炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 地図にみる三池鉄道

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     『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正6年 1/1.6万(一部)

元祖 石炭積出港考察 その5   「汽車鉄道」開通篇

地図から三池炭鉱専用鉄道を探るシリーズ第11回目・・・

今回は、いつもの地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』大正9年4月発行)の3年前(大正6年10月)に発行された同名の地図からはじめることとしましょう。
この地図、大正9年版と比べると大牟田港まわりの鉄道標記についての違いは見いだすことはできませんが、一部地名の変更や干拓地の広がりがあったことが分かります。
注目すべき変更点は、大牟田港対岸の地名が「須鼻」(すのはな)とあることでしょう。
(大正9年版は「北浜田町・本浜田町」という標記になっています。「須鼻」の地名は、前回述べた「須ノ鼻水門」という呼び名と合致します)

さて、新旧地図の分析はさておいて、元祖 石炭積出港についての考察 その5 にすすみましょう。

前回まで、「三池炭礦社」の石炭増産による輸送強化策として「横須浜船渠の築造と大牟田川の浚渫」を中心に考察してきました。そして今回は・・・いよいよわが三池炭鉱専用鉄道の誕生である「馬車鉄道の汽車化」と横須浜船積場についての考察を試みます。

まずは、わが三池炭鉱専用鉄道よりほんの一足先に開通した九州鉄道(注1)からお送りしましょう。
◆注1 1891(明治24)年 4月 1日 久留米~高瀬(玉名)が開通  同日 大牟田駅開業  

 『此辺平郊 大牟田港の帆檣林立の状 及ひ 紡績会社の竈突高く聳えて眼に入り 其盛況を知るに足る』
                    岡部啓五郎 『九州鉄道旅客便覧』 1893(明治26)年8月発行より

渡瀬停車場を出た列車が、現在の銀水駅を過ぎた頃でしょう・・・この便覧に上記の案内記述が見られます。線路脇の紡績工場よりは少し遠方にあった大牟田港に、帆檣(はんしょう-帆柱)が林立している様が車窓から見渡せたのでしょう。
明治26年といえば九州鉄道が開通して2年後、そしてこの九州鉄道開通から7ヶ月後の明治24年11月3日、わが三池炭鉱専用鉄道の試運転列車が走ったのでした。(注2)

◆注2 以後の論考の大部分は、三井鉱山編 『三井鉱山五十年史 稿』 巻十九 輸送及販売(一)による

この三池炭鉱初の汽車鉄道について、その施設の概要を見てみましょう。
一.工費予算 一二八.0二九円
二.線路幅員 一四呎(注3)   
三.軌條    従来の軌間二呎六吋をアルウィン氏の考案により台框を広め、三呎六吋ゲージとす。(注4)           鉄條は、英国製鋼鉄平底丁形、一碼の重量三四封
四.機関車   米国フィラデルフィヤ ボールドウィン商会製タンクエンジン二台(注5)
          引行力五四五屯 平常は四屯炭車一0両牽引、一昼夜約三十八回往復
五.停車場   七浦坑、宮浦坑、横須新埋築地の三ヶ所    

◆注3 呎はフィート、吋はインチ、碼はヤード、封はポンドの意

◆注4 この記述は、後述する英国シャープステワート会社製の蒸気機関車の改軌の件と考えられる。
ただ、釜石鉱山鉄道の軌間は838mm(2フィート9インチ)の特殊なものであったことから、この記述の六吋は九吋の間違いと思われる。

◆注5 1891(明治24)年3月に2台導入され、団琢磨により“松風・村雨”と命名された。ちなみにこの名は謡曲に因んで命名されたとのこと。
なお、命名については、辻 直孝『三井炭鉱の産業考古学-三池専用鉄道』2001年9月 産業考古学 第101号 の記述を参考にした。 出典は『男爵団琢磨伝 上巻』230貢より

かくして、横須浜船渠の完成に合わせて、軌間1067㎜の専用鉄道が七浦坑~横須浜(地図中の大牟田港)間 単線2.6㎞に開通したのでした。
試運転が行われた11月3日は、当時の天長節。
この日の試運転に立ち会った、東京本部委員(三井物産?)西村虎四郎による益田孝宛の報告によると・・・
〈前略〉 米国より買入れたる機関車も割合に曳力強く構造も頗る堅牢にして工合最も宜しく、九鉄会社の機関車に比すれば実に雲泥の有之。(注6)
目当方にて製造したる炭車(注7)も頗る堅牢に出来上がり、積移工合申し分無し 〈後略〉

◆注6 九州鉄道の蒸気機関車とは、開業(明治22年)当時に3両輸入されたドイツ・ホーエンツォルレルン社製(国有後 45形)もしくは、 ドイツ・クラウス社製Bタンク(国有後 10形)と思われる。
(『鉄道ジャーナル 特集太陽とみどりの国-九州の鉄路』1973年8月号 を参考にした) 

◆注7 この時に使用された4t炭車については、炭都の鉄道~炭車略史 その1に詳しい記述がありますので、そちらをご覧下さい。ちなみに、『三井鉱山五十年史 稿』には、「米国ペンシルバニア州炭山用のものに、三池で種々改良を加えたもの」と記載あり。

正確には、蒸気機関車についてはボールドウィン商会製の機関車以前に、1878(明治11)年英国シャープステワート会社製の機関車が官営鉱山時代から在籍していました。この機関車は、1885(明治18)年に釜石鉱山の官営廃止と同時に当時の官営三池炭鉱に移管されたものです。
その後三井の所有となり、専用鉄道開通時にそれまでの軌間二呎九吋(838㎜)から三呎六吋(1067㎜)に改軌して使用されました。(第一号機関車)
この明治11年生まれの機関車、大正9年まで活躍したようですが、1926(大正15)年に休車となっています。
ところが、日中戦争中の輸送非常時であった1940(昭和15)年、大改修を経て復活したとのこと。
ちなみに『三井鉱山五十年史 稿』では、この機関車を「社宝」と伝えています。

またまた、いつものように前置きばかりが長くて、いっこうに横須浜の船積場に運炭列車が到着致しませぬ(*_*)
それではここで一気に? 明治末期(明治40年頃)の横須浜に話を進めましょう。
次の写真をご覧下さい。

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石炭の船積み場と船渠    『目で見る南筑後の100年』 郷土出版社 2001年刊 より

この写真は、西側(大牟田川河口側)から見た横須浜船積場と船渠“龍宮閣”の様子です。
(撮影者不詳 , 撮影時期は、三池港開港前の明治30年代と思われる)
写真に見るように、船渠のすぐ北側に高架の桟橋が築かれていたことが分かります。
この桟橋上に連なって停車中の炭車は、先に述べた4t炭車と思われます。
さてさて、ついに大牟田港に到着しましたが・・・この船積場にあった鉄道関係の施設については、次回の詳しい考察に譲ることといたしましょう。

今回は、この横須浜を起点(0㎞)として、1891(明治24)年12月にわが三池炭鉱専用鉄道がめでたく開通したことを確認してこの論考を終わります。


(つづく)

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   『1900(明治33)年の三池炭鉱専用鉄道』 5万分の1地形図 「柳河」 明治33年測図(一部)

元祖 石炭積出港考察 その6   「高架桟橋」篇

地図から三池炭鉱専用鉄道を探るシリーズ第12回目・・・
今回は、1900(明治33)年の5万分の1地形図 「柳河」 からはじめることといたしましょう。
お題は、元祖 石炭積出港についての考察 その6です。

前回は、横須浜を起点(0㎞)として、1891(明治24)年12月にわが三池炭鉱専用鉄道がめでたく開通した事をお伝え致しました。
今回の1900(明治33)年は、汽車鉄道開通の10年後となる5万分の1地形図 「柳河」に見るわが三池炭鉱専用鉄道の路線となります。この地形図には、1894(明治27)年に開通した勝立線、その2年後(1886年)開通の逆様川~宮原坑線、更に3年後(1887年)開通の九州鉄道との連絡線である旭町支線、そしてこの地形図と同じ年(1900年)に開通した七浦~宮原坑(デルタ線となった)・万田坑線が見て取れます。
万田坑での出炭はまだ始まっていませんでしたが、近い将来には横須浜船積場“龍宮閣”での石炭の積み出しは手狭になる事が確実な状況にありました。

さて、ここで1897(明治30)年発行の 吉田慶三編 『三井三池炭鉱』 より、当時の横須浜船積場の様子を見てみることにしましょう。

(前略) 石炭の坑外に送出せらるるや直ちに完良の選炭機に依りて炭種を区別し、悪炭・混石を排除して之を運炭車に移し、正確なる秤量機に依ってその炭量を量定したる後、汽車鉄道により大牟田町横須浜の搭載船渠に輸送し、汽車桟橋上より之を運炭船に墜下す。
その運搬に消費する時間は、甚だ短少にしてかつ運搬積込に際し石炭の粉砕を防止するの方法など亦備わらさる莫し (後略)

この記述は、当時の運炭について非常にコンパクトに分かりやすくまとめられています。
この記述内容のポイントは・・・
①選炭 ②秤量 ③汽車鉄道輸送 ③船積み の四つといえます。
ここでは、横須浜船積場“龍宮閣”にあった船積み用の「高架桟橋」を中心に見ていきたいと思います。

そこで、次の絵葉書をご覧下さい。

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三井三池炭鉱石炭船積桟橋  福岡県立図書館所蔵
※この絵葉書は、福岡県立図書館の「特別複写及び特別利用承認」を得て掲載するものです。(管理人)
 ⇒写真をクリックすると、より鮮明な大画面にて見ることができます 

この絵葉書は、明治末期の横須浜船積場“龍宮閣”を南西方向から眺めた写真です。
手前には坑木が山積みされていますね。そして、前回の最後に載せた「石炭の船積み場と船渠」の写真同様に、櫓を組んだ轆轤による巻揚設備が目に付きます。
この巻揚設備は、「勝立坑の開坑の際、ボイラーその他重量機械荷揚げのため」(注1)に設置されたものです。
今回の主題である木造の「高架桟橋」が、その奥に連なっています。
この桟橋手前の“龍宮閣”岸壁には、計5隻の運炭船が横付けされているのが読み取れます。

◆注1 「 」内の記述は、三井鉱山編 『三井鉱山五十年史 稿』 巻十九 輸送及販売(一)による
  以後の「 」記述も、同様の出典による。

更に次なる絵葉書を見てみましょう

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三井鉱山会社三池炭鉱 石炭積出桟橋 

この絵葉書は、専用鉄道の築堤から西方の「高架桟橋」を望んだ写真です。
この絵葉書から「高架桟橋」は二つあったことが分かります。この二つの桟橋を仮に、第一桟橋(絵葉書左側 岸壁側)と第二桟橋(絵葉書右 北側)と呼ぶことにしましょう。
高野江基太郎著 『筑豊炭鉱誌 附三池炭鉱誌』 中村近古堂 1898(M31)年発行 の記述によると・・・

(前略) 二ヶの桟橋あり。一は本線にして延長八十間(約44m) 他は支線にして同五十五間(約30.25m)に達し、汽車鉄道によりて運搬するものは貨車をこの上に曳きてその函底を開き石炭を桟橋下の海岸に落下し、直ちに海岸の船舶に積み移すこととせり (後略) 

本線と記述されている第一桟橋(仮)について、再度「石炭の船積み場と船渠」の拡大部を見てみます。

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石炭の船積み場と船渠(一部) 『目で見る南筑後の100年』 郷土出版社 2001年刊 より

この写真からは、一番手前の運炭船に第一桟橋(仮)から船積用のシュートが伸びて入ることが見て取れます。
第一桟橋(仮)には、「四ヶ所の船積用鉄板製シュート」がありました。
このシュートの設置により「船に直積されるようになったため、貯炭能力の増大と石炭の破砕率の減少と船積時間の縮減」(注1)が図られました。
写真に見るように、底開き式の4t炭車を連ねた運炭列車が、この「高架船積桟橋」に次々と坑口の選炭場から送られてきたことでしょう。

(つづく)



増補  大正期頃の “龍宮閣” 

最近、下の絵葉書を手にしました。
この絵葉書は、“龍宮閣”の情景を写し出しています。
写真右下には、高架桟橋から突き出た船積用のシュート先端部がちょっとだけ顔を出していますね。
たぶん、高架船積桟橋下から西の方向を望んだ写真と思われます。

写真の題名や、先の『九州鉄道旅客便覧』にあるように、帆檣林立の“龍宮閣”です。
大牟田川河口のこの地に、帆船がひしめきあっていた時代が偲ばれます。

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(三池名勝)  帆檣林立せる大牟田港  VIEWS OF MIIKE.


2008.9.18

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    1974(昭和49)年撮影の空中写真による 「線路復元地図 ~馬車軌道併設篇~」

元祖 石炭積出港考察 (最終回) 「線路復元」篇

地図から三池炭鉱専用鉄道を探るシリーズ第13回目・・・
今回は、石炭積出港考察のまとめとも言える 1974(昭和49)年撮影の空中写真による「線路復元地図 ~馬車軌道併設篇~」からはじめることといたしましょう。
ついに、元祖 石炭積出港についての考察も最終回を迎えました。

前回までに、三池炭鉱専用鉄道が開通し、ここ横須浜船積場“龍宮閣”には二つの「高架桟橋」が設置されたことを述べてきました。
この二つの「高架桟橋」の空中写真での復元は簡単です。(上の空中写真中 赤色線)
直接“龍宮閣”の岸壁に隣接する第一桟橋(注1)からの船積用シュートは4ヶ所で、地図上では■の黄色で表現しました。
問題は、船積用の第一桟橋北側に位置する第二桟橋です。この桟橋からは、当然ですが直接船に石炭を積み込むことは出来ないことから、貯炭用の桟橋と考えられます。そこで、次の写真からナローの積み出し線路があったのではないかと推測してみました。

◆注1 前回の論考にて、第二桟橋も同様このような仮の名称を使用しました。

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    ▲133 大牟田港 Ⅰ 『ふるさとの想い出 写真集 大牟田』 国書刊行会 1982年刊 より

解説には「大牟田港内にある鉄道桟橋や船積桟橋、明治42年頃の写真」とあります。
この写真は、二つあった「高架桟橋」の間より東側方面を望んで撮影されたものです。
第一桟橋下のすぐ北側に、ナローのトロッコ線がはっきりと見て取れます。
さらにこのナローの線路をよく見ると、第一桟橋にあった船積用シュート間の中程を“龍宮閣”の岸壁側にカーブしています。
以上のことから、貯炭場からの石炭積み出し用のナロー線を推測してみました。
空中写真の水色線が、このナローの積み出し線路を表しています。
ただ、このナローのトロッコ線だけではなく、人海戦術にて船積されたのではないかと想像されます。

次に、前回見た絵はがき「三井鉱山会社三池炭鉱 石炭積出桟橋」と同じような角度からではありますが、もう一枚の写真を見てみましょう。

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    ▲三池炭礦 濱貯炭場及桟橋   『三池炭礦寫真』より(撮影年度など詳細は不明)

UPした写真では見づらいとは思いますが、手前にある小屋の左側に半ば埋もれたようにナローの線路が走っているのが見て取れます。また、第二桟橋下の貯炭場にはかなりの貯炭があるのがうかがえます。
この写真と、大浦坑からの馬車軌道残存時代(明治32年に廃止)の記述(注2)をもとに、“龍宮閣”の大牟田側のナロー線と桟橋4ヶ所を推測してみました。
 
◆注2 横須浜船積場解説の後に「尚此の海岸の一方に馬車鉄道に接続する小桟橋四ヶ所あり 皆海上に出でて直ちに船舶轉載の便に供す」とあり
 高野江基太郎著 『筑豊炭鉱誌 附三池炭鉱誌』 中村近古堂 1898(M31)年発行より 

“龍宮閣”の南側にこの馬車軌道の小桟橋があったことは間違いなさそうですが、“龍宮閣”北側の貯炭場との間に軌道が敷設されていたかどうかについては不確かです。
なお、大正時代には馬車軌道のなれの果てが、三池港開港によって主要な役目を終えたこの高架桟橋まで軌道を延ばしていたことは、「石炭積出港考察 その2」で見てきた通りです。 

さて、ここで貯炭場について簡単な考察を試みましょう。
まずは、選炭と貯炭との関係についてです。

農商務省鉱山局 『鉱山発達史』 1900(M33)年発行 の「三池鉱山」坑外運炭の項を見てみると・・・
(前略)  坑外に選炭機を設置し、竪坑より巻揚げたる炭は直ちに選炭機に投入し、大塊炭・中塊炭・小塊炭及粉炭に精選しつつ、選炭機下にある容積四噸入の炭車に移入せしむ  (後略) 

とあるように、4種類の商品としての石炭がありました。
とすると、この4種類の石炭について貯炭場及び船積場を分けて配置したとは考えられないでしょうか?
これはあくまで推測ですが、小塊炭・粉炭については第二桟橋下の貯炭場にて一旦貯炭して積み込む。大塊炭・中塊炭は、第一桟橋の鉄板製シュートより直接船積した(^_-)

先の農商務省鉱山局 『鉱山発達史』をして「水陸運搬の利亦完全と伝うべし」と言わしめたこの高架桟橋ですが、さらに特記べきことがあります。
それは、すでに電燈と電話が設置されている事です。
あらためて先の写真をご覧下さい。第一桟橋の鉄板製シュート部分、そして第二桟橋にも計4~5ヶ所に電燈が設置されているのがよく分かります。また、両高架桟橋の間にある電柱は電話線ではないでしょうか。
『鉱山発達史』には「坑内外ニ電燈・電話ヲ使用スル為メ発電所ヲ七浦ニ置キ発電機二臺ヲ備フ」と記述されています。この七浦発電所は、1894(明治27)年12月8日に操業を開始し、この日初めて坑外に電燈がともったのでした。

先の『筑豊炭鉱誌 附三池炭鉱誌』によると・・・
 ○電 話 本礦事務所に電話交換室を置き各採礦所及宮浦七浦の汽車場 海岸桟橋取扱所等に架設           し処務上非常の便益を与え居れり
 ○電気燈 線路発電機より電路盤の各安全器及び開閉器を経て左にの三個の本線を架設せり               第一  石炭積場線(この線路にて点火する区域は、宮ノ浦坑工場・大浦坑工場・                      炭坑事務所・器械科・石炭積場・下里社宅線・大牟田市中) (後略)

電話については、官営時代の1884(明治17)年に「三池鉱山本局ヨリ七浦工場間ニ初メテ電話ヲ開通」し、1893(明治26)年10月に「電話交換ヲ開始ス」とあります。(注3)

◆注3 『三池鉱業所沿革史』 総年譜による

最後に、現在の“龍宮閣”の様子をご覧にいれ、この論考を終わりたいと思います。
(大牟田港については、また項をあらため原田源次郎や運炭船について述べたいと思います)

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    ▲現在の貯炭場跡       肥筑燃料部    専用鉄道築堤跡から西方を望む  

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    ▲現在の“龍宮閣”跡     明治ポンプ場   右手の垣根方向が貯炭場跡 

撮影地:大牟田市北磯町
撮影日:2007年11月4日
(つづく)

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▲U.S.Army Map Service Japan City Plans   1/12,500  “OMUTA”  1945 (一部) 

所蔵:テキサス大学図書館  同デジタルアーカイブより 
*地図をクリックすると詳細な地図がご覧いただけます


1945.AMSの地図 “OMUTA” (その1) 「米国陸軍地図局」篇

しばらく休止状態にあった、書庫『地図に見る三池鉄道』でした・・・。
久々の記事となりますが、本日からAMS(米国陸軍地図局)作製の地図を巡るプチ旅に出てみようかと思います。もちろん、AMSの地図 “OMUTA”には、わが三池の鉄道が表記されています。この地図を片手に、現在の様子を訪ね歩くといった趣向でございます。
まあ、気軽な地図探訪記事でございますので、どうぞご笑覧下さいませ。

さて、地図探訪に出かける前に、AMS(旧米国陸軍地図局)作製の地図について少しだけ触れておくことにしましょう。AMSの正式名称は【U.S.Army Map Service】米国陸軍地図局で、「1940年から1960年前後にかけて、英国参謀本部地図局【G.S.G.S.=Great Britain. War Office. General Staff. Geographical Section】をはじめとする地図作成機関と共同で、世界各地の地形図や都市図を収集・作成していました」(注1)

◆注1 「 」内は、国立国会図書館リサーチナビ解説より引用

そこで、今回取り上げるAMS作製の地図“OMUTA”は、米国テキサス州の州都オースティンにあるテキサス大学図書館デジタルアーカイブよりダウンロードしたものの一部分となります。(注2)

◆注2 テキサス大学図書館デジタルアーカイブ
    Perry-Castañeda Library Map Collection>Japan City Plans ↓↓↓
    http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/
    AMSが作製した各種地図のデジタル画像を閲覧することができます


縮尺は、1/12,500というもので、国土地理院が発行している地形図にはない縮尺となっています。
Japan City Plans→日本の都市地図とでも訳したらいいでしょうか。発行は1945年で、終戦の年ということになります。地図余白を見てみると・・・「戦争または海軍省のみ使用可、非売品・・・」などの記述がされています。
鉄道表記についてもかなり詳細な記載がなされており、例えばゲージ幅に応じた表記になっているなど興味は尽きません。色合いや記号については、緑色で表された森林や果樹園に竹林、窪地や丘陵などの起伏は茶色の暈滃(うんおう)→ケバ表記となっています。
もちろん、この地図は米国陸軍航空軍(後の米国空軍)の戦略爆撃などに使用するために作製されたものと思われます。そのためか、工場やなどの独立した建造物についての表記は詳細を極めています。また、市街地や地名の表記が単純化されていて、非常に見やすい地図といった印象を受けます。(この地図の裏面に行政区地名一覧地図あり)

65年前に作製されたこの地図・・・シンプルでありながら、その色調からは非常にあかぬけたイメージを抱かせるように感じます。

さあ、この1945年の大牟田市内地図を手にしながら、わが三池の鉄道の探索に出かけることにいたしましょう。

(つづく)

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▲四ツ山社宅    *写真をクリックしていただくと大画面にてご覧になれます
 

  鳥の目で見た炭都大牟田 ◇石炭館所蔵の航空写真を巡る その1◇

 
鳥の目で見た炭都大牟田シリーズの始まりはじまり(*^_^*)
 
初回は、四ツ山社宅です。
右上が三池港内港。
南突堤の先には、人工島が築かれていました~後の港沖竪坑。
左下に四ツ山竪坑。
整然と並んだ炭住に、往時の繁栄振りが偲べます。
 
ここ四ツ山社宅には、大牟田市立三里小学校の三里分校やグラウンドがありました。航空写真からは、これらの様子が手に取るように分かります。
 

 
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このシリーズの航空写真は、大牟田石炭産業科学館所蔵のものです。
現在開催中の、収蔵品展「鉄道が結んだ三池のコンビナート」にて展示中です。かなり大きな航空写真でして、通常は巻いて保管されています。展示物ですので、光線やしわの具合などもあってなかなかその詳細をお伝えするのは困難なのですが、多数撮影したものの一部で、何とかUPに堪えるものをここに掲載いたします。
 
ちなみに、この航空写真は昭和31年頃に撮影されたものです。
題名は『三池鉱業所航空写真図』とあります。
 
それでは、数回にわたって昭和31年頃の炭都大牟田の様子をお楽しみ下さい。
 

 
(つづく)
 
 
▼大牟田市石炭産業科学館
 
▼収蔵品展「鉄道が結んだ三池のコンビナート」
 
 

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▲三池港    *写真をクリックしていただくと大画面にてご覧になれます
 

  鳥の目で見た炭都大牟田 ◇石炭館所蔵の航空写真を巡る その2
 

 
鳥の目で見た炭都大牟田シリーズ その2は、三池港です(*^_^*)
 
初回に紹介した四ツ山社宅が写真左に見えます。
独特な形をした三池港のドック(船渠)と内港の形が一目瞭然ですね。
 
この頃は、ドック手前の明治時代に築かれた貯炭トンネルがいまだ使用されている様子が見て取れます。また、三池式快速船積機(通称:ダンクロ)の姿が2機確認できます。
 
現役時代の貯炭トンネルやダンクロをこの目で見ているようで、三池港の築港史を繙いている管理人にとっては非常に興味あるカットでございます。
 
おまけにもう一枚(~o~)
 
三池港の貯炭トンネルアップです。
ぼけていて不鮮明ですが、ご勘弁のほどを・・・。
 

 
 
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▲5線あった貯炭トンネル桟橋  *写真をクリックしていただくと大画面にてご覧になれます
 

 
(つづく)
 
 
▼貯炭トンネル 大正時代の様子はこちら↓↓↓
 
▼三池築港全図 THE MAP OF MIIKE HARBOUR ↓↓↓

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▲新港町社宅  *写真をクリックしていただくと大画面にてご覧になれます
 

  鳥の目で見た炭都大牟田 ◇石炭館所蔵の航空写真を巡る その3

 
鳥の目で見た炭都大牟田シリーズ その3は、新港町社宅です(*^_^*)
 
写真左下に三川坑、上部が三池港、もちろん規則的に並んだ建物が新港町社宅。
今は貯炭場となっていますが、当時の人口は約3000人と記録されているようです。
新港町社宅のはずれには、太平洋戦争中に福岡俘虜収容所第17分所がありました。この航空写真に写し出されている新港町社宅はずれの建築物は、その当時の建物なのかな?
 
ちなみに、「かつてプロ野球の試合もあったというグラウンド」は写真中央でしょうか・・・。
与論島出身の方々も多く住まわれていた新港町社宅でした。
 

 
 
◆当ブログ内参考ページはこちら↓↓↓
①与論島を出た民の歴史    http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/35886518.html
福岡俘虜収容所第17分所  http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/39002199.html 
 
 
 
 
 

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▲小浜社宅  *写真をクリックしていただくと大画面にてご覧になれます
 


  鳥の目で見た炭都大牟田 ◇石炭館所蔵の航空写真を巡る その4

 
鳥の目で見た炭都大牟田シリーズその4は、小浜社宅です(*^_^*)  
 
写真のほぼ全面をしめる社宅の連なりは、見るものをして圧倒する光景です。
北方から南方を俯瞰した写真となりますが、堤防にそって規則的な社宅街が広がっています。
この小浜町は、小浜開と呼ばれた明治時代の干拓地です。写真の上(南側)には小川社宅がありましたが、そこも小川開と呼ばれた江戸時代晩年に開かれた干拓地で、その名も小川半吾という人が開いたものです。この干拓地は、しばし風水害に襲われますが、堤防の修理や新地開の資金に困っていた小川半吾は、八代の富豪浜田家に頼んで小川開の北側を干拓してもらったのでした。これが小浜開で、大牟田市となった大正6年に、小浜町、北浜田町、本浜田町、新地町などの町名が付けられます。写真の右下方角が新地町で、戦前に遊郭があった場所ですね。
 
さて、写真の解説をつづけます。写真左下の学校は、現在も同じ位置に現存する大正小学校と松原中学校です。松原中学校と称するくらいですから、干拓前は学校横の道路にそった海岸線には松原が広がっていたのでした。
 
この様な場所に、戦後の石炭増産時に建設されたのがこの小浜社宅だったのです。ちなみに、電化(電気化学工業)などの社宅もありました。
昭和35年の小浜町の人口約8000人。
 

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▲勝立社宅  *写真をクリックしていただくと大画面にてご覧になれます
 


  鳥の目で見た炭都大牟田 ◇石炭館所蔵の航空写真を巡る その5

 
鳥の目で見た炭都大牟田シリーズその5は、勝立社宅です(*^_^*)  
 
勝立坑は早くに閉坑しましたが、ご覧のように坑口付近には数多くの社宅街が形成されていました。戦後になると、この勝立社宅と宮浦坑を結んだ通勤列車が運行されますが、その終点は写真左下方に位置する東谷でした。
 
写真の中央付近にある広い土地がグラウンドです。近年まで、古レイルを使ったバックネットが残っていましたが、残念ながら取り壊されてしまいました。グラウンドのすぐ下に竪坑跡、上に売店、右に講堂とテニスコート、講堂のすぐ右上に保育所があります。
また、グラウンドのバックネット付近から斜め下にのびる坂道を登り、社宅を抜けた先に山の神神社があります。山の神神社は今もありますが、管理する者はなく荒れ放題となっています。
 
昭和35年現在の新勝立町1~4丁目の人口は約4300人。
 
 

 
 
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▲旭町上空より  *写真をクリックしていただくと大画面にてご覧になれます
 


  鳥の目で見た炭都大牟田 ◇石炭館所蔵の航空写真を巡る その6

 
鳥の目で見た炭都大牟田シリーズその6は、旭町上空よりです(*^_^*)  
 
ちょうどこの写真の真ん中が、現在も現役の三井化学専用鉄道旭町線の旭町踏切です。国道208号線を横切るこの踏切のすぐ左隣は、三井三池製作所。さらにその左奥には、現三井化学の工場群が立ち並んでいます。
 
鳥の目を旭町踏切から右側に移すと、現在は新栄町となっている三池紡績工場跡に立つ三西容器の工場、グラウンド、そして染料の売店が見て取れます。そのすぐ上には三池鉄道の浜線、そして大牟田川が東西に走っています。炭鉱鉄道と写真中央を南北に走る国鉄鹿児島本線とがクロスするところに、西鉄栄町駅の短いホームが見えます。
もちろん、懐かしい松屋や新銀座商店街のアーケードなどなど、このブログにて取り上げてきた大牟田の街並みが一望することができ興味は尽きません。
 
この写真をご覧になった方々の、それぞれの思い出の地をどうぞ鳥の目にてお楽しみ下さい(*^_^*)
 

 
 
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