炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 三池炭鉱専用鉄道敷跡

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▲煉瓦アーチ・セメント・石積みの三様を見せるトンネル

撮影日:2009 7.20
撮影地:三池港 

消えるサンデン奥の人道トンネル (2) 築堤跡を歩く その1

人道トンネルをしばし眺めた後、かつての三池炭鉱専用鉄道の築堤跡を歩いてみました。

夏草が繁茂するこの季節は、築堤跡には寄りつきがたいものがありますが、今回ばかりは様子が違っていました。
道路工事の測量のためか、夏草や木々が取り払われ、築堤跡がすっきりと見渡せます。

廃線後も幾度も訪れたこの築堤跡ですが、このような姿にてお目にかかることは初めてです。
まずはトンネル脇から、四ツ山方面を眺めてみましょう。


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▲トンネル脇から四ツ山方面の築堤を眺める

きれいに右カーブした築堤が美しく連なります。
(右手は、九州サンボディーの敷地となっています)

次は、築堤に登ってみましょう。
築堤上も見事に夏草や木々が取り払われ、一部にはバラストが残っている状態です。
サンデン横から、四ツ山方面を望みます。


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▲サンデン横の築堤跡から四ツ山方面を望む

かつては複線の線路が敷かれていたこの場所、
万田坑などから、炭車に石炭を満載した列車がひっきりなしに往来したであろう・・・

しばしの時間、往時の築堤上の姿に思いを馳せます。

ところで・・・
“四ツ山” は、本当は“五ッ山” (?_?)


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▲サンデン横の築堤跡から三川坑方面を望む

今度は、同じくサンデン横から旧三川坑方面を望みます。
かつての貯炭トンネル・貯炭桟橋、そして三池港駅へと伸びていた築堤がつづきます。

次回は、この築堤跡を旧三川坑へと歩みを進めることといたしましょう。




(つづく)



PS 築堤を写した昔の絵葉書が手元にありますので、ちょっとのぞいてみましょうか・・・


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▲四ツ山から見た専用鉄道の築堤と四山発電所(大正期頃)
  *クリックしていただくと、拡大してご覧になれます

ご覧のように、四ツ山から眺めた専用鉄道と四ツ山発電所に三池港ドッグの様子です。

4本煙突の四ツ山発電所のすぐ手前、現在のサンデン(旧三川電鉄変電所)が確認できます。
築堤上の本線には、20両の炭車を牽引した列車が貯炭場に向け進行中。
港ではダンクロが稼働中、その手前にかつての港務所社屋と税関(写真 左上端)が見て取れます。

ところで、話題の人道トンネルを捜してみましょう。
サンデン(旧三川電鉄変電所)横の港側築堤に、わずかですが三角状のコンクリート壁が見えるように思えます。トンネル自体は隠れていて見えませんが、トンネルを抜けて出た人道が築堤を少し下っているのが見て取れます。
(貯炭トンネルに通じるこの地点は、現在よりも地面が低かったと思われる ⇒ 築堤が現在よりも高く見える理由もそれに同じ)
この先は、貯炭トンネルや船積ピットに通じる幾筋かの線路を渡って港務所前につながると思いますが、この絵葉書からはよく判別できません。



さて、5線あった貯炭トンネルに桟橋、緩やかにカーブを描く築堤・・・
かつてのこのような風景も、歴史上のものとなって忘れ去られていくのでしょうね。


築堤上の列車が走るあたりに、新しく有明海沿岸道路の三池港インターが建設される予定です。

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▲サンデン付近から、三川坑方面の築堤を望む

撮影日:2009 7.20
撮影地:三池港 

消えるサンデン奥の人道トンネル (3) 築堤跡を歩く その2

人道トンネルをしばし眺めた後、かつての三池炭鉱専用鉄道の築堤跡を歩いてみました。

3回目の今回は、サンデン近くから三川坑方面に向かって、露わにになった築堤を歩いてみましょう。

TOPの写真は、サンデン近くから三川坑方面を望んだ写真です。
写真の左側低地は、かつて5本の「貯炭トンネル」が存在していた場所です。
今は、まったくその面影を見ることはできません。

さらに、歩みを進めましょう。

TOPの写真にも写っていた、旧三井化学の工場遺構先まで築堤を進んできました。
振り返って、四ツ山方面を眺めてみましょう。

四ツ山の山並みと、発電所の煙突が印象的ですね。
この写真の先はというと・・・

一本目の高架貯炭桟橋の分岐点となります。
築堤から高架桟橋への煉瓦橋台の遺構が美しい形で残っています。



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▲旧三井化学工場の遺構を過ぎたあたりから、四ツ山方面を望む


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▲一本目の高架貯炭桟橋がここから分岐していた


一本目の高架貯炭桟橋分岐点近くの東側を望むと、一段低くなった三池港駅行きの線路敷跡を見ることができます。
築堤から、この線路敷きに降りてみると・・・

いまだしっかりとした貯炭桟橋線の石垣を見るとができました。
ここからは、三池港駅に向け緩やかな下り勾配となっています。

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▲一本目の高架貯炭桟橋分岐点近くの東側を望むと、一段低い三池港駅行きの線路敷跡が見える


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▲三池港駅行きの線路敷跡に降りて、三池港駅(三川坑)方面を望む


ここからさらに築堤を進み行くと、二・三本目の高架貯炭桟橋の分岐点に至ります。
次の写真は、二本目の高架貯炭桟橋から見た分岐点です。

この場所は、道路工事とは関係ないのでしょう・・・
草刈りはされることなく、木々も繁茂ている状態でした。
かつての高架線にいたる、草茫々の細い築堤跡に足を踏み入れました。

その先端から、今は何もない三池港駅やホッパーがあったヤード跡地を望みます。
折れ曲がった築堤端の手摺跡が、オブジェのようにして残っています。


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▲三川坑方面から、二・三本目の高架貯炭桟橋の分岐点を望む


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▲二本目の高架貯炭桟橋の現存する最先端部から、旧専用鉄道三池港ヤード方面を望む


最後に、築堤のつづきである三本目の高架貯炭桟橋の跡を見てみましょう。

ここにも、煉瓦遺構が残っています。
煉瓦の上部は、花崗岩の石組みがなされていて、丈夫につくられていたことが偲ばれます。

折れ曲がった鉄柵は、廃止された後に設置された防護柵と思われます。



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▲築堤のつづきである、三本目の高架貯炭桟橋の煉瓦橋台最先端部


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▲二・三本目の高架貯炭桟橋線の分岐先端部を望む  写真手前部分に道路ができる予定



(おわり)

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▲草生す 旧三池鉄道 西原駅

撮影日:2009 8.17
撮影地:熊本県荒尾市四ツ山 

真夏の四ツ山界隈散歩 その2

真夏の日に、福岡・熊本両県の県境の街を歩いてみました・・・つづきです。

県境の街並みを散策して、かつての三池炭鉱専用鉄道の西原駅跡にやってきました。
ご覧のように、真夏のこの時期は草々が繁茂し、まるでこんもりした緑の絨毯状態です(@_@)

かろうじて、駅のホームに至る通路入り口付近だけは、往時のよすがが偲べる状況です。
ホームへの階段や手摺が、昔のままに残っています。
かつては、万田や平井方面の社宅からの買い物客で賑わっていた、ここ西原駅。

今は、つわものどもが夢の跡・・・

駅入り口近く、大きなバルブがオブジェのように佇んでいます。
この町が、かつては炭鉱で栄えていたことの証であるかのように・・・

鉄道は消えて無くなってしまいましたが、いまもここを生きたパイプラインが通っています。
そして、鉄道敷き上に連なるあの鉄塔も昔のままです。

次は、四ツ山駅方面に廃線跡を辿ってみることにしましょうか。


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▲西原駅 その2 ~ホームはずれから四ツ山を望む~'



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▲西原駅 その3 ~線路敷き跡のパイプラインと鉄塔~


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▲西原駅 その4 ~西原駅への入り口付近~


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▲西原駅 その5 ~原万田方面行きホームの階段~'''


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▲西原駅 その6 ~上下線のホームを望む~


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▲西原駅 その7 ~駅入り口横のパイプラインバルブ~'''


西原駅から、かつての四ツ山登山道入り口近くの踏切跡を過ぎ、旧四ツ山駅付近にやってきました。
この付近の線路敷きは、コンクリート枕木がいまも残されたままとなっています。
しばらく歩みをすすめると、懐かしい光景にいくつか会うことができました。

一つだけのこる架線、昔の光景が脳裏を横切りました。
⇒昔の光景 http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/9511118.html

ふみきり表示のある鉄柱
草むらにひっそり佇む「リバー」のロットを支えていた鉄の部品


しばし、旧四ツ山駅にて昔の痕跡を捜し求めた管理人でした。



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▲旧四ツ山駅付近の鉄道敷き跡 その1 ~コンクリート枕木が残る廃線跡


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▲旧四ツ山駅付近の鉄道敷き跡 その2 ~駅に至る踏切跡~


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▲旧四ツ山駅付近の鉄道敷き跡 その3 ~今も残る傾いた架線柱~


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▲旧四ツ山駅付近の鉄道敷き跡 その4 ~ポイント切り替えの「リバー」跡~



(つづく)

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     ▲三池鉄道 旧玉名支線 宮内駅ホームにて

今日は午後からちょいと大牟田へ ・・・


晴天がつづいた3連休の最終日・・・
午後から用事があって大牟田に出かけました(^_-)

高速を飛ばして、12時過ぎに到着した管理人。
まずは、定番の三池港へとまいります。

三池港の船渠(ドッグ)背後にある、旧専用鉄道の築堤がずいぶん壊されているのを確認した後、
久しぶりに玉名支線(緑ヶ丘支線)の宮内駅を訪ねました。

しっかりとした石組みのホームは健在で、しばしグリーンランド方面の廃線跡を眺めながら、ひとしきり35年前の光景に思いを馳せます・・・。

現役時代からある、土管を利用した灰皿(ゴミ箱?)が、
今もぽつんと、昔の姿のままホームに佇んでいました。



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撮影日:2009.9
撮影地:三池港

かねてよりお知らせしていた、三池港近辺での有明海沿岸道路の工事が進行しています。

サンデンの人道トンネルは、今だ健在ですが、
かつての三池炭鉱専用鉄道の築堤跡は、次第にその姿を変えつつあります(*_*)

明治以来、三池港に石炭を運ぶために、また戦後は三川坑への通勤列車のため使用されてきた築堤が、その姿を消そうとしています。
かつての鉄道敷が、自動車専用の道路と化す日が迫っているのです。

三池港の発展のためには、有明海沿岸道路(通称:まこと道路!?)は必要でしょう。
大川の家具輸出港などとして、新たな顧客開拓の期待もできます。
しかし、できるだけ、明治以来の近代化遺産としての鉄道築堤跡の保存との両立を考慮してもらいたいものです。

かつて、石炭列車が行きかった築堤上にあるショベルカーを見るにつけ、
一抹の寂しさを感じる管理人でした・・・

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▲サンデン奥の人道トンネル入り口

撮影日:2009 11.3
撮影地:三池港 

最後の見納め ~三池港の人道トンネル~


以前にも報告していました、サンデン奥の人道トンネル、
その後の様子が気になっていましたが・・・

この日、何とかサンデン側の入り口は健在でした。
しかし、ご覧の通り入り口のすぐ上部には重機が入り、すでに煉瓦トンネルを覆っていた築堤が取り払われた状態でした。
三池港のドッグ側から見ると、その様子がよく分かります。
半円形の煉瓦トンネルがむき出しになっていました。

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▲ドック側から見た人道トンネル

サンデンの社長さんに聞くと・・・
明日には解体されてしまう予定とのこと(*_*)
最後の姿をカメラに納めたのでした。

それにしても、かつての三池港にあった専用鉄道の築堤は見るも無惨な状況です。
人道トンネルもそうですが、実は3つあった高架桟橋の煉瓦橋台の内の2つが解体予定です。

解体寸前の第一高架桟橋の煉瓦橋台を写真に納めました。
この煉瓦橋台はとても美しいもので、かつて『三池煉瓦紀行』の中でも取り上げていました。


先にも述べたように、世界遺産登録に向けて、鉄道敷き跡と三池港が新たにリスト入りすることが決定した矢先に、このように解体されるのは何とも皮肉な事態です。
何だか、リスト入りをあざ笑うかのように思えてきます。

唯一残った、第二高架桟橋の橋台は必ず保存していかねばなりません。



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▲解体寸前の第一高架桟橋煉瓦橋台



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▲18.三池港 高架貯炭桟橋の煉瓦橋台 その3

撮影日:2009年 7月20日
撮影地:三池港 

完成以来100年の歳月を重ねる三池港・・・

その三池港の石炭積み出し用に建設された高架貯炭桟橋

かつての貯炭トンネルの先、3線の貯炭桟橋があった



この煉瓦遺構、3線あった高架桟橋のうち

一番東側にあったもの


有明海沿岸道路の延伸にともない、

人知れず取り壊され、今はその姿を見ることができなくなってしまった



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▲今月(12月)の一枚 : とぎれた線路 
撮影日:2009年11月 3日
撮影地:旧早鐘踏切



     

     

           

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▲21.勝立線の橋台遺構

撮影日:2007年 9月 1日
撮影地:大牟田市 勝立 

最も人目につくことなく
何も語らず静かに佇む煉瓦遺構がここにある

旧勝立線の小さな鉄橋の橋台遺構・・・

細い小川の、夏草の繁茂する中
今では嵩上げされた地上に埋もれるように
その煉瓦遺構はある

おそらく、七浦の工場敷地に残る勝立線の遺構以外では
この煉瓦遺構が、勝立線 唯一の線路のよすがであろう

かつての勝立坑開鑿の苦労とともに
この線路敷きの歩みもあったのであろうか・・・


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▲22.浜本線 浜町の橋台遺構

撮影日:2010年 3月19日
撮影地:大牟田市浜町 

七浦坑から横須浜の龍宮閣を結んだ最初の蒸気鉄道・・・
ここは、三池炭鉱専用鉄道の最も古い煉瓦遺構の一つである

今では、鉄橋部分が取り外され、煉瓦橋台が残るのみである

その煉瓦橋台部の上部を見ると
そこには、御影石(花崗岩)が四個張り付いている

二対ある御影石の間隔はかなり狭い
二条の線路が走る鉄橋(最初は木橋か?)が架けられていたであろうこの部分


ちょうどこの手前の築堤上にて、第一桟橋と第二桟橋に向けて分岐していたと思われる


閉山時には、嵩上げされた部分に鉄橋が一つ架かっていたこのガード

煉瓦と四個の御影石に、遥か明治時代の専用鉄道の面影を見る



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