▲ ボストン留学時代の團琢磨
〈出典〉 『男爵団琢磨伝』 口絵写真より
写真左から團琢磨、金子堅太郎、栗野慎一郎 明治8年12月12日(写真裏の自署日付)
この写真は、團のボストン留学時代の写真です。
1871(明治4)年、時の明治政府は岩倉具視を全権大使として、先進欧米諸国の視察と条約改正を目的に、大規模な欧米使節団を派遣したのは皆さんご存じのことと思います。同時に政府は、国家の近代化を図る目的で公家や大名達にはたらきかけ、その子弟や有能な家臣の青年達を選出して海外留学に派遣することを勧めていました。
これに福岡藩からは團琢磨と金子堅太郎が選抜され、藩主黒田長知に従って米国留学をすることなったのでした。
この写真には、この時に共に留学した金子堅太郎と、遅れて留学が認められた栗野慎一郎の3名が写真におさめられています。
團琢磨は、マサチューセッツ工科大学鉱山学科、金子堅太郎はハーバード大学法学部に留学。
金子は、帰国後は伊藤博文を助けて大日本帝国憲法の制定に大きな功績を残す一方、ハーバード大学の学友であったセオドア・ルーズベルトの支援を得て、日露戦争の講和会議でも活躍しました。
栗野慎一郎は、2人と共に留学の予定でしたが、「1867(慶応3)年、長崎で藩士金子才吉が英人水夫二名を斬殺ざんさつした時に、たまたま十七歳の栗野も現場に居合わせたことで、明治二年正月に禁固三年の処分が下り、留学を断念せざるをえなかった」とのこと。(注1)
2人に遅れること4年、栗野はハーバード大学に進み、1881(明治14)年に卒業して帰国。外務省に入省し、日露戦争当時の駐露公使をつとめました。
ちなみに、團と金子は米国の小学校から始めて大学へ進学したとのことです。
◆注1 「 」内は、以下のHPの記述を引用いたしました。
http://monokatari.jp/isitaki/file002.php?catid=580&blogid=163
〈出典〉 『男爵団琢磨伝』 口絵写真より
写真左から團琢磨、金子堅太郎、栗野慎一郎 明治8年12月12日(写真裏の自署日付)
この写真は、團のボストン留学時代の写真です。
1871(明治4)年、時の明治政府は岩倉具視を全権大使として、先進欧米諸国の視察と条約改正を目的に、大規模な欧米使節団を派遣したのは皆さんご存じのことと思います。同時に政府は、国家の近代化を図る目的で公家や大名達にはたらきかけ、その子弟や有能な家臣の青年達を選出して海外留学に派遣することを勧めていました。
これに福岡藩からは團琢磨と金子堅太郎が選抜され、藩主黒田長知に従って米国留学をすることなったのでした。
この写真には、この時に共に留学した金子堅太郎と、遅れて留学が認められた栗野慎一郎の3名が写真におさめられています。
團琢磨は、マサチューセッツ工科大学鉱山学科、金子堅太郎はハーバード大学法学部に留学。
金子は、帰国後は伊藤博文を助けて大日本帝国憲法の制定に大きな功績を残す一方、ハーバード大学の学友であったセオドア・ルーズベルトの支援を得て、日露戦争の講和会議でも活躍しました。
栗野慎一郎は、2人と共に留学の予定でしたが、「1867(慶応3)年、長崎で藩士金子才吉が英人水夫二名を斬殺ざんさつした時に、たまたま十七歳の栗野も現場に居合わせたことで、明治二年正月に禁固三年の処分が下り、留学を断念せざるをえなかった」とのこと。(注1)
2人に遅れること4年、栗野はハーバード大学に進み、1881(明治14)年に卒業して帰国。外務省に入省し、日露戦争当時の駐露公使をつとめました。
ちなみに、團と金子は米国の小学校から始めて大学へ進学したとのことです。
◆注1 「 」内は、以下のHPの記述を引用いたしました。
http://monokatari.jp/isitaki/file002.php?catid=580&blogid=163