炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 地図にみる三池鉄道

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▲延命公園  *写真をクリックしていただくと大画面にてご覧になれます
 


  鳥の目で見た炭都大牟田 ◇石炭館所蔵の航空写真を巡る その7

 
鳥の目で見た炭都大牟田シリーズその7は、延命公園です(*^_^*)  
 
写真中央のこんもりした山塊が延命公園です。写真右下の野球場が、旧延命球場。この地には現在市民体育館が建っていますが、1957年に市制40周年を記念して開催された『大牟田産業科学大博覧会』の会場となった場所ですね。お分かりのように、新延命球場は、旧球場の東側、大牟田南高校の北側に移転して現在に至っています。
また延命公園の南西部、延命中学校の東側には動物園があります(写真右上)。この動物園は、1941年にわが国第14番目の動物園として開設された歴史ある動物園です。この写真当時は入園無料だったようですが、『大牟田産業科学大博覧会』の開催に合わせて整備され、名称も「大牟田市動物園」として有料化されたとのこと。
この他、大南の南側にある記念グラウンドも目にとまります。この記念グラウンドは、1929年に完成したもので、当時としては九州3番目の本格的な公式陸上競技場として貴重なグラウンドであったようです。
 
 
◆大牟田市役所主査・主任会編 「大牟田の宝もの100選」 を参考にして記述しました。

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▲臼井社宅と野添社宅  *写真をクリックしていただくと大画面にてご覧になれます
 


  鳥の目で見た炭都大牟田 ◇石炭館所蔵の航空写真を巡る その8

 
鳥の目で見た炭都大牟田シリーズその8は、臼井社宅と野添社宅です(*^_^*)  
写真右上の光った部分の場所が、現在の宮原坑見学のための駐車場で、かつての三井(東圧)化学米生社宅です。また、写真右下の学校が米生中学校。
 
米生社宅南角から臼井社宅への坂道を下るところに、井上商店がありました。
坂道を下ったところが臼井社宅。
写真右上が臼井新町1丁目、通りをはさんで写真中央が臼井新町2丁目、さらにその左側が野添社宅です。
 
臼井新町1丁目と2丁目を分ける通りには、1丁目側に浴場・売店、2丁目側には社宅事務所や保育園・診療所・郵便局などが連なっていました。
現在、この旧臼井社宅の臼井新町1丁目には、荒尾市水道局と大牟田市企業局が共同で建設した「ありあけ浄水場」があります。それ以外の社宅用地のほとんどは荒れ地と化しています。
 
昭和35年10月1日現在の「町別世帯数人口および戸数一覧」によると・・・
臼井新町1丁目 世帯数234 人口1191 戸数243
臼井新町2丁目 世帯数321 人口1566 戸数344
野添町       世帯数366 人口1792 戸数380
 

 
 
▼臼井社宅、野添社宅地図リンクはこちら 「異風者からの通信」より↓↓↓
①臼井社宅 昭和56年 http://hasiru.net/~maekawa/map/usui.html
②野添社宅 昭和56年 http://hasiru.net/~maekawa/map/nozoe.html

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▲三川坑  *写真をクリックしていただくと大画面にてご覧になれます
 

  鳥の目で見た炭都大牟田 ◇石炭館所蔵の航空写真を巡る その9

 
鳥の目で見た炭都大牟田シリーズその9は~
 
三川坑・・・
 
今年は、炭じん爆発事故から49年目の年に当たります。
管理人の祖父の50回忌です。
 
この様な節目の年に、11/3の大牟田市の近代化遺産一斉公開に合わせて、三川坑が閉山後初めて一般に公開されます↓↓↓
 
 
①大牟田市長 定例会見 10/5 
②西日本新聞記事 10/6 
 
11/3には、亡き祖父の50回忌のお参りもかねて、ぜひ三川坑の坑口に立ちたいと思っています。
 
 
さて、久々のこのシリーズ~
写真中央に、やや斜めに走る2本の線が2つあった斜坑。右側が第一斜坑、左側が第二斜坑。2つの斜坑にはさまれたところに山の神と圧搾機室があります。写真右上が選炭場、そして左下方が港倶楽部、右下を斜めに横切るのは諏訪川です。
三井港倶楽部左上の正門を入ると、左手の建物が第二脱衣所・浴場・第一脱衣場、そして安全灯室。通路向かって右手に鉱長室と事務室、係員詰め所、繰込場等がありました。
写真左上に規則正しく並んだ建物群は、炭車修理場、カッター修理場、電気修理場、ベルト修理場、鍛冶場などです。また、これらの建物群の上方に、通勤電車のホームがありました。
 
これらの建物群の多くは解体されてしましたが、コンクリートで塞がれた坑口や繰込場、巻揚機などは現存しています。繰込場の屋根が一部落ちるなど、閉山後に放置され十分な保存もされてこなかっため危険な箇所もあり、今回の公開ではこれらの現存する建物に立ち入ることは出来ません。
 
市長会見では、市としても三川坑の保存・活用を考えているとのことですので、今後の展開が非常に気になるところです。
 

 
(つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 

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▲大牟田駅  *写真をクリックしていただくと大画面にてご覧になれます
 

  鳥の目で見た炭都大牟田 ◇石炭館所蔵の航空写真を巡る その10

 
鳥の目で見た炭都大牟田シリーズその10は~
大牟田駅・・・
 
写真中央を南北に走るのが国道208号線。
そして、中央には国鉄大牟田駅前(表駅)ロータリー。線路上は、多くの貨車で賑わっている様子がうかがえます。
跨線橋を渡った反対側が、西鉄大牟田駅(裏駅)
この頃は、まだ駅前も整備がなされていないように見えます。
 
写真中央の下に大牟田市役所、その左側に笹林公園と笹林小学校が見えます。
写真中央の上部、現在は大牟田文化会館が建つ場所には不知火小学校も見えます。現在は、不知火小学校と笹林小学校が合併して、笹林小学校跡地に大牟田小学校となってしまいました。
 
さらに写真左上部には、三井鉱山三池鉱業所本所があります。
ここも、現在では大牟田市立病院と姿を変えています。
 
今も変わらないのは、写真に写し出されている道路でしょうか。
鉄道とともに南北に走る国道208号が大きな幹とすると、そこから枝を生やしたように東西にのびる道路、また208号と平行して走る数本の道路・・・
写真中央上部、大牟田駅の先の208号から右に分岐していく旧市電の線路敷き跡の道路・・・
 
 
戦前生まれの市役所庁舎が、街の変遷を見守ってきたことでしょう。
 

 
 
(つづく)

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▲万田坑  *写真をクリックしていただくと大画面にてご覧になれます
 

  鳥の目で見た炭都大牟田 ◇石炭館所蔵の航空写真を巡る その11

 
鳥の目で見た炭都大牟田シリーズその11は~
万田坑・・・
 
写真上部を斜めに走るのが専用鉄道。
写真右側、鉄道が万田坑へ分岐しているところが桜町のガード。このガードのさらに右側が、通勤列車のホームがあった万田駅となります。
さて、写真中央の三角形の土地が万田坑。この時点(昭和31年頃)では、現在とほぼ同じような施設の残存状態にあるようです。かつての専用鉄道は、万田山(袴岳)の採土線を含め、万田坑を取り囲むようにしてデルタ線を形成していました。この写真からは、この万田坑を取り囲むようにして敷設された線路敷きが読み取れます。
 
万田坑の周りに目を移してみましょう。
まずは、万田坑の旧大浴場・脱衣所跡の空き地前に、鉱山学校の校舎や桜寮の建物4練が目につきます。鉱山学校のすぐ横(写真左側)には、建築課に万田分院、そして売店がありました。鉱山学校のすぐ東側(写真下側)の社宅街は、万町に通町。万田売店の南側(写真左側)に、土手町や職員住宅の一部が見えます。
さらに写真左上に目を移すと、西町の社宅街の一部が写っています。
 
写真のほぼ中央で区切って、万田坑の一部を含めた右側が大牟田市、左側が荒尾市となります。
 

 
(つづく)
 
 

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▲U.S.Army Map Service Japan City Plans   1/12,500  “OMUTA”  1945 (一部) 

所蔵:テキサス大学図書館  同デジタルアーカイブより 
*地図の右下をクリックすると拡大した地図がご覧いただけます。

三池の鉄道探索(NO.1) 不思議のナロー◆1945.AMSの地図 “OMUTA”◆  

ずいぶん前に(2010年2月でした・・・)シリーズその1をUPしておきながら、5年間も放置したままでしたm(_ _)m

ここに、久々にしてAMS(米国陸軍地図局)作製の地図をもとにして、三池の鉄道探索に出かけたいと思います。ここでは、「三池の鉄道」と称していますからには、三池炭鉱の専用鉄道に限ったことではありません。実は、大牟田は狭い範囲に多種の鉄道が走っていました。もちろん、炭鉱関連の鉄道網が中心ですが、それ以外にも当時の国鉄、西鉄の幹線はもとより、短いながらも市内電車の路線もありました。軌間もナローから標準軌まで様々です。いわば、隠れた“鉄道王国”であったわけです。AMSの地図には、1945年当時の大牟田市街が詳細に記録されいます。鉄道もしかりで、さすがに炭鉱の坑外軌道までは記載されていませんが、三池炭鉱の専用鉄道路線については、本線をはじめ、ヤードや引き込み線にいたるまでの記載は詳細を極めています。

さて、前置きはこれくらいにして、早速AMS“OMUTA”の地図上鉄道路線の旅に出るとしましょう。で~、最初から超マイナーな軌道が話題です。

■題して“不思議のナロー”でございます。

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TOPの地図をまずはご覧下さいませ~
この部分は、AMS“OMUTA”の右上付近を切り取ったものです。周りの地名や川などから、現在ではどの部分かお分かりでしょうか。
話題の“不思議のナロー”は・・・SHIRAKAWAという地名の南側にひしゃくの様な軌道敷きを描いています。地図の凡例では、この軌道敷きの表記は「Narrow gauge or light , single track」となっています。単線ナローの軽軌道というわけです。そして、よく見るとひしゃくの様な軌道とは別に、短い軌道がありますね。さて、これらの軌道はいったい何でしょうか?
この時点で予想ができる方は、三池炭鉱についてかなり詳しい方、もしくは地元にお住まいで、この時代のことを知る方でしょう。
ヒントは、以下の現在のこの軌道があった場所付近の写真にあります。それでは、写真をどうぞ~


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この写真は、地図上のSHIRAKAWAのWA表記があるところ付近から、東側(地図の右側)方面を撮影したものです。写真右奥に三池山のシルエットが見えますね。問題は、写真中央に写っている池です。この池の正体が分かる方は、“不思議のナロー”の正体に大いに近づけます。

池の正体は・・・かつての露天掘の跡です。管理人などは、この池のそばを通る度に 「ここはかつて露天掘跡だよ」 と祖父などから聞かされたものです。この露天掘については、石川 保さんの『大牟田の地名』(平成11年7月1日発行)中の「大字白川(しらかわ)」の項に、以下のような記述があります。


 大字白川の中に露天掘跡がある。露天掘は、昭和17年8月より採炭を開始し、同22年7月に中止しました。出炭量は、昭和17年~20年で92,294トン、21年が20,801トン、22年が250トンでした。昭和16年の太平洋戦争突入後、「戦時非常石炭増産運動」の一環として露天掘の採炭が開始されたのです。                      『大牟田の地名』 P119より引用


戦時中の燃料不足を補うことから、このような露天掘りが行われたのですね。そこで考えられる“不思議のナロー”の正体とは~「露天掘の石炭運搬用軌道」ということです。この露天掘は、地図では茶色の点線のくねったケバ表記で示されています。ちょうどひしゃくの柄(え)部分の下になります。ナローの軌道は、露天掘に沿って敷設されていたのでしょうかね?この地図では、地形は簡素にしか描かれていませんので詳細は不明です。ただ、露天掘部分の北東側の丘(緑部分、近くの細い点線で示された道が露天掘の縁にあたるような感じがします)と、堂面川(北側から南側に河川の流路が変更になっています)を越えてひしゃく部分へと軌道が延びていることが読み取れます。おそらく、長い路線が石炭の運搬軌道で、ひしゃく部分の先端あたりに貯炭場があったのではないかと想像できます。その証拠とまでは断定できませんが、ひしゃく先端部のすぐ東側(右側)に、小山の表記がありますが、ここが貯炭場かな・・・。もう一つ、短い軌道が旧堂面川の河道脇にありますが、これは資材運搬のための軌道? などと、勝手に想像を巡らしましたが、その詳細はまったく以て不明です。さて、ここで先ほど紹介した『大牟田の地名』に、実はこの軌道に関する記述があります! そこには、地図からは読めなかった意外なことが記されています。

 露天掘で掘り出された石炭は、水が流れていない長溝川の底に敷いてあるトロッコの線路を使って、長溝川踏切(白光中学校前の踏切)の少し北にできた選炭場に運ばれてました。このトロッコ押しには、朝鮮人労働者や動員学徒が働かされました。ここで選炭された石炭は、三池鉄道で大牟田駅へ運ばれました。                   『大牟田の地名』 P119より引用


「水が流れていない長溝川の底に敷いてあるトロッコの線路」にもちろん注目ですね。実は、かつてひしゃくの底の部分にそった道にあたりに長溝川が流れていました。その痕跡は、この地図にても読み取ることができます。ひしゃくの底に沿った道をそのまま西側(左側)にたどってみて下さい。ほら、途中でクロスする道路に橋の記号が二ヶ所出てきますね。橋の下を通るこの道は、明らかに長溝川の河川敷跡と思われます。ということは、この道に手押しトロッコ軌道があった!そして、この旧長溝川が鹿児島本線とクロスしたあたりに選炭場があったということですから、今もある三池鉄道(現在は、正式には三井化学専用鉄道。地図にも鹿児島本線から斜めに伸びる線路が描かれている)の仮屋川操車場から炭車に載せて大牟田駅に石炭を運んだのかな?

露天掘と“不思議のナロー”に関する興味は尽きませんね。手押しトロッコ軌道はあったとして、地図にあるナローの軌道も手押しだったのか?それとも機関車がいたのか?などなど、なぞは深まるばかりなり・・・。

この“不思議のナロー”に関する探索はここまでとして、これまで読んで下さった方々で、この軌道について何か情報をお持ちの方がありましたら管理人までお知らせ下さいませ。
これにて、AMSの地図 “OMUTA”における三池の鉄道探索(NO.2) “不思議のナロー”はお終い~。




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   ▲堂面川旧河道の痕跡・・・





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▲U.S.Army Map Service Japan City Plans   1/12,500  “OMUTA”  1945 (一部) 

所蔵:テキサス大学図書館  同デジタルアーカイブより 


三池の鉄道探索(NO.2) 大牟田は隠れた鉄道王国                 ◆1945.AMSの地図 “OMUTA”◆  

またまたお久しぶりのシリーズ更新でございますm(_ _)m
前回からはじめた「三池の鉄道探索」シリーズ第二弾は~
題して “大牟田は隠れた鉄道王国” なり(^O^)

早速、TOPの地図をご覧いただきましょう。
ASAHICHO(正しくはASAHIMACHI:旭町)表記周りのごく狭い地域を切り取ったものですが、ご覧のようにこの狭い地域に多数の線路が交錯しております!(^^)!
まずは、一つひとつの路線を確認していきましょう。
最初は、本ブログの主役路線から・・・

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①三池炭鉱専用鉄道 浜線
ASAHICHO表記の下を東西に走る路線は、1067㎜の単線軌道で、そのルーツは1891(明治24)年に開通した三池炭鉱初の蒸気鉄道にあります。市街地を横切るこの路線、地図では分かりにくいですが盛土の高架鉄道で、ASAHICHO表記の直ぐ下で2つの鉄道を、その西側で2カ所道路を橋脚でまたぎながら伸びていることが読み取れます。ちなみに、当時すでに電化されていました。

②三池炭鉱専用鉄道 旭町線
①の三池炭鉱専用鉄道の本線である浜線から分岐して、ASAHICHOを斜めにかすめながら伸びる単線軌道は旭町線、1897(明治30)年開通です。分岐点は、大牟田川を渡った地点で、分岐前のMitsui Zinc Refinery(三井亜鉛精練所)脇の表記は複線になっています。それから、この路線は③で述べる国鉄鹿児島本線に乗り入れていますが、しばらくして北西に分岐した単線軌道が見て取れます。この分岐した路線は、正確には1927(昭和2)年に開通した仮屋川充填線(後の仮屋川操車場)で、石炭採掘後に坑内に生じた空間を詰めふさぐための土砂を運ぶ路線として開通しました。また、さらによく見ると・・・旭町線が国鉄線と合流する地点の直ぐ手前、ASAHICHO表記に向けて短い単線軌道が延びていることに気づきます。この短い路線は、三池共愛購買組合売店への引き込み線です。

③日本国有鉄道 鹿児島本線
ASAHICHOを南北に縦断する路線は1067㎜の複線軌道で、当時の国鉄鹿児島本線です。そのルーツは、1891(明治24)年4月、①の路線開通の半年前に九州鉄道(当時)が久留米~高瀬間を開通させたことにあります。②の路線は、三池炭鉱専用鉄道とこの鹿児島本線を結ぶ連絡線でした。ちなみに、九州鉄道が国有化されたのは、1907(明治40)年のことでした。

④西日本鉄道 大牟田市内線
③の国鉄鹿児島本線に併行してASAHICHOにいたる路面電車の路線~ちょっと分かりづらいですが、ASAHICHO表記の北で東に曲がり、僅かに②の路線をまたいでいる?!~は、1435㎜の単線軌道である西日本鉄道大牟田市内線です。そのルーツは、1927(昭和2)年に開業した大牟田電気軌道。②で紹介した三池共愛購買組合売店前の旭町停留所から四ツ山停留所までを単線で結んでいました。ちなみに、西日本鉄道となったのは1942(昭和17)年。正確には大牟田電気軌道は昭和16年に九州鉄道(当時、③の前身である九州鉄道とは別会社)に吸収合併されたのち、翌昭和17年、九州鉄道は九州電気軌道に吸収合併、同時に九州電気軌道は西日本鉄道と社名変更しています。
                       
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何か足りない(?_?)
左様、西鉄大牟田線が描かれていない(@_@)

これはいったいどうしたことか・・・
1938(昭和13)年、西鉄の前身である当時の九州鉄道が中島~栄町間を開業したのち、翌1939(昭和14)年に大牟田駅まで延長。もちろん、この地図が描かれた当時は大牟田駅まで1435㎜の軌道があったはず(^O^)
なのに描かれなかったわけは・・・
その理由は不明でございます<(_ _)>
かくして、⑤番目の軌道を解説すべき所ですが、地図に描かれていませんのでこの程度でお開きにいたしましょう。

さてさて、約1㎞四方の狭い地域の地図を持ち出しましたが、それにしても大牟田の鉄密度は高こうございます!(^^)!
地方都市にして、産業都市、炭鉱の街として栄えた大牟田の片鱗を見た思いがいたします。

それにしてもすごい!(^^)!
“大牟田は隠れた鉄道王国” なのでありました。




▼ おまけです~電車道の真ん中、大牟田川に架かる五月橋のすぐ南から北側を望んだ絵葉書。左側の三池銀行の前では、電車が離合できるようになっていたのですね。写真奥には、三池鉄道の浜線ガードが見えます。ちょうどガードの上に煙突らしきものが見てとれます。そこいらが売店でしょうか?

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