▲1904(明治37)年5月5日 潮止工事外側 ◇写真提供 : 大牟田市石炭産業科学館
船渠築造 その2 「第一期埋立地潮止堤防」
三池築港百話 第二十九話は・・・『船渠築造 その2 ~第一期埋立地潮止堤防~』
前回(8月)から『三池築港工事』と題し、三池港築港工事の実際を辿りはじめましたが、しばらく時間が空いてしまいました・・・。
本日から、またぼちぼち再開いたします。
本日から、またぼちぼち再開いたします。
時は、築港工事の鍬入式があった1902(明治35)年11月3日から、2年後の1904(明治37)年5月5日頃となります。
鍬入式を待つことなく着手された、二頭山切崩工事を手始めとして、いよいよ本格的な築港工事が始まります。
鍬入式から始まった本工事の最初は、三川海岸沖の埋立工事です。
三池築港の埋立工事は、今から述べる第一期埋立工事から第二期・第三期埋立工事へと、長い年月をかけて進められてきました。
また、第一期埋立工事は、第一区と第二区の工事に区分されるもので、ここでは築港のメインとなる埋立工事である第一区工事をみていきます。第一区工事は、以下の地図中に示した色つきのラインに囲まれた海域の埋立工事であります。
それでは、以下の地図をもとに、埋立工事の実際を見ていくことにいたしましょう。
鍬入式から始まった本工事の最初は、三川海岸沖の埋立工事です。
三池築港の埋立工事は、今から述べる第一期埋立工事から第二期・第三期埋立工事へと、長い年月をかけて進められてきました。
また、第一期埋立工事は、第一区と第二区の工事に区分されるもので、ここでは築港のメインとなる埋立工事である第一区工事をみていきます。第一区工事は、以下の地図中に示した色つきのラインに囲まれた海域の埋立工事であります。
それでは、以下の地図をもとに、埋立工事の実際を見ていくことにいたしましょう。
▲潮止堤防工事計画図 ◇絵葉書をもとに管理人が作成したもの
*画面をクリックすると、より鮮明な大画面にてご覧いただけます
工事は、茶色のラインで示した海岸線の北方、諏訪川河口より潮止堤防を築造することから始まりました。諏訪川河口南岸から北に延びる甲潮止堤防(460m)、その先端部から西に延びる乙潮止堤防(1213m)、さらに内港の北端角となる地点より南へ延びる丙潮止堤防(1102m)、そして内港の南端角から四ツ山に至る丁潮止堤防(37m)が築かれることになります。
二頭山や七浦採石場からの石材は、捨石として軌道や船にて運搬され海中投棄され、堤防の基礎が築かれました。完成した堤防の高さは、最高満潮面以上6呎(1.8m)、幅員は15呎(4.6m)、海に面しては、間知積石垣の堅固な堤防が築かれたのでした。
内港に面する丙潮止堤防には、干潮時の堤防内部の排水口として開閉式の扉をもつ暗渠が2箇所設置されるとともに、幅40間(73m)に渡る潮止口(開口部)が3箇所設置され、当面の潮の出入り口とされました。
二頭山や七浦採石場からの石材は、捨石として軌道や船にて運搬され海中投棄され、堤防の基礎が築かれました。完成した堤防の高さは、最高満潮面以上6呎(1.8m)、幅員は15呎(4.6m)、海に面しては、間知積石垣の堅固な堤防が築かれたのでした。
内港に面する丙潮止堤防には、干潮時の堤防内部の排水口として開閉式の扉をもつ暗渠が2箇所設置されるとともに、幅40間(73m)に渡る潮止口(開口部)が3箇所設置され、当面の潮の出入り口とされました。
これら潮止堤防の完成をみた1904(明治37)年5月5日、「同時に職工一千四百余名を招集して、干潮時一潮の短時間内に、三箇所同時に潮止工事」(注1)が決行されたのでした。
その時の様子が、今回のTOPの写真であります。
三井鉱山社史編纂資料『原磯熊、山川清雄氏談話』(注2)では、この時の工事の様子を次のように伝えています。
三井鉱山社史編纂資料『原磯熊、山川清雄氏談話』(注2)では、この時の工事の様子を次のように伝えています。
四山築港汐留工事は、明治37年5月5日堤防石垣完成と共に小汐の時を見計い、蛇籠を置いて木の柱を立て三寸板二寸五分板二寸板と、三段に分けて一気に塞いで了ったもので、五十名宛三組に分けて競争させました。汐留工事が完成した時は、祝いとして当時の出役者に酒肴料として各人に十銭宛与えましたが、約千四百人分でした。
TOPの写真からは、当時の人海戦術の作業が偲ばれます。
写真では、潮止口の基礎戸渡り部分には矢板打コンクリート工が施され、その前後に木の柱が立ててあるように見えます。この後に、三段からなる仕切り板を設置して一気に締め切ったのでしょう。
また、背後に見えるのは、四ツ山の山系です。
写真では、潮止口の基礎戸渡り部分には矢板打コンクリート工が施され、その前後に木の柱が立ててあるように見えます。この後に、三段からなる仕切り板を設置して一気に締め切ったのでしょう。
また、背後に見えるのは、四ツ山の山系です。
全体の石垣工事の完成をみたのは、1904(明治37)年8月31日のことでした。
今回は、総延長2842mにわたる潮止堤防によって、約36.5万坪の干拓地が出現したことを確認し、これにて話を終えるといたしましょう。
(つづく)
◆注1 『五十年史稿』巻14 工作・動力 75頁より引用
◆注2 『三池港務所沿革史』(未刊行) 第四巻 第四編 三池港(其の一)
第一章「三池港の沿革」 第二節「築港計画の理由」に記載されている内容をもとに引用 ※以後、上記の資料については、略して『沿革史』とのみ記載する
第一章「三池港の沿革」 第二節「築港計画の理由」に記載されている内容をもとに引用 ※以後、上記の資料については、略して『沿革史』とのみ記載する