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▲1965年 三池工業・夏の甲子園全国制覇 


NHKドラマ『見知らぬわが町』 ◇視聴記◇ その5 

NHK福岡放送局開局80周年記念ドラマ 『見知らぬわが町』 視聴記◇その5


息を凝らしてじ~っと見たドラマ
三池工業の高い煉瓦塀の場面で語れた野球の話題・・・

現巨人軍の監督 原辰徳くん、 実は管理人の私と同級生であります。
とは言っても、実際に同じ学校に通っていたわけではありません(な~んだ?!) 
私との唯一の接点は、床屋さん(?_?)

今もその床屋さんはあるのでしょうか・・・
浅牟田町の三井東圧化学工場のすぐ北側、八尻町三丁目にその床屋さんはありました。
その床屋さん(内田理髪店)に私が通い始めたのは、三池工業が夏の甲子園大会で優勝をなしとげた頃です。

三池工業の甲子園優勝・・・
当時6歳だった私の記憶はというと、オープンカーに乗って実家近くの国道208号線をパレードが行く光景です。この時のパレード、何と小倉から大牟田までの約150㎞を走ったというから驚きです。当時の大牟田市の人口が約20万人(現在は約13万人)、そこに35万人もの人々が沿道を埋め尽くて三池工業ナインを迎えたといいますから、甲子園優勝を祝う大牟田の熱気はすさまじいものだったと想像できます。
今まで2回連続して、炭塵爆発に三池争議といった大牟田市民にとっては辛い出来事を取り上げてきました。当時、暗く沈み込んでいたであろう大牟田市民に、この三池工業の甲子園優勝が大きな希望と勇気を与えてくれたということは言うまでもありません。

そこで、先の床屋さんのお話。
実は、当時の三池工業野球部の監督は原 貢さん。原辰徳くんのお父さん、その人であります。その監督の奥さんの実家が、その床屋さんでありました。私の父親は、短期間でしたが大牟田高校の野球部顧問をしていました。その様な事もあってか、三池工業の優勝後わざわざ自宅から15分ほど車でかかるようなその床屋さんに、私を連れて通っていたのでした。たぶん、八本町の社宅に居たときからのなじみでの床屋さんでもあり、野球の話もしたかったのではないかと思います。どんな会話をしていたのかなどの記憶はありませんが、後に東海大相模高校の甲子園優勝記念のお皿が飾ってあったことを思い出します。

ところで、この時の三池工業の優勝が少年原辰徳に与えた影響は大きいものがあったでしょう。実際に原監督は、『炭鉱町に咲いた原貢野球』(TOP写真)の中で次のようなコメントを残しています。
僕は父親のバイクの後ろに乗せられて、三池工のグラウンドによく行ったんです。それが自然に野球に入って行くきっかけになりました。そして、全国制覇をしてパレードがあったとき、大牟田の街道に凄い人が集まった。野球というのはこんなに人を喜ばせるものなのか、凄いことを三池工のお兄ちゃん達とお父さんはやったんだ。それが僕の中で大きな出来事として現在も残っているんです。
  ◇澤宮 優『炭鉱町に咲いた原貢野球 -三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡-』現代書館

この原監督と雌雄を決する阪神の真弓明信監督もまた大牟田出身であることを皆さんご存じでしょうか?
日本球界を代表する球団の両監督が、ともに大牟田に縁のある人物とは愉快なことでございます。
ちなみにこのお二人、一時期大牟田市内の同じ社宅(当時の東洋高圧)に住んでいたというから驚きです。


最後に、原辰徳くんがお気に入りだったというお店を紹介して、今回の話題を終えるとしましょう。
そのお店とは・・・「ガード下食堂」 

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今も「ガード下食堂」は健在です。このお店の回転饅頭やうどんがお気に入りだったとか。
ガードというのは、もちろん炭鉱鉄道のガードでございます。このお店、一部は炭鉱鉄道の煉瓦造りのガードにくい込んで立ってます。

大牟田にお立ち寄りの際は、“ター坊”こと原辰徳くんが好きだった回転饅頭をご賞味あれ。 




(つづく)



◇参考までに◇

▼原辰徳 オフィシャルサイトはこちら↓↓↓
http://www.hara-spirit.net/top.html

▼真弓明信 オフィシャルサイトはこちら↓↓↓
http://www.joe72.jp/

▼両監督に関する更に詳しい大牟田関連サイトはこちら↓↓↓
http://bougaku.fc2web.com/T-G01.htm

▼当ブログ 三池監獄関連記事はこちら↓↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/ed731003/28146607.html