▲1901(明治34)年頃の二頭山鼻(四ツ山) 三井鉱山(株)三池港物流カンパニー(旧三池港務所)所蔵
築港場所の選定に着手す その2 「はじまりは三角」
三池築港百話 第十九話は・・・『築港場所の選定に着手す その2 ~はじまりは三角~』
前回述べた「本調査(四山沖深浅測量)は地方関係上極秘裏に行われ・・・」のつづきです。
今回の時計の針も、三池築港工事が始まる3年前の1899(明治32)年頃となります。
さて、しばらくぶりの更新ですが、三池築港の場所選定をめぐる話題を2つお伝えすることにいたします。
キーワードは“地方関係上”であります。
ここに言う“地方関係上”とは何なのか?
キーワードは“地方関係上”であります。
ここに言う“地方関係上”とは何なのか?
密かに団平船にて築港調査を始めた團一行。
そこには、2つの意味があったのではないかと思います。
その一つ目は、“なぎなた洲”と呼ばれた山水明媚な三川海岸の漁村に築港を計画することの障害・・・
この遠浅の海に暮らす漁民との確執です。
そこには、2つの意味があったのではないかと思います。
その一つ目は、“なぎなた洲”と呼ばれた山水明媚な三川海岸の漁村に築港を計画することの障害・・・
この遠浅の海に暮らす漁民との確執です。
二つ目は、この地が熊本県と福岡県の丁度県境にあたるということ・・・
築港史の古きを温めれば、熊本県と築港との関係が浮き彫りにされてきます。
築港史の古きを温めれば、熊本県と築港との関係が浮き彫りにされてきます。
今回は、この二つめである熊本県との関係を中心に探索を試みることにいたしましょう。
それでは、探索のはじめは明治三大築港の一つと称される「三角港」(注1)に遡ります。
それでは、探索のはじめは明治三大築港の一つと称される「三角港」(注1)に遡ります。
『三井鉱山五十年史稿』では「当社と三角との関係は、結論から言えば単に三池の貯炭場を置いたというに過ぎない』とつれない記述がされています。(注2)
これを熊本県側から繙いてみると、熊本県の三池炭鉱にかける強い期待が読み取れます。
これを熊本県側から繙いてみると、熊本県の三池炭鉱にかける強い期待が読み取れます。
その一端を『團琢磨氏談話録』より見てみましょう。
『三角を造るのは先生(註 富岡敬明 熊本県知事)の使命で、熊本から十二里もある。それを始終手馬に乗って通って、とうとう造り上げた。(註 明治22年8月開港)けれども船は一隻も入らぬ。陸には鉄道はない。その近辺は何も物産はない。三池の石炭を持ってくるより外はない。富岡敬明が拝んでくる。「お前の方の石炭さえ出れば鉄道を造るから」という。
私共度々三角に行って、富岡の熱心であるだけ、又囚徒など使うのに非常に都合がよい。何でもやってやるというようなことだから、非常に仲良しになってしまった。
私共度々三角に行って、富岡の熱心であるだけ、又囚徒など使うのに非常に都合がよい。何でもやってやるというようなことだから、非常に仲良しになってしまった。
当時は、口之津港を石炭搬出港として利用していましたが、人夫の賃上げ争議が起きたこともあって一時は團も三角港を利用することを考えたようです。
現に、三井物産の外国人船長ピーター・ホルストローム(Peter Hallstrom)と、同じく三井物産の口之津出張所長 松尾長太郎が三角港の現地調査をしたようですが、その結果は「三角港の利用は不可」というものでした。
理由は・・・「何分にも水路悪しく、潮流急にして、最も穏やかなる八代湾口の牛深より入港するとしても多くの燈台の必要がある」(注3)こと。
1899(明治32)年には鉄道の開通をみましたが、同時期に計画された三池築港と相まって、三角港の石炭積み出し港としての利用価値はほとんど失われてしまったと言えるでしょう。
現に、三井物産の外国人船長ピーター・ホルストローム(Peter Hallstrom)と、同じく三井物産の口之津出張所長 松尾長太郎が三角港の現地調査をしたようですが、その結果は「三角港の利用は不可」というものでした。
理由は・・・「何分にも水路悪しく、潮流急にして、最も穏やかなる八代湾口の牛深より入港するとしても多くの燈台の必要がある」(注3)こと。
1899(明治32)年には鉄道の開通をみましたが、同時期に計画された三池築港と相まって、三角港の石炭積み出し港としての利用価値はほとんど失われてしまったと言えるでしょう。
以上述べてきたように、三池の石炭搬出に熱心だった熊本県・・・、
こと三池築港に関しても、万田坑を有することから築港の場所選定には大いなる関心事であったと思われます。
福岡県にとっても、「大島川尻(熊本県玉名郡-当時)説のあった時など、地元大牟田の人々は在郷の野田卯太郎代議士などと連絡をとって要路を訪ねて奔走した」こともあったとのこと。
こと三池築港に関しても、万田坑を有することから築港の場所選定には大いなる関心事であったと思われます。
福岡県にとっても、「大島川尻(熊本県玉名郡-当時)説のあった時など、地元大牟田の人々は在郷の野田卯太郎代議士などと連絡をとって要路を訪ねて奔走した」こともあったとのこと。
いざ三川海岸に決定すると・・・「果然熊本県の反対は猛然とおこった」のでした。(注4)
團琢磨曰く・・・
『そんなことは技術上から決まったことだ。何処へもっていくとか、此処へもっていくとかいう問題ではない』
また、技術上以外にも、港をを監督する官庁が福岡・熊本の両県にまたがることを避けるためでもあったようです。
『そんなことは技術上から決まったことだ。何処へもっていくとか、此処へもっていくとかいう問題ではない』
また、技術上以外にも、港をを監督する官庁が福岡・熊本の両県にまたがることを避けるためでもあったようです。
最後にTOPの写真は、三池港築港以前の二頭山鼻です。
写真手前には三川海岸の“なぎなた洲”が広がり、写真奥の二頭山鼻(四ツ山の先端部)には岩場の磯が広がっています。この後、二頭山の先端部は削られ、三池港築港の石材として利用されることとなります。
写真手前には三川海岸の“なぎなた洲”が広がり、写真奥の二頭山鼻(四ツ山の先端部)には岩場の磯が広がっています。この後、二頭山の先端部は削られ、三池港築港の石材として利用されることとなります。
(つづく)
◆注2,4 「 」内は、三井鉱山五十年史編纂委員会編 『三井鉱山五十年史稿』 1944年 (未刊行) 巻19:第15編 輸送及販売 (一) による
◆注3 「 」内は、『男爵團琢磨伝 上巻』 273頁より引用