炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 西鉄紀行

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        ▲ 大牟田駅  THE OMUTA STATION 
   
        提供:地図の資料館

西鉄バス 33年ぶりのデザイン変更

1983年以来25年ぶりの、西鉄電車の速度アップの話題の次は・・・
西鉄バスの話題です。
ついに、バスに手を出してしまいました(?_?)

西鉄バスの塗色変更のニュースに接し、先の絵葉書左端に2台並んでいるバスのことを思い出しました。
国鉄大牟田駅の正面写真で、シロアリにやられた? と聞き覚えのある旧駅舎ビルが写っています。
昭和30年頃の写真ではないかと思いますね。

左端にはピンク色? したボンネットバスが止まっていますが、このバスは産交バスなのでしょうか・・・。

昭和50年以前の、緑色に青のラインが入った塗色も、創立100周年記念事業の一環で試しに復活させてくれないかな。
お願いです西鉄さん(^O^)


さて、今回の本題へ・・・
西鉄では、創立100周年記念事業の一環として、路線バスのデザインの変更を検討中でした。
その新デザインが、2/20(水)に発表されました。
以下西鉄HPより発表内容の抜粋です。
(詳しくは、上記下線部の西鉄HPをご覧下さい。新塗色のバスも見れますよ)

西鉄グループでは、創立100周年記念事業の一環として、一般路線バスのデザインの変更を検討してまいりましたが、このたび新デザインが決定しましたので、お知らせいたします。
現在の一般路線バスのデザインは、1975年(昭和50年)に変更して以来、地域の皆さまに愛され、親しまれてまいりました。今回は33年ぶりのデザイン変更となります。
(中略)
デザイン開発にあたっては、西鉄グループの企業理念にうたう「あんしん」「かいてき」「ときめき」という基本理念が表現でき、かつお客さまと価値観を共有できるバスを追求しました。デザインのコンセプトは「GENTLE & MINIMUM」で、外装デザインは都市景観との調和に配慮したデザインとしました。内部についても、安全性や快適性などを盛り込んだ変更を実施いたします。

◆◆◆ 一般路線バス新デザインの概要 ◆◆◆
  ○導入開始 平成20年6月(予定)
   ○対象車両 西鉄グループの一般路線バス(平成20年度新造車より) 
  ○導入車両数 初期導入 福岡地区62台
   (平成20年度) 福岡地区132台 ・ 北九州地区26台導入予定
  ※将来的には、西鉄グループの一般路線バスすべてに本デザインのバスを導入する予定です。 

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筑前山家駅の西鉄北九州線の車両達

良い天気に誘われ、ちょいとお散歩に行きました。
お散歩の場所は、筑豊本線 筑前山家駅の北九州線車両保存会です。

土佐は高知から、北方線の324号が里帰りして、元の西鉄塗色に戻された由。
あの可愛いらし卵形の顔が見たくなりました(*^_^*)
(残念ながら、北方線現役時代に撮影したことはありませんでした・・・)

どれどれ、どんな具合に仕上がっているかな?

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▲北方線現役時代の塗色にもどった324号

いい天気にも映えて、美しい324号です(^_^)v
まだ側面の方は塗装途中ということでしたが、前面の雰囲気はバッチリ。

1956(昭和31)年に、バスの車体工法を使って製作されたというこの車体。
相棒の323号と2両のみしか在籍しませんでした。
細い車体(軌間1067m)に、大きなパンタグラフがのっかてますね。

さてさて、せっかくですから北九州線621号と“かまぼこ”にもご挨拶しましょう。

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▲西工製 通称“かまぼこ” と 北九州線621号

これまた、美しく塗装さし直されていました。
このバス、西鉄大牟田営業所に所属した「いすゞ2745」だそうです。
主に久留米-船小屋-大牟田間の50番で活躍してたらしく、ひょっとしたら私も乗車したことがあるかも(~o~)

行き先表示はというと・・・・

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▲羽犬塚 瀬高経由 大牟田(営業所) 行きの表示

うれしいですね、懐かしい表示です。
この路線が廃止されてから何年経つのかな?
(バスのことについては詳しくありませぬ・・・)

最後に、草生した(@_@) 筑前山家駅の旧下り線ホームあたりからのツーショット

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▲草生した駅の傍らから、のんびり電車を眺めるのも悪くはないものよ


撮影日:2008年 5月 3日
撮影地:筑前山家駅 北九州線車両保存会




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▲馬面電車(^O^) 追加の写真をUPしました

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撮影日:1978年2月26日
撮影地:西鉄甘木線/北野~大城

北野 ~ 大城間を行く200形+60形電車

西鉄甘木線・・・久々の更新でございます(^_^)v

宮の陣から数えて5つめの駅、大城駅近くまでやってきました。
北野駅を出た電車は、大麦畑の中を大城駅へと進みます。

終点の甘木といえば・・・、
私も大好きなあの工場があるところです!(^^)!
(ヒントは、ここまでの文章中にあります)

そうです!! 答えは“ビール”です。
甘木には、キリンビールの工場があります。
かつては、国鉄甘木線からの引き込み線があり、鉄道にて出荷されていた時期がありましたが、
そんな記憶もずいぶんと彼方へ過ぎ去ってしまいました。

で、大麦です(*^_^*)
もちろん、大麦はビールの原料でございます。
今も筑後平野には、このキリンビール工場との大麦契約農地が広がっています。
最近の焼酎ブームで、一部は麦焼酎の原料生産農地になっているようですけど。

さて、できたてのビールが味わえるビール工場のレストランはいかがですか?
キリンビアパークのHPにて福岡工場をお楽しみ下さい。
(ちなみに、キリンビールからは宣伝料はいただいておりませぬ)

毎日、キリンビールを賞味しております管理人からでした(^_-)
あれ、西鉄甘木線の200形+60形電車はそっちのけ?

背景に連なる耳納連山が美しい、筑後平野の大麦畑からお伝え致しました。

(つづく)

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撮影日:1978年2月26日
撮影地:西鉄甘木線/金島駅

金島駅に到着する200形+60形電車

西鉄甘木線・・・またまた久々の更新でございます(^_^)v

宮の陣から数えて6つめの駅、金島駅までやってきました。
筑後川に沿って走ってきた甘木線は、金島駅付近から進路を北の甘木に向けます。

転轍機や木造の民家がいいアクセントです。
洗濯物が風にそよいでます(~o~)
何だか、街並みコレクションの一風景のようですな。

さて、沿線の散歩といきましょうか。
下の、1/5万 地形図をみてみると、床島用水の標記が見えますね。
床島用水といえば、五人の庄屋の物語でしょう。

江戸時代、筑後川右岸地区一帯は川面より高く、水田としては利用されずに荒地のまま放置されてたそうです。また、わずかな田畑もたびたび干害にあい、百姓達は生活に困窮する状態であったとのこと。
そこで、苦難の末に1712年(正徳2年)、草野又六(久留米藩士)と五庄屋により床島堰が築造されました。
以来、床島堰より取り入れた筑後川の水が、約3,000haの水田に今も潅漑を続けています。

ここ筑後川の近隣には、このような用水や水害などに関する“水との闘いの歴史”が土地に刻まれています。
これら「土地に刻まれた歴史」を見て歩くのも楽しいことです。

地形図からも、これら刻まれた歴史が読み取れますね。


金島駅の次は・・・その名も大堰駅です。


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        ▲国土地理院 1/5万 地形図 甘木 平成8年8月1発行(一部)



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             撮影日:1978年2月26日
             撮影地:西鉄甘木線/金島駅

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撮影日:1978年2月26日
撮影地:西鉄甘木線/馬田~甘木

200形3連が行く ~甘木線散策 最終回~

西鉄甘木線を徒歩で巡る・・・
今回で最終回と相成りました。

耳納連山を望む筑紫平野を、200形の3連が行きます。

終点の甘木駅は、もうすぐそこ。
国鉄甘木線の築堤から、甘木線を望みます。

大分自動車道の開通で、この場所の景色も今は変わっていることでしょう。
今一度、沿線沿いをカメラ片手に散策してみたいと思います。
愛嬌のある200形や60形電車は、もう撮影することはできませんが、
いまも麦畑や筑後川の流れは変わらないことでしょう。


最後に、もう一枚(*^_^*)
学校前~古賀茶屋を行く、200形3連です。
筑後川の流域は、かつて洪水の被害に何度もあってきました。
この写真にあるように、川もないのに堤防が・・・

洪水への備えや用水路の開鑿、筑後川の流路変更などなど、
ここ甘木線を散策すると、水と人々の関わりの歴史が数多く刻まれていることに気づかされます。

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撮影日:1978年2月26日
撮影地:西鉄甘木線/学校前~古賀茶屋

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撮影日:1975年10月26日
撮影地:博多駅前

西鉄福岡市内線 (1) 博多駅前

今回から10回にわたって、1975年の西鉄福岡市内線をお送りいたします。

1975(昭和50)年といえば・・・
この年の11月2日をもって、循環線と貝塚線を残し福岡市内線が廃止されたのでした。
管理人は、博多駅にて20系“あさかぜ”・583系“金星”、それにEC&DC特急“にちりん”を堪能した後に、ここ博多駅前の市電撮影ポイントに来たのでした。

この日(10月26日)は、廃止目前の貫線を中心に10枚の写真を撮影しています。
その最初の一枚が、ここ博多駅前です。

今となっては、この写真の博多駅も過去帳入りとなってしまいましたね。
こうしてみると、自動車が増加していたとはいえ、まだまだのんびりしたムードが漂う駅前です。

循環線でしょうか、501系がガタゴト通り過ぎて行きました。
この日は、ここ博多駅から廃止予定の貫線に出て、姪浜方面に出かけようと思います。


(つづく)

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撮影日:1975年10月26日
撮影地:愛宕下電停付近にて

西鉄福岡市内線 (2) 愛宕下

10回にわたってお送りする、1975年の西鉄福岡市内線の2回目は・・・

博多駅前から、城南線経由で姪浜を目指します。
途中の桜坂あたりで撮影したかったのですが、車窓から楽しんだだけで通過(^-^)
終点姪浜まで乗車したのでした。

途中、室見橋から先は単線区間で、タブレット交換が行われていたようなのですが、私の記憶に残っていません(*_*)  (あの~、運転席前面の赤い縁取りの黄色い円盤は何の意味があったのだろう?)

姪浜から歩いて引き返し、愛宕神社の石段下鳥居にてカメラをかまえます。
「車の往来が頻繁で、なかなかシャッターチャンスがなかった」旨のメモが残ってますね。

ピントはどこに合ってるのでしょう・・・肝心の市電はブレブレです(*_*)


(つづく)

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撮影日:1975年10月26日
撮影地:室見橋にて

西鉄福岡市内線 (3) 室見橋

10回にわたってお送りする、1975年の西鉄福岡市内線の3回目は・・・

愛宕神社の石段下鳥居から、室見川を渡る橋までやって来ました。
室見橋のたもとから、松の木を入れての撮影です(*^_^*)
今も、橋のたもとには松の木があるでしょうか・・・?

この写真を撮影した1975(昭和50)年といえば、新幹線博多開業の年です。
3月10日に全国ダイヤ改正が行われました。

そう言えば、この室見橋の南には国鉄筑肥線の鉄橋がありました。当時の時刻表を繙くと・・・

長崎と博多を結ぶ、筑肥線唯一の急行“平戸”がまずは目に入ってきますね。
それと、東唐津と博多間の一往復の客車列車(^o^)

今では九州唯一の直流電化区間として引き継がれた筑肥線。

C11やDE10牽引の客車列車は今いずこ(@_@)


(つづく)

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撮影日:1975年10月26日
撮影地:室見橋にて

西鉄福岡市内線 (4) 室見橋

10回にわたってお送りする、1975年の西鉄福岡市内線の4回目は・・・

3回目に引き続き、室見橋からお送り致します。
室見橋を渡り、早良口方面にやってきました。

ところで、福岡市内線の最初の電車は、1910(明治43)年 当時の福博電気軌道に始まります。
最初の開業区間は、後の貫線「大学病院前~西公園」までと呉服町線の「呉服町~博多駅前」でした。
九州沖縄八県連合共進会開催に合わせての開通だったようようですね。

ここ室見川を渡る区間のもとは、北筑軌道→博多電気軌道で、はじめは軌間も狭い蒸気運転の軌道です。
大正時代に1435㎜軌間との併用区間になり、先の貫線との接続がなされたのは1932(昭和7)年のことでした。

様々な時代を超え、長らく運転されてきた市電も廃止間近です。
室見川の欄干近くにてカメラを構えましたが、ここでも車の交通量が多く、なかなかシャッターチャンスがありませんでした。

頻繁に走り去る自動車をかいくぐって撮影した一枚です。


(つづく)

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撮影日:1975年10月26日
撮影地:県庁前~東中州

西鉄福岡市内線 (5) 東中州

10回にわたってお送りする、1975年の西鉄福岡市内線の5回目は・・・

室見橋をあとにし、再び市電(貫線)に乗車して県庁前電停までやってきました。
県庁前から東中州界隈を歩いて、6枚の写真を撮影。

まずは、旧大同生命福岡支店の煉瓦建築をバックに一枚(*^_^*)
手前の噴水やら電柱など、ごたごたした構図ですね・・・。

背景の旧大同生命福岡支店の建物は、明治45年建築のものでなかなか威厳がありました。
昭和61年に、グリーンピア八女内の「明治の館」として移築・保存されています。

かつてのドーム形のデザインが、現在の大同生命ビルにも受け継がれています。
(写真では、ちょうどドームのところが切れて写ってません・・・)

ところで、県庁といいこの旧大同生命福岡支店の煉瓦建築といい、もう過去のものとなってしまいました。
若い人たちは、ここ天神に県庁があったなんて知らないでしょうね(@_@)

次回も、ここ中州からお送りいたします。



(つづく)

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