
▲昔ノ三川村漁村時代 / 現在ノ三池港 昭和初期頃の絵葉書より
前回から 『三池築港の資金計画』 と題し、三井鉱山や三井物産の経営的側面から三池築港についての探索を試みていますが、今回は「三井物産」の視点から三池築港計画を見てみることにいたしましょう。
今回の時計の針も、三池築港工事にGOサインがでた1902(明治35)年頃となります。
「三井物産」といえば、官営三池炭鉱の時代から、三池炭の販売権を一手に引き受けてきた会社であります。三池炭鉱の払い下げについて深く関わった三井物産ですが、払い下げ後も三池炭販売の一切を依託されていたのでした。
当時の三井物産は、三池炭を国内はもとより上海・香港など海外に向けて販売していました。「販売数量では、海外60%台、国内30%台であるが、販売金額では海外約80%、国内約20%」(注1)の割合で、海外市場での売炭の利益が大きかったことがわかります。
海外売炭の多くが、バンカー炭(船舶焚料炭)であり、高品質の塊炭であったことがその主な理由でしょう。
当時の三井物産は、三池炭を国内はもとより上海・香港など海外に向けて販売していました。「販売数量では、海外60%台、国内30%台であるが、販売金額では海外約80%、国内約20%」(注1)の割合で、海外市場での売炭の利益が大きかったことがわかります。
海外売炭の多くが、バンカー炭(船舶焚料炭)であり、高品質の塊炭であったことがその主な理由でしょう。
さて、その三井物産にして、三池築港を推し進める最大の理由は、輸送コストの削減と迅速化にあったと考えられます。1900年頃の中国(清)といえば・・・・欧米列強の帝国主義による進出が盛んに行われていた頃。これら帝国主義諸国の手によって、中国における炭鉱の開発が進められていました。
この中国における炭鉱開発にともない、東アジアでの石炭市場における競争の激化が予想されました。
この中国における炭鉱開発にともない、東アジアでの石炭市場における競争の激化が予想されました。
明治35年12月15日号の『東洋経済新報』にて、団琢磨は次のように述べています。
支那炭鉱の開採 是れ最も我に取って強敵なり、(中略) 若し夫れ支那は我の石炭市場として最も大なるもの、支那石炭にして大に産出せんか直ちに至大の影響を蒙らざる能わず
三池築港が決定された1902(明治35)年の4月、三井物産支店長会議の席上、社長である益田孝は以下のような演説をしました。(注2)
三池築港ノ事ハ一朝一夕ノ設計ニ非ラス、鉱山局時代ヨリ石黒五十二氏之ヲ計画セラレ、団氏時代トナリテ、ボーリングモ遣リ又調査モナシ技師モ欧米ヘ派遣シ専心此事ヲ研究シ、其極三池ニ於テ独力ニテ設計シ其設計ヲ石黒氏ニモ見セタル処、此設計ハ完全シ居ル此以外ニ工夫アルマシトノ事ニテ同族会ノ評議モ既ニ済シタル次第ナリ (中略)
向後膠洲湾ノ炭モ出ツヘク開平モ沢山掘リ出スナラム、之ニ対抗シテ敗ヲ取ラサル様為スニハ口ノ津丈ニテハ不十分ニテ競争場裡ニ勝ヲ占ムルコト難シ、之ト大ニ競争ヲ試ミントスルニハ経費ヲ省キ炭ノ原価ヲ安クスルノ外ナシ、三池ノ築港ニシテ完成ノ暁ニハ何処ノ炭ヨリモ安ク供給シ得ヘシ、三池ハ多ク掘レハ掘ル程安ク付ク、今日迄ハ艀ニ依リタル故運賃割高ニ当リタルモ築港完成シ運賃安クナル以上ハ大ニ炭ノ直段ヲ引下ケ得ベシ (後略)
出典:「支店長諮問会議事録」 三井文庫所蔵史料 物産一九七-一 甲八-九頁
向後膠洲湾ノ炭モ出ツヘク開平モ沢山掘リ出スナラム、之ニ対抗シテ敗ヲ取ラサル様為スニハ口ノ津丈ニテハ不十分ニテ競争場裡ニ勝ヲ占ムルコト難シ、之ト大ニ競争ヲ試ミントスルニハ経費ヲ省キ炭ノ原価ヲ安クスルノ外ナシ、三池ノ築港ニシテ完成ノ暁ニハ何処ノ炭ヨリモ安ク供給シ得ヘシ、三池ハ多ク掘レハ掘ル程安ク付ク、今日迄ハ艀ニ依リタル故運賃割高ニ当リタルモ築港完成シ運賃安クナル以上ハ大ニ炭ノ直段ヲ引下ケ得ベシ (後略)
出典:「支店長諮問会議事録」 三井文庫所蔵史料 物産一九七-一 甲八-九頁
演説にある「膠洲湾」とは、ドイツの租借地であった山東半島の青島、「開平」は「撫順」につぐ中国第2位の炭田。これらの中国炭との競争に打ち勝つには、輸送経費の削減を目指した三池築港が必要であることを訴えた内容です。
この演説が行われた1902(明治35)年4月以前に、団琢磨によって三井鉱山合名会社の出資社員である三井同族十一家への三池築港プレゼンテーションがなされ、「同族会ノ評議モ既ニ済シ」三池築港が正式に決定されたのでした。
いよいよ、官営時代からの念願であった築港計画が実際に動きはじめようとしています。
1902(明治35)年という年は、三井にとっては払い下げ年賦金(15ヶ年)の完納を終える年でもあります。
(当時、年額253,928円)
「団は、万田第一坑竣工と三池払下年賦金完納の年にあたる明治35年という時期を選んで、三井最高幹部に予算案を提出」(注3)して、三池築港の認可をもとめたのでした。
1902(明治35)年という年は、三井にとっては払い下げ年賦金(15ヶ年)の完納を終える年でもあります。
(当時、年額253,928円)
「団は、万田第一坑竣工と三池払下年賦金完納の年にあたる明治35年という時期を選んで、三井最高幹部に予算案を提出」(注3)して、三池築港の認可をもとめたのでした。
次回は、表題にしている資金計画についての実際を探索してみたいと思います。
(つづく)
◆注1 畠山秀樹 「三池炭鉱の発展と三井鉱山会社」 『福岡県史』 通史編 近代産業経済(一) 670頁より引用
◆注2 『三井事業史』 本篇第二巻 710~711頁を参考に記載した
◆注3 畠山秀樹 「三池炭鉱の発展と三井鉱山会社」 『福岡県史』 通史編 近代産業経済(一) 599頁より引用