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     『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年 1/1.6万(一部)

元祖 石炭積出港考察 その1   「第一水門」完成篇

地図から三池炭鉱専用鉄道を探るシリーズ第7回目は・・・

いつものこの地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年4月発行)による、元祖 石炭積出港についての考察です。

具体的には・・・【大牟田川の河口域】に注目(^_^)v
とりあえずは、いつもの地図にてわが三池炭鉱専用鉄道を見ることにいたしましょう。

1920(大正9)年といえば、平原(七浦)と横須浜間が開通(明治24年)してからすでに29年あまり、そして三池港開港以来12年の歳月が流れていることになります。
地図中の大牟田港,大牟田川の北側干拓地には、電気化学工業の工場や亜鉛工場・コークス製造所が広がり、多数の引き込み線が確認できますね。

ここで気になることが一つあります。それは、大牟田川北岸の大正橋付近から大牟田港まで伸びる線路です。(地図が見にくいですね・・・)
この線路、次に考察予定の大正15年,昭和2年の地図中にも存在しており、いずれもナローの鉄道標記となっています。
この軌道、先に見た大浦~七浦間の軌道と同様に少し細い鉄道標記となっていることから、ナローの軌道であることは間違いなさそうです。

さらに気になることがもう一つ・・・。それは、大牟田港のすぐ北を走り抜けるこのナローの軌道です。
大正15年,昭和2年の地図では、このナロー軌道は大牟田港の東端が終点です。
後ほど詳しく述べますが、地図中の大牟田港の築港時には、1067㎜の軌道がすでに地図中の大牟田港ま伸びていましたので、大正9年のこの標記は間違いだと思われます。
大牟田港の東端にある専用鉄道築堤終点から、大牟田港北岸には石炭積み込み線が敷設されていました。

さて、ここでナローの軌道といえば・・・官営三池炭鉱時代に敷設された馬車鉄道(注1) に触れないわけにはいきません(*^_^*)
そこで、次なる地図をご覧あれ。

◆注1 大牟田市石炭産業科学館>石炭産業の歴史>1878(明治11)年に、貴重な馬車鉄道の写真があります。


三池炭鑛煤田図 明治十四年五月製ス(一部)

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この地図は、「三池鉱業所沿革史」第1巻 前史2(注2) に収録されていますが、この複写版は「大牟田市石炭産業科学館」所蔵の三池炭鑛煤田図(注3) によります。

◆注2「福岡県史 近代史料編 三池鉱山年報」に再録の附図あり
 注3「三池炭鑛煤田図」には、ここに取りあげた馬車鉄道の他にムーシェ・ゴットフレーになる運炭鉄道と諏訪川河口の港建設案が記載されています。この運炭鉄道路線案についてはまた後ほど考察する予定です。

複写版のコピーなので見にくいことから、馬車軌道を赤ラインで、地図中の標記を青色の四角表示で示し、さらに第一水門と大牟田川河口の2つの標記を付け加えました。
地図中の馬車鉄道の開通は、官営時代の1878(明治11)年です。
この馬車鉄道については、以前に紹介したHP 炭都の鉄道>三池鉄道前史 に詳細な報告がなされていますのでそちらを参照下さい。

ここでは、地図中に追加記載した「第一水門」を中心として、官営三池炭鉱時代の石炭積出しについての考察を続けることにしましょう。

さて、官営時代より三池炭の運炭方法については、坑内の湧水と並んで大きな課題の一つとなっていました。 当時の明治政府は、石炭の輸出を外貨獲得の大きな柱としていましたが、輸出に際しては外航船が接岸できる港(注4) が必要となります。

◆注4 明治政府による官営石炭山の枠は一山のみの予定で、長崎県の高島炭鉱がその第一候補でした。三池については、ご存じのように遠浅で干満の差が5.5mもある有明海に面しています。これがマイナス要因としてはたらいたことは容易に想像できます。

この運炭方法の課題については、当時のお雇い外国人による2つの案が提案されていましたが、1876(明治9)年10月に大牟田川の船積み港の修築案が採用されることになります。
(詳しくは、先の「炭都の鉄道」を参照)
これによって、1877(明治10)年12月から大牟田川の河口付近にて、本流の南側の稲田にバイパス水路を掘鑿して水門を築く工事が始まりました。この工事の完成は、1878(明治11)年7月と記録されています。
この時に築かれた水門は現在の中島橋付近にあったと思われます。
「三池炭鑛煤田図」に追記した「第一水門」がそれです。この地図によると、大牟田川に島が築かれています。(この島を、“中島”と呼んだのではないかと予想されます)
この島は、本流の南側(地図では上部)にバイパス水路を造った後に残った部分と考えられます。この島の南岸(地図では上部)に第一水門が、北側(地図では下部)には小堤が築かれました。
地図を詳しく見ると、確かに南側に<型の扉の水門が、北側には橋のように見える小堤が描かれています。
この水門の完成により、干潮時にも石炭の積み込みが可能となり、積み出し能力が500t/日となったと記録されています。

ずいぶん長くなってます。
今日はこれくらいで終わりにしましょう。
最後に、現在の中島橋を河口側から撮った写真を載せておきます。撮影時は、干潮の状態でした(@_@)


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撮影日:2007年10月28日
撮影地:大牟田市浜町 中島橋

(つづく)