炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 三池築港百話

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▲Cardiff Map   
〈出典〉 1910年地図 : Cardiff中心部 1/15.000(左)  Cardiff Dock 1/63.360(右)
     *地図をクリックすると、より大きな画面にてご覧になれます

明治31年 團・牧田の海外視察 その4 「Cardiff Dock」

三池築港百話 第十一話は、牧田環(まきた たまき)の残した日記や談話をもとに、三池築港前史を繙く・・・
その4回目 「Cardiff Dock」です。
今回の時計の針も、三池築港工事が始まる4年前の1898(明治31)年頃となります。

前回は、Cardiff滞在2日目に一行が辿ったBarry Dockへの視察を見てきました。
今回からは、いよいよCardiff Dockの視察再現を試みてみましょう。
まずは、一行が視察に訪れた頃の Cardiffの石炭船積用Dockについての概要をお伝えしたいと思います。
先のCardiff Map 右側の地図を参照しながら、以下のDockについての概要をご覧下さい。

South Welesに位置するGlamorganの炭鉱からは、Cardiffへ大量の石炭が輸送されていました。
その最も古い積み出し施設は「The Bute Ship Canal」、後の「Bute West Ddock」です。
1839年に完成したもので、当初はその名のごとく“Canal(運河)”の船便を利用した石炭の運搬でした。
産業革命以来、今もイギリス国内に残る運河とナローボートは、鉄道が出現するまでは主要な石炭の輸送手段でした。
1841年になると Taff Vale Railwayが開通、これによる石炭輸送の増大にともない1855年に「Bute East Dock」が築造されます。
その後も石炭輸送は増大をし続け、1874年には「Roath Basin」 そして1887年に「Roath Dock」が増設され、更に1887年には前回お伝えした「Barry Dock」が築造されました。
Cardiffに築造された最後のdockは、1907年に完成した「Queen Alexandra Dock」でした。
 

付け加えると、Cardiffの西を流れ下るEly Riverの河口の街Penarthにも、1865年にDockが開かれています。この「Penarth Dock」を加えると、最盛期のCardiffには、計6ヶ所のDockが存在したことになり、その規模の大きさが偲ばれます。 

このようにDockの相次ぐ拡張にともないCardiffの街も発展をとげ、1880年頃にはイギリス最大の石炭積出港として成長をとげたのでした。
いわば、ここCardiffが世界の石炭取引の中心地となっていたわけです。

ところで、この地図が作製された1910年頃がCardiffにおける石炭積出しのピークでした。
第一次世界大戦終結後は安いドイツ炭の流布と石油採掘の始まりにより、South Walesの炭鉱も縮小を余儀なくされ、同時にCardiffの港も衰退の一途をたどることになります。
ちなみに、現在では「Roath Dock」と「Queen Alexandra Dock」の2つを残すのみで、ほかの Dockは埋め立てられてしまい存在しません。(「Penarth Dock」は、ヨットハーバーとして再生しています)

さて、次回は一行が訪ねた「Bute Ddock」を中心に、Cardiffにおける石炭積込方法についての考察を試みることにしましょう。

今回はこれにてお開きです。
    

(つづく)


◆この記事を作成するにあたり、以下のHPを参考にした。
  http://www.cardiffharbour.com/home/dump/history.htm

◆現在のCardiffの地図については、以下のページをご覧下さい。
  http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&ll=51.463954,-3.157969&spn=0.026148,0.044203&z=14  

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▲ Bute Dock   
〈解説〉 1900年初頭の Bute East Dock(左側)と Bute West Ddock(右側) 写真
      写真奥には 「Queen Alexandra Dock」 が望める   

明治31年 團・牧田の海外視察 その5 「Bute Dock」

三池築港百話 第十二話は、牧田環(まきた たまき)の残した日記や談話をもとに、三池築港前史を繙く・・・
その5回目 「Bute Dock」です。
今回の時計の針も、三池築港工事が始まる4年前の1898(明治31)年頃となります。

前回は、 Cardiffの石炭船積用Dockについての概要をお伝えしましたが、今回は「Bute Ddock」を中心に、Cardiffにおける石炭積込方法についての考察を試みることにしましょう。

まずは、一行が「Bute Dock」を視察した日の日記全文を見てみましょう。

十一月十七日 八時起 デビー、団、松原氏ト共ニ朝食 デビー氏ハ先ニ帰京ス 団松原氏ト共ニ Nixon Navigation Co. ニ赴キ agent Mr.Herbert ニ会ス 同会社員(dockyard foreman)ノ案内ニテCardiff dock ヲ巡見ス 目下工事中ノ新ドック及 Bute Dock ニ於ケル石炭積込方法ヲ見ル 更ニ会社ニ立寄リ石炭運搬ノ事等ヲ問合ハシ帰宿ス 二氏ト昼食ヲ終リ団松原ノ二氏ハ直ニ ニ時半ノ汽車ニテ「ロンドン」ニ向フ 余ハ更ニ Nixon Nav.Co. ニ赴キ Herbert氏ニ会シ 同会社鉱山巡回ノ事ヲ依托シ順序ヲ定ム 写真店ニテ「ドック」写真ヲ購求ス 帰途市中ニテ夕食シ散歩シ寄宿 宿所ニ於テ偶然三菱社員 法学士田原豊氏ニ会ス 更ニ同行浜田彪氏ニ会ス(長崎三菱社員)会談ノ后 十一時半頃帰宿ス 外ニ水谷六郎氏加藤知道氏在宿

  志 片
  一 ○ 馬車代
  一 ○ ドック案内社員
  二 ○ 馬車代
  八 ○ ドック写真
  三 六 同 〃 
  一 二 フイスキー
  一 六 夕食              *田原はのち三菱製紙会長 水谷・加藤も三菱長崎技師
 

牧田の日記には、詳しい石炭積込方法についての言及はありませんが、後に彼が残した談話(注1)に船積機について述べた部分がありますので見てみましょう。

○三池築港のこと
 其の前に明治三十二年に洋行して調査に行った。それはカーヂフとか、ニューキャッスルとか、色々港の設備を考えたが、ニューキャッスルは非常な勾配で貨車を走らして、高桟橋から落とすので非常に面積が要る。それで、面積の要らないようにすると云うことで石炭の貨車を直接上げるのがカーヂフだ。   (後略)

「石炭の貨車を直接上げるのがカーヂフだ」の記述に注目です。

そこで、1890年頃の「Bute Eest Dock」を見てみましょう・・・

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▲ Ships at Bute East Dock 1890  
〈出典〉 Cardiff Central Library 所蔵

上の写真 右端にあるのが船積機です。
この写真を見る限りでは、詳しい構造を把握することは不可能ですが、トップの写真の丁度真ん中あたりに7基あるのがそれだと思われます。
この「Bute East Dock」の船積機をみて思い出すのは、若松港に設置された水圧昇降機式の船積機です。(注2)
牧田談話にあるように、若松港同様 昇降機にて底開き炭車を所定の位置まで上げて積み込むという方法であったと思われます。(残念ながら、写真では炭車は確認できません)

一方、先に開かれた「Bute West Ddock」では、これより旧式の船積機がまだ活躍していたと思われます。

次なる写真を見てみましょう。

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▲ Ships at Bute West Dock 1890  
〈出典〉 Cardiff Central Library 所蔵

この船積機は、高架線と直結しており船積機のシュート自体の上下の移動は不可能です。
トップの写真の「Bute West Ddock」には、4基ほどその姿が確認できます。

一行も、これらの「Bute Ddock」の船積機をつぶさに見て回ったことでしょう。
そして、この海外視察で得た知見が、後の三池築港時に設置される「三池式快速石炭船積機」通称「ダンクロ・ローダー」の開発へとつながっていくのでした。

次回は、日記中の「目下工事中ノ新ドック」、すなわち「Queen Alexandra Dock」について探索を試みてみることにいたしましょう。


(つづく)



◆注1 『牧田 環氏談話・三井鉱山株式会社五十年史資料』 第二回、八十五頁 より引用 

◆注2 明治三十一年に設置されたもので、アームストロング社製(詳細は後日の記事で) 

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          ▲ Queen Alexandra Dock   
〈解説〉   1900年初頭のCardiff Bay 一番手前に「Queen Alexandra Dock」その奥に「Roath Basin」と            「Roath Dock」、さらに左上に「Bute East Dock」(右側)と 「Bute West Ddock」(左側) を望む            ことができる  

明治31年 團・牧田の海外視察 その6 「Queen Alexandra Dock」

三池築港百話 第十三話は、牧田環(まきた たまき)の残した日記や談話をもとに、三池築港前史を繙く・・・
その6回目 「Queen Alexandra Dock」です。
今回は、前回紹介した11/17日の牧田日記にあった『Cardiff dock ヲ巡見ス 目下工事中ノ新ドック』について探索を試みます。
時計の針は、三池築港工事が始まる4年前の1898(明治31)年頃からすこし下って、三池港竣工後の1910年頃がメインとなります。

さて、この視察旅行中の団・牧田の脳裏には、鍬入れ式を4年後にひかえた三池築港の青写真がすでに描かれつつありました。そのような折に見学した建設中の新ドック、その大きさは Cardiff dock の中では最大規模のものでした。
まずは、この “新ドック” 建設以前の地図から、その歴史を繙いてみることにいたしましょう。

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この地図は、1901年発行の 1/10,560 地形図(注1)です。
「Queen Alexandra Dock」は1907年に完成していますが、団・牧田一行が訪れたのは建設開始まもなくの頃と思われます。この1901年の地図から判断すると、一行が訪れた当時は干潟に堤防の築造が行われていたのではないでしょうか。牧田日記では“新ドック”については、先の記述以上のことは何も記されてはいません。見学の後に立ち寄ったNixon Navigation Co.事務所にて、船積・運搬・新ドックなどについてのやり取りが行われたことでしょう・・・。

次に、「Queen Alexandra Dock」完成後の地形図を見てみましょう。

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この地図は、1920年発行の 1/2,500 地形図です。
この地図をみてまず目につくことは、何本にも束ねられたように走る線路でしょう。
TOPの写真と見比べながら地図を見ると、目の前に「Queen Alexandra Dock」の情景が広がるようです。
この線路の形状と次の船積機の写真を組み合わせると、当時の「Queen Alexandra Dock」での石炭積み出し状況が推測されます。


早速、「Queen Alexandra Dock」の船積機を見てみましょう。

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▲ The Coal tips,Queen Alexandra Dock, Cardiff   
〈出典〉Cardiff Central Library 所蔵

まずは船積機です。
この写真を見る限りでは、基本的には前回取り上げた「Bute Eest Dock」の船積機の構造と同じように思えます。実は、この視察旅行から12年後の1910年、団琢磨は完成した「Queen Alexandra Dock」を訪れています。   (注2)
この時、団琢磨は・・・『自分たちが開発した三池港の積込機械の方が高能率である』という感想を述べたということです。(注3)

地図中の線路のレイアウトを見てみると、ドック南岸の北側と南側とでは若干異なっている事が分かります。推測するに、北側の船積機はドックに沿って移動する機能を持っていたのではないでしょうか。一方南側は、固定式であったと思われます。写真は、この南側の船積機を写し出したものではないでしょうか。束ねるようにしてレイアウトされた線路からは、船積の炭車用と空炭車用の別があったと思われます。また、南側ドッグ岸壁近くを平行に走る線路と手の指のごとく伸びる短い線路は、固定式船積機への積込み用と考えられます。写真の貨車は、このドッグ岸壁と平行に走る線路上にあり、貨車用のキャプスタン(写真中の円筒形のウインチ→巻き揚げ機)が設置されています。

いずれにしても、団琢磨曰く通り『三池港の積込機械の方が高能率』であると評価した根拠がここあります。  (三池港の積込機械については、もちろん後ほど詳しく触れます)
さらに三池港が優れている根拠として、貯炭場と石炭運搬(鉄道)との関係があると考えます。
今まで縷々述べてきた Cardiff dock には、どこを見ても貯炭場はありません。ということは、山元(坑口)に貯炭場があったと思われます。この山元(坑口)の貯炭場から、鉄道にて石炭をピストン輸送したであろうと推測されます。

さて、三池築港に多くのヒントを与えたであろう Cardiff でのドック見学はこれにて終了です。
最後に、「Queen Alexandra Dock」完成を祝って発行された銅貨を紹介して、本日の旅は終わりといたしましょう。



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           ▲ Queen Alexandra Dock Commemorative Medal, Cardiff, 1907   
                〈出典〉National Museums & Galleries of Wales 所蔵


(つづく)


◆注1 ここに取り上げた地図は、次のHPを利用した   http://www.old-maps.co.uk/

◆注2 1910(明治43)年、三井合名会社社長 三井八郎右衛門(高棟)の洋行に随行した

◆注3 石川正則 『武士道精神の産業人 團琢磨の生涯』 文藝春秋企画出版部 2001 110頁より引用

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▲ TYNE DOCK, SOUTH SHIELDS   
〈出典〉1900年頃の絵葉書より:RiverTyne の河口に位置する South Shields にあった Tyne Dock
    の絵葉書です。残念ながら、この絵葉書には船積桟橋は描かれていません

明治31年 團・牧田の海外視察 その7 「Tyne Dock」

三池築港百話 第十四話は、牧田環(まきた たまき)の残した日記や談話をもとに、三池築港前史を繙く・・・
その7回目 「Tyne Dock」です。
今回の時計の針も、三池築港工事が始まる4年前の1898(明治31)年頃となります。

前回までは、 Cardiffの石炭船積用Dockについて旅してきましたが、今回からはNewcastle-upon-Tyneを中心に、石炭積込方法についての考察を試みることにしましょう。

実は、牧田は二度 Newcastle を訪れています。
最初は、團・松原がデビー氏の薦めにてドイツ等の炭坑を視察している間、3週間ほど Newcastle近郊 Ryton の Mrs. Griffin 方に下宿して、一人精力的に近隣の炭坑やTyne川の石炭船積の様子を見て回っています。
二度目は、Cardiff視察の後 Glasgowなどを経て、團一行らとともに訪れました。
この二度目の訪問時には、Mr. George Urwin(注1)宅を訪問したりしています。

今回は、最初のNewcastle訪問時の様子を追ってみることにいたします。
まずは、牧田が「Tyne Dock」を視察した日の日記全文を見てみましょう。

十月二十二日 七時半起 九時半 Ryton-Newcastle-Tyne dock ニ赴ク Mr.George Beattie(staithman of Stella Coal CO.)氏停車場ニ出迎アリ 直ニ Tyne dock ニ赴キ石炭積込方法ヲ取調ブ 正午 Beattie氏宅ニテ昼食ヲ饗セラル 更ニ Dock ニ行キ Dockmaster ニ会シ一二書類を貰受ケ更ニ Beattie氏ノ案内ニテ foot ball match(Rugby style) ヲ見る 甚ダ壮快ナリ 夕刻更ニ同氏ノ宅ニテ茶ヲ饗セラレ 鉄道会社部長ニ紹介セラル 五時半 Tyne Dock-Newcastle ヲ経テ帰宿ス 夜食後十一時就褥ス 天気晴れ

  志 片
   一八 汽車賃往復
 

ここでも、牧田の日記には詳しい石炭積込方法についての言及はありませんので、再度牧田談話(注2)の船積機について述べた部分をおさらい致しましょう。

○三池築港のこと
 其の前に明治三十二年に洋行して調査に行った。それはカーヂフとか、ニューキャッスルとか、色々港の設備を考えたが、ニューキャッスルは非常な勾配で貨車を走らして、高桟橋から落とすので非常に面積が要る。それで、面積の要らないようにすると云うことで石炭の貨車を直接上げるのがカーヂフだ。   (後略)

もちろん「ニューキャッスルは非常な勾配で貨車を走らして、高桟橋から落とすので非常に面積が要る」の記述に注目です。


ここで、1897年の地形図を見てみましょう・・・

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▲ 1897年 「Durham」 1/2,500 地形図(部分)  

「Tyne Dock」の南側をここに載せましたが、ご覧のように束のように連なった線路が、四ヶ所の桟橋に吸い込まれていきます。北東側の桟橋が少し規模が大きい感じを受けますが、この四つの高架桟橋から石炭が船積されたとみて間違いありません。
地図の上方(北側)がTyne川で、ここから河口まではほんのわずかな距離となっています。

この「Tyne Dock」は、Durham地方の石炭増産にともない1859年に築造されました。

次に、1960年代の「Tyne Dock」を見てみましょう。

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▲ 1960年頃の「Tyne Dock」航空写真  
〈出典〉 University of Newcastle upon Tyne 所蔵

高架桟橋が活躍していた頃の絵葉書や写真を発見することは出来ませんでしたが、1960年代の航空写真を見ることができます。
今だ北東側の桟橋が現役で活躍していますが、すでに残りの高架桟橋は機能を停止し土台を残して解体されています。

牧田がここを訪れた時代には、Newcastle対岸の街 Dunstonにも巨大な高架桟橋が築かれていました。
最初は、てっきりこの「Dunston Staiths」を訪れたのでないかと思っていましたが、日記にはどこにも出てきません。
この桟橋は、現在にもその姿を残している高架桟橋として貴重なものですので、往時の「Tyne Dock」高架桟橋が見れなかった代わりに? 次回探索を試みたいと思います。


(つづく)



◆注1 1890(明治23)年7月から1895(明治28)年12月まで、Newcastle出身の 鉱山技師 John Urwinが三池炭      鉱に雇われていた(子の George Urwinをともなって赴任)  

◆注2 『牧田 環氏談話・三井鉱山株式会社五十年史資料』 第二回、八十五頁 より引用 

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▲ The Staithes, Dunston-on-Tyne.  
〈出典〉1900年頃の絵葉書より:Newcastle-upon-Tyneの対岸にあるDunstonにあった高架桟橋

明治31年 團・牧田の海外視察 その8 「Dunston Staiths」

三池築港百話 第十五話は、牧田環(まきた たまき)の残した日記や談話をもとに、三池築港前史を繙く・・・
その8回目 「Dunston Staiths」です。
今回の時計の針も、三池築港工事が始まる4年前の1898(明治31)年頃となります。

前回は、牧田が「Tyne Dock」を視察した日の日記を旅しましたが、今回はNewcastle-upon-Tyneの対岸 Dunston-on-Tyneにあった高架桟橋を旅したいと思います。

早速ですが、TOPの絵葉書がDunstonにあった木造の高架桟橋です。
牧田がこの高架桟橋を訪れたという記録はありませんでしたが、調べていく内に牧田がNewcastleを訪問した1898年当時のStaiths(高架桟橋)は、この絵葉書とは違っていたことが分かってきました。

それでは、1897年当時の「Dunston Staiths」の地図を見てみましょう。


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▲ 1897年 「Durham」 1/2,500 地形図(部分)  

Tyne川に沿って、桟橋が見て取れます。
この高架桟橋は、1893年にNorth Eastern Railway CO.によって築造されました。
当初は、この地図中にあるようにTyne川に沿った1本の高架桟橋でしたが、1903年にこの桟橋と隣接して2本目の高架桟橋が築造されています。

次に、1907年の地図を見てみましょう。


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▲ 1907年 「Durham」 1/2,500 地形図(部分)  

この地図を見ると、新しく築造された高架桟橋の南側に、新たに掘り込んだ潮泊渠(閘門式のドックではなく、高潮時には満水となる港)が確認できます。

私が当初目にしていたTOPの絵葉書は、1903年に築造された「Dunston Staiths」の姿であったわけです。牧田は、1898年時点ではこの「Dunston Staiths」ではなく、より三池築港計画の参考になる「Tyne Dock」を視察地として取り上げたのでしょう。

ところで、この「Dunston Staiths」の長さは526m、高さ20mの巨大な木造建造物でした。
Tyne川と潮泊渠の両側に、それぞれ6ヶ所のシュートが設置され、かなりの勾配で線路が敷設されていました。
1920年代のピーク時には、週あたり140,000tの石炭を出荷していましたが、1980年には解体されてしまったようです。しかし、解体された木材のほとんどが保存されていたようで、1990年の“The Gateshead National Garden Festival”時に再築造され現在に至っています。(注)

このDunstonにあった木造の高架桟橋ですが、見てすぐに思い出されるのは北海道の小樽・室蘭に当時の鉄道院が築いた木造の高架桟橋でしょう。
(この小樽・室蘭の高架桟橋については、また後ほど詳細に触れたいと思います)


さて、Newcastle-upon-Tyneにての牧田日記には、1898年当時にNewcastleに滞在していた日本人の名が数名記されています。例をあげると・・・

十一月 二十二日:日本郵船会社  藤島範平 , 神戸水道 蔵重氏
   同 二十三日:工科大学助教授 寺野精一
   同 二十七日:海軍造兵将校  有坂・山本氏

1880年代、90年代のNewcastleは、日本向け戦艦の建造に伴って多くの日本人の監督者や技師が滞在し訓練を受けていたようです。当時の日本海軍は英国を手本とし、後の海軍艦船の多くが北東イングランドのアームストロング=ミッチェルArmstrong-Mitchell社に発注されることとなりました。
かの東郷平八郎も、日露戦争後の1911年にNewcastleを訪れ、海軍発展の原動力が北東イングランドにあったことを感謝し、大歓迎を受けているようです。

Newcastle-upon-Tyneは、当時世界有数の工業都市であったのでした。


(つづく)



◆注 現在の「Dunston Staiths」の様子は、下記のHPにてご覧になれます
    http://newcastlephotos.blogspot.com/2006/06/dunston-staiths.html

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▲ NEWCASTLE:CENTRAL STATION HOTEL.  
〈出典〉1900年頃の絵葉書より : Mr. George Urwinとの再会を果たした CENTRAL STATION HOTEL
     写真の右側が、NEWCASTLE CENTRAL STATION

明治31年 團・牧田の海外視察 その9 「Tynemouth Pier」

三池築港百話 第十六話は、牧田環(まきた たまき)の残した日記や談話をもとに、三池築港前史を繙く・・・
その9回目 「Tynemouth Pier」です。
今回の時計の針も、三池築港工事が始まる4年前の1898(明治31)年頃となります。

前回は、Newcastle-upon-Tyneの対岸 Dunston-on-Tyneにあった高架桟橋を旅してみましたが、今回の旅は・・・1890(明治23)年7月から1895(明治28)年12月まで、三池炭鉱に雇われていた鉱山技師 Mr. George Urwinとの再会を辿ってみたいと思います。
牧田 環、二度目のNewcastle-upon-Tyne訪問時のことです。
Cardiff視察の後、Glasgowなどを経て團一行らとともに訪れたNewcastle-upon-Tyneでした。
時は、1898年11月25日 いつもの牧田日記を繙くと・・・

十一月二十五日 終日細雨巡回稍困難ナリシ 七時半起朝食後九時過團松原氏ト共ニ Mr.Haggicノ案内ニテ エデンバロー市出発 Gorebridge station ヲ経テ Gorebridge Pcb of Arniston Coal Co.ニ赴キ坑内電気喞筒ヲ視察ス 坑底ニ 3 throw horing pump 一台アリ (中略)
五時過「エデンバロー」停車場ニ着ス近方Royal Station Hotelニテ夕食を共ニス 六時過「エデンバロー」ヲ発シ「ハギー」氏ト別レ一行ハ「ニューカッスル」市直行ス之ノ汽車急行ニテ一時間五十哩走行ス
九時着 Central Station Hotel ニ投宿ス 元三池在職セシ Mr. George Urwin 来訪暫時会談 十一時入浴十ニ時就褥ス (後略)

夜9時頃の到着にもかかわらず、一行の宿泊するホテルをジョージ・アルウインが訪ねてきたのでした。
3年振りの再会に、しばし会話がはずんだことでしょう。
一行は、2日後の11月27日 Tynemouth(その名の通り、Tyne川河口の町)の John Urwin(George Urwinの父親 → 第14話の注を参照)宅を訪問する約束をかわしてこの日は別れたのでした。

続けて、11月27日の牧田日記を見てみましょう。

十一月二十七日 十時起朝食ス松原氏ハ有坂氏ノ宅ヲ訪フ余喫烟室ニテ会談日記ヲ認ム 午後一時昼食後ニ時ノ汽車ニテ團松原氏ト共ニ Mrs.Urwin(Tyne mouth)ニ赴ク 途中Heatonニテ Mr.&Mrs. George Urwin ニ会合シ一同同行ス 「アルウイン」氏ハ目下  〔字不明〕  滞在中ニテ同氏家族ニ会ス 更ニ「ジョジ」氏ト共ニTyne mouth bank ニ赴ク河口の防波堤ヲ見ル寒風強シ河口近方ヲ散歩シ再ヒ同氏宅ニ帰リ夕食ヲ饗セラル 家族一同(アルウイン氏ノ妻君ノ他男児三名女児四名孫一名他ニ人会合ス 雑談数刻三池炭坑写真他ヲ見ル 七時ノ汽車ニテ團、松原及ジョージ氏夫妻ト共ニ帰途ニ就ク「ジョジ」氏弟及妹何レモ停車場ニ送ラル 帰宿後團氏室ニテ炉辺ニ会談ス松原氏ノ友人有坂氏及山本氏来訪(海軍ノ人ナリ)会談 十一時頃帰宅セラル 十二時就褥ス

  志 片
   二三 ニューカッスル タインマウス間往復汽車代
   一六 ホイスキー

Tyne川の河口には、1854年から1895年に渡って二本の突堤が築かれています。
一行は、North Sea(北海)に突き出たその北側の突堤を見に行ったのでした。

季節は冬・・・寒風すさぶ「Tynemouth Pier」であったことでしょう。

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▲Tynemouth Pier   
〈出典〉1900年頃の絵葉書より :TynemouthのTyne川河口突堤 北海の荒波が偲ばれる

ところで、この日一行と「ジョジ」氏との間にはどんな会話が交わされたのでしょうか。
最後に、「Tynemouth Pier」への散歩場面での会話を空想して、今回の旅は終わることにいたしましょう。

 團   ジョジ 大牟田川の河口に築造したドックと鉄道を覚えておいでですか。 

ジョジ  ええ、もちろんですとも。今も高架桟橋と鉄道は問題なく活躍しているでしょうか。

 團   三池の出炭量も年を追うごとに増加しておりましてね、最近手狭になってきておるんです。
      そこで、今新しい港の築港計画を練っているところなんですよ。

ジョジ  ほー、それで諏訪川河口にでも築港を計画されておるのですか。
   
 團   ええ、諏訪川河口南側の海面を埋め立て、そこに掘り込み式のドックを造ろうかと計画中です。

ジョジ  それはそれは、一大築港計画でございますね。石炭積み出しの桟橋はどのような・・。

牧 田  今のところ、大船4ないし5隻が同時に船積出来るようなものをと考えております。
      今回の視察旅行は、「Tyne Dock」はもちろんのことCardiffにても船積の方法を色々と見学してまいりま      した。

ジョジ  何か参考になるものがございましたか。

牧 田  ええ、貴国の大規模な船積施設を見て回り、大変参考になりました。

ジョジ  それはよかった。 そろそろ突堤が見えてまいりますよ。

松 原  ああ、あれですね。二本の突堤が北海に突き出ておりますね。

ジョジ  かつては、この岬の先で難破した船も沢山ありました。
      Tyne川自体が大きな港みたいなものですからね。この突堤が、入港する船とTyne川の港を守っておる      のですよ。

 團   実に立派な突堤でございますね。

ジョジ  すべてが完成するまでに40年もの歳月を費やしたのですよ。

 團   私どもの港にも、このような立派な突堤が必要です。
      まあ、有明の海は遠浅でNorth Seaよりも穏やかな海ではございますが・・・。

松 原  この季節のNorth Seaからの海風は骨身にしみますな。  
       そういえば・・・ジョジ、 三池では、あなたの汽車運転が語りぐさになっておりますよ。
     
ジョジ  いや~、お恥ずかしい限りですな。 若気の至りでございます。

      さあさあ 皆さん、ちょうど夕食の準備がととのったころでしょう。
      そろそろもどるとしましょうか・・・。


(つづく)




◆現在の「Tynemouth Pier」の様子は、下記のHPにてご覧になれます。
   http://www.tyne-photos.co.uk/tynemouth/2.htm
 

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         ▲ 晩年のデ・レイケ 上林好之著『日本の川を甦らせた技師 デ・レイケ』334頁より

増補 JOHANNIS DE RIJKE(ヨハニス・デ・レイケ)の三池訪問

第三話 『明治22年の築港計畫要畧』三池築港前史(3)の備考欄で取り上げた 「ヨハニス・デ・レイケ」についての増補版です。

「デ・レイケは、実際に三池の地を訪れたことがあるのか?」
という疑問が、この稿をおこしてから私の中にずっとありました。
今回、上林好之著 『日本の川を甦らせた技師 デ・レイケ』(注1) を手にしてその疑問点が解けましたので、ここに報告いたします。

少し長くなりそうですが、まずは最近新聞紙上にて報道された 工部省大鳥圭介から旧三池藩主・立花種恭(たねゆき)あてに送られ書簡(注2)の確認からはじめましょう。

「工部省は、1882年(明治15年) 当時の明治政府の高官だった伊藤博文を三池炭鉱に派遣し、三池築港を検討していた」というのがその内容ですが、『三池鉱業所沿革史』 第1巻 前史 中の年譜から、当時三池炭鉱の視察に来た政府高官達を時代順に見てみましょう。

明治12年 5月28日 工部省工部大輔山尾庸三、工部書記官大鳥圭介三池炭山点検ノタメ来山
明治15年 1月19日 参事院議長、参議伊藤博文及内務少輔芳川顕正三池炭山視察ノタメ来山
明治16年 4月     工部省佐々木高行三池炭山視察ノタメ来山
明治16年 7月     大蔵卿松方正義三池炭山視察ノタメ来山
明治17年11月     農商務卿西郷従道三池炭山視察ノタメ来山
明治18年 5月     海軍卿川村純義三池炭山視察ノタメ来山

このように、明治政府の高官達が視察と称して次々と三池炭鉱を訪れています。
明治政府が、この三池の石炭を重要視していたことが伺えます。

さて、そこでヨハニス・デ・レイケの出番です。
先に紹介した 上林好之著『日本の川を甦らせた技師 デ・レイケ』の記述によると・・・
「デ・レイケは、明治17年5月、九州の筑後川方面へ出張することになった」とあり、まずは三池の地を訪れたとのこと。当時のデ・レイケは、東京の内務省土木局勤務でした。
以下、その内容を要約してお伝えすると・・・

湾岸近くに素晴らしい炭鉱脈があるので、いい港湾をつくってほしいとの依頼であったが、彼らの予算は二十万円だという。この費用では港をつくることはとうてい困難で、三倍くらいの工事費がかかる。炭坑に入ると、立坑の深さが三八間あって坑路が四方八方に通じていた。坑夫は1000人もいたが、全員終身刑の人たちなのには驚いた。
三池炭坑から船積みするまでの輸送費として、年間一四万円が費やされているという。もし船積みに便利な港湾をつくれば、その費用は三分の一あるいはそれ以下になるはずだ。

この内容は、著者である上林好之氏による長年のデ・レイケ研究の一部です。たぶん、彼が残したジョージ・アーノルド・エッシャー(注3)宛の書簡から引用されたものと思われます。
さらに・・・

工部省では土木局へ専門家を一人派遣してくれるようにたのんできていた。そこでデ・レイケは、この骨の折れる仕事を引き受けることにした。そこは素晴らしい潮汐の差があり、もし浚渫機が一台あれば価格は安くなると頭の中で計算したからである。
工部省は、そのために多額の費用を使う準備をしているという話だ。鉄道工事で華やかな成績を上げているイギリス人技術者の多い工部省の業務にはじめて参加できるこの機会は、土木局の面目を保つ絶好のチャンスだとデ・レイケは思った。

と、上林好之氏は記述されています。
これらの記述が事実とすれば、今まで述べてきた三池築港の歴史を修正しなければなりません。
石黒五十二になる「明治22年の築港計畫要畧」以前に、文書としては残っていないと思われますが、ここで取り上げたデ・レイケによって、三池築港の青写真のそのまた青写真が描かれていたのかも知れません。



◆注1 上林好之著『日本の川を甦らせた技師 デ・レイケ』草思社 1999年発行 207、208頁より
◆注2 詳しくは、当ブログの新みいけ時報をご覧下さい 
◆注3 1873(明治6)年、デ・レイケと共に来日したオランダ人技術者
      詳しくは、先の上林好之著『日本の川を甦らせた技師 デ・レイケ』をご一読ください
    ちなみに、だまし絵で有名な画家 M.C.エッシャーは、彼の末息子です(*^_^*)


〈追記〉
   先日、神戸市の都賀川で起きた急な増水による事故に関して、朝日新聞の天声人語欄に・・・  
『明治のはじめに来日したオランダの治水技師ヨハネス・デレ-ケは、富山県の常願寺川を見て「これは川ではない。滝だ」と驚いたそうだ・・・』から始まる一文を目にしました。
くしくも、この稿をまとめていたときで、先に紹介した書籍を読み終えたばかりなので気になった次第です。
  「これは川ではない。滝だ」の真相もこの本に紹介されていますのでどうぞご一読を!(^^)!

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▲ Sauchiehall Street. Glasgow.    〈出典〉1900年頃の絵葉書より

明治31年 團・牧田の海外視察 その10 「Glasgow」

三池築港百話 第十七話は、牧田環(まきた たまき)の残した日記や談話をもとに、三池築港前史を繙く・・・
その10回目 「Glasgow」です。
今回の時計の針も、三池築港工事が始まる4年前の1898(明治31)年頃となります。

今まで9回に渡って、牧田環(まきた たまき)の残した日記をもとにイギリスを旅してきましたが、今回をもってひとまず旅を終えたいと思います。
三池築港にかかわる今回の旅の行き先は、グラスゴー(Glasgow)です。

「Glasgow」といえば、スコットランド有数の大都市ですが、昔から造船の町として知られています。
かのクイーン・エリザベス号などの名船、名艦を数多く生んできました。
この「Glasgow」の町については、このようなことわざがあります。

『クライド川がグラスゴーをつくり、グラスゴーがクライド川をつくった』

牧田環(まきた たまき)の残した日記の旅 最終回は、このクライド川(River Clyde)がメインです。
時は、1898年11月21日 いつもの牧田日記を繙くと・・・

十一月二十一日 夜半十二時就褥後松原氏ト雑談二時間許眠ニ就ク 八時前起九時前汽車「グラスゴー」市着 Central Station Hotel ニ投宿 朝食後団松原氏ト共ニ Mr. Brown office(Jap.Consul-24 George square)ニ赴ク 同氏ノ紹介ニテ店員 Mr. A. Davidson ト共ニ Mr. Jams S. Dixon ヲ訪フ 不在ニ付同氏所有ノ鉱山ニ赴ク 団松原氏ハ浚疏船実見ノ為メニ別行ス    (中略)
大学教員寺野精一氏来訪アリ 雑談ノ後市中ヲ散歩シ九時頃一同 Empire Theatre ニ入ル 十時過帰宿十一時就褥 寒気強シ

  志 片
   四○ 昼食
   ニ○ 馬車代
    五  宿屋給仕心附
   ニ六 演劇代

「グラスゴー」「ボスウエル」間十哩許 英国第二ノ都会グラスゴー人口百万ト称ス 市中鉄道ニ馬車ヲ廃シ電気ヲ用ヒ始メタリ ニヶ月許前ヨリ始メ目下延長ニ哩半ト伝ウ 「ケーブルカー」モ有リト伝フ

日記の中の「団松原氏ハ浚疏〔浚渫のこと〕船実見ノ為メニ別行ス」に注目です。
実は、次の日(11月22日)の日記でも「二氏(団・松原)ハ浚渫船製造所ニ赴ク 依テ余別ル」と記述されていて、団と機械工学が専門である松原の2人が浚渫船についての視察に赴いたようです。

そこで、先のことわざです。
クライド川(River Clyde)は、当初は水深がごく浅い川だったようで、大船がグラスゴーの港に入港することは出来なかったのです。そこで考案されたのが浚渫(しゅんせつ)船です。
クライド川の浚渫がなかったら、今日のグラスゴーの繁栄はなかったこといえるでしょう。

クライド川の浚渫については、廣井 勇 『築港 前編』 丸善株式会社 1907(明治40)年発行 の第八章 浚渫工事 の冒頭に次のように述べられています。

浚渫ノ事業タルヤ 港湾修築工事ノ上ニ至大ノ関係ヲ有シ 大船巨舶ヲシテ陸地ニ接近セシムルニハ専ラ浚渫ニ依ラサルヘカラス 彼ノ蘇国グラスゴウ港ノ如キ其今日アルハ一ニ浚渫ノ功ニシテ 曾テ千七百五十五年ノ頃ニアリテハ同港ニ於ケル干満ノ差ハ二尺五寸ニ過キスシテ 僅カニ高潮ニ際シ吃水三尺未満ノ小舟ニ限リ出入スルコトヲ得タリト雖モ 改修後ニアリテハ 大潮ノ差ハ二十ニ尺ニ達シ又タ吃水二十七尺ノ船舶ハ時間ヲ問ハス出入スルニ至レリ 是レ全ククライド(Clyde)河浚渫ノ結果ニシテ・・・(後略)

さて、この浚渫という作業は三池築港にとっても重要なポイントの一つでした。
遠浅の有明海の海岸に港を築くわけです。
航路の確保のために、潮流によってもたらされる泥土を取り除くという作業は、港を維持管理していく上で重要であったと考えられます。

三池築港に際して、浚渫の最先端をいくここグラスゴーの視察は欠かせないものであったと思われます。


最後に、クライド川で当時活躍していたと思われる浚渫船の写真を訪ね、この旅のお開きといたしましょう。


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         ▲No.1 dredger on the River Clyde 1876  〈出典〉 Glasgow Museums 所蔵


(つづく)

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ただいま、鋭意調査中(^_^)v
今しばらく『三池築港百話』の更新、お待ち下さいませ。           
                   
写真は、九州のリビエラ(@_@)  旧三池海水浴場  
2008.8.9   三池港にて                           管理人より 
  

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▲ THE MAP OF MITSUIS MIIKECOAL MINE AND MIIKE HARBOUR   (停車場山田発行)


築港場所の選定に着手す その1 「有明海の団平船」

三池築港百話 第十八話は・・・
『築港場所の選定に着手す その1 ~有明海の団平船~』
約8ヶ月に渡る欧米視察直後の有明海からお送りいたしましょう。
今回の時計の針は、三池築港工事が始まる3年前の1899(明治32)年頃となります。

さて、製作所器械主任 松原嶢・七浦採鉱主任補助 牧田環、そして三井鉱山専務理事 團琢磨の3名が欧米視察から大牟田に帰着したのは、1899(明治32)年2月21日のことでした。
そのわずか3ヶ月後の5月から、さっそく四山沖の有明海にて深浅測量が行われています。
9月までの5ヶ月間の調査をもとに、当時の三池郡三川村字二頭山(俗称 四ツ山)地先に築港場所を決定したのでした。

しかし、この築港場所の決定をみるまでには、さまざまな紆余曲折がありました。
そこのところを、『三井鉱山五十年史稿』(注1)をもとに見てみましょう。

本調査(四山沖深浅測量)は地方関係上極秘裏に行われ、陸地を避けて團氏、牧田氏、栗田氏外関係者3名が団平船 (注2) に乗り、大牟田川尻、諏訪川尻、四山地方、大島川尻などを調査し、その後ボーリングに依る土質調査を行い、種々研究の結果、 一.最初最有望視された大島川尻(現四山坑南側)は俗に岩ヶ鼻と称された通り、殆ど岩盤層なるため、造船用乾ドックには適するも築港には不向であり、 二.諏訪川尻は土質が殆ど砂層のため脆く、 三.大牟田川尻は泥土層が六0尺も続き、ボーリングすら満足に行えぬ程で築港には最不適であり、 四.結局、四ツ山の現在地に決定を見た。 


さらに『團琢磨氏談話録』からの引用によると・・・

『段々に突詰めてみると、大牟田の今のところ(註、現三池港)が比較的深い海で、広いところには余程近い。そうして万田からも近いし、陸上運搬は一番近いというようなことから、位置は彼処が宜しかろうということになって、彼処に計画したわけなんです。それが掘っても埋まらぬし、ドックを掘ってもあまり水が出ぬです。漏ってこない。大概ポンプで汲上げれる位の量だから、彼処を掘ったら一番宜しかろう・・・』

とあります。

三池郡三川村字二頭山、北緯三十三度、東経一三0度二三分半・・・
この地の決定と、さらに詳細なる船渠位置決定までには、深浅測量の他に選定位置の試錐や潮流の調査などが行われたのでした。
ただ、『三井鉱山五十年史稿』 曰く 「地方関係上極秘裏に行われ、陸地を避け・・・」
團一行は、人目を避けて大牟田川河口の龍宮閣あたりから有明海にこぎ出したのでしょうか?

次回は、この「地方関係上・・・」の部分をさらに詳しく繙くことにいたしましょう。


ところで、TOPの絵葉書は三池港の完成を記念して発行されたのでしょうか。
1909(明治42)年頃のものと思われます。
その理由は、ドックの奥“スミツミキ LODING MACHINES”が2機であることからです。
狭い紙面に、多くの情報が記載されているこの地図絵葉書。
各坑口と三池港に龍宮閣を結ぶ専用鉄道の形成が見て取れますし、その正確かつ詳細な記載に感心させられます。


(つづく)

◆注1 三井鉱山五十年史編纂委員会編 『三井鉱山五十年史稿』 1944年 (未刊行)
     巻14:第7編 工作 及び、巻19:第15編 輸送及販売 (一) による

◆注2 団平船については、以下のHPをご参照ください
     http://homepage3.nifty.com/modelshipbuilder/danpeisen.htm

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