炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 三池築港百話

イメージ 1

▲ 三 川 海 岸 「開港前に於ける三池港」

〈出典〉 町田定明 『三井三池各事業所写真帖』 大正15年6月 町田写真館発行 より
     福岡県立図書館所蔵  

※この写真は、福岡県立図書館の「特別複写及び特別利用承認」を得て掲載するものです。
 以後の『三井三池各事業所写真帖』よりの写真も、同様の許可を受けて公開するものです。(管理人)
 ⇒写真をクリックすると、より鮮明な大画面にて見ることができます 

風光明媚な三川海岸

三池港築港百周年を記念して、今回からその歴史や現在の様子などについて、写真・絵葉書・地図などをもとに見ていきたいと思います。
題して 『三池築港百話』 
と称していますが・・・ 百話もつづける自信はございませぬ(*_*)
ですが、“百周年”にちなんで何とか頑張ってみようかと思っているところであります。

さて、第一話は 『なぎなた洲 ~三川海岸~』 三池築港前史(1)であります。

今年でちょうど築港百周年になるということは、三池港の築港は1908(明治41)年にさかのぼるということになります。
今回の写真は、三池港築港以前の三川村(当時)です。
たぶん四ツ山(二頭山)からの写真で、北方の諏訪川方面を望んでいます。
詳しくは、写真上方が三川村大字川尻字中野開、下方が三川村大字三里字二頭山方面になります。
(この写真は、トリミングしたものではないか? という感じがします)

『三井三池各事業所写真帖』の発行者である町田定明氏の解説(注)によると・・・
「三池港ができる前の三川海岸、明治39年頃という」とありますが、もう少し古いのではないかと思います。
四ツ山築港(当初の呼び名は四ツ山でした)の鍬入れ式は、1902(明治35)年11月 3日とありますし、1905(明治38)年10月には専用鉄道が四ツ山まで開通していました。
また、1907(明治40)年には四ツ山発電所(当時)が三池港に先駆けて竣工していることから、少なくとも、明治39年よりはもう3~4年前の頃ではないでしょうか?

「ここは、なぎなた洲ともいわれていたのどかな海岸である。山水明眉な眺めで・・・」と先の解説にあるように、遠浅の有明海に面したのどかな三川村の海岸線が偲ばれます。
この弓なりの海岸線に、後の三池港が誕生することになるのです。


(つづく)

◆注 「 」内は、安元 薫 『ふるさとの想い出写真集 大牟田』1982年 国書刊行会発行 中の写真 「137 三川海岸」の解説文より引用。今回取り上げた写真と同様のものが再録されている。
ちなみに、『三井三池各事業所写真帖』では「開港前に於ける三池港」という題がつけられている。

◆ 『三池港の面影 (其一)』 と題する絵葉書があります。この写真と同じものだと思われます。
  ご覧になりたい方は、「最近のトラックバック」中の「三池港の面影 三池炭鉱」からお入りください。

イメージ 1

   ▲ 明治33年測図の三川海岸

〈出典〉大日本帝国陸地測量部 5万分の1地形図  明治33(1900)年測図 同36年製版 「柳河」「長洲」 

岩ヶ鼻から諏訪川河口に広がる “なぎなた洲”

三池築港百話 第二話は、5万分の1地形図からはじめることといたしましょう。

この地形図からは、1900(明治33)年の三川海岸の様子をうかがい知ることが出来ます。
(第一話の写真と見比べていただくと、さらによく分かるとおもいます)
南には、四山西側に“岩ヶ崎”と呼ばれた海岸線がありました。
ここ“岩ヶ崎”は、「頭上には岩壁がそそり立ち、下には岩盤が連なる景勝の地」(注1)であったようです。
(地形図中の“岩ヶ鼻”は“岩ヶ崎”の先端部の呼称です)
ここから約1.5㎞にわたる海岸線を北に辿ると、そこは諏訪川河口です。
この地に、三池港が築港されることなります。

さて、三池築港前史(2)をはじめるに当たり、築港の歴史をどこまで遡ってはじめようか・・・と思案していました。
結局は、「官営三池炭鉱時代の原点」にまで遡ってみることにしました。
それでは、官営時代の1873(明治6)年頃まで時計の針を戻すことにいたしましょうか。

官営三池炭鉱時代の課題は、運炭・積み出し・坑内出水の3つでありました。
この内の運炭・積み出しについては、官営当初の炭山点検によるエミール・ム-セ(工部省 生野鉱山支庁 傭仏人技長)とゴットフレー(工部省 東京 鉱山師長)両氏による諏訪川河口案。そして、1876(明治9)年に三池炭山に着任したフレデリック・アントニー・ポッター氏(英人鉱山土木技師)による大牟田川河口案の二案がありました。
最終的には、ム-セ・ゴットフレー案は「永続の業としてしばらく後日に譲り」、築港費用等の関係もあって、とりあえずのところはポッター案を採用する決定がなされます。(注2)
(ポッター案採用後の三池炭山については、書庫「地図に見る三池鉄道」内の元祖 「石炭積出港考察」シリーズをご覧下さい)
ところで、廃案になったム-セ・ゴットフレー案とはどのような案だったのでしょうか?
ム-セ案による築港は・・・「新波止場築くに、地中に四メートル堀下く。(中略)長さ二百メートル、幅百二十メートルにして、波戸内へ和船百艘以内停泊す」(注3)
さらに坑口から港へは・・・「大阪・神戸間同様の鉄道を舗き、馬を廃し、蒸気車機械二組と取替ゆ」(注4)といった計画案でした。
この記載中の運炭鉄道に関しては、1876(明治9)年に鉄道寮雇外国人のシー・ダブリウ・キンドルとイー・ニウコム両氏が派遣され、三ッ山坑から諏訪川河口に至る鉄道敷設の測量を実施したのでした。

この諏訪川河口の築港計画案をして、後の三池築港の原案と見ることもできますが、よりはっきりと「岩ヶ鼻から諏訪川河口に広がる“なぎなた洲”」での築港計画をみるにはもうしばらくの時が必要でした。
次回は、この“なぎなた洲”での最初の築港計画である、元祖三池港の青写真をみることといたしましょう。

(つづく)


◆注1 「 」内は、麦田 静雄編 『ふるさとの想い出写真集 荒尾』1980年 国書刊行会発行 中の写真 「156 岩ヶ崎」の解説文より引用。
◆注2~4 「 」やこの部分の記述は、『福岡県史 近代史料編 三池鉱山年報』 第2~5次年報(明治7.1~明治10.6)の記述による。なお、人名標記(役職)についても『三池鉱山年報』に準じて標記した。

イメージ 1

▲ 三池港附近諏訪橋  SUWA BRIDGE OF SUBURB AT PORT MIIKE.  (末藤書店発行)

〈出典〉  『三井三池築港 拾貳景繪葉書帖 第二輯』 津村寫 末藤書画店發行 より
      福岡県立図書館所蔵  

※この絵葉書は、福岡県立図書館の「特別複写及び特別利用承認」を得て掲載するものです。
 以後の『三井三池築港 拾貳景繪葉書帖』も、同様の許可を受けて公開するも のです。(管理人)
 ⇒写真をクリックすると、より鮮明な大画面にて見ることができます 

明治22年の築港計畫要畧 その1「石黒五十二技師 三池派遣」

三池築港百話 第三話は、石黒五十二・長崎 桂による「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」(注1)をもとに、三池築港前史を辿ることといたしましょう。
今回の時計の針は、官営三池炭鉱が三井に払い下げられた年の1889(明治22)年頃となります。

官営三池炭鉱での出炭量の増大とも相まって、時の三池鉱山局長 小林秀知が再三にわたって石炭積み出しのための埠頭築設について提言をしていたことは、書庫『地図にみる三池鉄道』中の「元祖 石炭積出港考察 その3」で触れたところです。
このような三池鉱山局からの再三にわたる懇請により、当時の内務省は土木技師の石黒五十二及び長崎 桂を三池に派遣、築港に関する調査を命じたのでした。

この時派遣された2人の土木技師について、ここで簡単に触れておきましょう。
この2人は、当時氾濫を繰り返していた筑後川の改修を主たる目的として、内務省が久留米に派遣した土木技師でした。1883(明治16)年に長崎 桂技師(注2)、翌年に石黒五十二技師が派遣されています。(注3)

さて、石黒五十二・長崎 桂の論文「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」は、吉原政道 「三池鉱山景況」『工学会誌』第80巻所収(明治21年8月 741~742頁)の紹介から始まっています。
吉原政道は、1880(明治13)年 工部大学校を卒業後、小林秀知の腹心の一人として1889(明治22)年7月まで三池炭鉱に在職していました。(注4)
吉原は先の論文中に「三池海岸には一大埠頭を築造し、陸には汽車運搬の施行を企て」ることを説き、さらに「願わくは、落札者に於いてもこの方針就中埠頭築造の大計画に目的を投じて、益該山の盛大を計られんこと」を希望すると述べています。
三井に払い下げ後の三池炭鑛社にあって、事務長である團 琢磨の赴任は三池鉱山局員から「水上一滴の油」と見られたようです。官営時代の技術スタッフが工部大学校閥によっていたことから、工部大学校出身の吉原にとっても、團 琢磨(マサチューセッツ工科大学卒)の事務長就任が辞職する契機となったのでしょうか。
「三池鉱山景況」をして、三池炭鉱を去るに当たり吉原なりの将来の三池炭鉱の姿を記したのでした。

本題の「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」の内容については、次回から順次お伝えすることとして、今回はこれにて終了しましょう。
ところで、トップの絵葉書は、三池港が開港して間もない頃の諏訪橋と思われます。
絵葉書帖の他の11枚から類推すると・・・明治42年頃ではないでしょうか。
写真では、諏訪橋の往来は非常に賑やかで、人力車が行きかう様子が見うけられます。
後の大正時代の絵葉書に見える電柱がありませんので、詳細に調べていけば年代が絞れるかも知れませんね。
ちなみに、1912(大正元)年には三川村が三川町となり、三川町が大牟田市に編入されたのが1929(昭和4)年でした。


(つづく)

◆注1 『工学会誌』第85巻 3~31頁 1889(明治22)年1月 所収
  注2 デ・レイケ導流堤に名を残した、オランダ人ヨハニス・デ・レイケが同時に派遣されています
  注3 石黒五十二は、1907(明治40)年に貴族院議員となり、土木学会会長などを歴任しました
  注4 吉原政道については、佐賀県唐津市に本社を置く宮島醤油株式会社のHP>「去華就実」>吉原政道を      ご覧下さい

イメージ 1

▲ 三井船渠繋船壁  THE QUAYWALL, MITSUI DOCK.  

〈出典〉 土木学会附属 土木図書館所蔵 

明治22年の築港計畫要畧 その2「船溜所ノ築設ノ企」

三池築港百話 第四話は、石黒五十二・長崎 桂になる「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」をもとに、三池築港前史を繙くことといたしましょう。
今回の時計の針も、官営三池炭鉱が三井に払い下げられた年の1889(明治22)年頃となります。

さて、吉原政道になる論考の紹介から始まった「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」ですが、まずは官営時代の三池炭鉱における運送の分析から始まります。
当時の大牟田川河口の“龍宮閣”から口之津への運炭についての問題点を要約すると・・・
(1)経済的に不利であること
(2)帆船・曳船から汽船への積み替えが不便であること
(3)良塊炭がたび重なる積み替えにより粉炭となり品質が低下すること
などが指摘されています。
論考を読むにつけ、単なる土木事業というだけではなく、経済性にも目を向けていた点が明治時代の技師達の面目躍如といったところです。

計畫要畧から、具体的な数字をみてみましょうか。
(前略)三池より口之津まで壱噸につき金貳拾八銭なり。(伹し三池にての積込賃共)之れに口之津港にて陸揚げ及び本船へ積込費を合すれば、少なくも壱噸につき金三拾銭を下らず。然るに、もし風波強くして汽船といえども・・・(中略)
壱噸につき運送費等を合し金三拾銭として、目下産出の炭量凡そ三拾万噸に乗すれば此費額年に金九万円となり、若し見込の如く後来年々平均七拾万噸を産出するに於いては金貳拾万円の多額にのぼる(後略)

この論考が世に出た1889(明治22)年時点での三池炭鉱出炭高は、47万トン。
当時の予想では、1906(明治39)年の出炭量が89万トンとされていますが、万田坑の出炭が1902(明治35)年11月から始まって以来、実際の出炭量は予想を遙かに上回る148万トン(明治39年)となっていました。
これは、官営時代の約3倍の出炭量ということになります。
官営時代の1886(明治19)年時点ですでに「拾九万五千四百五拾円余りの利益」を得、四百五十五万五千円にて三井に払い下げられた三池炭鉱としてみれば、吉原政道も論じたように三池港築港経費についても 「興業費凡貳百万円を要する見込みなり。然れも此の金額は三池煤田の価格より考えれば、決して恐擢するに及ばざるが如し」(注)という結論に達したのでした。

論考は、この後三池築港の具体的な調査内容にすすんでいきますが、本日はここまでといたしましょう。
ところで、今回のトップにある絵葉書は、土木学会会長をも務めた石黒五十二にちなみ 「土木学会附属 土木図書館所蔵」の一枚をUPしました。三池港船渠の岸壁を写し出した一枚で、岸壁には三池式快速石炭船積機(ダンクロ・ローダー)が2台あります。
その奥には、蒸気機関車牽引の炭車と三川発電所の煙突2本が見て取れます。また、背後の四ツ山と長崎税関三池支署も印象的です。
ダンクロが2台の時代とすれば、3号機が設置された1911(明治44)年以前、三池港開港時の1908(明治41)年頃と思われます。

(つづく)

◆注 吉原政道  「三池鉱山景況」 『工学会誌』第80巻所収(明治21年8月 741~742頁)

イメージ 1

  ▲ 三池沿岸概畧圖  

 〈出典〉  「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」中の 計畫附属圖第壱號 

明治22年の築港計畫要畧 その3 「築港ノ調査」

三池築港百話 第五話は、石黒五十二・長崎 桂になる「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」をもとに、三池築港前史を繙く その3回目 「築港ノ調査」です。
今回の時計の針も、官営三池炭鉱が三井に払い下げられた年の1889(明治22)年頃となります。

さっそく、石黒五十二技師による築港の調査を具体的に見てみることにしましょう。
「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」では、①三池近傍の海岸の実況 ②干満水位の実験 ③潮流の方向 ④暴風の景況 と、以上4つの観点から自然条件の状況調査報告がなされています。
それぞれの要旨を簡単にまとめてみました。

まずは、①三池近傍の海岸の実況から・・・
三池海岸の実況は、遠浅にて干満の差が激しく海岸線より最干潮の際には、最も遠くで貳千間(約3.64㎞) 近くでも千三百間(約2.36㎞)の砂州となる。また、水深二十尺(約6.1m)に達するところまでは、最も近いところでも千七百間(約3.1㎞)の沖合に行かなければならない。また、遠浅で緩やかな傾斜である広大な砂州には、諏訪川・手鎌川・矢部川・沖端川・筑後川などから流れ下る砂泥が沈殿している。    

次に、②干満水位の実験より・・・
  一 春秋両期大潮の際干満の差          十八尺四寸(約5.6m)
  一 尋常大潮干満の差                十七尺五寸(約5.3m)
  一 満潮水位の平均と干潮水位の平均差     十貳尺五寸(約3.8m)

さらに、③潮流の方向より・・・
三池海岸に於いては、上潮・下潮ともに潮流の方向は常に一定である。潮流は、北方の黒崎より深浦・深倉・手鎌・横須(地図中では「横洲」となっている)等の海辺に沿って、東北から西南に流れる。

最後に、④暴風の景況・・・
三池地方に於いて、数年実検したものによると「東南の暴風が最も激しい」という結果である。春秋大風の節は、必ず北より始め東に転じ、漸次東南・南西・西南に回転して遂に西に転じて止むを常としている。風位東南に転するに従って、風勢が最も強烈となるが、東南は陸地からの風であり港湾に害を及ぼすことは少ないと考えられる。 

以上、簡単に自然条件の状況調査報告をまとめてみましたが、これらの内容は先の地図「三池沿岸概畧圖」にまとめて記入されています。
少し見にくいとは思いますが、この地図には潮流の方向(横須沖の矢印)や水深、そしてこの時点で考えられていた“元祖 三池港”の青写真が描かれています。

次回からは、この“元祖 三池港”の築港案をより具体的に見ていくことにしましょう。  

(つづく)

イメージ 1

  ▲ 三池沿岸概畧圖(一部)  

 〈出典〉  「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」中の 計畫附属圖第壱號 

明治22年の築港計畫要畧 その4 「築港計畫二案」

三池築港百話 第六話は、石黒五十二・長崎 桂になる「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」をもとに、三池築港前史を繙く その4回目 「築港計畫二案」です。
今回の時計の針も、官営三池炭鉱が三井に払い下げられた年の1889(明治22)年頃となります。

さっそく、石黒五十二技師による「築港計畫二案」を見てみることにしましょう。

三池鑛山用ノ築港計畫の第一案とは・・・ 
大船の繋泊場を沖合に築造し、橋梁あるいは防波堤により陸地と相連続し、以て本船に搭載の便を計画すること

この案は、大型船が停泊できる沖合に向けて「橋梁あるいは防波堤」を築き、そこに鉄道を敷設して船積を行うという計画です。具体的には、諏訪川河口より水深貳拾四尺(約7.2m)ないし三拾尺(約9.1m)の地点まで、およそ壱里(約3.9㎞)の防波堤を築くというものでした。
(橋梁は、有明海の柔軟なる海底の泥土堆積により築造は困難でり、巨額の費用が予想されるので没・・・)
この第一案の工費は、百五拾万円と第二案よりも安価ですが、「将来永続の完全なるものとは言えない」計画でした。

そこで、三池鑛山用ノ築港計畫の第二案の登場・・・
防波堤を築造し、泊船渠を海岸に搆造して大船を該渠内へ寄せ得べき航路を開き、もって本船に搭載の便を計画すること

この第二案こそ、“元祖 三池港”の築港計画に当たります。

その概略を述べると・・・ 
①四ツ山より、総延長千六百三拾七間(約2.96㎞)の南堤を築造し、その先端部に港燈を設置する
②諏訪川河口より、総延長貳千三百五拾間(約4.27㎞)の北堤を築造する
③潮の干満の差に関係なく、石炭を船舶に搭載するために停船渠を設ける
④停船渠に達する鉄道を敷設する

この第二案の工費は、貳百万円なり。

これら二つの三池築港計画を図にしたのが、先の「三池沿岸概畧圖」で、その一部を拡大したものを今回のトップに載せてみました。
諏訪川の北にある片平山の麓を通過し、川尻村にいたる運炭鉄道とそれに続く第一案の防波堤、
そして、南北の堤防に守られるようにして三川村に計画された長方形の「停船渠」が見てとれます。

次回は、この“元祖 三池港”の「停船渠案」の詳細を見ることにいたしましょう。  

(つづく)

イメージ 1

  ▲ 停舩渠潮溜場及水閘室之平面圖  

 〈出典〉  「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」中の 計畫附属圖 第貳號 第三圖 
       *図をクリックすると、より鮮明な画像にてご覧になれます    

明治22年の築港計畫要畧 その5 「停船渠」

三池築港百話 第七話は、石黒五十二・長崎 桂になる「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」をもとに、三池築港前史を繙く その5回目 「停船渠」です。
今回の時計の針も、官営三池炭鉱が三井に払い下げられた年の1889(明治22)年頃となります。

それでは、上の図をもとに石黒五十二技師による「停船渠」案を見てみることにしましょう。

すでに皆さんご存じのように、干満の差が激しい有明海での築港です。
大牟田川河口に建設した“龍宮閣”同様に、潮の干満の差なく石炭を船積するには「停船渠」は必要不可欠の施設でした。
この「停船渠」の入り口には閘門を設け、船渠内の水位を保つわけですが、石黒五十二技師が計画したところの「停船渠」の実際はというと・・・

閘門は十分に注意して築造しても洩水の心配があるので、図に示すように三ヶ所に建設する必要がある。そして、洩水を減らし且つ船舶の出入りを便利にするため、停船渠と内港の間に長さ七拾間(約127.3m)・幅四十二間(約76.4m)の潮溜場を設ける

というものでした。
先の図の右側が内港であり、その内港に面する第一閘門を経て潮溜場へ。
そして、潮溜場から停船渠へはさらに第二・第三の閘門を経るというものです。
また、潮溜場と停船渠をつなぐ水路の幅は拾貳間(約21.8m)とする設計になっていました。この水路の幅が、この「停船渠」に入港できる船舶の大きさを決定づける事となりますが、計画では「三・四千噸積のもの四・五艘を繋留して同時に石炭を船積する」とあります。

「停船渠」についてさらに計画案を詳しく見てゆくと・・・

長さ二百間(約363.6m)幅四拾五間(約81.9m)のもの貳箇を築造するものであるが、目下貳箇を設ける必要はなく経費節減のためにも壱箇のみを設ける。(中略)
停船渠の面積は、壱箇の停船渠のみでも壱万五千七百五十坪(約51、975㎡)の面積があり、十分の広さがあるものと信ずる。    *図では、予備地として追加の停船渠が点線で描かれています

ここに述べた計画以外にも、停船渠の深さ(干満平均潮水位以下25尺 約7.6m)・擁壁面の石積・擁壁築設の掘鑿・停船渠周囲の埋築などの詳細な計画が述べられていますが、ここでは割愛致します。

以上、縷々述べてきましたが、この築港建設費は金貳百万円という巨額なものでしたが、石黒五十二技師は、三池炭鉱の出炭予想をもとにした損益予算・築港費消却後損益予算・口之津経由での輸送費用予算をもとに、その十分なる経済性をも述べたのでした。
最後に、欧米各国との石炭市場での競争をあげ、口之津経由の無駄を省いたこの築港計画の重要性を説いた石黒五十二でした。

さて、この築港計画発表と時を同じくして、官営三池炭鉱は三井に払い下げられることとなります。
そして、築港計画案を受け継ぎ、後に“三池港”と命名されることとなる築港の中心にあったのが、団琢磨と牧田環でした。

次回からは、牧田環の日記や談話をもとに、三池築港前史を繙いてみたいと思います。

(つづく)

◆「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」の詳細については、 日本鉱業史料集刊行委員会/編 『日本鉱業史料集 第17期 明治篇 前 下』 白亜書房 1994 を参照下さい。

イメージ 1イメージ 2
                  ▲ 團 琢磨(左) と 牧田 環(右) の肖像   

〈出典〉 團 琢磨 : 昭和7年初春 石川島播磨造船所にて  『男爵団琢磨伝』   口絵写真より                牧田 環 : 大正7年 三井鉱山常務就任当時     『牧田環伝記資料』 口絵写真より

明治31年 團・牧田の海外視察 その1 「牧田環の日記」

三池築港百話 第八話は、牧田環(まきた たまき)の残した日記や談話をもとに、三池築港前史を繙く その1回目 「牧田環の日記」です。
今回の時計の針は、三池築港工事が始まる4年前の1898(明治31)年頃となります。

前回までは、官営三池炭鉱時代の終わりに計画された、石黒五十二の三池築港計画の概略を見てきました。
この計画は日の目を見ることはありませんでしたが、計画の基本は後の三池港築港につながっていくことになります。
さて、はじめに三池炭鉱の三井への払い下げから、今回取り上げる1898(明治31)年までの三池炭鉱の歴史と團・牧田の動静を簡単に見ておきましょう。

1888(明治21)年 三池炭鉱が三井に払い下げられ、三井組による三池炭鑛社が誕生。
             この時団琢磨は・・・勝立坑の湧水問題解決のためポンプの調査・研究 を主たる目的と             した海外出張中。帰国後三池炭鑛社に入社、三池炭鑛事務長就任。
1891(明治24)年 大牟田川河口の横須浜に“龍宮閣”(船渠・高架桟橋)完成
1892(明治25)年 三井鉱山合資会社設立、翌年三井鉱山合名会社に改組。
             また、三池炭鑛社改め三井三池炭鑛事務所と改称。
1894(明治27)年 団琢磨 三井鉱山合名会社専務理事に就任(三池炭鑛事務長兼務)
             〈日清戦争勃発〉
1895(明治28)年 牧田環 帝国大学工科大学採鉱冶金学科卒業、三井鉱山合名会社入社。
             勝立坑出炭を開始。
1897(明治30)年 牧田環 三池炭鑛勤務を命じられる。

本題である、1898(明治31)年に進みましょう。

この年(明治31年)の6月17日、横浜港のエンプレス・チャイナ号の船上には、三井鉱山合名会社専務理事の団琢磨と三池炭鑛の新進気鋭の技術者2名の姿がありました。
新進気鋭の技術者とは・・・一人はここに取り上げる日記をしたためた牧田環、そして牧田の先輩である松原嶢(帝国大学工科大学機械工学科卒)の2名です。
團一行は、欧米の最新鉱山技術や港湾施設の調査・研究を目的に、アメリカ・イギリスなどにて翌年の2月20日に長崎へ帰港するまでの間、精力的に調査活動を行ったのでした。

この欧米視察の様子を「牧田環の日記」を繙きながら、当時彼らが思い描いていた三池築港の計画案をおぼろげではありますが、浮かび上がらせたいと思います。
牧田が記録した5冊の手帳には、詳細なる調査の行程が記入されています。残念ながら、6月17日から8月27日は欠けており、8月28日のドリフトン(アメリカ)から始まります。

それでは、次回は三池築港に関する内容を中心に、この視察旅行を少しばかり再現することに致しましょう。

(つづく)


◆この論考は、森川英正編著 『牧田環伝記資料』 日本経営史研究所 1982 を参考とした。

イメージ 1

▲Bute Dock Offices,Cardiff   
〈出典〉1900年頃の絵葉書より : Bute dockの入り口に、1897年に建設されたドック事務所。
   團・牧田・松原の一行も、きっと目にしたであろう。(現存しています)

明治31年 團・牧田の海外視察 その2  「十一月十六日 Park Hotel」

三池築港百話 第九話は、牧田環(まきた たまき)の残した日記や談話をもとに、三池築港前史を繙く・・・
その2回目 「十一月十六日 Cardiff Park Hotel」です。
今回の時計の針も、三池築港工事が始まる4年前の1898(明治31)年頃となります。

さて、今回はいきなりこの海外視察日記のハイライトを見てみることにしましょう。
日記の日付は〈十一月十六日〉 場所は〈 Cardiff Park Hotel の喫煙室 - イギリス:カーデフ〉です。
早速、この日の日記全文を見ましょう。
  
十一月十六日 曇 八時起十時半ノ汽車ニテ諸氏ト共ニ Aberdare staition ニ赴く 直ニ Powell Duffryn Colliery ニ行ク 同坑員ノ案内ニテ Davey's pumping Engine ヲ見ル 松原氏ト同坑々坑底ニ下リ喞筒装置ヲ一覧ス 更ニ出坑ノ上同会社本坑事務所ニ立寄リ坑外装置ヲ巡視ス 午後三時ニ及ブ 諸氏共ニ同坑ヲ辞シ停車場ニ赴ク 途中酒屋ニ立寄リ「パン」「バター」ヲ食シ「ビール」ヲ傾ク 午後三時過ノ汽車ニテ「カーデフ」ニ帰ル 六時夕食後団氏等ト喫烟室ニテ三池炭坑ノ事ヲ談ス
   出炭一日六千噸 宮ノ原千五百、 勝立千五百、 万田三千噸
   大牟田築港 新ドック築立及水道浚渫、大船四五艘同時ニ石 
   炭積入レノコト 坑内喞筒ニ水力ヲ用ユルコト 役員ニ責任
   ヲ持タシ充分ニ働カスコト等云々
フヒスキー一杯ヲ傾ケ十一時半就褥
  志 片
  六 十 汽車代カーデフ及アバデーン間
  一 〇 鉱山案内員心附
カーデフ及アバデーン間二十四哩

一行は、6月29日にバンクバー着。アメリカ各地を視察した後の9月17日、英国船カンパニア号(注)にてニューヨーク発。9月24日、リバプールを経てロンドン着。団と松原は、デビー氏(注) の薦めにて10月3日から11月6日の間、ドイツ等の炭坑を視察。その間、牧田は一人イギリスに残り、精力的に各地の炭坑や港の視察を行う。
その後、デビー氏を伴い3人揃って6日間のカーデフ近郊視察の旅へ出たところで、今回の日記となります。

3人が訪れたカーデフは、当時世界随一の石炭積出港です。
南ウエールズの炭鉱から鉄道で運ばれてきた石炭は、ここカーデフの港からイギリス国内はもとより、海外へも盛んに輸出されていました。
この旅の最大の目的は、カーデフ港の港湾施設を視察することであったと思われます。
日記から、その視察の行程を追ってみると・・・

11月14日 Barry dock 視察  クレーンやドックゲートの開閉を見学
    15日 Dowlais Cardiff Colliery 視察       
    17日 Cardiff dock 視察 目下工事中の新ドッグ及びBute dockの石炭積込方法を見学
  18日 Merthyr vale Colliery 視察
 19日 Mountain ash Colliery 視察 ロンドンに帰着

カーデフ港の視察を明日に控え、ホテルの喫煙室にて三池築港の計画案を語る3人の姿をお伝えしたところで、今回は終わりといたしましょう。

(つづく)


◆注 : デビー氏とは、勝立坑に導入された“デビーポンプ”製造元のデビー社(HATHORN.DAVEY&CO.)
のこと。 団一行は、ロンドンに着き次第このデビー社を訪問、ポンプ研究の相談をしている。
『男爵團琢磨伝』(270頁)によると・・・「当時独逸にて使用せる水圧利用の排水機械を一見すべしとのことに、デーヴィと独逸のデュッセルドルフにて落ち合う約束にて君は松原を伴ひて大陸に向ひ、牧田は英国に留まって海底の石炭採掘法を調査した」 とある。


◆注 : ▼ LIVERPOOL R.M.S.S. “CAMPANIA”      

イメージ 2

イメージ 1

▲Barry Docks   
〈出典〉1900年頃の絵葉書より : Barry dock gate を、貨物船が通過していきます

明治31年 團・牧田の海外視察 その3 「十一月十四日 Barry dock」

三池築港百話 第十話は、牧田環(まきた たまき)の残した日記や談話をもとに、三池築港前史を繙く・・・
その3回目 「十一月十四日 Barry dock」です。
今回の時計の針も、三池築港工事が始まる4年前の1898(明治31)年頃となります。

前回は、 団一行が Cardiffの Park Hotel喫煙室にて、三池築港について語り合う場面をお伝えしましたが、一行がCardiffに到着した翌日に訪れたのが今回取り上げる「Barry dock」です。

まずは、この日の日記全文を見てみましょう。
 
十一月十四日 晴 八時起 団松原及びデビー氏ト共ニ朝食ヲ終リ日記を認ム後三氏ト共ニ十一時ノ汽車ニテ Barry dock 巡回ニ赴ク 技師某氏ノ案内ニテ Loading Crane 及 dock gate 開閉ノ方法等ヲ巡視ス 午後二時半ノ汽車ニ帰宿昼食ス 日記ヲ認ム  喫烟室ニテ暫時会談ノ後夕食ヲ終リ 団松原氏ト共ニ市中ヲ散歩シ帰宿 十一時頃就褥ス
   志 片
   ニ ニ  汽車賃カーデフ バレードック間
 カーデフ 及バレードック間 八哩

Barry dockは、Cardiffの南西約13㎞に位置しています。
19世紀半ばには、South Walesの炭鉱よりCardiffの港へ石炭が集積されました。
しかし、19世紀も後半になるとCardiffでの船積能力を超えるまでに石炭需要が増大します。
そこで、Barry Railway が設立され1884年にBarry dock築造が始まり、1889年に完成を見たのでした。
いわば、Cardiffの港を補助するような役割を持ったBarry dockということになります。

一行が訪れたのは、dock完成後9年目の頃でした。

さて、先の絵葉書は dock gate を通過する貨物船の写真です。
写真の左側がdock側、右側が防波堤に守られた内港側と思われます。
現在のBarry dock空中写真を見てみると・・・
Barry Islandとの埋め立て地と対岸の岬を利用して、Barry dockが築造されたことが読み取れます。

このBarry dockにて、絵葉書中の dock gate やその奥に写し出されたいるクレーンにBarry Railway の炭車達と船積施設を巡ったであろう一行です。
Cardiffの Park Hotelの喫煙室では、この日視察したBarry dock のダブル・ゲートの様子が語られ、後の三池築港のシングル・ゲートについての考察が行われたりしたのでしょうか・・・。

最後に、いまものこるBarry Island Railway と、かつてのBarry Railway 社の社紋を紹介して、本日の旅は終わりといたしましょう。


イメージ 2



(つづく)

◆この記事を作成するにあたり、以下のHPを参考にした。
  http://www.barry-town-crier.org.uk/History/tabid/52/Default.aspx

↑このページのトップヘ