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▲ 三井船渠繋船壁  THE QUAYWALL, MITSUI DOCK.  

〈出典〉 土木学会附属 土木図書館所蔵 

明治22年の築港計畫要畧 その2「船溜所ノ築設ノ企」

三池築港百話 第四話は、石黒五十二・長崎 桂になる「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」をもとに、三池築港前史を繙くことといたしましょう。
今回の時計の針も、官営三池炭鉱が三井に払い下げられた年の1889(明治22)年頃となります。

さて、吉原政道になる論考の紹介から始まった「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」ですが、まずは官営時代の三池炭鉱における運送の分析から始まります。
当時の大牟田川河口の“龍宮閣”から口之津への運炭についての問題点を要約すると・・・
(1)経済的に不利であること
(2)帆船・曳船から汽船への積み替えが不便であること
(3)良塊炭がたび重なる積み替えにより粉炭となり品質が低下すること
などが指摘されています。
論考を読むにつけ、単なる土木事業というだけではなく、経済性にも目を向けていた点が明治時代の技師達の面目躍如といったところです。

計畫要畧から、具体的な数字をみてみましょうか。
(前略)三池より口之津まで壱噸につき金貳拾八銭なり。(伹し三池にての積込賃共)之れに口之津港にて陸揚げ及び本船へ積込費を合すれば、少なくも壱噸につき金三拾銭を下らず。然るに、もし風波強くして汽船といえども・・・(中略)
壱噸につき運送費等を合し金三拾銭として、目下産出の炭量凡そ三拾万噸に乗すれば此費額年に金九万円となり、若し見込の如く後来年々平均七拾万噸を産出するに於いては金貳拾万円の多額にのぼる(後略)

この論考が世に出た1889(明治22)年時点での三池炭鉱出炭高は、47万トン。
当時の予想では、1906(明治39)年の出炭量が89万トンとされていますが、万田坑の出炭が1902(明治35)年11月から始まって以来、実際の出炭量は予想を遙かに上回る148万トン(明治39年)となっていました。
これは、官営時代の約3倍の出炭量ということになります。
官営時代の1886(明治19)年時点ですでに「拾九万五千四百五拾円余りの利益」を得、四百五十五万五千円にて三井に払い下げられた三池炭鉱としてみれば、吉原政道も論じたように三池港築港経費についても 「興業費凡貳百万円を要する見込みなり。然れも此の金額は三池煤田の価格より考えれば、決して恐擢するに及ばざるが如し」(注)という結論に達したのでした。

論考は、この後三池築港の具体的な調査内容にすすんでいきますが、本日はここまでといたしましょう。
ところで、今回のトップにある絵葉書は、土木学会会長をも務めた石黒五十二にちなみ 「土木学会附属 土木図書館所蔵」の一枚をUPしました。三池港船渠の岸壁を写し出した一枚で、岸壁には三池式快速石炭船積機(ダンクロ・ローダー)が2台あります。
その奥には、蒸気機関車牽引の炭車と三川発電所の煙突2本が見て取れます。また、背後の四ツ山と長崎税関三池支署も印象的です。
ダンクロが2台の時代とすれば、3号機が設置された1911(明治44)年以前、三池港開港時の1908(明治41)年頃と思われます。

(つづく)

◆注 吉原政道  「三池鉱山景況」 『工学会誌』第80巻所収(明治21年8月 741~742頁)