『1900(明治33)年の三池炭鉱専用鉄道』 5万分の1地形図 「柳河」 明治33年測図(一部)
元祖 石炭積出港考察 その6 「高架桟橋」篇
地図から三池炭鉱専用鉄道を探るシリーズ第12回目・・・今回は、1900(明治33)年の5万分の1地形図 「柳河」 からはじめることといたしましょう。
お題は、元祖 石炭積出港についての考察 その6です。
前回は、横須浜を起点(0㎞)として、1891(明治24)年12月にわが三池炭鉱専用鉄道がめでたく開通した事をお伝え致しました。
今回の1900(明治33)年は、汽車鉄道開通の10年後となる5万分の1地形図 「柳河」に見るわが三池炭鉱専用鉄道の路線となります。この地形図には、1894(明治27)年に開通した勝立線、その2年後(1886年)開通の逆様川~宮原坑線、更に3年後(1887年)開通の九州鉄道との連絡線である旭町支線、そしてこの地形図と同じ年(1900年)に開通した七浦~宮原坑(デルタ線となった)・万田坑線が見て取れます。
万田坑での出炭はまだ始まっていませんでしたが、近い将来には横須浜船積場“龍宮閣”での石炭の積み出しは手狭になる事が確実な状況にありました。
今回の1900(明治33)年は、汽車鉄道開通の10年後となる5万分の1地形図 「柳河」に見るわが三池炭鉱専用鉄道の路線となります。この地形図には、1894(明治27)年に開通した勝立線、その2年後(1886年)開通の逆様川~宮原坑線、更に3年後(1887年)開通の九州鉄道との連絡線である旭町支線、そしてこの地形図と同じ年(1900年)に開通した七浦~宮原坑(デルタ線となった)・万田坑線が見て取れます。
万田坑での出炭はまだ始まっていませんでしたが、近い将来には横須浜船積場“龍宮閣”での石炭の積み出しは手狭になる事が確実な状況にありました。
さて、ここで1897(明治30)年発行の 吉田慶三編 『三井三池炭鉱』 より、当時の横須浜船積場の様子を見てみることにしましょう。
(前略) 石炭の坑外に送出せらるるや直ちに完良の選炭機に依りて炭種を区別し、悪炭・混石を排除して之を運炭車に移し、正確なる秤量機に依ってその炭量を量定したる後、汽車鉄道により大牟田町横須浜の搭載船渠に輸送し、汽車桟橋上より之を運炭船に墜下す。
その運搬に消費する時間は、甚だ短少にしてかつ運搬積込に際し石炭の粉砕を防止するの方法など亦備わらさる莫し (後略)
その運搬に消費する時間は、甚だ短少にしてかつ運搬積込に際し石炭の粉砕を防止するの方法など亦備わらさる莫し (後略)
この記述は、当時の運炭について非常にコンパクトに分かりやすくまとめられています。
この記述内容のポイントは・・・
①選炭 ②秤量 ③汽車鉄道輸送 ③船積み の四つといえます。
ここでは、横須浜船積場“龍宮閣”にあった船積み用の「高架桟橋」を中心に見ていきたいと思います。
この記述内容のポイントは・・・
①選炭 ②秤量 ③汽車鉄道輸送 ③船積み の四つといえます。
ここでは、横須浜船積場“龍宮閣”にあった船積み用の「高架桟橋」を中心に見ていきたいと思います。
そこで、次の絵葉書をご覧下さい。
▲三井三池炭鉱石炭船積桟橋 福岡県立図書館所蔵
※この絵葉書は、福岡県立図書館の「特別複写及び特別利用承認」を得て掲載するものです。(管理人)
⇒写真をクリックすると、より鮮明な大画面にて見ることができます
⇒写真をクリックすると、より鮮明な大画面にて見ることができます
この絵葉書は、明治末期の横須浜船積場“龍宮閣”を南西方向から眺めた写真です。
手前には坑木が山積みされていますね。そして、前回の最後に載せた「石炭の船積み場と船渠」の写真同様に、櫓を組んだ轆轤による巻揚設備が目に付きます。
この巻揚設備は、「勝立坑の開坑の際、ボイラーその他重量機械荷揚げのため」(注1)に設置されたものです。
今回の主題である木造の「高架桟橋」が、その奥に連なっています。
この桟橋手前の“龍宮閣”岸壁には、計5隻の運炭船が横付けされているのが読み取れます。
手前には坑木が山積みされていますね。そして、前回の最後に載せた「石炭の船積み場と船渠」の写真同様に、櫓を組んだ轆轤による巻揚設備が目に付きます。
この巻揚設備は、「勝立坑の開坑の際、ボイラーその他重量機械荷揚げのため」(注1)に設置されたものです。
今回の主題である木造の「高架桟橋」が、その奥に連なっています。
この桟橋手前の“龍宮閣”岸壁には、計5隻の運炭船が横付けされているのが読み取れます。
◆注1 「 」内の記述は、三井鉱山編 『三井鉱山五十年史 稿』 巻十九 輸送及販売(一)による
以後の「 」記述も、同様の出典による。
以後の「 」記述も、同様の出典による。
更に次なる絵葉書を見てみましょう
▲三井鉱山会社三池炭鉱 石炭積出桟橋
この絵葉書は、専用鉄道の築堤から西方の「高架桟橋」を望んだ写真です。
この絵葉書から「高架桟橋」は二つあったことが分かります。この二つの桟橋を仮に、第一桟橋(絵葉書左側 岸壁側)と第二桟橋(絵葉書右 北側)と呼ぶことにしましょう。
高野江基太郎著 『筑豊炭鉱誌 附三池炭鉱誌』 中村近古堂 1898(M31)年発行 の記述によると・・・
この絵葉書から「高架桟橋」は二つあったことが分かります。この二つの桟橋を仮に、第一桟橋(絵葉書左側 岸壁側)と第二桟橋(絵葉書右 北側)と呼ぶことにしましょう。
高野江基太郎著 『筑豊炭鉱誌 附三池炭鉱誌』 中村近古堂 1898(M31)年発行 の記述によると・・・
(前略) 二ヶの桟橋あり。一は本線にして延長八十間(約44m) 他は支線にして同五十五間(約30.25m)に達し、汽車鉄道によりて運搬するものは貨車をこの上に曳きてその函底を開き石炭を桟橋下の海岸に落下し、直ちに海岸の船舶に積み移すこととせり (後略)
本線と記述されている第一桟橋(仮)について、再度「石炭の船積み場と船渠」の拡大部を見てみます。
▲石炭の船積み場と船渠(一部) 『目で見る南筑後の100年』 郷土出版社 2001年刊 より
この写真からは、一番手前の運炭船に第一桟橋(仮)から船積用のシュートが伸びて入ることが見て取れます。
第一桟橋(仮)には、「四ヶ所の船積用鉄板製シュート」がありました。
このシュートの設置により「船に直積されるようになったため、貯炭能力の増大と石炭の破砕率の減少と船積時間の縮減」(注1)が図られました。
写真に見るように、底開き式の4t炭車を連ねた運炭列車が、この「高架船積桟橋」に次々と坑口の選炭場から送られてきたことでしょう。
第一桟橋(仮)には、「四ヶ所の船積用鉄板製シュート」がありました。
このシュートの設置により「船に直積されるようになったため、貯炭能力の増大と石炭の破砕率の減少と船積時間の縮減」(注1)が図られました。
写真に見るように、底開き式の4t炭車を連ねた運炭列車が、この「高架船積桟橋」に次々と坑口の選炭場から送られてきたことでしょう。
(つづく)
増補 大正期頃の “龍宮閣”
最近、下の絵葉書を手にしました。この絵葉書は、“龍宮閣”の情景を写し出しています。
写真右下には、高架桟橋から突き出た船積用のシュート先端部がちょっとだけ顔を出していますね。
たぶん、高架船積桟橋下から西の方向を望んだ写真と思われます。
写真の題名や、先の『九州鉄道旅客便覧』にあるように、帆檣林立の“龍宮閣”です。
大牟田川河口のこの地に、帆船がひしめきあっていた時代が偲ばれます。
大牟田川河口のこの地に、帆船がひしめきあっていた時代が偲ばれます。
▲(三池名勝) 帆檣林立せる大牟田港 VIEWS OF MIIKE.
2008.9.18