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   『1900(明治33)年の大牟田町 横須』 5万分の1地形図 「柳河」 明治33年測図(一部)

元祖 石炭積出港考察 その4   「龍宮閣」完成篇

地図から三池炭鉱専用鉄道を探るシリーズ第10回目・・・

今回は、いつもの地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年4月発行)ではなく、1900(明治33)年の5万分の1地形図 「柳河」 からはじめることといたしましょう。
お題は、元祖 石炭積出港についての考察 その4です。

前回は、1885(明治18)年頃の官営時代に今一度立ち返り「第二水門」の築造を考察したところです。この「第二水門」の築造によって、積み出し能力は1日 1.500t に増強されました。
さて、1889(明治22)年1月1日をもって、官営三池炭鉱は三井に払い下げとなります。
落札価格は455万5,000円で、払い下げを受けた明治22年の販売高120万円の約4倍ほどの金額でした。
当時、勝立坑排水問題の研究のためにイギリスに出張中であった団琢磨をして「あんな高価で引受けて、三井は一体どうする気だろう」(『団琢磨伝』)と言わしめたという金額です。
金額と三池炭鉱の評価はさておき、早速 元祖 石炭積出港についての考察の続きをはじめましょう。

こうして誕生した三井による「三池炭礦社」の石炭増産による輸送強化策が、①馬車鉄道の汽車化 ②横須浜船渠の築造 ③大牟田川の浚渫 の“三大起業”であったと『三井鉱山五十年史 稿』は伝えています。

◆以後の論考の大部分は、三井鉱山編 『三井鉱山五十年史 稿』 巻十九 輸送及販売(一)による

そこで、まずは横須浜船渠の築造と大牟田川の船運から論を進めましょう。
1900(明治33)年の5万分の1地形図 「柳河」 を見ると、横須浜船渠の築造と横須浜先(龍宮海面)埋立の様子がしのばれます。
(この地形図では、詳細は記載されていませんが、鉄道終点の南側が横須浜船渠にあたります)
『三井鉱山五十年史 稿』によると・・・

1890(明治23)年1月、大牟田川下流から北方の長溝川に至る延長270間4尺(約492m)の地域に高さ10尺(約3m)の木造堤防を築いて海水を堰き止め、3万6000坪の埋立新開地を築造、これに面積4,721坪(15,579㎡)、深さ14尺(約4.2m)を堀り、渠内に平均70屯積船舶170隻を容るるに足りる船渠の工事に着手した。

と記述されています。
この横須浜の埋立地に築造された港は、いわば三池港の前身といえるものです。折しもドッグの形式をなしていて、渠内の出口には「第3水門」が設置されました。
前回の地図中赤丸印の「第2水門」のすぐ東側にこの「第3水門」があるのが見て取れます。
2つの水門を利用して、満潮時には空の入港船が「第2水門」から渠内に入り、干潮時に水門を閉じて荷役を行う。一方、石炭を積んだ荷方船は、満潮時に「第3水門」から一斉に船出をするといった方法がとられるようになりました。
また、大牟田川河口では航路確保のための浚渫が施されました。(港完成後も随時行われた)
先に示した1/5万 地形図で、大牟田川河口近くの埋立地先端部を見ると、海底を浚渫によって深くして航路を確保していることが読み取れます。

この掘込み港は、1891(明治24)年11月に竣工し“龍宮閣”と呼ばれ、一日4,000t の石炭積出能力を誇りました。

次にいつもは絵葉書ですが、ここでは最近まで形を残していた“龍宮閣”の空中写真をご覧に入れましょう。
( 「須の鼻水門」と題する絵葉書があるようですが、未見です。おそらく、第2もしくは第3水門の絵葉書だと思われます)

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◆1974(昭和49)年 (国土交通省ウェブマッピングシステムより)

すでに「第2水門」のすぐ北にあった“龍宮閣”への入り口には道路ができ、「第3水門」は閉じられたままで干上がったように見えますが、築造当時の三角形をした港の原型をよく留めています。

次に現在の「第3水門」があった場所を探索してみました。
すでに“龍宮閣”は埋立てられ存在しませんが、「第3水門」の跡らしきものが残っています。

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大牟田川対岸より、北方の“龍宮閣”「第3水門」を望む


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現在の「第3水門」の様子。茶色の建物は大牟田漁協の共同増養殖用作業保管施設


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「第3水門」側から大牟田川河口方面を望む。水門に関係した遺構らしきものが護岸に残っている

撮影日:2007年 9月23日
撮影地:大牟田市北磯町

(つづく)

増補  明治42年頃の “龍宮閣” 「第3水門」

この記事をUPした後に手にした、安元 薫編 『ふるさとの想い出 写真集 大牟田』 国書刊行会 1982発行 の中に、次の写真を見つけました。

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この写真の解説は「大牟田港閘門を経て航路を望む。明治42年頃の写真」とあります。
ここにある水門は、“龍宮閣”の出口である「第3水門」に間違いありません。

水門をよく見ると、観音開きの水門の扉が“龍宮閣”の方に向けて斜めに締まっています。
この斜めの角度覚えておいてください。
ちょうど人が水門の扉上を渡っていますね。

さて、ここで現在の写真で解説した「水門に関係した遺構らしきもの」と述べた護岸の石積みに注目です。
この石積みにある、斜めの切り込み角度がちょうど先の明治の写真に見る水門の角度と重なりませんか(@_@)
この石積み上にあるボルトらしき遺構も、水門設置のために使われたものと思われます。
明治の写真にある、水門左手の扉付け根部分と同じ構造ではなかったでしょうか。

現在では、水門遺構の石積みの上に、さらに防波堤が築かれています。
この防波堤を取り除いてみると・・・昔のままの「第3水門」が甦ってくるようです。

2008.1.27