今回は、いつもの地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』大正9年4月発行)の3年前(大正6年10月)に発行された同名の地図からはじめることとしましょう。
この地図、大正9年版と比べると大牟田港まわりの鉄道標記についての違いは見いだすことはできませんが、一部地名の変更や干拓地の広がりがあったことが分かります。
注目すべき変更点は、大牟田港対岸の地名が「須鼻」(すのはな)とあることでしょう。
(大正9年版は「北浜田町・本浜田町」という標記になっています。「須鼻」の地名は、前回述べた「須ノ鼻水門」という呼び名と合致します)
この地図、大正9年版と比べると大牟田港まわりの鉄道標記についての違いは見いだすことはできませんが、一部地名の変更や干拓地の広がりがあったことが分かります。
注目すべき変更点は、大牟田港対岸の地名が「須鼻」(すのはな)とあることでしょう。
(大正9年版は「北浜田町・本浜田町」という標記になっています。「須鼻」の地名は、前回述べた「須ノ鼻水門」という呼び名と合致します)
さて、新旧地図の分析はさておいて、元祖 石炭積出港についての考察 その5 にすすみましょう。
前回まで、「三池炭礦社」の石炭増産による輸送強化策として「横須浜船渠の築造と大牟田川の浚渫」を中心に考察してきました。そして今回は・・・いよいよわが三池炭鉱専用鉄道の誕生である「馬車鉄道の汽車化」と横須浜船積場についての考察を試みます。
まずは、わが三池炭鉱専用鉄道よりほんの一足先に開通した九州鉄道(注1)からお送りしましょう。
◆注1 1891(明治24)年 4月 1日 久留米~高瀬(玉名)が開通 同日 大牟田駅開業
◆注1 1891(明治24)年 4月 1日 久留米~高瀬(玉名)が開通 同日 大牟田駅開業
『此辺平郊 大牟田港の帆檣林立の状 及ひ 紡績会社の竈突高く聳えて眼に入り 其盛況を知るに足る』
岡部啓五郎 『九州鉄道旅客便覧』 1893(明治26)年8月発行より
岡部啓五郎 『九州鉄道旅客便覧』 1893(明治26)年8月発行より
渡瀬停車場を出た列車が、現在の銀水駅を過ぎた頃でしょう・・・この便覧に上記の案内記述が見られます。線路脇の紡績工場よりは少し遠方にあった大牟田港に、帆檣(はんしょう-帆柱)が林立している様が車窓から見渡せたのでしょう。
明治26年といえば九州鉄道が開通して2年後、そしてこの九州鉄道開通から7ヶ月後の明治24年11月3日、わが三池炭鉱専用鉄道の試運転列車が走ったのでした。(注2)
明治26年といえば九州鉄道が開通して2年後、そしてこの九州鉄道開通から7ヶ月後の明治24年11月3日、わが三池炭鉱専用鉄道の試運転列車が走ったのでした。(注2)
◆注2 以後の論考の大部分は、三井鉱山編 『三井鉱山五十年史 稿』 巻十九 輸送及販売(一)による
この三池炭鉱初の汽車鉄道について、その施設の概要を見てみましょう。
一.工費予算 一二八.0二九円
二.線路幅員 一四呎(注3)
三.軌條 従来の軌間二呎六吋をアルウィン氏の考案により台框を広め、三呎六吋ゲージとす。(注4) 鉄條は、英国製鋼鉄平底丁形、一碼の重量三四封
四.機関車 米国フィラデルフィヤ ボールドウィン商会製タンクエンジン二台(注5)
引行力五四五屯 平常は四屯炭車一0両牽引、一昼夜約三十八回往復
五.停車場 七浦坑、宮浦坑、横須新埋築地の三ヶ所
二.線路幅員 一四呎(注3)
三.軌條 従来の軌間二呎六吋をアルウィン氏の考案により台框を広め、三呎六吋ゲージとす。(注4) 鉄條は、英国製鋼鉄平底丁形、一碼の重量三四封
四.機関車 米国フィラデルフィヤ ボールドウィン商会製タンクエンジン二台(注5)
引行力五四五屯 平常は四屯炭車一0両牽引、一昼夜約三十八回往復
五.停車場 七浦坑、宮浦坑、横須新埋築地の三ヶ所
◆注3 呎はフィート、吋はインチ、碼はヤード、封はポンドの意
◆注4 この記述は、後述する英国シャープステワート会社製の蒸気機関車の改軌の件と考えられる。
ただ、釜石鉱山鉄道の軌間は838mm(2フィート9インチ)の特殊なものであったことから、この記述の六吋は九吋の間違いと思われる。
ただ、釜石鉱山鉄道の軌間は838mm(2フィート9インチ)の特殊なものであったことから、この記述の六吋は九吋の間違いと思われる。
◆注5 1891(明治24)年3月に2台導入され、団琢磨により“松風・村雨”と命名された。ちなみにこの名は謡曲に因んで命名されたとのこと。
なお、命名については、辻 直孝『三井炭鉱の産業考古学-三池専用鉄道』2001年9月 産業考古学 第101号 の記述を参考にした。 出典は『男爵団琢磨伝 上巻』230貢より
なお、命名については、辻 直孝『三井炭鉱の産業考古学-三池専用鉄道』2001年9月 産業考古学 第101号 の記述を参考にした。 出典は『男爵団琢磨伝 上巻』230貢より
かくして、横須浜船渠の完成に合わせて、軌間1067㎜の専用鉄道が七浦坑~横須浜(地図中の大牟田港)間 単線2.6㎞に開通したのでした。
試運転が行われた11月3日は、当時の天長節。
この日の試運転に立ち会った、東京本部委員(三井物産?)西村虎四郎による益田孝宛の報告によると・・・
試運転が行われた11月3日は、当時の天長節。
この日の試運転に立ち会った、東京本部委員(三井物産?)西村虎四郎による益田孝宛の報告によると・・・
〈前略〉 米国より買入れたる機関車も割合に曳力強く構造も頗る堅牢にして工合最も宜しく、九鉄会社の機関車に比すれば実に雲泥の有之。(注6)
目当方にて製造したる炭車(注7)も頗る堅牢に出来上がり、積移工合申し分無し 〈後略〉
目当方にて製造したる炭車(注7)も頗る堅牢に出来上がり、積移工合申し分無し 〈後略〉
◆注6 九州鉄道の蒸気機関車とは、開業(明治22年)当時に3両輸入されたドイツ・ホーエンツォルレルン社製(国有後 45形)もしくは、 ドイツ・クラウス社製Bタンク(国有後 10形)と思われる。
(『鉄道ジャーナル 特集太陽とみどりの国-九州の鉄路』1973年8月号 を参考にした)
(『鉄道ジャーナル 特集太陽とみどりの国-九州の鉄路』1973年8月号 を参考にした)
◆注7 この時に使用された4t炭車については、炭都の鉄道~炭車略史 その1に詳しい記述がありますので、そちらをご覧下さい。ちなみに、『三井鉱山五十年史 稿』には、「米国ペンシルバニア州炭山用のものに、三池で種々改良を加えたもの」と記載あり。
正確には、蒸気機関車についてはボールドウィン商会製の機関車以前に、1878(明治11)年英国シャープステワート会社製の機関車が官営鉱山時代から在籍していました。この機関車は、1885(明治18)年に釜石鉱山の官営廃止と同時に当時の官営三池炭鉱に移管されたものです。
その後三井の所有となり、専用鉄道開通時にそれまでの軌間二呎九吋(838㎜)から三呎六吋(1067㎜)に改軌して使用されました。(第一号機関車)
この明治11年生まれの機関車、大正9年まで活躍したようですが、1926(大正15)年に休車となっています。
ところが、日中戦争中の輸送非常時であった1940(昭和15)年、大改修を経て復活したとのこと。
ちなみに『三井鉱山五十年史 稿』では、この機関車を「社宝」と伝えています。
その後三井の所有となり、専用鉄道開通時にそれまでの軌間二呎九吋(838㎜)から三呎六吋(1067㎜)に改軌して使用されました。(第一号機関車)
この明治11年生まれの機関車、大正9年まで活躍したようですが、1926(大正15)年に休車となっています。
ところが、日中戦争中の輸送非常時であった1940(昭和15)年、大改修を経て復活したとのこと。
ちなみに『三井鉱山五十年史 稿』では、この機関車を「社宝」と伝えています。
またまた、いつものように前置きばかりが長くて、いっこうに横須浜の船積場に運炭列車が到着致しませぬ(*_*)
それではここで一気に? 明治末期(明治40年頃)の横須浜に話を進めましょう。
次の写真をご覧下さい。
それではここで一気に? 明治末期(明治40年頃)の横須浜に話を進めましょう。
次の写真をご覧下さい。
▲石炭の船積み場と船渠 『目で見る南筑後の100年』 郷土出版社 2001年刊 より
この写真は、西側(大牟田川河口側)から見た横須浜船積場と船渠“龍宮閣”の様子です。
(撮影者不詳 , 撮影時期は、三池港開港前の明治30年代と思われる)
写真に見るように、船渠のすぐ北側に高架の桟橋が築かれていたことが分かります。
この桟橋上に連なって停車中の炭車は、先に述べた4t炭車と思われます。
さてさて、ついに大牟田港に到着しましたが・・・この船積場にあった鉄道関係の施設については、次回の詳しい考察に譲ることといたしましょう。
(撮影者不詳 , 撮影時期は、三池港開港前の明治30年代と思われる)
写真に見るように、船渠のすぐ北側に高架の桟橋が築かれていたことが分かります。
この桟橋上に連なって停車中の炭車は、先に述べた4t炭車と思われます。
さてさて、ついに大牟田港に到着しましたが・・・この船積場にあった鉄道関係の施設については、次回の詳しい考察に譲ることといたしましょう。
今回は、この横須浜を起点(0㎞)として、1891(明治24)年12月にわが三池炭鉱専用鉄道がめでたく開通したことを確認してこの論考を終わります。
(つづく)