森崎和江・川西到 『与論島を出た民の歴史』 たいまつ社 1975年 第二刷発行
カバーを開くと、次のような言葉が記されている。
カバーを開くと、次のような言葉が記されている。
明治三一年八月、与論島を襲った未曽有の台風は、島の殆ど全戸を倒し、直後に続く旱ばつ、悪病の流行は、全島を生き地獄と化せしめた。三井資本の誘いに応じて明治三二年、二四○名の島民が集団で長崎県口之津へ移住。 以後、数次にわたる集団移住を重ねる与論人は、口之津から大牟田(三池)へと移住する。本土の資本主義発展下、最下層の労働集団として在りつづけた民の歴史が、ここに掘り起こされ、ひらかれる。
故郷 大牟田を離れ、炭鉱の歴史に興味を抱きつつ、三池炭鉱関係の書籍を探し求めていた時に巡り会った本である。すでにいくつかの書籍を読んでいた私にとって、与論島から移住してきた人々が大牟田にいらっしゃることは知っていた。また、「ヨーロン」と呼ばれ差別を受けてきたことも知識としてあった。三井三池炭鉱をめぐっては、与論島出身の方々以外にも、戦時中の朝鮮人強制連行や連合国軍の捕虜、直轄夫に対しての下請け労働者、三池争議を契機とする第一組合と第二組合などなど、労務管理に関しては様々な軋轢を生じてきた。私がここで語る知識も経験も十分に持ち合わせているわけではないが、三池炭鉱を語るに際して素通りにできない事柄であることは間違いない。
その与論島出身の方々が、大牟田(三池)に移住して今年がちょうど100年を数える。
4日(土)には、与論出身者の共同納骨堂で「三池移住百年祭」が開催されたとのこと↓↓↓
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/163234
4日(土)には、与論出身者の共同納骨堂で「三池移住百年祭」が開催されたとのこと↓↓↓
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/163234
そして、本日の朝日新聞朝刊社会面の連載記事 『百年の春』に、「差別越え3年前やっと」の記事が掲載された。「3年前やっと」とは・・・大牟田の夏祭りである大蛇山まつりの総踊りのこと。炭坑節の踊りのパレードに、大牟田・荒尾地区与論会の会員の方々のエイサー姿が3年前からあることを語っている。
『与論島を出た民の歴史』はすでに112年の時を刻んでいる。大牟田(三池)の地での差別の歴史をも背負いつつ、ここにエイサー姿の炭坑節を踊る姿があることに、ユンヌ(与論)の人々の生きざまと誇りを感ぜずにはおられない。
ここ数日間の新聞記事を読めば、与論島出身の方々の歴史と現在に思いを馳せないわけにはいかないであろう。