▲ 停舩渠潮溜場及水閘室之平面圖
〈出典〉 「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」中の 計畫附属圖 第貳號 第三圖
*図をクリックすると、より鮮明な画像にてご覧になれます
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明治22年の築港計畫要畧 その5 「停船渠」
三池築港百話 第七話は、石黒五十二・長崎 桂になる「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」をもとに、三池築港前史を繙く その5回目 「停船渠」です。今回の時計の針も、官営三池炭鉱が三井に払い下げられた年の1889(明治22)年頃となります。
それでは、上の図をもとに石黒五十二技師による「停船渠」案を見てみることにしましょう。
すでに皆さんご存じのように、干満の差が激しい有明海での築港です。
大牟田川河口に建設した“龍宮閣”同様に、潮の干満の差なく石炭を船積するには「停船渠」は必要不可欠の施設でした。
この「停船渠」の入り口には閘門を設け、船渠内の水位を保つわけですが、石黒五十二技師が計画したところの「停船渠」の実際はというと・・・
大牟田川河口に建設した“龍宮閣”同様に、潮の干満の差なく石炭を船積するには「停船渠」は必要不可欠の施設でした。
この「停船渠」の入り口には閘門を設け、船渠内の水位を保つわけですが、石黒五十二技師が計画したところの「停船渠」の実際はというと・・・
閘門は十分に注意して築造しても洩水の心配があるので、図に示すように三ヶ所に建設する必要がある。そして、洩水を減らし且つ船舶の出入りを便利にするため、停船渠と内港の間に長さ七拾間(約127.3m)・幅四十二間(約76.4m)の潮溜場を設ける
というものでした。
先の図の右側が内港であり、その内港に面する第一閘門を経て潮溜場へ。
そして、潮溜場から停船渠へはさらに第二・第三の閘門を経るというものです。
また、潮溜場と停船渠をつなぐ水路の幅は拾貳間(約21.8m)とする設計になっていました。この水路の幅が、この「停船渠」に入港できる船舶の大きさを決定づける事となりますが、計画では「三・四千噸積のもの四・五艘を繋留して同時に石炭を船積する」とあります。
先の図の右側が内港であり、その内港に面する第一閘門を経て潮溜場へ。
そして、潮溜場から停船渠へはさらに第二・第三の閘門を経るというものです。
また、潮溜場と停船渠をつなぐ水路の幅は拾貳間(約21.8m)とする設計になっていました。この水路の幅が、この「停船渠」に入港できる船舶の大きさを決定づける事となりますが、計画では「三・四千噸積のもの四・五艘を繋留して同時に石炭を船積する」とあります。
「停船渠」についてさらに計画案を詳しく見てゆくと・・・
長さ二百間(約363.6m)幅四拾五間(約81.9m)のもの貳箇を築造するものであるが、目下貳箇を設ける必要はなく経費節減のためにも壱箇のみを設ける。(中略)
停船渠の面積は、壱箇の停船渠のみでも壱万五千七百五十坪(約51、975㎡)の面積があり、十分の広さがあるものと信ずる。 *図では、予備地として追加の停船渠が点線で描かれています
停船渠の面積は、壱箇の停船渠のみでも壱万五千七百五十坪(約51、975㎡)の面積があり、十分の広さがあるものと信ずる。 *図では、予備地として追加の停船渠が点線で描かれています
ここに述べた計画以外にも、停船渠の深さ(干満平均潮水位以下25尺 約7.6m)・擁壁面の石積・擁壁築設の掘鑿・停船渠周囲の埋築などの詳細な計画が述べられていますが、ここでは割愛致します。
以上、縷々述べてきましたが、この築港建設費は金貳百万円という巨額なものでしたが、石黒五十二技師は、三池炭鉱の出炭予想をもとにした損益予算・築港費消却後損益予算・口之津経由での輸送費用予算をもとに、その十分なる経済性をも述べたのでした。
最後に、欧米各国との石炭市場での競争をあげ、口之津経由の無駄を省いたこの築港計画の重要性を説いた石黒五十二でした。
最後に、欧米各国との石炭市場での競争をあげ、口之津経由の無駄を省いたこの築港計画の重要性を説いた石黒五十二でした。
さて、この築港計画発表と時を同じくして、官営三池炭鉱は三井に払い下げられることとなります。
そして、築港計画案を受け継ぎ、後に“三池港”と命名されることとなる築港の中心にあったのが、団琢磨と牧田環でした。
そして、築港計画案を受け継ぎ、後に“三池港”と命名されることとなる築港の中心にあったのが、団琢磨と牧田環でした。
次回からは、牧田環の日記や談話をもとに、三池築港前史を繙いてみたいと思います。
(つづく)
◆「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」の詳細については、 日本鉱業史料集刊行委員会/編 『日本鉱業史料集 第17期 明治篇 前 下』 白亜書房 1994 を参照下さい。