イメージ 1

     『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年 1/1.6万(一部)

元祖 石炭積出港考察 その3    「第2水門」完成篇

地図から三池炭鉱専用鉄道を探るシリーズ第9回目は・・・

いつものこの地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年4月発行)による、元祖 石炭積出港についての考察 その3です。

前回までに、「第一水門」の完成と馬車鉄道について、そしてその馬車鉄道の残存線ではないかと考察したナローの軌道について述べてきました。
今回は、まずは官営時代に今一度立ち返り、「第二水門」の築造から考察することとしましょう。
時代は、1885(明治18)年頃です。

官営時代の1877(明治10)年6月に完成した「第一水門」、1879(明治12)年に完成した石炭搭載場、さらに1881(明治14)年には大牟田川河口における船舶の夜間航行の便を図るための竿燈一基が建設されました。
このように、元祖石炭積出港の整備は進んだものの、1882(明治15)年から七浦坑での出炭も始まるなど、出炭量の増大とも相まって施設的にはすでに不十分な状態にありました。

このような状況下にあって、時の三池鉱山局長 小林秀知は再三にわたって石炭積み出しのための埠頭築設について提言をしています。
例えば1884(明治17)年に、陸軍中将三好重臣に意見書を提出・・・
『国家有事の際軍艦に用いるのは三池をおいてはない。ただ、運搬の便捷を欠くので三池沿岸に埠頭を築き、平時には輸出をして外貨獲得をすれば国益も増進する』
さらに、翌年には工部卿佐々木高行へ「運搬改良の儀に付き開申」、次いで海軍卿川村純義にも三池沿岸への築港が急務であることを進言しています。

この年1885(明治18)年1月には、福岡県知事 岸良介も「大牟田川河口の築港は、ただ運炭の便利のみではなく将来九州の運輸に便なるもの」として、その必要性を政府に建言し、県庁もまた応分の力を尽くすことを上申したのでした。
また、同月に新たな水門の築造と桟橋三個をつけることが決議されました。(注1)

◆注1 これまでの記述内容の多くは、大牟田市役所『大牟田市史 中巻』S41刊 第一章 明治期の三池炭鉱-第五項 官営時代の石炭輸送と大牟田港の改修 による

またまた、前置きが長くなりました。本題の「第二水門」に進みましょう。
前回参考にした『三池鉱山年報』の第14次年報(明18.7~19.3)には、この「第二水門」についての細かい記載はありません。
ただ、目録第九号「営業費予算実費比較計算表」中の項目として建築費に「大牟田川水門築造」費が報告されています。
予算が25,000円、実費が19,490.872円とあり、事由に「用地買上代並びに家屋移転料を興業費の支出に属せしに由る」と報告されています。

先の『大牟田市史 中巻』によると、この「第二水門」は「第一水門」から二四○間(約436m)の下流を浚下し幅三六尺(約11m)、高さ九尺(約2.7m)の水門を築造するようにしたとあります。
地図中の赤○印にある、大牟田川を堰き止める構造物に違いありません。
この「第二水門」でも「用地買上代並びに家屋移転料云々」の記述からして「第一水門」と同じ工法がとられて築造されたと想像します。

それは、次の空中写真(1974年撮影)を見ても明らかだと思えます。

イメージ 2

◆1974(昭和49)年 (国土交通省ウェブマッピングシステムより)

近年まで残っていた「第二水門」島部南側の大牟田川護岸は、明らかに南側がかなり削られています。
ここに、大牟田川のバイパス水路を造ったと考えます。
昭和49年の時点では、この島に架かる橋がありました。この橋のすぐ左側(河口側)に見えるのが小堤跡ではないかと考えてみました。
また、新たに設置した桟橋は、写真中の水門より上流の大牟田川北岸に築造されたと思われます。

最後に、現在のこの地点の写真を載せ、今回の考察を終わります。
あれ? わが三池の鉄道はどうなってるの(@_@)


イメージ 3

▲島部があった北岸より南岸を望む。かつての橋の遺構が残る。


イメージ 4

▲同じく南側の護岸を望む。水門があったと思われる場所のみ、石積の護岸となっているようだ。


イメージ 5

▲南側の石積の護岸近くを見る。ここに「第二水門」があったと思われる。


撮影日:2007年10月28日
撮影地:大牟田市北磯町・浜田町 

(つづく)