炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

カテゴリ: 炭鉱電車◆客車編

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三井三池の専用鉄道を眺めるのは、私の一番の楽しみです。閉山後10年たった今でも、まだ大牟田に行けばいつものように石炭を淡々と運んでいるのではないか・・・と思えます。気が向いたら写真や思い出など随時アップしていきますので、興味のある方はどうぞご覧くださいませ。今回の写真は、西日を浴びて原万田~大平間を行く通勤列車です。1975年11月24日、秋の装いが深まる荒尾・大牟田の街です。

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原万田を出た列車は、荒尾の街並みをのぞみながら築堤の上を悠然とはしり大平駅に到着です。車掌の短い笛と、手動のドアが閉まると発車。短いコンクリート橋を渡るとすぐに砂利道の道路が寄り添って、切り通しに向かいます。次は、宮内駅です。小さい電気機関車と63形の客車が箱庭の模型のようです。

撮影日:1975年11月24日
撮影地:玉名支線(緑ヶ丘線) 大平駅

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大平駅を出て、切り通しをすぎた列車は宮内(くない)駅に到着。今日の牽引機関車は31号機。さわやかな風が通りすぎる夕暮れ近くの丘の上の停車場です・・・。発車した後も、しばらくは炭住に住むおばさん達の笑い声がホームにこだまします。


★追記★

31,32号機は、15t級の電気機関車(13,14号)からの改造機関車で20t級の機関車の中では人気者でした。(もしかして、そう思っているのはわたくしだけかも・・・)
その訳は、改造時に車体幅の拡幅が行われなかったので、原型の20t機関車を彷彿とさせてくれたからです。(他の20t機関車は、改造時に運転室部分が拡幅されました)
ご覧のように、1976年の時点ではまだライトも1つで、シールドビーム化もされていませんでした。
〔でも、よく見ると屋根のところに2つライトが見えるな?! シールドビームじゃなくて何なんだ・・・〕

ツリカケ式の、あの懐かしい音が聞こえてきそうな一枚です。
31号機は、通勤列車の牽引に最後まで活躍しました。

参考文献:杉田 肇著『私鉄 電気機関車ガイドブック・西日本編』 昭和52年発行 誠文堂新光社


撮影日:1975年11月24日
撮影地:玉名支線 宮内駅

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宮内駅を出た列車は、少し下って三井グリーンランドの南側を取り巻くようにして走ります。
終点の平井駅の前には、この大谷駅がありました。

ご覧の通り、ホームに向かう小道は草ぼうぼうでした(@_@)
確かに一本の轍がありますので、ここで乗降する乗客もあったと思いますが、このときは一人もありませんでした。炭鉱の衰退と共に、近くの社宅に住む鉱員が減ったのでしょうか・・・。

この写真は、わたしが撮影した唯一の大谷駅の写真となりました。

★追記★
◇その1
三池港行きの列車です。天気・画像の状態も悪く見にくいかもしれませんが、唯一の写真ということでご勘弁のほどを(-_-) ちなみに、機関車は1号機です。

◇その2-8/7
大谷社宅は、昭和49年(1974年)に全廃になったようです。跡地は、三井グリーンランドのゴルフ場に転用された由。
どうりで、乗降客がなさそうなはずです。乗降客がいないときは、車掌さんが確認して徐行しながら通過していたような記憶があります(^_-)

◇その3-8/17
「三井グリーンランド」は、2007年7月21日をもって「グリーンランド」と名称が変わりましたが、当ブログでは従来通り「三井グリーンランド」の標記をいたします。
ちなみに名称変更の理由は、2005年9月に親会社だった三井鉱山蠅紡紊錣蠕症凜スグループが筆頭株主になったことによるものです。
(会社名は、昨年の7月に三井グリーンランド蠅らグリーンランドリゾート蠅吠儿垢気譴討い泙靴拭


撮影日:1978年2月12日
撮影地:玉名支線 大谷駅

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玉名支線の終点は、平井駅です。

三井グリーンランド南東の端っこ近くに、鄙びたホームがありました。今では、グリーンランドのゲートができたり、駅があったすぐ北側には立派なホテルがあったりして、往時をしのぶことはまったくと言っていいほどできません(=_=)

平井駅に到着した列車は、すぐに機関車が切り離され機廻し線に進みます。
三池港側に連結された機関車は、客車とともにしばしのお休みです。(つづく)


★追記★ この時点では、31号機も2燈シールドビームに改装されています。
        先にUPした宮内駅の写真のころがよかった・・・と思うのはわたしだけでしょうか(-_-;)


撮影日:1978年2月12日
撮影地:玉名支線 終点・平井駅

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1997年5月11日 1/3万 空中写真(荒尾・一部)

国土地理院の空中写真閲覧システムを使って、玉名支線(緑ヶ丘線)の廃線跡を見てみましょう。
写真の東側を、荒尾駅を中心に南北にJR鹿児島本線が走っています。
駅の南西には荒尾競馬場が見えますね。

このJR鹿児島線と、写真の北側で直角に交わっているのが専用鉄道の本線です。
北西の角に【西原駅】・・・高圧線の鉄塔が本線の線路上を等間隔に通っています。

この写真が撮影されたのは、ちょうど三池炭鉱閉山の年の5月です。まだ、線路は撤去されていませんでしたし、使われなくなった機関車たちは、三池港の車庫にいました。大牟田市へ譲渡予定の電気機関車達が宮浦へ回送されたのが、この年の7月14日でした。
九州 鉄道の記憶Ⅱp274の写真を参考にしました)

さて、JR鹿児島線とオーバークロスしてすぐが支線の分岐点である【原万田駅】です。
写真でも、はっきりと南にカーブして本線から分岐する玉名支線の築堤跡が見えます。

廃線後もしばらくは、原万田を出てすぐの道路をわたる鉄橋などもそのままでしたが、閉山ともに撤去されてしまいました。
さて、築堤跡は【大平駅】をめざします。途中に道路がつくられ、築堤が分断されているのが痛々しいですね。写真中の[大平]の表示の北側のため池脇の小山から、この築堤をやってくる列車を撮ったのがこのブログの最初の写真です。

築堤をこえ【大平駅】を出た列車は、切り通しに入りますが・・・・なんとこの写真の時点では、東側の山が開発されてしまい、当時の面影はありません。ただ、線路沿いにあった舗装されていなかった道は健在ですね。
この切り通しをこえたところが【宮内駅】です。

写真の赤○は、ちょっと南にずれすぎかな?
写真の東側は、三井グリーンランドのゴルフ場です。

閑話休題・・・今日のところは、ここまで。



☆追記☆
ネタが無くなったはずでしたが、もう一つ忘れてました。それは・・・荒尾市電気鉄道の廃線跡です。
(1964年10月廃止・元々は旧日本陸軍が兵器工場まで敷設した線路でした)
荒尾駅の南、国道208号線と平行に南東に鹿児島本線から分かれるような道が廃線跡です。この先、国道208号とアンダークロスして緑ヶ丘へ向かいます。

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終点の平井駅にて、三池港への折り返しの出発を待ちます。

こうしてみてみると、かつて近鉄のナローである・・・たしか八王子線で見られたデ46の引く客車列車みたいな雰囲気ありませんか(@_@)

電気機関車のデ46の前面に、[八王子行き]のマークを付け客車を牽引している写真をどこかで見た覚えがあります。(当時のデ46は、緑色してたように記憶してます)

そしてこの写真、客車のコハ1両しか連結してないように見えます(?_?)
ホームの駅舎に隠れて2両目の63形のホハが見えません・・・。

もう何十年もまえから、ずっと時間が止まっているかのように感じる1枚です。
(つづく)


撮影日:1978年2月12日
撮影地:玉名支線/終点・平井駅

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折り返し 三池港行き

平井駅ホームのすぐ先にある踏切の警報機が、ゆったりとした鐘を鳴らします。

遮断機が降り、折り返しの三池港行き炭鉱電車の発車です。

炭鉱は、三交代制で休みことなく石炭を採掘していました。
一番方は朝4時に出て夕方4時に帰り、二番方は12時に出て夜0時に帰り、三番方は夜8時に出て朝8時に帰りでした。

当時の、通勤電車の時刻表をひもとくと・・・、

平日と社休日の2つの設定がありました。平日の平井行きの列車は、三池港発4時55分発から0時45発の列車まで、計18往復の設定があります。社休日もほぼ同程度の列車の設定がされていましたが、私が写真を撮った午後の時間帯は、通勤というよりは“社宅のおばさん達の買い物列車”的な利用の仕方が多かったように思います。

隣の三井グリーンランドには、今のようなジェットコースターはなく葡萄畑が広がっていて、まだまだのんびりした時代でした。

◆なお列車時刻については、以下のHPにある三池港駅の写真を参考にしました。
 HP 『ちょっと古い鉄道のお話』 特集2 軌道めぐり より “三池鉄道”
  http://www.ne.jp/asahi/tetsudo/miyata/home/index2.html


影日:1978年2月12日
撮影地:玉名支線・平井駅

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まずは住宅地図にて予習

これは、昭和58年(1983)の荒尾市住宅地図(一部)です。
通勤列車が廃止(1984年10月1日)される1年前の地図ということになります。

平井駅ですが、1つ気になる点があります。それはホームの北側にも線路がありますが、わたしの記憶では写真を撮影した1978年の時点ではなかったと思います。後で敷設されたとは考えにくいので、間違いではないでしょうか。(もちろん、以前に敷設されていた可能性はありますね)

さて、ホームのすぐ南側は「三池商事 緑ヶ丘店」とありますが、これは三池炭鉱直営の“売店”を出発点とする、いわばスーパーです。大牟田栄町にあったのは染料(三井染料-現三井化学)の“売店”といってましたが、それぞれ「サンショー」に「山西ストアー」と後ほど名称を変更したと思います。

三井グリーンランド(1966年開園)はこの当時からありましたが、果樹園のマークは実は葡萄畑で、かなりの面積を占めていました。その名の通り“グリーンランド”だったんですね。

この地図にはありませんが、南側や北側に社宅がひろがっていました。


それでは、空中写真で確認を

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◆国土交通省 国土計画局 「ウェブマッピングシステム」より 1974年 荒尾(一部)

takapyxxxxさんのコメントにあるドア付近のポールについて

昨日、takapyxxxxさんから以下のようなコメントをいただきました。
(大平駅の写真のページ参照)
私が利用していたときはドアも開いたまま平気で走っていました。
客車のデッキの開放ドアと違いこういうドアで開いたまま走るのは結構面白かったです。
“ドア付近にポールがあった記憶がありますが”
ドアを開けそこで遊んでいても誰も気にも留めなかった時代です。
このコメントいただいて、閉山までずっと三池港車庫の奥に鎮座していた客車(ホハ201)を思い起こしました。
しばらくは鉄道関係の機材置き場として利用されていたようですが、晩年は車内も荒れ放題でした。

その車内を写したのが下の写真です。(1995年頃の撮影)
見ての通り、takapyxxxxさんご指摘のドア付近のポールが写っています。
白いポールでした。
よく見ると、右側のポールには鎖が掛けてあります。
左側はというと・・・編んだヒモみたいのが下がっていますね。

天井からは、【乗車心得】がぶら下がっています。
つり革もたくさん並んでいました。

奥の車掌室?も気になるところです。

元は国電63形の3枚窓より、西日がさしこむ廃車体の車内からでした。

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