▲ 三池港附近諏訪橋 SUWA BRIDGE OF SUBURB AT PORT MIIKE. (末藤書店発行)
〈出典〉 『三井三池築港 拾貳景繪葉書帖 第二輯』 津村寫 末藤書画店發行 より
福岡県立図書館所蔵
福岡県立図書館所蔵
※この絵葉書は、福岡県立図書館の「特別複写及び特別利用承認」を得て掲載するものです。
以後の『三井三池築港 拾貳景繪葉書帖』も、同様の許可を受けて公開するも のです。(管理人)
⇒写真をクリックすると、より鮮明な大画面にて見ることができます
以後の『三井三池築港 拾貳景繪葉書帖』も、同様の許可を受けて公開するも のです。(管理人)
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明治22年の築港計畫要畧 その1「石黒五十二技師 三池派遣」
三池築港百話 第三話は、石黒五十二・長崎 桂による「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」(注1)をもとに、三池築港前史を辿ることといたしましょう。今回の時計の針は、官営三池炭鉱が三井に払い下げられた年の1889(明治22)年頃となります。
官営三池炭鉱での出炭量の増大とも相まって、時の三池鉱山局長 小林秀知が再三にわたって石炭積み出しのための埠頭築設について提言をしていたことは、書庫『地図にみる三池鉄道』中の「元祖 石炭積出港考察 その3」で触れたところです。
このような三池鉱山局からの再三にわたる懇請により、当時の内務省は土木技師の石黒五十二及び長崎 桂を三池に派遣、築港に関する調査を命じたのでした。
このような三池鉱山局からの再三にわたる懇請により、当時の内務省は土木技師の石黒五十二及び長崎 桂を三池に派遣、築港に関する調査を命じたのでした。
この時派遣された2人の土木技師について、ここで簡単に触れておきましょう。
この2人は、当時氾濫を繰り返していた筑後川の改修を主たる目的として、内務省が久留米に派遣した土木技師でした。1883(明治16)年に長崎 桂技師(注2)、翌年に石黒五十二技師が派遣されています。(注3)
この2人は、当時氾濫を繰り返していた筑後川の改修を主たる目的として、内務省が久留米に派遣した土木技師でした。1883(明治16)年に長崎 桂技師(注2)、翌年に石黒五十二技師が派遣されています。(注3)
さて、石黒五十二・長崎 桂の論文「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」は、吉原政道 「三池鉱山景況」『工学会誌』第80巻所収(明治21年8月 741~742頁)の紹介から始まっています。
吉原政道は、1880(明治13)年 工部大学校を卒業後、小林秀知の腹心の一人として1889(明治22)年7月まで三池炭鉱に在職していました。(注4)
吉原は先の論文中に「三池海岸には一大埠頭を築造し、陸には汽車運搬の施行を企て」ることを説き、さらに「願わくは、落札者に於いてもこの方針就中埠頭築造の大計画に目的を投じて、益該山の盛大を計られんこと」を希望すると述べています。
三井に払い下げ後の三池炭鑛社にあって、事務長である團 琢磨の赴任は三池鉱山局員から「水上一滴の油」と見られたようです。官営時代の技術スタッフが工部大学校閥によっていたことから、工部大学校出身の吉原にとっても、團 琢磨(マサチューセッツ工科大学卒)の事務長就任が辞職する契機となったのでしょうか。
「三池鉱山景況」をして、三池炭鉱を去るに当たり吉原なりの将来の三池炭鉱の姿を記したのでした。
吉原政道は、1880(明治13)年 工部大学校を卒業後、小林秀知の腹心の一人として1889(明治22)年7月まで三池炭鉱に在職していました。(注4)
吉原は先の論文中に「三池海岸には一大埠頭を築造し、陸には汽車運搬の施行を企て」ることを説き、さらに「願わくは、落札者に於いてもこの方針就中埠頭築造の大計画に目的を投じて、益該山の盛大を計られんこと」を希望すると述べています。
三井に払い下げ後の三池炭鑛社にあって、事務長である團 琢磨の赴任は三池鉱山局員から「水上一滴の油」と見られたようです。官営時代の技術スタッフが工部大学校閥によっていたことから、工部大学校出身の吉原にとっても、團 琢磨(マサチューセッツ工科大学卒)の事務長就任が辞職する契機となったのでしょうか。
「三池鉱山景況」をして、三池炭鉱を去るに当たり吉原なりの将来の三池炭鉱の姿を記したのでした。
本題の「三池鑛山用ノ築港計畫要畧」の内容については、次回から順次お伝えすることとして、今回はこれにて終了しましょう。
ところで、トップの絵葉書は、三池港が開港して間もない頃の諏訪橋と思われます。
絵葉書帖の他の11枚から類推すると・・・明治42年頃ではないでしょうか。
写真では、諏訪橋の往来は非常に賑やかで、人力車が行きかう様子が見うけられます。
後の大正時代の絵葉書に見える電柱がありませんので、詳細に調べていけば年代が絞れるかも知れませんね。
ちなみに、1912(大正元)年には三川村が三川町となり、三川町が大牟田市に編入されたのが1929(昭和4)年でした。
ところで、トップの絵葉書は、三池港が開港して間もない頃の諏訪橋と思われます。
絵葉書帖の他の11枚から類推すると・・・明治42年頃ではないでしょうか。
写真では、諏訪橋の往来は非常に賑やかで、人力車が行きかう様子が見うけられます。
後の大正時代の絵葉書に見える電柱がありませんので、詳細に調べていけば年代が絞れるかも知れませんね。
ちなみに、1912(大正元)年には三川村が三川町となり、三川町が大牟田市に編入されたのが1929(昭和4)年でした。
(つづく)