1974(昭和49)年撮影の空中写真による 「線路復元地図 ~馬車軌道併設篇~」
元祖 石炭積出港考察 (最終回) 「線路復元」篇
地図から三池炭鉱専用鉄道を探るシリーズ第13回目・・・今回は、石炭積出港考察のまとめとも言える 1974(昭和49)年撮影の空中写真による「線路復元地図 ~馬車軌道併設篇~」からはじめることといたしましょう。
ついに、元祖 石炭積出港についての考察も最終回を迎えました。
前回までに、三池炭鉱専用鉄道が開通し、ここ横須浜船積場“龍宮閣”には二つの「高架桟橋」が設置されたことを述べてきました。
この二つの「高架桟橋」の空中写真での復元は簡単です。(上の空中写真中 赤色線)
直接“龍宮閣”の岸壁に隣接する第一桟橋(注1)からの船積用シュートは4ヶ所で、地図上では■の黄色で表現しました。
問題は、船積用の第一桟橋北側に位置する第二桟橋です。この桟橋からは、当然ですが直接船に石炭を積み込むことは出来ないことから、貯炭用の桟橋と考えられます。そこで、次の写真からナローの積み出し線路があったのではないかと推測してみました。
この二つの「高架桟橋」の空中写真での復元は簡単です。(上の空中写真中 赤色線)
直接“龍宮閣”の岸壁に隣接する第一桟橋(注1)からの船積用シュートは4ヶ所で、地図上では■の黄色で表現しました。
問題は、船積用の第一桟橋北側に位置する第二桟橋です。この桟橋からは、当然ですが直接船に石炭を積み込むことは出来ないことから、貯炭用の桟橋と考えられます。そこで、次の写真からナローの積み出し線路があったのではないかと推測してみました。
◆注1 前回の論考にて、第二桟橋も同様このような仮の名称を使用しました。
▲133 大牟田港 Ⅰ 『ふるさとの想い出 写真集 大牟田』 国書刊行会 1982年刊 より
解説には「大牟田港内にある鉄道桟橋や船積桟橋、明治42年頃の写真」とあります。
この写真は、二つあった「高架桟橋」の間より東側方面を望んで撮影されたものです。
第一桟橋下のすぐ北側に、ナローのトロッコ線がはっきりと見て取れます。
さらにこのナローの線路をよく見ると、第一桟橋にあった船積用シュート間の中程を“龍宮閣”の岸壁側にカーブしています。
以上のことから、貯炭場からの石炭積み出し用のナロー線を推測してみました。
空中写真の水色線が、このナローの積み出し線路を表しています。
ただ、このナローのトロッコ線だけではなく、人海戦術にて船積されたのではないかと想像されます。
この写真は、二つあった「高架桟橋」の間より東側方面を望んで撮影されたものです。
第一桟橋下のすぐ北側に、ナローのトロッコ線がはっきりと見て取れます。
さらにこのナローの線路をよく見ると、第一桟橋にあった船積用シュート間の中程を“龍宮閣”の岸壁側にカーブしています。
以上のことから、貯炭場からの石炭積み出し用のナロー線を推測してみました。
空中写真の水色線が、このナローの積み出し線路を表しています。
ただ、このナローのトロッコ線だけではなく、人海戦術にて船積されたのではないかと想像されます。
次に、前回見た絵はがき「三井鉱山会社三池炭鉱 石炭積出桟橋」と同じような角度からではありますが、もう一枚の写真を見てみましょう。
▲三池炭礦 濱貯炭場及桟橋 『三池炭礦寫真』より(撮影年度など詳細は不明)
UPした写真では見づらいとは思いますが、手前にある小屋の左側に半ば埋もれたようにナローの線路が走っているのが見て取れます。また、第二桟橋下の貯炭場にはかなりの貯炭があるのがうかがえます。
この写真と、大浦坑からの馬車軌道残存時代(明治32年に廃止)の記述(注2)をもとに、“龍宮閣”の大牟田側のナロー線と桟橋4ヶ所を推測してみました。
◆注2 横須浜船積場解説の後に「尚此の海岸の一方に馬車鉄道に接続する小桟橋四ヶ所あり 皆海上に出でて直ちに船舶轉載の便に供す」とあり
高野江基太郎著 『筑豊炭鉱誌 附三池炭鉱誌』 中村近古堂 1898(M31)年発行より
この写真と、大浦坑からの馬車軌道残存時代(明治32年に廃止)の記述(注2)をもとに、“龍宮閣”の大牟田側のナロー線と桟橋4ヶ所を推測してみました。
◆注2 横須浜船積場解説の後に「尚此の海岸の一方に馬車鉄道に接続する小桟橋四ヶ所あり 皆海上に出でて直ちに船舶轉載の便に供す」とあり
高野江基太郎著 『筑豊炭鉱誌 附三池炭鉱誌』 中村近古堂 1898(M31)年発行より
“龍宮閣”の南側にこの馬車軌道の小桟橋があったことは間違いなさそうですが、“龍宮閣”北側の貯炭場との間に軌道が敷設されていたかどうかについては不確かです。
なお、大正時代には馬車軌道のなれの果てが、三池港開港によって主要な役目を終えたこの高架桟橋まで軌道を延ばしていたことは、「石炭積出港考察 その2」で見てきた通りです。
なお、大正時代には馬車軌道のなれの果てが、三池港開港によって主要な役目を終えたこの高架桟橋まで軌道を延ばしていたことは、「石炭積出港考察 その2」で見てきた通りです。
さて、ここで貯炭場について簡単な考察を試みましょう。
まずは、選炭と貯炭との関係についてです。
まずは、選炭と貯炭との関係についてです。
農商務省鉱山局 『鉱山発達史』 1900(M33)年発行 の「三池鉱山」坑外運炭の項を見てみると・・・
(前略) 坑外に選炭機を設置し、竪坑より巻揚げたる炭は直ちに選炭機に投入し、大塊炭・中塊炭・小塊炭及粉炭に精選しつつ、選炭機下にある容積四噸入の炭車に移入せしむ (後略)
とあるように、4種類の商品としての石炭がありました。
とすると、この4種類の石炭について貯炭場及び船積場を分けて配置したとは考えられないでしょうか?
これはあくまで推測ですが、小塊炭・粉炭については第二桟橋下の貯炭場にて一旦貯炭して積み込む。大塊炭・中塊炭は、第一桟橋の鉄板製シュートより直接船積した(^_-)
とすると、この4種類の石炭について貯炭場及び船積場を分けて配置したとは考えられないでしょうか?
これはあくまで推測ですが、小塊炭・粉炭については第二桟橋下の貯炭場にて一旦貯炭して積み込む。大塊炭・中塊炭は、第一桟橋の鉄板製シュートより直接船積した(^_-)
先の農商務省鉱山局 『鉱山発達史』をして「水陸運搬の利亦完全と伝うべし」と言わしめたこの高架桟橋ですが、さらに特記べきことがあります。
それは、すでに電燈と電話が設置されている事です。
あらためて先の写真をご覧下さい。第一桟橋の鉄板製シュート部分、そして第二桟橋にも計4~5ヶ所に電燈が設置されているのがよく分かります。また、両高架桟橋の間にある電柱は電話線ではないでしょうか。
『鉱山発達史』には「坑内外ニ電燈・電話ヲ使用スル為メ発電所ヲ七浦ニ置キ発電機二臺ヲ備フ」と記述されています。この七浦発電所は、1894(明治27)年12月8日に操業を開始し、この日初めて坑外に電燈がともったのでした。
それは、すでに電燈と電話が設置されている事です。
あらためて先の写真をご覧下さい。第一桟橋の鉄板製シュート部分、そして第二桟橋にも計4~5ヶ所に電燈が設置されているのがよく分かります。また、両高架桟橋の間にある電柱は電話線ではないでしょうか。
『鉱山発達史』には「坑内外ニ電燈・電話ヲ使用スル為メ発電所ヲ七浦ニ置キ発電機二臺ヲ備フ」と記述されています。この七浦発電所は、1894(明治27)年12月8日に操業を開始し、この日初めて坑外に電燈がともったのでした。
先の『筑豊炭鉱誌 附三池炭鉱誌』によると・・・
○電 話 本礦事務所に電話交換室を置き各採礦所及宮浦七浦の汽車場 海岸桟橋取扱所等に架設 し処務上非常の便益を与え居れり
○電気燈 線路発電機より電路盤の各安全器及び開閉器を経て左にの三個の本線を架設せり 第一 石炭積場線(この線路にて点火する区域は、宮ノ浦坑工場・大浦坑工場・ 炭坑事務所・器械科・石炭積場・下里社宅線・大牟田市中) (後略)
○電気燈 線路発電機より電路盤の各安全器及び開閉器を経て左にの三個の本線を架設せり 第一 石炭積場線(この線路にて点火する区域は、宮ノ浦坑工場・大浦坑工場・ 炭坑事務所・器械科・石炭積場・下里社宅線・大牟田市中) (後略)
電話については、官営時代の1884(明治17)年に「三池鉱山本局ヨリ七浦工場間ニ初メテ電話ヲ開通」し、1893(明治26)年10月に「電話交換ヲ開始ス」とあります。(注3)
◆注3 『三池鉱業所沿革史』 総年譜による
最後に、現在の“龍宮閣”の様子をご覧にいれ、この論考を終わりたいと思います。
(大牟田港については、また項をあらため原田源次郎や運炭船について述べたいと思います)
(大牟田港については、また項をあらため原田源次郎や運炭船について述べたいと思います)
▲現在の貯炭場跡 肥筑燃料部 専用鉄道築堤跡から西方を望む
▲現在の“龍宮閣”跡 明治ポンプ場 右手の垣根方向が貯炭場跡
撮影地:大牟田市北磯町
撮影日:2007年11月4日
(つづく)
撮影日:2007年11月4日
(つづく)