炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 三池築港百話

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▲1901(明治34)年頃の二頭山鼻(四ツ山)  三井鉱山(株)三池港物流カンパニー(旧三池港務所)所蔵


築港場所の選定に着手す その2 「はじまりは三角」

三池築港百話 第十九話は・・・
『築港場所の選定に着手す その2 ~はじまりは三角~』
前回述べた「本調査(四山沖深浅測量)は地方関係上極秘裏に行われ・・・」のつづきです。
今回の時計の針も、三池築港工事が始まる3年前の1899(明治32)年頃となります。

さて、しばらくぶりの更新ですが、三池築港の場所選定をめぐる話題を2つお伝えすることにいたします。
キーワードは“地方関係上”であります。
ここに言う“地方関係上”とは何なのか?

密かに団平船にて築港調査を始めた團一行。
そこには、2つの意味があったのではないかと思います。
その一つ目は、“なぎなた洲”と呼ばれた山水明媚な三川海岸の漁村に築港を計画することの障害・・・
この遠浅の海に暮らす漁民との確執です。

二つ目は、この地が熊本県と福岡県の丁度県境にあたるということ・・・
築港史の古きを温めれば、熊本県と築港との関係が浮き彫りにされてきます。

今回は、この二つめである熊本県との関係を中心に探索を試みることにいたしましょう。
それでは、探索のはじめは明治三大築港の一つと称される「三角港」(注1)に遡ります。

『三井鉱山五十年史稿』では「当社と三角との関係は、結論から言えば単に三池の貯炭場を置いたというに過ぎない』とつれない記述がされています。(注2)
これを熊本県側から繙いてみると、熊本県の三池炭鉱にかける強い期待が読み取れます。

その一端を『團琢磨氏談話録』より見てみましょう。

『三角を造るのは先生(註 富岡敬明 熊本県知事)の使命で、熊本から十二里もある。それを始終手馬に乗って通って、とうとう造り上げた。(註 明治22年8月開港)けれども船は一隻も入らぬ。陸には鉄道はない。その近辺は何も物産はない。三池の石炭を持ってくるより外はない。富岡敬明が拝んでくる。「お前の方の石炭さえ出れば鉄道を造るから」という。
私共度々三角に行って、富岡の熱心であるだけ、又囚徒など使うのに非常に都合がよい。何でもやってやるというようなことだから、非常に仲良しになってしまった。

当時は、口之津港を石炭搬出港として利用していましたが、人夫の賃上げ争議が起きたこともあって一時は團も三角港を利用することを考えたようです。
現に、三井物産の外国人船長ピーター・ホルストローム(Peter Hallstrom)と、同じく三井物産の口之津出張所長 松尾長太郎が三角港の現地調査をしたようですが、その結果は「三角港の利用は不可」というものでした。
理由は・・・「何分にも水路悪しく、潮流急にして、最も穏やかなる八代湾口の牛深より入港するとしても多くの燈台の必要がある」(注3)こと。
1899(明治32)年には鉄道の開通をみましたが、同時期に計画された三池築港と相まって、三角港の石炭積み出し港としての利用価値はほとんど失われてしまったと言えるでしょう。

以上述べてきたように、三池の石炭搬出に熱心だった熊本県・・・、
こと三池築港に関しても、万田坑を有することから築港の場所選定には大いなる関心事であったと思われます。
福岡県にとっても、「大島川尻(熊本県玉名郡-当時)説のあった時など、地元大牟田の人々は在郷の野田卯太郎代議士などと連絡をとって要路を訪ねて奔走した」こともあったとのこと。

いざ三川海岸に決定すると・・・「果然熊本県の反対は猛然とおこった」のでした。(注4)

團琢磨曰く・・・
『そんなことは技術上から決まったことだ。何処へもっていくとか、此処へもっていくとかいう問題ではない』
また、技術上以外にも、港をを監督する官庁が福岡・熊本の両県にまたがることを避けるためでもあったようです。


最後にTOPの写真は、三池港築港以前の二頭山鼻です。
写真手前には三川海岸の“なぎなた洲”が広がり、写真奥の二頭山鼻(四ツ山の先端部)には岩場の磯が広がっています。この後、二頭山の先端部は削られ、三池港築港の石材として利用されることとなります。


(つづく)


◆注1 三角港(三角西港)の築港については、以下のHP等が参考となる
      明治の近代港湾都市「三角西港」

◆注2,4 「 」内は、三井鉱山五十年史編纂委員会編 『三井鉱山五十年史稿』 1944年 (未刊行)             巻19:第15編 輸送及販売 (一) による

◆注3 「 」内は、『男爵團琢磨伝 上巻』 273頁より引用  

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▲築渠工事前の四山 1901(明治34)年頃  三井鉱山(株)三池港物流カンパニー(旧三池港務所)所蔵

築港場所の選定に着手す その3 「築港位置の確定」

三池築港百話 第二十話は・・・
『築港場所の選定に着手す その3 ~築港位置の確定~』
前々回述べた「本調査(四山沖深浅測量)は地方関係上極秘裏に行われ・・・」のつづきです。
今回の時計の針は、三池築港工事が始まる1年前 1901(明治34)年頃となります。

「密かに団平船にて築港調査を始めた團一行」 そこには2つの意味があったのではないかと述べました。
今回はその最大の理由であったと思われる「漁民との確執」について探索を試みることにいたしましょう。
“なぎなた州”と呼ばれた山水明媚な三川海岸・・・この豊かな遠浅の海に暮らす人々とどう折り合いをつけるのか? が築港計画を進める上での課題の一つとして浮上してきたと思われます。

まずは、築港場所の選定に関するこれまでの経過を簡単にまとめておきましょう。
明治32年 5月 ~ 明治32年 9月  四山沖深浅測量 
明治32年10月 ~ 明治34年      築渠位置選定並試錐
明治34年 3月 ~ 明治35年 3月  四山築渠線測定及布設・築港位置確定並測量

 ※三井鉱山五十年史編纂委員会編 『三井鉱山五十年史稿』 1944年(未刊行) 巻14 工作・動力 より

上記の内容からすると、1901年(明治34)年には、三川村地先への築港位置確定がなされたと思われます。
実際に、この年(明治34年)の12月17日付にて「三井鉱山合名会社業務担当社員 三井三郎助  代理人 山田直矢」名にて、当時の福岡県知事深野一三宛に、三池郡三川村地先の 『海面使用願』 すなわち築港のための埋立出願が行われたのでした。(翌年 3月11日に許可される)                      

この築港位置確定に際しては、当時三井鉱山合名会社専務理事として東京にいた團琢磨による最終決定が必要であったと思われます。
そこで何度も取り上げてきた「密かに団平船にて築港調査を始めた團一行」に再度戻りたいと思います。

この「團一行」のメンバーは、以下の6名であったと思われます。
 團  琢磨  三井鉱山合名会社 専務理事
 牧田  環  三池炭鉱 採鉱技師主任
 栗田代作  三池炭鉱 運輸主任
 富川凛壮  三池炭鉱 建築主任
 山川清雄  三池炭鉱 建築工手長
 松本千吉  三池炭鉱 建築工手  ※『社史資料 第十六冊 原磯熊・山川清雄氏 談話』より
團を中心としたこのメンバーにて、1901(明治34)年3月頃には、築港位置の最終決定を行ったのではないかと推測されます。

これら築港調査に参加した山川清雄氏が口述したところによると・・・(注1)
其翌晩(築港位置決定の?) 富川さんの自宅に呼ばれて、「四山に築港を造るということは秘密だから決して他に洩らしてはならない」と厳命され、それは四山に築港を造るということが地方民やその他の人々に知れては色々の弊害があり、殊に早米来の漁業組合の連中に知れると面倒なことになるから・・・

と、当時の様子を伝えています。
この口述内容にある「殊に早米来の漁業組合の連中」というところが、地方関係上極秘裏の最大の理由だったと考えられます。

その後の築港工事開始に至まで、「殊に早米来の漁業組合の連中」に対して、三井鉱山としてどのような方策がとられたかの口述はないのですが、建築工手長として知り得た面白いエピソードが綴られていますので、次に紹介するといたしましょう。
人々の目を眩すために、弘厳太郎(玉名郡荒尾町西原)という男に命じて、位置違いの諏訪川尻に「ボーリング」を十本程やらせた。 その後、閘門・繋船壁・燈台の位置決定などを決めるために、松本千吉さんが四山沖にビール瓶を流して潮流図を作り上げた。これが築港上非常に貴重な参考資料となって、燈台の位置・閘門の位置などすべてこれがその基礎となった訳である。

四山沖を漂うビール瓶~~~
明治のビール瓶は今と同じ大きさだったのでしょうか?

どう考えても庶民の口には入らなかったであろう 明治34年頃のビール・・・
三井鉱山の職員達が嗜んだのでしょう。

さて、築港位置の決定をみた三池築港。(当時は四山築港といいました)
築港に取りかかるべく必要な、土地買収や漁業権の問題はどうなったのでしょう?

1901(明治34)年、ちょうど時を同じくして、わが国初の漁業法が制定されています。
当時の海面埋立の許可については、県が管理していたようですが、地元の政治家や有力者との関係などを次回は少しだけ覗いてみたいと思います。


(つづく)


◆注1 山川清雄氏が口述した内容については、『三池港務所沿革史』第五巻 三池港 其二 89~91頁をもと      に記述した 

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▲大牟田市三川町通り (三池) Mikawamachi Omuda   大正期の絵葉書より(提供:地図の資料館)

築港場所の選定に着手す その4 「早米ヶ浦漁協」

三池築港百話 第二十一話は・・・
『築港場所の選定に着手す その4 ~早米ヶ浦漁協~』

築港位置の決定をみた三池築港。(当時は四山築港といいました)
築港に際し、避けては通れない三川海岸の土地買収や漁業権の問題はどのように進んだのでしょう?
探索を試みる内に見えてきた、地元の政治家や有力者のことなどを少しだけ覗いてみたいと思います。

今回の時計の針も、三池築港工事が始まる1年前 1901(明治34)年頃となります。

三川村地先に築港位置の決定をした團琢磨でしたが、第一話の冒頭に掲げた写真『なぎなた洲 ~三川海岸~』に見るように、弧状を描いて連なる三川海岸とその地先は、漁民達にとっては生活のかてである豊かな海であったと想像できます。

当時の有明海漁業史(注1)を繙いてみると・・・
①明治~大正期の主要な漁業は、アゲマキ貝・タイラギ貝・うみたけ貝・アサリ貝など貝類、羽瀬網漁などによる魚類、のり養殖、朝鮮通魚といわれたアンコウ漁が主な漁業形態であった。
②アサリ貝については、特に三川先地が好漁場であった。
③福岡県における「のり養殖」は、明治30年頃に三池郡で行われたのが最初とされるが、県水産試験場業務報告には、明治33年に三川村先地、同34・35年に手鎌村先地で試験をおこなった事が記されている。また、地元の関心も高く製造講習会も行った。
④福岡県内の漁業組合については、明治35年現在で18漁業組合が設立されている。三川村では、諏訪と早米ヶ浦の2漁業組合が設立されていた。

このように、有明海でも有数の豊かな漁場であったと思われる三川村地先。
この海岸を埋め立て築港を行うことについては、当然ながら漁民の反対が起こったと考えられます。
三川村には、諏訪と早米ヶ浦の2漁業組合が存在していましたが、前回取り上げた「殊に早米来の漁業組合の連中に知れると面倒なことになるから」というのは、この早米ヶ浦漁業組合のことを差していると思われます。

それでは、当時の三池炭鉱・三井鉱山はこれら漁業組合や漁民との交渉はどのように行ったのでしょうか?
 『三池港務所沿革史』などでは、いくつかのエピソード(土地の顔役を工事請負人などに雇い入れたなど)は紹介されていますが、具体的記述は見あたりません。

唯一、春日論文(注2)の中に以下のような記述を見かけました。
『築港の前提となる土地の買収や漁業権との関係については、三池炭鉱と関係の深い地元有力者である森時三郎、野口忠太郎の尽力・・・』

ここに取り上げられた2人の人物について、『大牟田市史』(注3)をもとにして、以下に簡単な経歴をまとめてみたいと思います。
◆森 時三郎
安政4年2月27日、大牟田下里にて出生。森家は、官営になる以前から三池の石炭販路を開くなど、石炭業に従事していた。野田卯太郎や永江純一らとともに、三池銀行・三池土木会社・三池紡績会社などの創設に関わり、明治25には三池石炭合資会社を創立して社長に就任。
その後、大牟田商工談話会の顧問や三池郡会議員・大牟田市会議員となる。
このように、大牟田地方の実業界・政界の中心となって活躍した。
大正13年1月12日 没  行年67歳

◆野口 忠太郎
慶応元年8月8日、大牟田横須にて出生。資産家と知られ、青年時代より森時三郎、福井福太郎、野田卯太郎、永江純一らと親交を深める。三池紡績会社・三池土木会社・大牟田瓦斯会社・東方電力等の重役を歴任、大牟田商工会改め大牟田商工談話会とし、その初代会長に就任した。
その後、大牟田市議会議員を経て衆議院議員に当選して国政に参画。
終生大牟田市の発展に尽力した。
昭和6年2月24日 没  行年66歳
これら地元大牟田の経済界の有力者とともに、築港への協力者として経歴にも登場した野田卯太郎などが
重要人物としてあげられます。
築港に関わって、このような地元有力者達との関係は、三池炭鉱側としても非常に重要であったと考えられます。
実は、ここに名前が挙がっている地元有力者達と三井との関係は、官営三池炭鉱の払い下げにまで遡ります。
野田卯太郎(当時は県会議員)らは、地元の資産家から出資金を集め、三池炭鉱を払い下げる運動をしていたのです。この時の総出資額は100万円で、政府の最低価格の400万円には遠く及びませんでしたが、三井への払い下げが決定した後も、新たに製作工場(後の三池製作所)だけでも払い下げられないかと運動を進めていたのでした。(注4)

払い下げに関わった三井物産の益田孝は、野田卯太郎について次のように回想しています。(注5)
三池炭鉱の払い下げがきまって三井へ引き継ぐ時、私は三池へ行って、何とかいう大きな囲炉裏のある石炭問屋に泊まっていた。すると早速、野田卯太郎、永江純一、他に一、二名、久留米絣の着物に鼠色になった白木綿の兵児帯でやってきた。それまで一度も来たことはない。何をしにきたかと思うと、炭鉱の製作所即ち鉄工所を売ってもらいたいと言うのである。(中略)
私は、三井が三池炭鉱を引き受けるについては、地方の人に仕事を授け地方の人心を引き入れる必要があると思い、それには紡績がよいと考えて三池監獄の典獄をしていおった神原富文という人に相談した。(中略)
旧柳河藩士の大村務という人を社長にし、やはり柳河藩士であった吉田という人を取締役にし、野田、永江も取締役になった。野田や永江が取締役になったので、三池の人たちは大喜びであった。(後略)

このように、三池紡績会社の創立は、三井側からすれば地元大牟田の人々との関係を良好に保つといった目的があったと考えられます。
この頃より、三井鉱山によるの炭鉱経営上発生した地元民との諸問題(用地買収・鉱害問題・労使問題など)については、ここで名前があがっている有力者を介して解決が図られていくのでした。

三池築港も、またしかり・・・
次回は、野田卯太郎の人物像と團琢磨の残した三池築港への思いをもとに、築港への歩みを辿ってみたいと思います。



ところで、TOPの手彩絵葉書は、大正期の三川町と思われます。
四山から諏訪川方面を望んだ写真でしょうか。
中央には、人力車と自転車に乗った人物。
手前の商店には「精牛肉卸小売」、そして人力車の後ろの商店には「有田ドラッグ商会支店」の看板が見えます。

アメリカ陸軍の御用船“DIX号”が来航した、大正11年頃ではないかと推察いたします。



(つづく)


◆注1 福岡県有明海漁業共同組合連合会>漁業の歩み>明治~大正期の漁業 を参考にした 
 
◆注2 春日 豊 『三井財閥における石炭業の発展構造』 三井文庫論叢 第11号 1977年所収
     初出は、『團琢磨理事長談話速記録(其二)』 61頁

◆注3 『大牟田市史 下巻』 第九篇 人物  

◆注4 新藤東洋男 『大牟田の近現代史-鉱工業都市の過去と現在』 大牟田の教育・文化を考える会          1977年  38~40頁 を参考にして記述した
 
◆注5 長井 実編 『自叙益田孝翁伝』 中公文庫 1989年  「野田卯太郎」195~199頁  

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▲THE MAP OF MIIKE HARBOUR  (YS) PUBLISHED BY YAMADA'S OMUTA STATION 
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築港場所の選定に着手す その5 「團琢磨の深慮」

三池築港百話 第二十二話は・・・
『築港場所の選定に着手す その5 ~團琢磨の深慮~』

築港に際して、避けては通れなかったであろう三川海岸の土地買収や漁業権の問題に関する、地元の政治家や有力者についてのつづきです。
以前にも名前が出てきた野田卯太郎と、團琢磨との関係を中心に探索を試みたいと思います。

今回の時計の針も、三池築港工事が始まる1年前 1901(明治34)年頃となります。

さて、初っぱなから今回のテーマである「團琢磨の深慮」なる核心に迫っておきましょう。
三池港築港について語られた書物や記事には、必ずや引用される團琢磨が残したとされる言葉があります。
それは、次のような内容です。

 石炭山の永久などという事はありはせぬ。無くなると今この人たちが市となっているのがまた野になってしまう。これはどうも何か(三池の住民の)救済の法を考えて置かぬと実に始末につかぬことになるというところから、自分は一層この築港について集中した。築港をやれば、築港のためにそこにまた産業を起こすことができる。石炭が無くなっても他処の石炭を持ってきて事業をしてもよろしい。(港があれば)その土地が一の都会になるから、都市として“メンテーン”(存続)するについて築港をしておけば、何年もつかしれぬけれども、いくらか百年の基礎になる。
      ◆三井鉱山株式会社 『男たちの世紀 ― 三井鉱山の百年』 1990年 60頁より引用 (注1)

昨年、築港100周年を迎えた三池港の今を思うとき、團琢磨の残したこれらの言葉が100年前の言葉ではなく、あたかもリアルタイムで語れたかのごとく迫ってきます。
明治時代を生きた、傑出した技術者でもあり、また経営者でもあった團琢磨の面目躍如たるところです。
一企業の利益追求にはしることなく、地元である三池(大牟田)の将来をも考慮し、長期的なプランをもって築港を計画した事について改めて敬意を表する次第です。

ところで、『男爵團琢磨傳』にも先の内容が紹介されていますが、その後に次のような事が述べられいます。

而して此の観念は野田卯太郎等の間接の助力によりて地方民の間にも通じ、一つには地方の繁栄を夢み、一つには永久の事業と考え、他方の生業たる漁業の不便、海苔採取の不可能などを来たしたることもさして問題を起こさず築港工事が着々と進行した。
       ◆故團男爵傳記編纂委員会 『男爵團琢磨傳』 1938年  279頁より引用


ここで、野田卯太郎の略歴を 『大牟田市史』 をもとにして、以下に簡単にまとめておきましょう。
◆野田 卯太郎
嘉永6(1853)年11月21日三池郡岩津村(旧高田町)に出生。野田家は、肥後菊池郡から出でて、亀谷唐川を経て岩津に移り住んだ富裕の農家であった。明治13年(1880)年にいたり、始めて自由民権運動を起こし、明治16(1883)年に岩津村村会議員に当選、これより政治活動を盛んに行い福岡県会議員となる。
その間、永江純一等と協力して三池銀行・三池土木会社創立に尽力し、さらに三池紡績会社を創設して取締役となり、新興大牟田町の発展のために尽瘁した。
明治31(1898)年、衆議院議員に当選するとともに、立憲政友会に所属して国政にて活躍。原敬内閣では逓信大臣、その後立憲政友会副総裁、商工大臣等を歴任。少壮時より志を立てて終生政界にて活躍し偉大なる功績を残す。“大塊”と号して俳句をよくし、絵に巧みで好んで蘭の絵を描いた。
また、体躯巨大なるも風貌温和まことに長者の風格を供えていた。
昭和2年2月23日 没  行年75歳
野田卯太郎と團琢磨との関係は、官営三池炭鉱の時代まで遡ります。
『男爵團琢磨傳』によると・・・明治17年頃、「野田は殆ど毎日の如く杉下駄を履き辨当包を腰に下げて郡内巡回の折君(團琢磨)の事務所を訪ふて茶を所望し、竹の皮包より梅干しを中に入れた大きな握り飯を出して食事しながら漫談に耽り、西洋の社会状態より時勢などを聞き込むを唯一の楽しみとしていた」とのことであり、「三池炭鉱と地元三池大牟田を結び、事業を円滑に達成するになくてはならぬ存在であった」。(注2)
野田は、官営三池炭鉱の小林秀知鉱山局長の時代より、官尊民卑の風習の残る鉱山局と地元人民との間に発生する諸問題(鉱害問題や土地買収問題など)の仲介をし、両者の関係融和を図ってきたのでした。
官営時代から三井組の経営に移行してからも、野田の存在は依然として重要であったと思われますが、團の事務長就任は、これまでの威圧的な炭鉱事業者の態度とは違ったものと感じられたことでしょう。

『野田大塊伝 伝記・野田卯太郎』では、團琢磨の事務長就任について以下のような記述をし、その手腕を高く評価しています。

彼れ(團琢磨)の見識、手腕は、小林の官僚風にして、往々又、驕慢の嫌ひがあったのに対して、地味堅実、慇懃丁寧であった。三井家にして彼れを得なかったならば、払い下げ以後の三池炭鉱が、果たして彼の如くなり得た乎、寧ろ疑問である。小林の晩年、固より土着民との関係を改善したのは、野田の斡旋、有志の深慮に由ったであろう。然し彼れ(小林秀知)を送って團を得た土着民が、炭鉱当事者に向かって、全く異なった意味の接近を感じたのは、争ふべからざる事実である。
  ◆坂口次郎 『野田大塊伝 伝記・野田卯太郎』 野田大塊伝刊行会 1929年  255・256頁より引用

以上、いくつかの書物の記述をもとに、三池炭鉱をめぐる野田卯太郎と團琢磨との関係を見てきました。
野田は地元三池大牟田の発展を願い、また團も百年の計をもって三池港の築港計画を立てた・・・。
野田をはじめとした地元有力者達と團琢磨の共同作業無くしては、三池築港に向けた地元漁民などの説得は成しえなかったのではないかと考えます。

最後に、この論考の最初に立ち返り、再度団琢磨が残した言葉を吟味したいと思います。
これまで縷々述べてきたことを総合すると、私には團が残したとされるこの言葉について、次のような解釈もできるのではないかと思われるのです。

それは、三池炭鉱の将来をも左右したであろう、築港計画推進のための「地元民への説得の言葉」ではなかったかと・・・。團の百年の計をもった築港計画に共感した地元有力者達が、地元民にその思いを説き歩く・・・ そんな光景が目に浮かんでくるのです。
いずれにしても、團琢磨の残した言葉の輝きは今も失われることなく輝きつづけているのです。


次回からは、三池築港の経営的側面からの考察を試みてみたいと思います。


(つづく)


◆注1 初出の明記はされていないが、『團琢磨理事長談話速記録』 よりと思われる。
     また、『男爵團琢磨傳』279頁には、團が残した次のような言葉も記されている。
     『生きた人間が子孫まで居る積もりで出て来て居るのだ。然るに石炭を掘り尽くして全く空っぽにしてしま      って何も無くしてしまうと云う事になると是は何んか安じない。三井家としても何かして御土産を残して置      かぬと逃げられぬのではないか云う感じが強かった』
     この言葉からは、一企業人としての思惑が感じられる。

◆注2 故團男爵傳記編纂委員会 『男爵團琢磨傳』 1938年 254・255頁を参考にした

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▲三井三池炭鉱出炭高の推移  1889(明治22)年~1912(明治45)年
    出典:『三井鉱山五十年史稿』 巻五ノ二 第1表、第2表より作成  
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三池築港の資金計画 その1 「2大プロジェクト」

三池築港百話 第二十三話は・・・
『三池築港の資金計画 その1 ~2大プロジェクト~』

今回から数回に渡って、『三池築港の資金計画』 と題し、三井鉱山や三井物産の経営的側面から三池築港についての探索を試みてみたいと思います。

今回の時計の針は、三池築港工事にGOサインがでた1902(明治35)年頃となります。

さて、『三池築港の資金計画』といった題名をつけましたが、その前に「2大プロジェクト」につて触れておきましょう。今回銘打ちました 「2大プロジェクト」 とは・・・

もちろん一つは “三池築港”、そしてもう一つは “万田坑開鑿” です。
実は、この2つのプロジェクトは、いわば表裏一体の関係にあると言えます。
1898(明治31)年6月17日、団琢磨は牧田環、松原嶢を伴って欧米視察に旅立ったことはすでに詳しく述べたところです。
それは、すでに万田坑開鑿の計画を終え、1897(明治30)年11月23日の万田坑第一竪坑開鑿着手を見届けてからの旅でした。
旅の目的は、「今後の万田坑の開鑿と採掘のために、排水法、採掘法、深竪坑開鑿、海底採掘などの実地見聞」(注1)を深めるとともに、もちろん三池築港を想定した、欧米の最新港湾施設の調査・研究でした。

そこで、TOPのグラフを見ていただきたいと思います。
このグラフは、『三井鉱山五十年史稿』 巻五ノ二 第1表、第2表 をもとに作成したものです。
今回話題にしている万田坑の第一坑着炭が、1902(明治35)年2月12日、出炭操業開始が同11月27日と記録されています。

三井に払い下げ直後の1889(明治22)年には約50万tであった出炭量も、1890年代後半になると70万t台へと伸びを示しています。その伸びの中心は、勝立坑の開鑿にあることがグラフから読み取れます。
さらに、1900年代前半(明治36年)には100万tを突破し、1908年(明治41)年には150万t、1912(明治45)年には200万tを突破するに至っています。
もちろん、この出炭量の増大の中心は万田坑でありました。1910(明治43)年には、万田坑単独で50万tを上回る出炭量を誇っています。(注2)

三池築港は、ご覧のように出炭量の増大が予想される中での、一大プロジェクトであったのです。
横須浜 “龍宮閣” の積出能力が約70万tであったことから、万田坑の開坑による出炭量の増大分をまかなえない事は目に見えて明らかな事でした。

万田坑の開鑿予算が約227万円、そして三池築港計画の予算は400万円。

次なる課題は、その築港に要する資金調達であります。

團琢磨が立案した三池築港計画の巨大プロジェクト・・・、
400万円といえば・・・三井が三池炭鉱を払い下げた時の金額(455万5千円)にほぼ匹敵する金額です。

次回は、三井物産の視点から、この三池築港計画を見てみることにいたしましょう。



(つづく)


◆注1 春日 豊 『三井財閥における石炭業の発展構造』 三井文庫論叢 第11号 1977年 212頁より引用

◆注2 畠山秀樹 「三池炭鉱の発展と三井鉱山会社」 『福岡県史』 通史編 近代産業経済(一)所収
     を参考にした

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▲昔ノ三川村漁村時代 / 現在ノ三池港   昭和初期頃の絵葉書より 

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三池築港の資金計画 その2 「三井物産 益田孝の演説」

三池築港百話 第二十四話は・・・
『三池築港の資金計画 その2 ~三井物産 益田孝の演説~』

前回から 『三池築港の資金計画』 と題し、三井鉱山や三井物産の経営的側面から三池築港についての探索を試みていますが、今回は「三井物産」の視点から三池築港計画を見てみることにいたしましょう。

今回の時計の針も、三池築港工事にGOサインがでた1902(明治35)年頃となります。

「三井物産」といえば、官営三池炭鉱の時代から、三池炭の販売権を一手に引き受けてきた会社であります。三池炭鉱の払い下げについて深く関わった三井物産ですが、払い下げ後も三池炭販売の一切を依託されていたのでした。
当時の三井物産は、三池炭を国内はもとより上海・香港など海外に向けて販売していました。「販売数量では、海外60%台、国内30%台であるが、販売金額では海外約80%、国内約20%」(注1)の割合で、海外市場での売炭の利益が大きかったことがわかります。
海外売炭の多くが、バンカー炭(船舶焚料炭)であり、高品質の塊炭であったことがその主な理由でしょう。

さて、その三井物産にして、三池築港を推し進める最大の理由は、輸送コストの削減と迅速化にあったと考えられます。1900年頃の中国(清)といえば・・・・欧米列強の帝国主義による進出が盛んに行われていた頃。これら帝国主義諸国の手によって、中国における炭鉱の開発が進められていました。
この中国における炭鉱開発にともない、東アジアでの石炭市場における競争の激化が予想されました。

明治35年12月15日号の『東洋経済新報』にて、団琢磨は次のように述べています。
支那炭鉱の開採 是れ最も我に取って強敵なり、(中略) 若し夫れ支那は我の石炭市場として最も大なるもの、支那石炭にして大に産出せんか直ちに至大の影響を蒙らざる能わず 

三池築港が決定された1902(明治35)年の4月、三井物産支店長会議の席上、社長である益田孝は以下のような演説をしました。(注2)

三池築港ノ事ハ一朝一夕ノ設計ニ非ラス、鉱山局時代ヨリ石黒五十二氏之ヲ計画セラレ、団氏時代トナリテ、ボーリングモ遣リ又調査モナシ技師モ欧米ヘ派遣シ専心此事ヲ研究シ、其極三池ニ於テ独力ニテ設計シ其設計ヲ石黒氏ニモ見セタル処、此設計ハ完全シ居ル此以外ニ工夫アルマシトノ事ニテ同族会ノ評議モ既ニ済シタル次第ナリ (中略) 
向後膠洲湾ノ炭モ出ツヘク開平モ沢山掘リ出スナラム、之ニ対抗シテ敗ヲ取ラサル様為スニハ口ノ津丈ニテハ不十分ニテ競争場裡ニ勝ヲ占ムルコト難シ、之ト大ニ競争ヲ試ミントスルニハ経費ヲ省キ炭ノ原価ヲ安クスルノ外ナシ、三池ノ築港ニシテ完成ノ暁ニハ何処ノ炭ヨリモ安ク供給シ得ヘシ、三池ハ多ク掘レハ掘ル程安ク付ク、今日迄ハ艀ニ依リタル故運賃割高ニ当リタルモ築港完成シ運賃安クナル以上ハ大ニ炭ノ直段ヲ引下ケ得ベシ (後略)
            出典:「支店長諮問会議事録」 三井文庫所蔵史料 物産一九七-一 甲八-九頁 

演説にある「膠洲湾」とは、ドイツの租借地であった山東半島の青島、「開平」は「撫順」につぐ中国第2位の炭田。これらの中国炭との競争に打ち勝つには、輸送経費の削減を目指した三池築港が必要であることを訴えた内容です。

この演説が行われた1902(明治35)年4月以前に、団琢磨によって三井鉱山合名会社の出資社員である三井同族十一家への三池築港プレゼンテーションがなされ、「同族会ノ評議モ既ニ済シ」三池築港が正式に決定されたのでした。

いよいよ、官営時代からの念願であった築港計画が実際に動きはじめようとしています。
1902(明治35)年という年は、三井にとっては払い下げ年賦金(15ヶ年)の完納を終える年でもあります。
(当時、年額253,928円)
「団は、万田第一坑竣工と三池払下年賦金完納の年にあたる明治35年という時期を選んで、三井最高幹部に予算案を提出」(注3)して、三池築港の認可をもとめたのでした。


次回は、表題にしている資金計画についての実際を探索してみたいと思います。




(つづく)


◆注1 畠山秀樹 「三池炭鉱の発展と三井鉱山会社」 『福岡県史』 通史編 近代産業経済(一)              670頁より引用

◆注2 『三井事業史』 本篇第二巻 710~711頁を参考に記載した

◆注3 畠山秀樹 「三池炭鉱の発展と三井鉱山会社」 『福岡県史』 通史編 近代産業経済(一)              599頁より引用

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▲完整後の三池港船渠全景 WHOLE VIEW OF MITSUI'S MIIKE DACK (津村寫YS)   

   *表示画面では不鮮明ですので、拡大してご覧下さい (標記は印刷のままにしています)

三池築港の資金計画 その3 「三井家同族会管理部会」

三池築港百話 第二十五話は・・・
『三池築港の資金計画 その3 ~三井家同族会管理部会~』

『三池築港の資金計画』の3回目は、「三井家同族会管理部会」における三池築港の資金調達計画の変遷を、「三井家同族会管理部会議録」(注1)をもとに繙くことにいたしましょう。

今回の時計の針も、三池築港工事にGOサインがでた1902(明治35)年頃となります。

早速、1902(明治35)年5月15日 「三井家同族会管理部会」での益田孝の発言から始めることといたします。
井上伯其内帰京アラハ第一ニ起ルヘキハ三池ノ築港ノコトナルベシ、就テ此築港ハ鉱山ノ事業トスルカ或ハ事務局ノ事業トスルカ、又資金ノ支出ハ鉱山会社ニ増資スルカ将タ如何ナル方法ヲ取ルカ、是等ノ利害等差当リ取調ヘニ着手致度・・・                 

会議録に登場する井上馨といえば・・・

“三井の大番頭”と揶揄されたように、ことのほか三井との関係が深かった政治家です。
三井家の顧問でもあった井上は、幾度か三池の地を訪れています。
「団琢磨氏談話録」(注2)よると、井上は築港前の三川海岸を四ツ山から眺め、次のような言葉を残したとのこと。(高洲鉄一郎氏が語った内容であること)
「築港をやるから是から節約して協力してやらなければいかぬ」
そして、もう金は使えないということで、“塩鰯に握飯の辨当”を食したらしい。

井上が三池の地を訪れ上記の言葉を残した時と、先の管理部会議録に記されている「井上伯其内帰京アラハ」が同じ時期であるのかどうかは不確かですが、当初は300万円と目されていた築港の経費がいかに巨額であったかと、井上の三池築港に賭ける思いが伝わってくる逸話であります。

さて、「三井家同族会管理部会」のその先を辿ることにいたしましょう。
1902(明治35)年5月30日、第15回管理部会において「三池築港資金支出方ニ関スル件」が審議されていますが未決となります。同6月6日の第17回管理部会にて、「三池築港資金支出方ニ関スル件」はようやく可決されることになるのですが、以下にその内容を簡単に抜粋いたしましょう。

三池築港ノ義ハ曩ニ五ヶ年継続事業資金三百万円ト予定シ着手ノコトニ決定、其旨内達アリ、尤モ其支出方ハ追テ議スルコトニ相成居リ候処、該築港ハ三池炭鉱経営上必要欠クベカラサル問題ニシテ、固ヨリ同礦ト密接ノ関係アレハ、鉱山会社ノ事業トシ、三池炭礦員ノ中ヲシテ之ニ当シムルコト適当ナリト信ス、就テ鉱山ノ毎半季ノ積立金ハ凡弐拾万円、即チ年四拾万円程アリ、此積立金ヲ以テ先ツ築港費ニ投シ、其ノ不足ハ
一、三井家同族会ヨリ此事業完成迄金壱百万円ヲ限度トシ、毎年参拾万円以内特別営業準備金ヲ以テ補助   支出スルコト
一、工事ノ都合、材料用品ノ買入等ニテ一時ニ多額ヲ要シ、又ハ営業店ノ利益少ク、随テ鉱山会社積立金     若クハ特別営業準備金等少額ノ場合ノ準備トシテ、三井銀行ヨリ従来鉱山会社ヘ貸金ノ外、築港事業ノ    為メ特ニ一時融通ヲ与フコト   (後略)

簡単に要約すると・・・
「三池築港の費用は三井鉱山積立金(5ヶ年分200万円)を投入し、不足分は三井家同族会より特別準備金(100万円)を充当、更に資金不足の時は三井銀行が代わって資金を融資する」
といった内容となっています。

「団琢磨氏談話録」によると・・・
『井上さんの尽力は非常なものでした。あの時分すっかり御前会議・・・責任を以て大丈夫であるというような事を一々御前会議して、井上さんがチェアマンで、「お前は議論があるか」「ないか」と皆突っぱねてしまって「宜しい」ということになっている』

三池築港は、このように三井家にとっても重大な一大プロジェクトであったといえるでしょう。
この一大プロジェクトの資金計画は、1903(明治36)年の1月16日の第1回管理部会において、また新たな展開をみることになります。


次回は、この1903(明治36)年1月16日の第1回管理部会から、話を進めることにいたしましょう。



(つづく)


◆注1 『三井事業史』 本篇第二巻 711~712頁を参考に記載した    
     ここで取り上げた「三井家同族会管理部会議録」は、『三井文庫論叢』の第7、10号所収

◆注2 三井鉱山五十年史編纂委員会編 『三井鉱山五十年史稿』 1944年 (未刊行)                    巻19:第15編 輸送及販売(一) 78頁の記述 をもとにした
     初出は『團琢磨理事長談話速記録』によると思われる 

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▲三井三大直系事業利益の推移  1893(明治26)年~1904(明治37)年
  出典:畠山秀樹「三池炭鉱の発展と三井鉱山会社」 『福岡県史』通史編 近代産業経済(一) 所収
      707頁 第26表「三井三大直系事業利益推移表」をもとに作成        
      *表示画面では不鮮明ですので、拡大してご覧下さい

三池築港の資金計画 その4 「三井のドル箱◇三池炭鉱」

三池築港百話 第二十六話は・・・
『三池築港の資金計画 その4 ~三井のドル箱◇三池炭鉱~』

『三池築港の資金計画』の4回目は、1903(明治36)年1月16日の 「第1回 三井家同族会管理部会」に話を進める前に、資金調達と関連して三池築港前後の三井三大直系事業・・・
三井銀行、三井物産、そして三井鉱山の各事業利益について、TOPのグラフをもとに分析を試みたいと思います。

早速、TOPのグラフ「三井三大直系事業利益の推移」を詳しく分析していきましょう。
まず、グラフを見て総合して言えることは、この時代の三井鉱山の三井三大直系事業における地位は、三井物産と同等に高いものであるということでしょう。グラフ中の12年間を平均すると、三井鉱山の利益が三井三大直系事業利益の約42%を占めています。さらに、この三井鉱山利益中の三池炭鉱の占める割合は非常に高く、グラフ中の12年間を平均すると、約83%の高率となります。
考えてみると・・・三井物産の利益は、三池炭の販売によって得た利益が大部分を占めていますし、三井銀行にしても、その融資先や為替業務においては三井物産、三井鉱山とも深く関連したものであると言えるでしょう。    
このように見てくると、まさに三池炭鉱は今回のタイトル通り“三井のドル箱”であったと言えます。

次に、国内外の経済状況、炭価の変動、中国(清)を巡る植民地化の動きなどの各視点から、三井鉱山(三池炭鉱)の利益変動について考察を進めましょう。(注1)

先にも述べましたが、この時代の三井物産による三池炭の販路は、量的には国内よりも海外(主に上海や香港などの中国市場 → バンカー炭)がより多くを占め、その利益も圧倒的に海外市場の占める割合が高い状況にありました。したがって、アジアをめぐる石炭市場の構造や、帝国主義諸国の動向に大きく左右されることになっていくのでした。
以下、年代順にこれらの動向を織り交ぜながら、利益の変動要因について簡単な分析をしてみましょう。

1894(明治27)年  日清戦争による需要拡大
1895(明治28)年  三池炭鉱単独で100万円を越す利益を上げる
1896(明治29)年  海運不況              
1897(明治30)年  膠洲湾事件 ドイツが、ドイツ系キリスト教宣教師殺害事件を口実に軍隊を派遣し、山               東半島を占領
1898(明治31)年  国内での鉄道・工場の建設ラッシュが続き、石炭需要が急速に拡大                         サウス・ウエールズ(イギリス)の炭鉱で、4月から5ヶ月間のストライキ発生                    その影響を受け、国際的に炭価が急上昇し、2年間に渡り各年約180万円もの利益を              上げる 
1900(明治33)年  北清事変(義和団事件)発生 清に日本も軍隊を派遣する
              ストライキで急上昇した炭価が落ち着きを取り戻す 
              筑豊の山野・田川炭鉱での出炭が本格化し、三池炭鉱以外の利益が拡大する
1901(明治34)年~ 国内外の石炭需要拡大に支えられ、三池炭鉱の利益が常時年間100万円以上をあ               げる
1904(明治37)年  日露戦争勃発

さて、以上の分析を通して、三池築港の資金計画の視点から注目する点は・・・

1898(明治31)年以来、三池炭鉱単独での年間利益が、毎年100万円を優に超えているということでしょう。
三井鉱山全体の利益を合わせれば、1902(明治35)の段階にて、単純ではありますが約2年分の利益を当てれば三池築港は可能であるということになります。

このように“三井のドル箱”として発展をつづける三池炭鉱にあって、団琢磨は新たなる三池築港資金調達についての提案を、1903(明治36)年1月16日の 「第1回 三井家同族会管理部会」に提出したのでした。

次回は、すでに三池築港の鍬入れ式も行われた後の、1903(明治36)年1月16日の 「第1回 三井家同族会管理部会」と、団琢磨の三池築港の資金計画にかけた思いに迫ってみたいと思います。


(つづく)


◆注1 隅谷三喜男 『日本石炭産業分析』 岩波書店 昭和43年発行 
     第三章 石炭産業における資本制生産の展開  第二節 筑豊石炭産業の市場構造 を参考にした

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▲三井三池炭礦萬田坑    MANDA MIIKE, MIIKE COLLERY  
      
      *三池港開港頃の絵葉書 : 表示画面では不鮮明ですので、拡大してご覧下さい

三池築港の資金計画 その5 「三井鉱山ノ益金ヲ以テ支弁スルコト」

三池築港百話 第二十七話は・・・
『三池築港の資金計画 その5 ~三井鉱山ノ益金ヲ以テ支弁スルコト~』

『三池築港の資金計画』の5回目は、1903(明治36)年1月16日の 「第1回 三井家同族会管理部会」から話を進めることにことにいたしましょう。
実は、すでに前年の1902(明治35)年に三池築港工事は始まっていますが、資金調達に関した内容ですので、今回は資金計画の最終回として取り上げた次第です。

さて、前回述べたように三井鉱山合名会社の利益は順調に拡大し、独力での資金調達が十分可能な状況にありました。新年を迎えてすぐの第1回管理部会において、以下のような提案が三井鉱山側からなされ承認されたのでした。(注1)

三井鉱山会社提出、三池築港費支弁ニ関スル件     可決
三池築港ノ計画ハ曩ニ御評決ヲ経、既ニ其筋ノ許可ヲモ得昨三十五年五月以来徐々工事着手ノ歩ヲ進メ居リ、之カ企業資金支出ノ方法ニ付テモ大体御評決ニ相成居候処、翻テ按スルニ本工事ノ如キ大計画ヲ遂行スルニハ慎重ノ考慮ヲ費シ事ニ処スベキハ勿論ニ付キ、熟考ノ末右資金支出ニ関シテハ左ノ方法ヲ機宜ニ適スルモノト信シ候

一、築港ニ要スル起業資金ハ一切当会社ノ益金ヲ以テ支弁スルコト
一、右ニ付テハ当会社ノ益金中ヨリハ既定ノ利益配当額等ノミ元方ニ納メ、特別営業準備金ノ納付ヲ免除     相成度コト
一、万一ノ場合ニハ五十万円迄ヲ限度トシ元方ニ於テ営業準備金中ヨリ補助相成度コト

惟フニ大蔵省上納年賦金モ客臘十二月十五日ヲ以テ既ニ完済シ、新築納金モ最早不要ト相成候ニ付テハ、当会社ノ営業ヨリ生スル益金ヲ以テ築港費ヲ支弁スルコト敢テ不可能ノ事ニモ無    (中略)        当局者一同モ栄誉アル責任ノ帰スル所ヲ思ヒ、発奮シテ事功ヲ挙ケ報効ヲ図ルヲ期シ可申ト存候

このように、最終的には三池築港の資金計画は、三井鉱山合名会社が単独で負担するという結論に達したのでした。
少しだけ解説を加えると、三池炭鉱の払下年賦金は1902(明治35)年12月をもって完納したこと、「三井各社が共同負担していた三井新館建築資金の徴収もその落成によって不要」(注2)となった事などが理由の一つとしてあげられています。
それにしても、前回見てきたように三池炭鉱の純益金の増大は、四百万円という巨大プロジェクトをも自社で負担できるほどの余力を、三井鉱山合名会社にもたらしていたのでした。

最後に、三池築港の資金調達に関わってきた団琢磨の思いを探り、この「資金計画」の章を閉じたいと思います。
かつて、勝立坑の湧水問題に対処すべく、辞表をかかえて五十万円のデビーポンプ購入を進言したのが1891(明治24)年。その次に、万田坑開鑿のために約二百万円の起業費を計上したのが1894(明治27)年、そして今回の四百万円の資金調達を必要とした三池築港・・・。
団琢磨の技術者としてのその先見の明と決断力、そして三井家同族との資金調達に関わる交渉の推移をたどることによって、団琢磨の三池築港にかける思いを探ることができないだろうかと思います。

『男爵 団琢磨伝』によれば・・・
「四百万円の築港は当時に於いては頗る大事業であったが、その計算の基礎をなすものは口之津への運賃一円を依然支払う覚悟を以てすれば今日四百万円を投じて築港をなすも五カ年間には其費用を回収し得べしと伝う」(注3)とあります。
当時、口之津経由での石炭1屯あたりの運賃が約1円。それが、築港完成の暁には約二十銭で済む計画であったので、1屯当たり約八十銭の節約となる勘定。年間百万屯の出炭があったとして、八十万円の差益が生じるということになるので、「五カ年間には其費用を回収」できる計算となります。(注4)

団琢磨には、三井家同族からの信頼にも厚いものがあったと考えられるが、このような周到な計算による説明をも施したのでした。そして、最終的には三井鉱山合名会社の単独事業としての築港を提案し、三井家同族の巨額投資への一抹の不安にも配慮をしたのではないかと思われます。
「同族の多くは、保守的でなによりも財産の保全と配当の多からんことを期待していた。したがって、巨資を要する巨大起業そのものが同族にとっては懸念材料であった」(注5)とすることを証明するかのように、実際の三池築港工事を視察した三井家同族の一部からは 「これは欺された」 といったような発言が聞かれたとか・・・。

以上、巨大プロジェクトであった三池築港と三井家との狭間に立つ団琢磨を見てきました。
そこからは、卓越したした技術者としての顔と同時に、経営者としても優れた手腕を発揮した団琢磨の活躍ぶりが大いに偲ばれたのでした。



(つづく)


◆注1 「三井家同族会管理部会議録(その二)」 『三井文庫論叢』 第八号 293~4頁 による

◆注2 『三井事業史』 本篇第二巻 第二節 「三井家事業整理の進行と管理」 713頁より引用

◆注3 『男爵 団琢磨伝』 277頁より引用

◆注4  三井鉱山五十年史編纂委員会編 『三井鉱山五十年史稿』 1944年 (未刊行)
      巻19:第15編 輸送及販売 (一) 79頁を参考に記述した

◆注5  畠山秀樹 「三池炭鉱の発展と三井鉱山会社」 『福岡県史』 通史編 近代産業経済(一)              585頁より引用

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▲1903(明治36)年頃の二頭山採石所      
       日本コークス工業(株) 三池事業所 〔旧三井鉱山(株) 三池港物流カンパニー〕所蔵
             

船渠築造 その1 「二頭山採石所」

三池築港百話 第二十八話は・・・
『船渠築造 その1 ~二頭山採石所~』

『三池築港前史』と題してはじめたこの“三池築港百話”
今回からは、『三池築港工事』と題して、三池港築港工事の実際をみていくことにいたしましょう。

さて、ひとくちで『三池築港工事』と申しましたが、そこでは築港に関する様々な工事が行われました。
『三池築港前史』でも縷々述べてきたように、築港工事が行われた有明海は干満の差が激しい遠浅の海であります。そのような地に、新たに1万トン級の船舶が入港できる港を築造するわけです。

『三井鉱山五十年史稿』(注1)には、築港工事の特徴が次の様に述べられています。

本築港は一般築港とは趣を異にし、所要の水深を得る沖合に新港地区を設定して、之を陸地と連絡するか、或いは、海岸附近に於いて新港の水域を区処して、必要の浚渫埋立を施し、外海との連絡は海中運河に依るかの何れかに依らねばならなかった訳である。

上記の記述内容の後者、すなわち「海岸附近に於いて新港の水域を区処して、必要の浚渫埋立を施し、外海との連絡は海中運河に依る」方法にて、三池港の築港工事が計画されたのでした。
したがって、築港工事の概略を簡潔にまとめると、以下の2点に集約できると言えるでしょう。

(1)埋立による船渠築造
(2)浚渫による航路開鑿
さらに、石炭の積み出しを目的とした築港ですから、以下の点も重要な要素の一つです。
(3)船積施設の築造

実際の築港工事は、(1)埋立工事と(2)浚渫工事 の両方が同時進行にて始められたのでした。

時は、1902(明治35)年6月・・・
まずは大牟田川の浚渫に使用していた「プリーストマン式浚渫船 第一浚港丸」(注2)を、航路開鑿のために三川沖に廻航して浚渫作業を開始
同年7月、埋立堤防工事用の石材準備のため、二頭山下字北平(注3)の切崩に着手
そして、同年11月3日 当時の天長節を期して鍬入式が挙行され、築港工事が本格的に開始されたのでした。

以後、まずは(1)の埋立工事をもとに「船渠築造」について話を進めていくことにしましょう。
やっと、TOPの写真にたどりつきました。
築港工事では、埋立の潮止堤防工事の他にも、内港突堤(防波堤)や航路突堤(導堤)に多くの石材が必要とされました。
「当初は天草から移入の予定であった石材」(注4)でしたが、この写真の二頭山や七浦での採石によってその多くがまかなえたことは、築港工事の進行状況や経費面でも貢献したことと思われます。
「明治36年頃の二頭山採石所」と題されたこの写真からは、以前の二頭山の面影は消え去り、三池築港工事の進行と共に、山肌が削られ山形が変わっていく様子がうかがえます。



今回は、築港工事が本格化する以前、二頭山の切崩工事の話題をお伝えしました。
最後に、昭和35年頃と現在の二頭山の様子をお目にかけ、話を終わることといたしましょう。

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▲1960(昭和35)年頃 四山社宅から見た“二頭山” 


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▲2008(平成20)年 西側(旧四山社宅入り口附近)から見た“二頭山” 


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▲2008(平成20)年 東側(早米来方面)から見た“二頭山” 

2008年、夏の“二頭山”は木々に覆われ、青々とした山様をみせていました。
近づいてみると、その山肌は岩で覆われていて、採石した跡が見て取れます。

“二頭山”をみて、遥か100年程前の築港工事に思いを馳せる・・・。




(つづく)


◆注1  三井鉱山五十年史編纂委員会編 『三井鉱山五十年史稿』 1944年 (未刊行)
      巻14 工作・動力 72頁より引用
      ※以後、上記の資料については、本文中にては略して『五十年史稿』とのみ記載する 

◆注2  浚渫船や浚渫工事については、後ほど詳しく解説をおこなう

◆注3  “二頭山”は、四ツ山と称されている山塊の最も北に位置する山。
      ちなみに、北から“二頭山”“山神山”“穂塩山”“笹原山”の名称がある。 

◆注4  注1に同じ。二頭山の石材は、捨石(水底工事の基礎を作るため、または岸壁の洗掘を防ぐた め水中に      投下する石)として利用されたものである。
     ( )内は、田渕実夫 『石垣』 1975年 法政大学出版局 石工用語集よりの引用

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