炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

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わが家に咲いたバラです。
しばしの、ブログ更新息抜きです(^-^)

PS これは、6月頃の写真です。
   なぜか、フェンスにはわせようとしたつるバラは、葉も落ちてさぱりです。
   どうしてでしょう・・・。(8/4)

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庭を走るタンク車

模型編第3弾は、宮浦のタンク車です。
緑の庭で撮影すると、まんざらでもありませんな(^_^)v

三井化学の工場引き込み線をイメージしてみました。
工場内は、架線がありませんので電源車からの給電にて走行です。
今も、大牟田に行けばこのような光景を見れますぞ!(^^)!



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モノクロにしてみました

モノクロにしてみました。
こっちの方が、より本物に近いような気がしませんか(?_?)

電源車の電池箱の大きさが凸凹なのはご愛嬌ですな。



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タキ5450

TOMIXのタキ5450に、新貨車工房の【NRS】(日本陸運産業株式会社)のデカールを貼り付けました。元のマークのモールドが見え隠れしてるところは、例によって簡単改造たる所以ですぞ。

結構様になっているでしょう!(^^)!
コキ200をつないでED76に引っぱらせれば、今では貴重な大牟田発のカモレでござんすね。

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朽ちたナベトロ

明延の乗降所を少し神子畑よりに行ってみると・・・

朽ちたナベトロがお出迎え('_')
奥深い山奥の中腹に放置されている様は、もの悲しさをさそいます。

奥には、前回紹介した鉱石列車の機関車が見えます。


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木製トロッコと坑口

鉱山事務所近くを、少し散策・・・

これまた、朽ち果てた木製のトロッコと廃坑を発見(^^;)
雨に濡れれた木々の緑が目にしみます。
しばし構図を考えて、一枚撮影。


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バッテリーロコの出番

バッテリーロコの充電施設でしょうか・・・

ちょうど転車台にのって回転しているところです。
木造・スレート屋根の建物にも年季が入っています。
この建物を目にしながら『明延の冬には、どれほどの積雪があるのだろうか?』と思いを馳せました。


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この先に興味津々

さて、建物の先まで散策を試みしました・・・

鉱山事務所などの施設の先に伸びる線路があることは、地形図で確認済みです。
線路は岩肌を削ずって先まで伸びています。
錆びてはいないので、ここをトロッコ列車が行き来していることは確か!(^^)!
どんな列車が走っているのか? この先どんな景色が展開するのかとても興味津々です。
木製架線柱の“徐行”の掲示板と水たまりがいいアクセントですね。

明日の探索に期待を持ちながら、鉱山を後にしました。 


撮影日:1978年9月11日
撮影地:明延鉱山にて

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上り有明4号 1010M

上田浦シリーズ第3弾は、481系の特急有明号です。

当時の記録を見ると、上下各10号の有明が設定されています。
内3往復が581系で、残りの7往復が481系でした。博多始発以外にも、門司港・小倉始発の西鹿児島行きの設定がありました。
上田浦訪問時にも、481系と583系の有明号をしっかりカメラにおさめたわたしです。
(次回は、583系の有明です)

撮影日:1976年3月21日
撮影地:肥後田浦~上田浦

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上り有明5号 1012M

同じく、481系の有明号です。せっかくの美しい海があるのに、ここでは写ってないな(>_<;)

海沿いを肥後田浦側に下っていくと、しばし海沿いから離れてトンネルに入ります。このトンネルのある山の斜面から俯瞰した写真をよく見かけますよね。歩きでは、写真にある山の道路まで行くのはムリです・・・。今回はあえて、山をバックに一枚ものしました。

2枚ともスカートは赤色で、60Hzを示す細帯があります。もちろん、ボンネットのまゆ?つきです。(つづく)

撮影日:1976年3月21日
撮影地:肥後田浦~上田浦

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中島の鉄橋シリーズ第2弾は、1000形の下り大牟田行き各駅停車です。

大牟田側から、中島駅の方角を撮った春の夕暮れ時の一枚です。
中島駅を発車した列車は、ゆっくりと鉄橋を渡って行きます。写真を見ていると、鉄橋を渡る“ゴトン、ゴトン・・・”という音が今にも聞こえてきそうな気がします。

そういえば西鉄中島駅の魅力は、この鉄橋の風景と駅のすぐ先(福岡側)にある大牟田線唯一の信号所でしょう。信号所の側線に入った各駅停車のわきを、単線区間を走り抜けてきた特急列車が瞬く間に通過していく様は、各駅停車の車内から見ているといつもドキドキさせられます。

★追記★
2000形の登場とともに特急の座を明け渡した1000形でしたが、しばらくは元の特急色であるブルーにイエローのままで2扉でした。昭和51年から3扉・ロングシートへの改造が行われ、この写真が撮影された年に全24両の改造が完了しました。(まだ、クーラーの取り付け工事は行われていません)
お別れ運転で、元の特急色に身を包んで引退したことは記憶に新しいことと思います。


撮影日:1978年4月2日
撮影地:西鉄中島~江の浦

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長いトンネルにまもなく入ります

一回目に引き続き神子畑を出たばかりの電車です。
斜めの屋根の荷物車?、そして客車を2両連結した明神電車は明延に通じる長いトンネル(3900m)に向けてゆっくり進んでいきます。〔この写真は、後追いの写真です〕
砂防ダムも見え隠れするこの山腹を越えれば明延です。
トンネルの入り口の標高は約400m、最高で834mの峰の地下をほぼ水平に一直線に走り抜けます。

☆参考☆ 1/2.5万 地形図 神子畑,大屋市場(S48.12.28発行)

撮影日:1978年9月12日
撮影地:神子畑付近

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明延に到着です

思いかなって、明延に到着です!(^^)!
実は、かの有名な1円切符も購入することなく、神子畑にて乗車・・・。
そして、明延にて泊まる宿のあてもなくとりあえず乗車・・・。

それでも、狭く暗い車内に揺られてとにかく着きました(^_^)v
いやー、我ながら若かったもです。
となりには、プッシュプル方式の無線操縦による電気機関車牽引の鉱石列車が止まっていました。

撮影日:1978年9月11日
撮影地:明延の乗降所にて

★追記★
お気づきのように、1978年9月11日に到着。この日の明延は雨上がりの天気でした。実は、神子畑での写真はこの次の日の写真で、明延を後にした時のものです。12日は生野まで足を伸ばし、駅前旅館に泊まりました。(この記憶ははっきりしているのだ)

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駅舎側から電車をのぞむ

到着した日は天気も悪く、この駅舎付近で数枚の写真を撮っただけでお開き(*_*)
明日の探索に期待して鉱山を下りました。

で、とにかくしっかり宿には泊まりました(@_@)
屋号は思い出しません・・・、記録も残ってません・・・。
次回は、この日9月11日の残りの写真からです。

撮影日:1978年9月11日
撮影地:明延の乗降所にて

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玉名支線の終点は、平井駅です。

三井グリーンランド南東の端っこ近くに、鄙びたホームがありました。今では、グリーンランドのゲートができたり、駅があったすぐ北側には立派なホテルがあったりして、往時をしのぶことはまったくと言っていいほどできません(=_=)

平井駅に到着した列車は、すぐに機関車が切り離され機廻し線に進みます。
三池港側に連結された機関車は、客車とともにしばしのお休みです。(つづく)


★追記★ この時点では、31号機も2燈シールドビームに改装されています。
        先にUPした宮内駅の写真のころがよかった・・・と思うのはわたしだけでしょうか(-_-;)


撮影日:1978年2月12日
撮影地:玉名支線 終点・平井駅

ぎんなん

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下り熊本行きのぎんなん号です。
熊本で、上りの玄海号にヘンシ~ン
だったかな?


突然ですが、1973年9月頃の大牟田駅下り1番ホームです。
上田浦のかいもん号をUPしながら、中学の頃に475・457系急行のヘッドマークを追いかけていたことを思い出しました。
この時は、博多寄りのみヘッドマークが装着されていたと思います。熊本の折り返しで、上り玄海号となる運用だったかな?
(詳しい列車番号などの記録を残していません・・・。今度、当時の時刻表でチェックしときます)



★追記★ よく見ると、60Hz専用車をしめすアンダーライン入りの車両ですね(^o^)


ゆのか

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このヘッドマークをめくっていくと・・・ぎんなん,ゆのか,玄海の他に ⇒ つくし,しらぬい,はやとも,有明? なんていうのが出てくるはずかな(*^_^*)

夕方の大牟田駅上り3番ホームでした。


★追記★ ヘッドマークもいいですが、右奥の西鉄電車が気になります。
何形かな・・・。



玄 海

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やっぱり列車番号が気になったので、ARC編成室 train.htmlさんのHPで予想してみました(~o~)

ぎんなん:下り1号 105M  熊本行き
ゆのか  :上り3号 2506M 大分行き
玄 海  :上り3号 202M  岡山行き

あまりというか、ほとんど自信ありません(>_<;)


撮影日:1973年9月頃
撮影地:大牟田駅

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三井三池シリーズ第2弾は、ポーター社製サドルタンクもどきです。

明治30年代後半頃にアメリカより輸入されたとのことですが、さすがの?わたしも本物が活躍していた姿は見たことありません(>_<)

ただ、三井グリーンランド敷地内にある池沿いに置かれていた記憶はあります!!
15号機でした。当時は黒色ではなく三池マルーン色(こんな表現でいいのかな?)の朽ち果てたような色に塗られていた(退色した?)のでした。引退してしばらくは三池浜に置かれていたらしいのですが、誰か詳しいことをご存じの方いらっしゃいませんか?

写真のモデルは、ご存じマイクロエースがずいぶん前に発売した0-6-0のサドルタンクです。箱の解説によると・・・〈バルディン機関車製作所・1900年代の初期に製造〉とあります。
これまた、わたしにはよく分かりません(>_<)

三池のポーター社製サドルタンクは0-4-0のB1型ということでいいのでしょうか。キャブの形は本物に近いと思うんですが、蒸気溜っていうのかな?形状は異なるところがいっぱいです。鐘みたいなやつはカットしました。まあ、それなりの雰囲気は出てるでしょ!(^^)!


★追記★
よく見ると、“NYC(ニューヨークセントラル鉄道)”のロゴが残ったまんまです。お粗末、上塗りのサドルタンクでした。ちなみに、ナンバープレートは7号とし、他の蒸気の残ナンバーをカットして製造。これまた、お気軽改造。そういえば、オークションで購入した2両目がもうすぐやってくる予定です。

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宮内駅を出た列車は、少し下って三井グリーンランドの南側を取り巻くようにして走ります。
終点の平井駅の前には、この大谷駅がありました。

ご覧の通り、ホームに向かう小道は草ぼうぼうでした(@_@)
確かに一本の轍がありますので、ここで乗降する乗客もあったと思いますが、このときは一人もありませんでした。炭鉱の衰退と共に、近くの社宅に住む鉱員が減ったのでしょうか・・・。

この写真は、わたしが撮影した唯一の大谷駅の写真となりました。

★追記★
◇その1
三池港行きの列車です。天気・画像の状態も悪く見にくいかもしれませんが、唯一の写真ということでご勘弁のほどを(-_-) ちなみに、機関車は1号機です。

◇その2-8/7
大谷社宅は、昭和49年(1974年)に全廃になったようです。跡地は、三井グリーンランドのゴルフ場に転用された由。
どうりで、乗降客がなさそうなはずです。乗降客がいないときは、車掌さんが確認して徐行しながら通過していたような記憶があります(^_-)

◇その3-8/17
「三井グリーンランド」は、2007年7月21日をもって「グリーンランド」と名称が変わりましたが、当ブログでは従来通り「三井グリーンランド」の標記をいたします。
ちなみに名称変更の理由は、2005年9月に親会社だった三井鉱山蠅紡紊錣蠕症凜スグループが筆頭株主になったことによるものです。
(会社名は、昨年の7月に三井グリーンランド蠅らグリーンランドリゾート蠅吠儿垢気譴討い泙靴拭


撮影日:1978年2月12日
撮影地:玉名支線 大谷駅

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西鉄紀行2枚目は、やはり大牟田線随一(例によって私の勝手な思いこみによる)の車窓が楽しめる矢部川にかかる中島の鉄橋です。

中島駅のすぐ南側は、漁港がつらなる矢部川の河口付近となっています。竹竿がさされ、たくさんの漁船が係留されています。今でも、ここを通ることがあると身を乗り出し、しばし矢部川の風景を眺めます。
車窓から見る限りでは、有明海沿岸道路の橋脚工事が目に入ること以外は30年前とあまり変化してないように感じますが、実際に歩いてみたら違っているかもしれませんね。

この頃の2000形は2扉の時代で、1989年デビューの8000形が登場するまでは西鉄の花形でした。最近マイクロエースから発売された2000形の模型も、この2扉の方が人気があるように感じますが、これもわたしの思いこみかも(*_*)
もちろんロゴマークも“西”の字をあしらったマークでした。
夕暮れ近くの(何だかここのところ夕暮れが多くない・・・)福岡行き特急です。

しばらくは、30年前の中島の鉄橋からお送りいたします。(つづく)

撮影日:1978年4月2日
撮影地:西鉄中島~江の浦

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前回の“はやぶさ号”撮影の山をおり、線路沿いを少し鹿児島よりに南下。105M、急行かいもん2号を右隅に配置する構図をかまえて撮影。いい天気にも恵まれ、風光明媚な車窓が広がります。

中学や高校の頃はご多分にもれず特急ばかり追いかけていましたが、たまにはこんな写真も撮ってます(*^_^*)ところで当時の475・457系の“かいもん”は、夜行のPC1往復を含む4往復が博多・熊本と鹿児島を結んでいました。急行全廃状態の今から考えると信じられない時代です。

475・457系は、急行からローカル転用された車両が今も活躍していますが、当時の編成はサロやサハシが組み込まれた堂々の編成でした。
ちなみに、このころの編成は以下の通りです。

ク ハ455
モ ハ474
クモハ475
サ ロ455
サハシ455
モ ハ474
クモハ475

撮影日:1976年3月21日
撮影地:上田浦~肥後田浦

★追記★
UPした写真は、先の“はやぶさ号”撮影のちょうど2年前に撮ったものです。同じ構図で撮影したものがあるんでが、こちらの写真の方がスキャンが上手くできましたのでこちらの写真に軍配が(^-^)

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大学生の頃、一度は明延の1円電車(明神電車)に乗ってみたいと思い3泊4日の旅をしました。

まずは、京都に1泊(^-^)
安宿の2階小部屋で、2万5千分の1の地形図を眺めながら1円電車に思いをはせる・・・。

2日目、いよいよ山陰線で和田山へ、そこから播但線に乗り換え新井(にい)へ行ったのかな?
そこから神子畑の選鉱所まで歩いた? 記憶が定かではありません(-_-;)

明延鉱山といえば、すず・銅・亜鉛など多品種の非鉄金属鉱山として知られていて、古い記録によると奈良の大仏建立の時にも明延の銅が使われたとか。
その鉱石を神子畑(みこばた)の選鉱所まで運ぶために敷設されたのが、このときの探索目標である鉱山軌道であります。(つづく)


撮影日:1978年9月12日
撮影地:神子畑選鉱所の明神電車乗り場付近

◆1/2.5万 地形図 神子畑(昭和49年12月28日発行)

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夕暮れの、櫻咲く土手から俯瞰した西鉄600形の大牟田行き急行です。

すでに、ブルーの車体にイエロー帯時代の1000形,1300形は特急の運用から退き、新造の2000形が特急列車として颯爽と疾走していました。この急行も、ほんの少し前までは300形が運用についていましたが、すでに引退が進んでいて宮地岳線に都落ち・・・。

かつて、西鉄大牟田線(現在は、天神大牟田線)は、このように朝夕の多客時には大牟田行き急行の設定もあり、文字通り幹線でした。しかし現在の大牟田線の南部は、甘木~大牟田間の各駅停車ワンマン運転の7000形が2両編成で普通列車の運用についていて、わたしにはローカル線の観を呈しているように思えます。
特急だけは今も福岡天神~大牟田間を走っていますが、終点の大牟田市の人口がかつて20万人を超えていたのが、今や13万人ほど(しかも高齢化が進んでいる)では致し方ないでしょう。

この600形の旧塗色は懐かしい西鉄色です。5000形が続々と投入される中、1976年4月9日の西鉄大牟田線倉永駅付近でした。


★追記★
コメントのご指摘は、ごもっともです。私の思いについて少し説明足らずでしたので、「しかし・・・」以下の本文などを一部補足・修正いたしました。
〔これでも、現状認識がおかしいかもしれませんがお許しを〕

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1978年3月19日の3レ“はやぶさ”号です。
今では、この区間は肥薩おれんじ鉄道となってしまい、寝台特急も過去帳入りとなりました・・・。

八代からさらに下って日奈久温泉をすぎると干拓地も終わり、上田浦の駅につく頃には不知火の海が間近にせまってきます。上田浦駅で下車して、春うららの海沿いを散策しながらの楽しい撮影行でした(~o~)        〔そういえば、あまりに素晴らしいロケーションだったので都合2回訪れたことを思い出しました〕

今回の写真は2回目の時で、リバーサル(コダクローム)を準備して撮影しました。
ヘッドマークはまだ復活しておらず、ED761000番台の前面も少し寂しげです。

この時代は、まだのんびりと各駅停車の客車列車のスジもありました。
最後尾に陣取り、過ぎゆく線路を眺めたものです・・・。もう一度乗ってみたいな(=_=)

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大平駅を出て、切り通しをすぎた列車は宮内(くない)駅に到着。今日の牽引機関車は31号機。さわやかな風が通りすぎる夕暮れ近くの丘の上の停車場です・・・。発車した後も、しばらくは炭住に住むおばさん達の笑い声がホームにこだまします。


★追記★

31,32号機は、15t級の電気機関車(13,14号)からの改造機関車で20t級の機関車の中では人気者でした。(もしかして、そう思っているのはわたくしだけかも・・・)
その訳は、改造時に車体幅の拡幅が行われなかったので、原型の20t機関車を彷彿とさせてくれたからです。(他の20t機関車は、改造時に運転室部分が拡幅されました)
ご覧のように、1976年の時点ではまだライトも1つで、シールドビーム化もされていませんでした。
〔でも、よく見ると屋根のところに2つライトが見えるな?! シールドビームじゃなくて何なんだ・・・〕

ツリカケ式の、あの懐かしい音が聞こえてきそうな一枚です。
31号機は、通勤列車の牽引に最後まで活躍しました。

参考文献:杉田 肇著『私鉄 電気機関車ガイドブック・西日本編』 昭和52年発行 誠文堂新光社


撮影日:1975年11月24日
撮影地:玉名支線 宮内駅

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お気軽改造の、三井三池20t機関車2号機です。わが家の卓上極小レイアウト!(^^)!にて撮影。ちょっとほこりっぽいところはご愛嬌です・・・。種車はもちろんKATOのチビロコですぞ。

なに、それより機関車に繋がれとる変な車両がきなる(?_?) そうでしょう、そうでしょう。これは電源車でござんす。架線が無い区間は、この電源車の蓄電池から電力を供給して走行するのですぞ。今でも、宮浦(大牟田市)の三井化学の専用線で頑張っているのは、知る人ぞ知るところです。種車は、TOMIXのチ1。蓄電池の箱は、消しゴム(この夏暑いので溶け出すかも・・・やばいのだ)手すりはコキ車からの流用で、これまたお気軽改造の見本です。

ちなみに機関車のNOには力が入ってます。1号機ではなく2号機なのがミソ(^_^)v
そして、吊り掛け式のテールライト(BONAのP-201)がいいアクセントでしょ。
さらに・・・、電源車(デ1~4)を連結できる機関車は9~12・14の5両でした。
したがって、この2号機は偽物です(?_?)

おっと、もう一両忘れていました(^o^) 電源車の後ろはKAWAIのセム8000です。ただいまわが家には石炭車が合計56両在籍していますが、また後ほどご紹介しましょう。

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原万田を出た列車は、荒尾の街並みをのぞみながら築堤の上を悠然とはしり大平駅に到着です。車掌の短い笛と、手動のドアが閉まると発車。短いコンクリート橋を渡るとすぐに砂利道の道路が寄り添って、切り通しに向かいます。次は、宮内駅です。小さい電気機関車と63形の客車が箱庭の模型のようです。

撮影日:1975年11月24日
撮影地:玉名支線(緑ヶ丘線) 大平駅

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三井三池の専用鉄道を眺めるのは、私の一番の楽しみです。閉山後10年たった今でも、まだ大牟田に行けばいつものように石炭を淡々と運んでいるのではないか・・・と思えます。気が向いたら写真や思い出など随時アップしていきますので、興味のある方はどうぞご覧くださいませ。今回の写真は、西日を浴びて原万田~大平間を行く通勤列車です。1975年11月24日、秋の装いが深まる荒尾・大牟田の街です。

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