前回に引き続き、1908(明治41)年に完成した三池港よりお伝えします。
いつものこの地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年4月発行)は、三池港が開港して12年目の様子を今に伝えていることは、すでにお伝えした通りです。
いつものこの地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年4月発行)は、三池港が開港して12年目の様子を今に伝えていることは、すでにお伝えした通りです。
さて、この地図は「複写版のコピー」ということもあって、地図中の記載事項が見にくいことから、今回は赤で標記を追加記入してみました。(文字が見えにくい時は、クリックして見てください)
早速 『次に、地図中の発電所の遺構を探って・・・』のつづきといきましょう。
早速 『次に、地図中の発電所の遺構を探って・・・』のつづきといきましょう。
地図中、トンネル貯炭脇の築堤東側にある発電所に注目してみましょう。
この発電所は、1907(明治40)年に竣工した“四ツ山発電所”です。三井関係の工場や炭鉱はもとより、わが三池炭鉱専用鉄道への電力も供給していました。
この発電所、1925(大正15)年には“三川発電所”と名称を変えた後、1937(昭和12)年に廃止となっています。(相前後して、九州共同発電 → 後に九州火力発電が設立されています)
この発電所は、1907(明治40)年に竣工した“四ツ山発電所”です。三井関係の工場や炭鉱はもとより、わが三池炭鉱専用鉄道への電力も供給していました。
この発電所、1925(大正15)年には“三川発電所”と名称を変えた後、1937(昭和12)年に廃止となっています。(相前後して、九州共同発電 → 後に九州火力発電が設立されています)
次に、今回も絵葉書によって、この発電所施設を見てみましょう。
絵葉書に見る発電所とその煙突

この写真は、三池港の外港側から閘門越しに内港を見渡したものです。
(ここでは、大正9年のこの地図標記に準じて、外港・内港と表現しています)
遠くに三池山の姿が写し出されていますね。
写真右隅に2本の煙突が見えます。内1本からは、もくもくと煙がはき出され、北にたなびくのが見えます。これが、今回の発電所の煙突ですぐ左下が発電所の建物となります。
時代的には、ダンクロが3機揃っていますので、1911(明治44)年以降の撮影ということが分かります。
(更に詳しい年代の予想は、次の大正15年の地図解読時の宿題としておきましょう)
発電所内の様子については、前回紹介した、九州大学デジタル・アーカイブ>GALLERY>福岡百景>三池炭鉱に1枚の写真があるのでそちらをご覧下さい。(登載の絵葉書と同じものもあります)
ここで、いつもの様に『この発電所の遺構を探ってみましょう』というパターンになるのですが・・・、今回ばかりは現地に行っても『何もない・・・』とあきらめかけていたところ、ある1枚の写真が思い浮かびました!(^^)!
それが、次の写真です。
この手前にある煙突、当時は『何の煙突かな?』ぐらいしか思いませんでした。
(奥の赤白煙突は、九州電力港発電所 ・ 昨年解体されてしまいました)
でも、今回調べていく内に“旧四ツ山発電所の2本あった煙突の内の1本である”という結論に達しました(^_^)v
(奥の赤白煙突は、九州電力港発電所 ・ 昨年解体されてしまいました)
でも、今回調べていく内に“旧四ツ山発電所の2本あった煙突の内の1本である”という結論に達しました(^_^)v
九州電力港発電所から東に目を向けていくと、三池鉄道築堤横に空き地が見えます。この空き地の北と南に離れて、2本の煙突があるのが見て取れますね。この空き地が発電所の跡地で、離れてある2本の煙突は、その遺物です。(実は、煙突は4本ありました。詳しくは、次の大正15年の地図解読時に)
南側にある煙突が、私が1976(昭和51)年に撮影した煙突です。
(発電所跡地東側の公園から撮影したもので、公園のシーソーや柵が写真にも写っています)
この発電所跡のすぐ南側には、今も大切に使われている(保存されている)三川変電所があります。
(発電所跡地東側の公園から撮影したもので、公園のシーソーや柵が写真にも写っています)
この発電所跡のすぐ南側には、今も大切に使われている(保存されている)三川変電所があります。
またまた、長くなりました・・・。
それでは、本日はここまでとしましょう。
(つづく)
それでは、本日はここまでとしましょう。
(つづく)

