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   ▲ 明治33年測図の三川海岸

〈出典〉大日本帝国陸地測量部 5万分の1地形図  明治33(1900)年測図 同36年製版 「柳河」「長洲」 

岩ヶ鼻から諏訪川河口に広がる “なぎなた洲”

三池築港百話 第二話は、5万分の1地形図からはじめることといたしましょう。

この地形図からは、1900(明治33)年の三川海岸の様子をうかがい知ることが出来ます。
(第一話の写真と見比べていただくと、さらによく分かるとおもいます)
南には、四山西側に“岩ヶ崎”と呼ばれた海岸線がありました。
ここ“岩ヶ崎”は、「頭上には岩壁がそそり立ち、下には岩盤が連なる景勝の地」(注1)であったようです。
(地形図中の“岩ヶ鼻”は“岩ヶ崎”の先端部の呼称です)
ここから約1.5㎞にわたる海岸線を北に辿ると、そこは諏訪川河口です。
この地に、三池港が築港されることなります。

さて、三池築港前史(2)をはじめるに当たり、築港の歴史をどこまで遡ってはじめようか・・・と思案していました。
結局は、「官営三池炭鉱時代の原点」にまで遡ってみることにしました。
それでは、官営時代の1873(明治6)年頃まで時計の針を戻すことにいたしましょうか。

官営三池炭鉱時代の課題は、運炭・積み出し・坑内出水の3つでありました。
この内の運炭・積み出しについては、官営当初の炭山点検によるエミール・ム-セ(工部省 生野鉱山支庁 傭仏人技長)とゴットフレー(工部省 東京 鉱山師長)両氏による諏訪川河口案。そして、1876(明治9)年に三池炭山に着任したフレデリック・アントニー・ポッター氏(英人鉱山土木技師)による大牟田川河口案の二案がありました。
最終的には、ム-セ・ゴットフレー案は「永続の業としてしばらく後日に譲り」、築港費用等の関係もあって、とりあえずのところはポッター案を採用する決定がなされます。(注2)
(ポッター案採用後の三池炭山については、書庫「地図に見る三池鉄道」内の元祖 「石炭積出港考察」シリーズをご覧下さい)
ところで、廃案になったム-セ・ゴットフレー案とはどのような案だったのでしょうか?
ム-セ案による築港は・・・「新波止場築くに、地中に四メートル堀下く。(中略)長さ二百メートル、幅百二十メートルにして、波戸内へ和船百艘以内停泊す」(注3)
さらに坑口から港へは・・・「大阪・神戸間同様の鉄道を舗き、馬を廃し、蒸気車機械二組と取替ゆ」(注4)といった計画案でした。
この記載中の運炭鉄道に関しては、1876(明治9)年に鉄道寮雇外国人のシー・ダブリウ・キンドルとイー・ニウコム両氏が派遣され、三ッ山坑から諏訪川河口に至る鉄道敷設の測量を実施したのでした。

この諏訪川河口の築港計画案をして、後の三池築港の原案と見ることもできますが、よりはっきりと「岩ヶ鼻から諏訪川河口に広がる“なぎなた洲”」での築港計画をみるにはもうしばらくの時が必要でした。
次回は、この“なぎなた洲”での最初の築港計画である、元祖三池港の青写真をみることといたしましょう。

(つづく)


◆注1 「 」内は、麦田 静雄編 『ふるさとの想い出写真集 荒尾』1980年 国書刊行会発行 中の写真 「156 岩ヶ崎」の解説文より引用。
◆注2~4 「 」やこの部分の記述は、『福岡県史 近代史料編 三池鉱山年報』 第2~5次年報(明治7.1~明治10.6)の記述による。なお、人名標記(役職)についても『三池鉱山年報』に準じて標記した。