▲今月(7月)の一枚 : 三港運送の “炭鉱バス”
撮影日:2007年 1月 1日
「炭鉱電車」があるなら「炭鉱バス」もあり(@_@)
1968(昭和43)年、宮浦坑の閉坑にともなって宮浦~東谷間(3.3辧砲両[線廃止が決定されました。
この頃のフクニチ新聞記事を繙くと(昭和43年12月8日付)・・・
「勝立線廃止と宮浦坑の三川坑への移管にともない、勝立線が廃止された」という内容の記事中に、三港運送が「特定旅客自動車運送事業の免許を得た」という記述があります。
勝立線の通勤列車の廃止と宮浦坑の閉坑にともない、勝立方面の社宅から三川坑への通勤が不便となったため、三港運送によるバス運行が始まったのではないかと思います。
私の記憶の中にも、この写真にある塗色のバスが残っています。
“炭鉱バス”というのは私の造語ですが、大牟田市内を西鉄バスとは別に、この三港運送のバスが走っていたのでした。
いまも残るこの廃車体は、往時を物語る貴重な記録でもあるのです。
撮影日:2007年 1月 1日
「炭鉱電車」があるなら「炭鉱バス」もあり(@_@)
1968(昭和43)年、宮浦坑の閉坑にともなって宮浦~東谷間(3.3辧砲両[線廃止が決定されました。
この頃のフクニチ新聞記事を繙くと(昭和43年12月8日付)・・・
「勝立線廃止と宮浦坑の三川坑への移管にともない、勝立線が廃止された」という内容の記事中に、三港運送が「特定旅客自動車運送事業の免許を得た」という記述があります。
勝立線の通勤列車の廃止と宮浦坑の閉坑にともない、勝立方面の社宅から三川坑への通勤が不便となったため、三港運送によるバス運行が始まったのではないかと思います。
私の記憶の中にも、この写真にある塗色のバスが残っています。
“炭鉱バス”というのは私の造語ですが、大牟田市内を西鉄バスとは別に、この三港運送のバスが走っていたのでした。
いまも残るこの廃車体は、往時を物語る貴重な記録でもあるのです。