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                  ▲ 團 琢磨(左) と 牧田 環(右) の肖像   

〈出典〉 團 琢磨 : 昭和7年初春 石川島播磨造船所にて  『男爵団琢磨伝』   口絵写真より                牧田 環 : 大正7年 三井鉱山常務就任当時     『牧田環伝記資料』 口絵写真より

明治31年 團・牧田の海外視察 その1 「牧田環の日記」

三池築港百話 第八話は、牧田環(まきた たまき)の残した日記や談話をもとに、三池築港前史を繙く その1回目 「牧田環の日記」です。
今回の時計の針は、三池築港工事が始まる4年前の1898(明治31)年頃となります。

前回までは、官営三池炭鉱時代の終わりに計画された、石黒五十二の三池築港計画の概略を見てきました。
この計画は日の目を見ることはありませんでしたが、計画の基本は後の三池港築港につながっていくことになります。
さて、はじめに三池炭鉱の三井への払い下げから、今回取り上げる1898(明治31)年までの三池炭鉱の歴史と團・牧田の動静を簡単に見ておきましょう。

1888(明治21)年 三池炭鉱が三井に払い下げられ、三井組による三池炭鑛社が誕生。
             この時団琢磨は・・・勝立坑の湧水問題解決のためポンプの調査・研究 を主たる目的と             した海外出張中。帰国後三池炭鑛社に入社、三池炭鑛事務長就任。
1891(明治24)年 大牟田川河口の横須浜に“龍宮閣”(船渠・高架桟橋)完成
1892(明治25)年 三井鉱山合資会社設立、翌年三井鉱山合名会社に改組。
             また、三池炭鑛社改め三井三池炭鑛事務所と改称。
1894(明治27)年 団琢磨 三井鉱山合名会社専務理事に就任(三池炭鑛事務長兼務)
             〈日清戦争勃発〉
1895(明治28)年 牧田環 帝国大学工科大学採鉱冶金学科卒業、三井鉱山合名会社入社。
             勝立坑出炭を開始。
1897(明治30)年 牧田環 三池炭鑛勤務を命じられる。

本題である、1898(明治31)年に進みましょう。

この年(明治31年)の6月17日、横浜港のエンプレス・チャイナ号の船上には、三井鉱山合名会社専務理事の団琢磨と三池炭鑛の新進気鋭の技術者2名の姿がありました。
新進気鋭の技術者とは・・・一人はここに取り上げる日記をしたためた牧田環、そして牧田の先輩である松原嶢(帝国大学工科大学機械工学科卒)の2名です。
團一行は、欧米の最新鉱山技術や港湾施設の調査・研究を目的に、アメリカ・イギリスなどにて翌年の2月20日に長崎へ帰港するまでの間、精力的に調査活動を行ったのでした。

この欧米視察の様子を「牧田環の日記」を繙きながら、当時彼らが思い描いていた三池築港の計画案をおぼろげではありますが、浮かび上がらせたいと思います。
牧田が記録した5冊の手帳には、詳細なる調査の行程が記入されています。残念ながら、6月17日から8月27日は欠けており、8月28日のドリフトン(アメリカ)から始まります。

それでは、次回は三池築港に関する内容を中心に、この視察旅行を少しばかり再現することに致しましょう。

(つづく)


◆この論考は、森川英正編著 『牧田環伝記資料』 日本経営史研究所 1982 を参考とした。