炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: IAB春日物語

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撮影日:2007年11月24
撮影地:春日市
★許可を得て撮影。いまも“ハウス”の多くは住居として活用されています。
 撮影などでは、居住者の方のご迷惑にならないよう注意して下さい。


今も現存する“ハウス”

「九大から春日公園のあたりは、米軍の基地だったんですよ」
「エー、ほんとですか! 初めて聞く話です(@_@)」

1945年 8月15日 終戦
       9月22日 占領軍(米軍)が福岡に進駐。
      10月     第315混成航空団が板付飛行場に駐留
      10月7日  大佐ハーカーを司令とした部隊が進駐
1946年 8月     少佐以上の家族30世帯が板付に到着。基地外に居住をはじめる
1947年        第一期アネックス(付属基地)工事が完了
1950年 6月25日 朝鮮戦争が勃発・・・    


今から物語る『IAB春日物語』の始まりです。
終戦直後から1972年まで、春日市には米軍の広大な基地(ベース)が広がっていました。
今の、航空自衛隊春日基地・県営春日公園・春日公園団地・県立春日高校・九州大学筑紫キャンパスなどの広大な敷地がそうです。
当時この基地は、米軍の軍人とその家族が住む付属基地(アネックス)として存在しました。
さらに朝鮮戦争勃発以降は、基地内の住宅が不足したため基地外にも“ハウス”と呼ばれる米軍用の住宅が広がったのでした。
当ブログ書庫の題名は、この“ハウス”に今も残る「IAB」(写真参照)の表示からとったものです。

少なくはなりましたが、今も春日市近辺にはこれらの“ハウス”が現存します。
基地自体は1972年6月30日に返還され、以後先に述べたように利用され現在に至っています。
基地内の遺物はほとんど残っていませが、基地外にあった“ハウス”は今だ現存し、住居として活用されています。
さあ、朝鮮戦争や冷戦の時代にあった“春日基地”の痕跡と、春日市の今を辿る旅に出かけてみませんか(*^_^*)

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HQの前庭両脇にあったカエデの木

九州大学筑紫キャンパスは、アネックスの南端です。
ここにはHQ(司令部)をはじめ、高校や教会・居住区などがありました。
当時HQ前庭の両脇には、カエデの木が植えられていました。
このカエデの木は、九大筑紫キャンパスのあたかも象徴のごとく大きく成長して現存しています。

上の写真は、キャンパス内から春日公園方面を撮ったものです。
むかって右は春日高校。右側のカエデは基地返還後に植えられてもの。
左側奥が基地時代のカエデです。
もう少し近寄って、このカエデの紅葉を堪能しましょうか・・・。

次の写真は、キャンパス正門近くの春日公園側から撮った写真です。
立派に成長したカエデの木は、この日見事に紅葉した姿を見せてくれました。

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撮影日:2007年11月24日
撮影地:九州大学 筑紫キャンパス



1959年頃のHQとカエデの木

最後に、1959年頃のHQ(司令部)です。
手前に、まだまだ小さなカエデの木がありますね。
芝生の両脇に、この木が植えられていました。

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当時の面影を残す道路と植木

九州大学筑紫キャンパスは、アネックスの南端に位置していました。
上の写真は、前回紹介したHQ(司令部)にあったカエデ並木の少し南側、JR大野城駅方面に下る道路と並木です。
この道路とカイヅカイブキの並木は、基地当時のものがそのまま残っています。
この写真の手前には教会と高校がありました。(今は大学生協の建物があるかな)

少し高台にあったこのHIGH SCHOOL、実は一度火事になったことがあります(*_*)
その時の様子が見れますので、The Itazuke Alumni AssociationのHPを見て下さい。

突然火事の話題を持ち出したのには、当然理由がございます。
それは、これです!(^^)!

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先の道路脇にひっそりと今も佇む消火栓です。
1967年3月27日、HIGH SCHOOL の火事にも使われたかもしれませんね。
この消火栓以外にももう一ヶ所あったんですが・・・
どこだったか? 発見できませんでした。
また、今度チャレンジします。


撮影日:2007年11月24日
撮影地:九州大学 筑紫キャンパス

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WELCOM TO ITAZUKE AIR BASE

今回は、1955年頃に発行されてと思われる板付基地のパンフレットを見てみましょう。

表紙には「WELCOM TO ITAZUKE AIR BASE」の文字と、戦闘機・レーダー基地の絵で飾られています。
このパンフレットは、当時の米空軍 第8空軍基地グループによって作成されました。
(印刷については、パンフ裏表紙によると Printed by Kaneko Printing Co., Fukuoka, Kyushu です)

発行年代はよく分からないのですが、パンフレットの説明内容などから推測して1955年~1960年頃のものと思われます。
この頃の歴史を振り返ってみると・・・1950年に始まった朝鮮戦争が1953年7月に休戦となってから数年後という時期になりますね。

ここで『春日市史』の記述をもとに、当時の基地内の様子を見てみましょう。
昭和28年7月に休戦協定が成立し、第6160航空団は29年の夏までかけてアネクスにハウスを建てたが、まもなく第8戦闘爆撃航空隊が板付に戻って指揮権を掌握したために解散し、別に第6143基地業務群が編成された。(中略)
昭和32年1月現在で、基地の米軍は6393人、軍属と家族が2881人、このうち1880人は基地外ハウスに住んでおり、日本人従業員は2741人であった。             ◆『春日市史』 P403~404より引用 

1957年現在で、約1万人ほどの軍人と家族が住んでいたことになりますね。
ここ春日のアネクス(付属基地)に赴任して、このパンフレットを手にした米兵とその家族がいたことでしょう。

次に、裏表紙を見てみましょうか。
先の写真の左半分となります。
そこには板付を中心とした地図と、「CROSSROADS OF THE FAR EAST」の文字があります。
ここ板付基地は、「極東の十字路」に位置しているということでしょう。

ところで、表紙のジェット戦闘機は、F86ですかね?
◆米軍関係の用語や戦闘機については、私詳しくはありません。
何か付け加えやおかしな点がありました、遠慮なくコメントを下さいませ。

さて、このパンフレットの内容に進む前に、アネクス(付属基地)の地図を見てみましょう。

MAP OF BASE ANNEX

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◆見づらいときには、地図をクリックすると拡大できます

パンフレットにあった地図に、説明用の番号と2つあったゲート・HQの標記を追加しています。
また、前回のカイヅカイブキの並木があった場所を緑楕円で、カエデの並木を赤楕円で囲んでみました。
地図の上側は東で、現在JR鹿児島線が走っています。
地図の左側は北で、「NORTH GATE」の前の道路が今もベース通りと呼ばれいます。
このゲート付近は、現在では航空自衛隊西部航空方面隊司令部がある春日基地となっています。

今後も、かつての基地内の様子やハウスについての報告をつづけます。
今回はここまで・・・。

(つづく) 

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撮影日:2007 2.10
撮影地:福岡空港

解体される米軍倉庫

今回は、最近のニュースから・・・

福岡空港内に残っていた米軍の倉庫が、6月までに解体されることになりました。
1972年に、板付基地のほとんどが返還されてからすでに36年・・・。
弾薬庫跡を除けば、もう米軍基地があったことを示す建造物は、見れなくなるのではないでしょうか。

この倉庫・・・防衛省九州防衛局によると 「倉庫は平屋建てで1940年頃に建設された」とのこと。
(「  」内は、2/7付 朝日新聞による。 以後も同じ)
ということは、旧日本陸軍の席田飛行場時代からあったということになります(@_@)

ところで、現在福岡県内にある米軍施設は、背振通信施設とこの福岡空港内の倉庫地区の2ヶ所だと思います。
すでに、1998年3月には倉庫で働く日本人従業員が退職、また同年4月には背振通信施設の米国人・日本人従業員が遠隔操作によりともに不要となりました。
従って、現在は福岡県内の米軍基地日本人従業員はゼロとなっています。

かつて板付基地では、朝鮮戦争の頃には約2万人の日本人従業員が働いていました。
もちろん春日のアネクスでも、当時は数多くの日本人従業員がいました。
これら基地内の“リトルアメリカ”に憧れを持った人々がいた反面、福岡では基地による事故などの問題もあり返還運動があったことも忘れてはなりません。
今回の倉庫解体については 「(板付基地返還促進)協議会長の福岡市議会議長は、昨年11月防衛省に改めて返還を要請」と先の新聞記事にはあります。

福岡空港事務所によると 「米軍機の着陸回数は年100回前後で、06年度は108回。米軍佐世保基地などに向けた物資輸送機が中心」ということです。



◆2007 2/9付 朝日新聞の記事を参考にしました

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EAST GATE (1958年頃)

ここは、板付基地のANNEX(付属基地)である Base one 通称春日基地(旧小倉陸軍造兵廠春日製造所)のEAST GATE(東門)です。
朝鮮戦争の拡大により、この春日基地も次第に拡大されていきました。
その春日基地の中で、このEAST GATE(東門)のある地域は New Base と呼ばれた新しい基地エリアです。
前々回に載せた地図を参照されながら、以後の写真と解説を読んでいただけると、ほぼ1955年頃の春日基地が偲ばれると思います。

今回の写真にあるEAST GATE(東門)は、基地内より白木原方面を望んだものです。
ゲートのすぐ先に二は、国鉄鹿児島本線(当時)の踏切があります。
その踏切を越えれば、その先には白木原の街並みが広がります。
よく見ると、写真左側に立て看板がありますね。
どれどれ、何が書いてあるのかな・・・?

         あなたは、今から最も危ないエリアの道路に入る。気をつけて運転しなさい。 

昨今、沖縄などでの在日米兵による事故・事件が報道される度に、私はこの看板を想起します。

今を去ること、約50年前・・・。
春日基地の出口には、日本の一般車道に出た時の注意を喚起したこのような看板があったのでした。


(つづく)

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FAR EAST NETWORK(1958年頃)

ここは、板付基地のANNEX(付属基地)である Base one 通称春日基地(旧小倉陸軍造兵廠春日製造所)にあったFEN(FAR EAST NETWORK)の建物です。

ベース内の地図で確認すると・・・
国鉄鹿児島本線(当時)に近い、牛頸川の河畔にありました。

FEN(FAR EAST NETWORK)とは・・・
太平洋戦争中に米軍兵士を激励するためのラジオ放送が起源で、FEN(Far East Network:極東放送網)という放送局名で1945年(昭和20年)9月から在日米軍向けに放送が行われてきた。1997年(平成9年)10月から放送局名をAFN(American Forces Network:米軍放送網)に改められている。

このFENのラジオ放送を聴いて英語の学習をしたという方々も多いのではないでしょうか?
講談社新書に、「FENで英語を学ぼう」みたいな題名の冊子があったように記憶しています。

1997年(平成9年)10月からはAFN(American Forces Network)に改められているようですが、今だFENは健在です。
調べてみると、現在日本国内には横田基地にあるAFN東京の他に、青森県三沢基地、山口県岩国基地、長崎県佐世保基地、沖縄県キャンプ・バトラーの各基地内にもAFNのラジオ局があるようです。

かつて、FENで英語を学んだ皆様、今一度FEN改めAFNの英語放送をお聴きになってはいかがなものでしょうか(*^_^*)

◆以下のHPを参考にさせて頂きました。
もっとFEN(AFN)を楽しみたい方は、下記のHPをご覧下さいませ。
キクチラヂヲ堂
American Forces Network (AFN)


(つづく)

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旧米軍基地の遺物地図

先週の土曜日、8月23日の西日本新聞の連載 『時を越えた宝たち』 にて、米軍春日基地を取り上げた記事が掲載されました。(下記URL参照)


まさしく、この書庫で取り上げている内容そのもです!(^^)!

久々の更新である今回は、この記事や以前に紹介した基地の遺物を地図にしてみました。
少し古い写真ですが、これらのほとんどの遺物は今も健在です。

新聞記事と、当ブログの地図を手にして身近な近代の遺産探索に出かけて見ませんか(^_^)v


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                         ▲地図中のフェンス①


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                         ▲地図中の電 柱②


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                         ▲地図中の消火栓③
 

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                         ▲地図中の消火栓④


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                         ▲地図中の変電所⑤


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                         ▲地図中の電気関連施設⑥



撮影日:1999年頃
撮影地:九州大学 筑紫キャンパス

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▲1958年頃の EAST GATE 


EAST GATEより基地内へ (1)

今回より、米軍板付基地のANNEX(付属基地)であったBASE ONE(旧小倉陸軍造兵廠春日製造所 → 現航空自衛隊春日基地・県営春日公園)とNEW BASE(春日基地の白木原方面 → 現春日高校・九州大学など)の建物を中心に探索に出かけてみることといたします。

はじめは、EAST GATEから始めましょう。
TOPの写真は、前々回に紹介したEAST GATEを白木原方面から見たところです。
ご覧のように、国鉄鹿児島本線(当時)の遮断機が見えます。
ここから基地内に入ることにしましょう。

☆よろしかったら、基地パンフレットの地図MAP OF BASE ANNEXを参照しながらご覧下さいませ。

ゲートを越えて、まっすぐにメインストリートを進みましょう。
まずは左手に MICHALOWSKI GYM が見えてきます。この建物は体育館で、「毎日午前10時から午後10時まで」開いていました。

そのすぐ先には、KASUGA THEATRE があります。
もちろん、この建物は映画館。「土曜日と日曜日は午後2時から、その他の曜日は午後6時と8時に映画の上映」が行われていました。また、入場料は「大人25セント、小人12セント」でした。

これらの建物の場所は、現在福岡県立春日高校の敷地(テニスコートやグランド)となっています。

☆「 」内は、1955年のパンフレットの翻訳による



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▲ MICHALOWSKI GYM



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▲ KASUGA THEATRE


(つづく)

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BASE OPERATIONS(1958年頃)

ここは、板付基地の MAIN BASE にあった、1958年頃の BASE OPERATIONS です。

先のパンフレット表紙にもあった、“CROSSROADS OF THE FAR EAST” の標記もなされていますね。

この BASE OPERATIONS の建物と管制塔はいつ頃まで現存していたのでしょう・・・?
1979年に撮影された写真を見たことがありますので、少なくとも1980年頃までは残っていたとおもわれます。

さて、1974(昭和49)年当時の空中写真にて、この板付基地 MAIN BASE にあった BASE OPERATIONS の確認を試みてみましょう。

以下の写真は、国土情報ウェブマッピングシステムによる空中写真の一部です。


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この写真を見てみると・・・
右手の銀色の大きな格納庫のすぐ上方に、 BASE OPERATIONS の建物があります。
基地閉鎖後2年目のこの写真には、当時のMAIN BASE の面影が色濃く写し出されていて、興味深いものがあります。
写真左下の、基地ゲートも鮮明に見てとれますし、ゲートを入ってすぐ右の 司令部(HQ 8TH FTR BMR WG)の建物もはっきり見て取れます。

鉄道好きの管理人にとっては、そのHQ裏を通る引き込み線跡が気になるところです。
竹下駅からの引き込み線で、ゲート下から弧を描くように上方に連なる線路跡を見ることができます。

ここ板付基地の MAIN BASE にも、CHAPELやCLUB、THEATERが存在していました。
パンフレットに掲載されていた地図を参考までに紹介しておきます。

この地図は、1955年頃のものと思われます。
1974年の空中写真とは、配置が一部違っていると思われます。
この地図によると、BASE OPERATIONS は、空中写真の右下のそのまた先にあったということになります。

写真に見る BASE OPERATIONS は、2代目の BASE OPERATIONS だったのでしょうか?


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(つづく)


◆さらに詳しく 「ITAZYKE AIR BASE」 を知りたい方は、以下のHP(米国)が参考となります。
 
  http://www.itazuke.org/
  http://www.itazuke.org/af801.html


(つづく)

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