前回に引き続き、1908(明治41)年に完成した三池港よりお伝えします。
いつものこの地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年4月発行)の左端には、『大牟田市官公署及著名会社其他一覧表』と題した表があります。
今回は、この一覧表の中から2つの倶楽部(色枠)を取り上げて探索を試みましょう。
(わが三池鉄道は、今回登場いたしません)
いつものこの地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年4月発行)の左端には、『大牟田市官公署及著名会社其他一覧表』と題した表があります。
今回は、この一覧表の中から2つの倶楽部(色枠)を取り上げて探索を試みましょう。
(わが三池鉄道は、今回登場いたしません)
まずは、皆さんよくご存じの“三井港倶楽部”から・・・
“三井港倶楽部”は、清水組(現清水建設)によって1907(明治40)年8月10日に起工、翌1908(明治41)年2月26日に棟上げされた記録(注1)が残っています。
開館は、1908(明治41)年8月15日で、三池港の開港と同時に開館されました。
(注1 昭和43年8月10日、当時の港倶楽部支配人であった岡崎茂馬氏と古賀一俊氏によって、3階頂上の屋根裏から棟札が発見されたことによる)
開館当初から、外国高級船員や政財界の社交・宿泊所として長く利用されてきました。
開館は、1908(明治41)年8月15日で、三池港の開港と同時に開館されました。
(注1 昭和43年8月10日、当時の港倶楽部支配人であった岡崎茂馬氏と古賀一俊氏によって、3階頂上の屋根裏から棟札が発見されたことによる)
開館当初から、外国高級船員や政財界の社交・宿泊所として長く利用されてきました。
さて、今回も古い絵葉書によってこの“三井港倶楽部”を見てみましょう。
絵葉書に見る、建設間もない頃の“三井港倶楽部”
この写真は、建設間もない頃のものと思われます。左端にはダンクロも写っていますね。
当時は、まだ三川鉱はありませんでしたので、港倶楽部(注2)の周りは眺望もよかったことでしょう。
(注2 絵葉書には、“三池港倶楽部”となっています)
それでは、平面図(太田静六著 『長崎の天主堂と九州・山口の西洋館』 理工図書 1982刊より)を見ながら港倶楽部の探索をしてみましょう。
正面の玄関を入ると、両側にマントルピースのある大ホールが出迎えてくれます。1階には、この大ホールの他に、2つの食堂と会議室があり、会議室から大食堂にかけてはベランダが廻らされていて、美しい庭園を見ることができます。
2階は、寝室専用で4つの寝室が配置されています。
本の解説によると、『全体は急勾配の屋根やハーフ・チンバーの壁面などできるだけ英国風にしていながら、屋根は日本瓦葺であり、壁面も漆喰壁ではなく板壁なのは面白い』とあります。
建築にはまったくの素人ですが、すべての部屋にマントルピースが設置されたお洒落な建物であるくらいは分かります。
ところで、この“三井港倶楽部”、所有者であった三井鉱山の経営難から一時期閉鎖された後、地元経済界が「三井港倶楽部保存会」を設立、港倶楽部を買収して引き続き結婚式場・レストランとして経営が再開されることとなり現在に至ったという経緯があります。
それでは、今年9月 「三井港倶楽部保存会」の手によって、美しく化粧直しされたばかりの港倶楽部をご覧下さい。
それでは、今年9月 「三井港倶楽部保存会」の手によって、美しく化粧直しされたばかりの港倶楽部をご覧下さい。
今では、すぐ隣にあった三川鉱は正門や一部の施設を残して更地になっていますし、同じ明治生まれのダンクロ3号機の姿も見ることができません・・・。
有明海沿岸道路が開通したあかつきには、三池港界隈も大きく様変わりしているかもしれません。
有明海沿岸道路が開通したあかつきには、三池港界隈も大きく様変わりしているかもしれません。
次に、2つめの倶楽部を見てみましょう。
先の『大牟田市官公署及著名会社其他一覧表』にある港倶楽部の右隣 “大牟田倶楽部”が次なる探索目標です。三池港からは離れていますが、いつもの大正9年の地図にて位置を確認してみましょう。
先の『大牟田市官公署及著名会社其他一覧表』にある港倶楽部の右隣 “大牟田倶楽部”が次なる探索目標です。三池港からは離れていますが、いつもの大正9年の地図にて位置を確認してみましょう。
宮浦から横須浜に向かう三池鉄道 浜本線の南側の丘の上に“三井倶楽部”が確認できます。
一覧表に「山上町」とあるので、この場所に間違いはないと思われます。
“三井倶楽部”近くの鳥居標記は、今も現存する金比羅宮です。
思えばこのクラブ、一覧表では“大牟田倶楽部”・地図中標記では“三井倶楽部”・絵葉書では“三池炭坑クラブ” といくつもの呼称を持つようです。
時代や人々によって呼名が変化してきたのでしょうか?
ここに載せた絵葉書の建物が“大牟田倶楽部”ではないかと思われますが、私には詳しいことは分かりません。
時代や人々によって呼名が変化してきたのでしょうか?
ここに載せた絵葉書の建物が“大牟田倶楽部”ではないかと思われますが、私には詳しいことは分かりません。
ちなみに、異風者からの通信によると、「山ノ上クラブは三井鉱山幹部職員の社交クラブであった」という記述があります。“山ノ上クラブ”(@_@) またまた新たな呼称が出てきました。
どこかのHPで、「港倶楽部の洋食もいいが、山ノ上クラブの和食もうまかった」といったような記述を読んだ覚えがあります。
誰かこれらの事情に詳しい方ありませんか? どうぞご教授下さいませ。
どこかのHPで、「港倶楽部の洋食もいいが、山ノ上クラブの和食もうまかった」といったような記述を読んだ覚えがあります。
誰かこれらの事情に詳しい方ありませんか? どうぞご教授下さいませ。
今回は、ここまでです(*^_^*)
次回も三池港からの話題をお送りいたします。
次回も三池港からの話題をお送りいたします。
(づづく)