が成功をもたらした実例-』
小野田セメント製造株式会社 『創業五十年史』 1931(昭和6)年発行 所収より引用 

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▲小野田セメント製造株式会社(小野田本社)全景
  (出典)小野田セメント製造株式会社『創業五十年史』 口絵写真版より

             *表示画面では不鮮明ですので、拡大してご覧下さい 

船渠築造 その9 「三池築港は小野田セメント」

三池築港百話 第三十六話は・・・
『船渠築造 その9 ~三池築港は小野田セメント~』

前回は、火山灰を混合したセメントについて、眞島健三郎を中心に見てきました。今回は、眞島がセメント試験に採用した小野田セメントと、三池築港の顧問技師であった石黒五十二の接点を求めて探索を試みたいと思います。題して、「三池築港は小野田セメント」

三池築港史の第一級の史料である『沿革史』や『五十年史』では、ほとんど石黒に触れた部分はありません。よって、石黒が三池築港に関して、どれくらいの影響力を持って築港計画や工事に携わったのかははっきりしません。しかし、一ヶ所だけ石黒の三池築港への関わりが明確に記述された箇所があり、そこには、今回話題にしているセメントに関する件が含まれています。『五十年史』には、以下のような内容が記載されています。(注1)

施工上議論のあったのは、潮止には埋立地の周囲にパイピングを施さなければ海水が浸入して工事は不可能であるという事と、セメントは浅野セメントでなければいかぬという主張とで、何れも顧問技師石黒五十二氏から主張されたものであるが、団琢磨氏は・・・(後略)


三池築港で使用するセメントが小野田セメントに決するまでには、かなりの紆余曲折があたことが伺えます。
一方、牧田環談話には次のような記述もあります。(注2)

(前略)さうすると、井上さんはセメントのことに気付かれ、一体セメントは何処のを使ふのかと僕に言われた。こっちは八代のセメントを使う積もりで居るから、さう答へた。八代の方には僕の同級生〔塩田経助、明治28年工科大学応用化学科卒〕が技師長をして居って、セメントの原価や何かをすっかり調べて居た。当時セメント原価が一円八十銭位であつたな。さう云うことを調べた結果、三池着で慥か二円十銭か二円位に負けさした。井上侯爵は小野田のを使わせようとしたのだね。所が小野田は二円五十銭で高い。それを下げさせると云ふことであったが、到頭下げなかった。さう云ふ風にして八代のセメントを二円十銭かで買って三池築港をやった。(後略)


牧田は牧田で、経済性に重きを置きながらセメントの選定にあたったと思われますが、最終的には小野田セメントが採用されたことは間違いない事実と思われます。この談話内容は、牧田の思い入れの強さがもたらしたものではないかと想像しますが、いかがなものでしょう? 一部、実際に八代の日本セメント(当時)が使用されたんでしょうか?

ところで、小野田セメントと石黒の関係に再び話を戻したいと思いますが、小野田セメントを一括販売していたのは三井物産でした。明治34年頃のセメント業界はかなりの不況にあったようで、多くのセメント会社が倒産や合併を繰り返す状態でした。当時、苦境の小野田セメントに手をさしのべたのは、井上馨でした。当の井上は、牧田にも小野田セメントを使うように進言したようですが、牧田は先に述べた日本セメントの採用を考えていたのでした。

さて、小野田セメントの採用に頑として反対していた石黒ですが、團琢磨は次のような思い出を『小野田セメント五十年史』に寄稿しています。

◆我海軍と小野田セメント -三池築港當時の思ひ出-       工学博士男爵 團琢磨

海軍省の要求するセメントは、海水によく堪へるといふことを第一條件とした。苦い経験を持っている海軍省として固より當然のことである。
然るに、三井物産が一手販売を引受けた頃、即ち明治三十四五年頃までの小野田セメントは、海軍省には不向であつて殊に、當時海軍技監をして居られた石黒五十二氏の如きは、小野田反対の急先鋒とも言ふべく之が為に、三井物産の海軍省納品取扱ひには少なからざる苦心を要したのである。
偶々三池築港工事を起すに當つて、三井は其の工事設計監督等一切を挙げて石黒氏に一任した。そこで、私共は極力三池築港に小野田セメントを使用することを慫慂したのであるが、石黒氏は頑として肯かなかった。之には多少先入主もあつたであらうが、私共は之を機会に、小野田セメントが果たして築港工事用として適當であるか否かを実際に試験して見やうといふので、三池鑛山に於て関係者立会の上、試験したことがある。
現社長笠井眞三氏は、當時小野田社の技師長であって、且つ新進の学者として推服されていた。其の笠井氏が、自身三池鑛山に来られて、石黒技監を始め要路の人々と、互いに一問一答を試み、尚ほ実際上の試験を行ったのであるが、其結果予想以上の成績を収め、石黒氏も始めて小野田セメントの実際の価値を認め、三池には小野田セメントを使用することとなり、私共も面目を施したのであった。(後略)


この團琢磨の寄稿文以外にも、当時三井物産から小野田セメントに派遣されていた香月卯三郎氏が、三池築港での小野田セメント採用事情を回顧談として寄稿しています。(注3)三井物産や小野田セメントにとって、三池築港と石黒五十二関するこれらのやりとりが、非常な関心事であったことが伺えます。
以後、この三池築港が契機となり、小野田セメントが各地の海軍工事にも採用されることとなっていくのでした。

次回は、もう少しだけ石黒五十二と船渠繋船壁の築造に関する探索を進めたいと思いますので、今しばらく船渠繋船壁工事にお付き合い下さいませ。



いつものように最後となりましたが、今回TOPの写真は、昭和初年頃と思われる小野田セメント工場の写真です。三池築港時には、写真のような帆船によって下関まで樽に詰めたセメントを運び、その後三池までは汽船積としたようです。写真からは、工場に隣接する港からセメントの積出がされる様子が見て取れます。
また、次の資料は、明治14年の創業当時(セメント製造会社)のラベルと思われます。龍をあしらったデザインは、創業者の笠井順八自らが考案、選定したものとのこと。明治37年に三池築港用に購入された小野田セメントにも、このようなラベルが貼られていたのでしょうか?
いかにも明治という時代を感じさせてくれる、レトロなデザインであると思います。


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                   ▲登録商標 セメント製造会社



(つづく)




◆注1 『五十年史稿』巻14 工作・動力  73頁 

◆注2 森川英正編著 『牧田環伝記資料』 日本経営史研究所 昭和57年12月発行 280頁

◆注3 香月卯三郎 『 社中回顧録 ディーチュ窯を圍りて -井上侯の面影と感激の一夜-』
     小野田セメント製造株式会社 『創業五十年史』 1931(昭和6)年発行  739~743頁
     内容は、井上侯が石黒氏を伴って小野田セメント工場を視察したといったもの

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▲1906(明治39)年頃の三池築港工事       ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館
  

船渠築造 その10 「船渠繋船壁はイギリス仕立て」

三池築港百話 第三十七話は・・・
『船渠築造 その10 ~船渠繋船壁はイギリス仕立て~』

ここのところ、船渠繋船壁築造に関するセメント事情を数回に渡って述べてきました。
今回は、今一度三池築港の顧問技師であった石黒五十二と、船渠繋船壁築造との関係について探索を試みたいと思います。時は1899(明治32)年頃、三池築港工事が始まる3年前に逆戻ります。

さて、明治32年の石黒といえば、前年(明治31年)に長年奉職した内務省から海軍省に籍を移したばかりの頃。この年(明治32年)の12月1日から翌年の5月18日までの約半年をかけて、欧州の軍港を中心とした港湾工事視察の旅に出かけたのでした。この視察内容については、 『欧州ニ於ケル現今ノ臨海工事ニ就テ』 と題した講演会記録が、工学会誌第二百十七巻(注1)に残されています。

視察旅行の目的は、欧米の最新港湾工事や土木技術を調査するというものでしたが、当時の海軍省や日本国内の港湾工事といえば、前回取り上げた佐世保船渠(ドック)の漏水にコンクリートの耐久性が大きな問題点としてクローズアップされていました。よって、この講演会の記録を読み進めていくと、欧米のコンクリートに関する調査が詳細に語られるとともに、各国の軍港船渠(ドック)の構造についての報告がなされています。実際の船渠擁壁の図面を提示しながら講演を行ったようで、工学会誌上には計5つの図面が掲載されています。


前置きが長くなりました・・・この講演会で石黒が 【今度ノ巡視中ニ見マシタモノノ中デ此上ニ出ルモノハアリマセヌ】 と高い評価を下したドックがあります。それは、イギリスのプリマス(Plymouth)軍港のドックです。プリマスは、知る人ぞ知る世界史にものこる港湾都市(注2)で、現在もイギリス海軍の重要な基地となっています。そのプリマス軍港の「拡張工事附属船溜所擁壁」と題する図面が、先の工学会誌に掲載されているので以下にご覧にいれましょう。


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▲英国プリマウス軍港拡張工事附属溜所擁壁 縮尺二百分之一


図面を一瞥すれば、すぐに三池港船渠繋船壁の図面(第三十三話 船渠築造 その6 ~船渠繋船壁工事~参照)が想起されることでしょう。岩盤にノコギリ形に穿たれた擁壁の形状は、三池港のそれを思い起こさせます。それでは、この図面の講演会記録の一部を次に紹介しましょう。     


(前略)此地ハ「ロンドンクレー」トモ云フベキ堅イ粘土性ノモノデアリマス故「キーウォール」ノ断面ハ如此ニシテ底ガ鋸ノ歯ノ様ニナッテ居ル (中略) 「キーウォール」即チ岸接繋船壁ハ石ノ壁デアルカ混凝土ノ壁デアルカヲ問ハズシテ 今度ノ巡視中ニ見マシタモノノ中デ此上ニ出ルモノハアリマセヌ 是ガ今申上ゲマシタ如ク悉ク場所積混凝土(注3)ニテ造ツテアルノデアリマス  (後略)


そして、コンクリートについても詳しく報告がなされていて、その内容を簡単に要約すると・・・必要に応じて三種のコンクリートが使用されており、セメント・砂・砂利の混合割合が違っている。また、イギリスには火山灰がないので、ドイツやオーストリアと違って「パヅラナ」は使用されていないことなどが語られています。

これらの内容と視察の時期からすると、このプリマスの船渠繋船壁が三池築港の参考にされたことは間違いない事実と思われます。このように今まで述べてきた船渠繋船壁の築造に関して、石黒の影響は非常に大きいものがあったと言えるのではないでしょうか。それは、繋船壁の構造はもとより、その位置決定の為に多くの時間をさいて行ったボーリング、そして繋船壁の重要なポイントなるコンクリート構造について、さらにコンクリートの材料となるセメントへのこだわり・・・
これらの事実の一つ一つの裏面に、三池築港の顧問技師である石黒五十二の姿を垣間見た思いがいたしました。


最後に、今回のTOPの写真は、第三十五話に掲載した絵葉書とほぼ同じ時期(明治39年頃)と思われます。画像の状態が悪く不鮮明ではありますが、完成間近の四ツ山発電所の建物とまだ一本しかない煙突、そして手前には三角屋根の建物が見えます。この三角屋根の建物・・・『沿革史』に記載がある(注4)富川凜宗(建築主任-当時)氏の発案による丸木小屋ではないかと思えます。また、ドック脇にある左上の煙突からは煙が上がっていますが、これはセメントに混合する火山灰の乾燥プラントではないかと考えました。

次回は、三池築港のセメント事情を巡る最終回を予定しています。最初のスタート地点である、牧田環談話録に戻ります。



(つづく)


◆注1 『工学会誌』第20輯 第二百十七巻 明治34年2月発行  94~129頁(質疑及論評130-134頁)
     質疑では、廣井勇氏とのやり取りなどもあって興味をそそられる。

◆注2 プリマスは、ジェームズ・クックやフランシス・ドレークなどの探検家達の遠征基地となったり、1620年にメ     イフラワー号がアメリカに向けて出航した歴史ある港湾都市です。そして、1588年にはスペインの無敵艦     隊と会戦するためイギリス海軍がこの地から出航するなど、古くからイギリス海軍の基地でもあるプリマ     スには、現在もデヴォンポート海軍基地があり15のドックが存在します。

◆注3 「場所積混凝土」と記載されているが、「場所詰混凝土」ではないかとも考えられる。

◆注4 社史資料 第十六冊 原磯熊、山川清雄氏談話より 『沿革史』第四巻 三池港 其一 所収
     ちなみに丸木小屋は、潟掘人夫などの宿舎にしたらしい。

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▲三池港全図(一部)
  (出典) 『三池港案内』 昭和9年版 三井鉱山株式会社 三池港務所 発行   (管理人所蔵)

             *表示画面では不鮮明ですので、拡大してご覧下さい 

船渠築造 その11 「セメントは合成染料工業のはじまり」

三池築港百話 第三十八話は・・・
『船渠築造 その11 ~セメントは合成染料工業のはじまり~』

これまで、数回にわたり船渠築造のセメントにこだわって考察を進めてきましたが、今回はその最終回となります。題して、「セメントは合成染料工業のはじまり」・・・・
少し、三池築港工事から離れた内容となるかもしれませんが、石炭化学工業の発展が三池港築港とつながっていたという、築港裏面史を取り上げてみたいと思います。

さて、今回の話の主役は “中井四郎” なる人物でございます。
中井四郎は牧田環と同郷(大阪)で、第三高等中学校以来の友人であり、帝国大学工科大学の同期生でもあります。(注1) この中井、三池築港ではセメント技師として働いたのですが、実は当時の大阪セメントから引き抜かれた人材でした。引き抜いたのは、もちろん牧田環。

『牧田環談話』には、この時のいきさつが牧田の言葉として語られています。
中井を大阪まで迎えに行った牧田は、こう切り出した・・・

『君、こんなセメント工場のやうな埃っぽい中では、眼なんか治りはせぬよ』


中井は当時結膜炎で眼が赤く、終止眼薬を点眼していたらしい。
さらに牧田はつづける・・・

『君は大阪に居つて養父の所では頭は上らないぞ。九州にでも来ないか。今九州に来れば、セメントに火山灰を調合することを研究している。それを基礎的に研究して呉れ。併しそれは二年位で済んでしまふ。それから先は、石炭工業に入る。さうして、アンモニヤを採るのだが、君、セメントよりも余程面白いぞ、大阪から九州にやって来ぬか』


巨額の費用を費やした三池築港という一大プロジェクト推進の裏で、牧田はすでに三池の石炭化学工業の将来を見据えた人的投資を行っていたのでした。

三池築港工事が完成し、開港祝賀式が行われた1909(明治42)年4月からわずか2ヶ月後の6月、「中井四郎は、副産物コークス炉選定と副産物処理技術研究を目的とするヨーロッパ出張に赴いた」のだった。(注2)


やがて、ヨーロッパからコッパース炉が導入され、コークス製造の副産物であるアントラセンを原料とした合成染料製造工場が1915(大正4)年7月に完成。この三井鉱山三池焦煤工場は国産合成染料工業の先駆けとなり、歴史に名を残すことになる。
1918(大正7)年8月、この三池焦煤工場は三池染料工場に格上げされ、その初代所長に就任したのが、何を隠そう今回話題にした “中井四郎” その人であった。




(つづく)



◆注1 中井は、明治28年10月 工科大学応用化学科卒。牧田は、明治28年7月 工科大学採鉱冶金学科卒。(なぜか、3ヶ月のズレあり) ちなみに、後ほど触れることになる黒田恒馬(三池式快速船積機の設計者)も牧田と同期・同郷で、機械工学科卒である。 

◆注2 「 」内は、森川英正編著 『牧田環伝記資料』 日本経営史研究所 278頁から引用

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