▲ 『三池の母の詩』 『三池のこども』 ・・・
息を凝らしてじ~っと見たドラマ
三池闘争や炭塵爆発の事が頭から離れない・・・
三池闘争や炭塵爆発の事が頭から離れない・・・
死体洗い場
1963年11月9日 午前3時15分。
458人もの労働者が殺された日。そして、いまもなお839人の頭脳を狂わせ、その家族をふくめて幾千人におよぶしあわせを、根こそぎ奪ったこの日を私たちは忘れることが出来ない。三池の大爆発の日。
その11月9日、わたしは組合から天領病院へ、夫の姿を求めて夜の町をかけまわった。
「ここです」
天領病院の耳鼻科のドアが開けられた。一歩入ったとたん、わたしは立ちすくんだ。なんということ!わたしがそこで見たものは、素っ裸にされたまま水で洗われる労働者の姿だった。
金属製の荷物運搬台の上に、横たえられた労働者の、石炭と血と泥にまみれた遺体の、その青白い顔、そのいたいたしさ。こんなにも大変なことが起こっていたのか。初めて知るその驚きと恐ろしさ、悲しさ、情けなさ、その思いのあまり、わたしはありったけの涙がドオッと出て止まらなかった・・・
◆永江美由紀 『三池の母の詩 ~三池炭じん爆発 遺族の22年~』 1986年1月15日発行より
1963年11月9日 午前3時15分。
458人もの労働者が殺された日。そして、いまもなお839人の頭脳を狂わせ、その家族をふくめて幾千人におよぶしあわせを、根こそぎ奪ったこの日を私たちは忘れることが出来ない。三池の大爆発の日。
その11月9日、わたしは組合から天領病院へ、夫の姿を求めて夜の町をかけまわった。
「ここです」
天領病院の耳鼻科のドアが開けられた。一歩入ったとたん、わたしは立ちすくんだ。なんということ!わたしがそこで見たものは、素っ裸にされたまま水で洗われる労働者の姿だった。
金属製の荷物運搬台の上に、横たえられた労働者の、石炭と血と泥にまみれた遺体の、その青白い顔、そのいたいたしさ。こんなにも大変なことが起こっていたのか。初めて知るその驚きと恐ろしさ、悲しさ、情けなさ、その思いのあまり、わたしはありったけの涙がドオッと出て止まらなかった・・・
◆永江美由紀 『三池の母の詩 ~三池炭じん爆発 遺族の22年~』 1986年1月15日発行より
私の祖父も、あの日は天領病院にてこのような光景の一隅にいた。
母や父が同じように祖父を捜しもとめたらしい。
母は多くを語らないが、幼き日に聞いた話はこの文の中身と一緒だ。
幸い祖父には外傷は全くと言っていいほどなかったらしい。ただ、一酸化炭素中毒特有の肌の色をしていたらしい・・・。
母や父が同じように祖父を捜しもとめたらしい。
母は多くを語らないが、幼き日に聞いた話はこの文の中身と一緒だ。
幸い祖父には外傷は全くと言っていいほどなかったらしい。ただ、一酸化炭素中毒特有の肌の色をしていたらしい・・・。
私が知り得る内容は、ここまでである。
当時4歳だった私には、全くこの日の記憶は残っていない。
当時4歳だった私には、全くこの日の記憶は残っていない。
時は経て・・・1985(昭和60)年8月12日18時56分
日本航空123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ジャンボジェット
群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落・・・
日本航空123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ジャンボジェット
群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落・・・
乗員乗客524名のうち死亡者数520名、生存者(負傷者)4名
この事故のニュースを見ながら、炭塵爆発事故とあの日の天領病院を想起している自分がいた。
◆1963(昭和38)年11月 9日
三井三池三川坑にて炭塵爆発
死亡者 458名
CO(一酸化炭素)中毒患者(重軽傷) 839名
三池労組 死亡 163名 CO中毒(重軽傷) 319名
新労組 死亡 242名 CO中毒(重軽傷) 427名
職 組 死亡 25名 CO中毒(重軽傷) 59名
組 夫 死亡 28名 CO中毒(重軽傷) 34名
三井三池三川坑にて炭塵爆発
死亡者 458名
CO(一酸化炭素)中毒患者(重軽傷) 839名
三池労組 死亡 163名 CO中毒(重軽傷) 319名
新労組 死亡 242名 CO中毒(重軽傷) 427名
職 組 死亡 25名 CO中毒(重軽傷) 59名
組 夫 死亡 28名 CO中毒(重軽傷) 34名
この炭塵爆発がおきたのは、子ども達をも巻き込んて闘われた三池闘争の終結後、わずか3年の出来事であった。
(つづく)