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     『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年 1/1.6万(一部)

元祖 石炭積出港考察 その2   馬車鉄道残影篇

地図から三池炭鉱専用鉄道を探るシリーズ第8回目は・・・

いつものこの地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年4月発行)による、元祖 石炭積出港についての考察 その2です。

前回は、「三池炭鑛煤田図」をもとにして、大牟田川の第一水門建設と横須浜の船積み港修築について述べたところでした。
つづきで、絵葉書にて水門を見てみましょう・・・と言いたいところですが、おそらく存在しません。
そこで、『福岡県史 近代史料編 三池鉱山年報』 第6次年報(明治10.7~11.6)の記述に頼る他はなさそうです。
それでは、明治の文章を私なりにかみくだいてお送りしましょう。

水門の大体は木製で、左右に排すべき門扉両個からなる。両門扉の中部に、高さ約2m・幅約1.5mの「スルース」(扉中の小戸)あり、これを河水を吐出する口とする。また、これを開く具として「スルース」の中心に「ラッチエット」並びに門扉の上部に二条の鉄柄を付せる小歯輪あり。これを回旋すれば、「ラッチエット」の歯と吻合して「スルース」が自ら揚がる。門扉には、下部より高さ約2mの厚板を付す。これは、門内を恒に1.5m水積を貯えるためである。その約2mより上部は、板を用いず河水を自在に流通せしむ。        

この両開きの門扉による第一水門と小堤は、1878(明治11)年7月に完成したと記録されています。

現在の大牟田川 中島橋上流部

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◆写真右側の岸辺にて、石炭の積み込みを行ったと思われます。

撮影日:2007年10月28日
撮影地:大正橋付近から中島橋方面を望む


この地図(大正9年)は、第一水門が築かれてからすでに40年余りの歳月が過ぎており、次回取り上げる第2水門(地図中の大牟田港の入り口)が明治20年頃に建設されていますので、その役目はすでに終え撤去されていました。
地図中の大牟田川に“中島”は存在してますが、すでに中島橋と標記されていますね。

さて、本題の鉄道に話をもどしましょう。
気になるナローの線路敷きです。
前回紹介した「三池炭鑛煤田図」の馬車軌道は、次回取り上げる1891(明治24)年の大牟田港築港時に、その役目を平原(七浦)と横須浜間に開通した三池炭鉱専用鉄道に譲りました。
しかし、大浦坑からの石炭搬出については、大浦坑と七浦坑のエンドレス線敷設まで、この馬車軌道にいましばらく活躍の場を与えることになります。
『三井鉱山五十年史 稿』 巻十九「輸送及販売(一)」によると、大牟田港築後もこの馬車軌道は残り、大牟田港に大浦坑産炭用の貯炭桟橋も建設されたとあります。
大浦坑と七浦坑のエンドレス線が敷設されたのが1899(明治32)年です。
先の『三井鉱山五十年史 稿』には、「従来の馬車軌道は、諸材料運搬に使用されたるも後全廃す」と述べられています。

やっと気になるナローの線路敷きにたどり着きました(^_^)v
このナローの線路、どう見てもかつての馬車軌道の線路をそのまま使用しているようにしか思えません。
かつての馬車軌道の正確な敷設ルートは分かりませんが、「三池炭鑛煤田図」からすると専用鉄道の築堤にほぼ沿ったルートで大正橋近くまで来て、大牟田川沿いに横須浜に向かっていたと想像できます。
そうすると、このナローの軌道は馬車軌道のなれの果てではないかと(@_@)

そこで、現在の市街図にこのナローの線路敷きを再現してみました。
(大正15年の地図を参考にして記入)
現在では大牟田川の堤防が随分とかさ上げされ、当時よりもかなり高くなっています。
ま、お遊びと思ってご覧下さい。

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もう一つ実は気になることがありました。それは、中島橋の北に広がる入江のようにも見える水溜まりです。
(大正15年や昭和の地図には標記されていません)
ここは、今ではまわりを水路に囲まれ(中島橋たもとから大牟田川に通じています)幾分か低い土地となっていているところです。
思うに、明治や大正の時代には大雨による洪水や高波による堤防の決壊などが頻繁におこっていたと想像します。この地図作製の頃に、この様な洪水等が発生してできたものではないでしょうか。
鉄道とは直接関係しませんが、大牟田川とこの池の間をナローの線路は走っています。

最後に1974(昭和49)年撮影の空中写真と、現在の中島橋付近を南側のビルより撮影した写真を掲載して終わりといたしましょう。

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◆1974(昭和49)年 (国土交通省ウェブマッピングシステムより)

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撮影日:2007年11月 4日
撮影地:大牟田市港町 中島橋付近を望む

(つづく)