炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

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今は聞こえない、松屋のサイレン

大牟田の朝、もう一つ聞こえてくるのは・・・

“ヴォルガの舟歌”

えいこーら、えいこーら
もひとつ、もひとつ、
えいこーら、えいこーら・・・

ヴォルガ川をさかのぼる舟を、舟曳き達が声を合わせてひっぱてゆく
レーピンの絵にあるように・・・

冬の日の出が遅く、薄暗く天気の悪い朝にはよけいに重たく響いてくる

有明の底深く、石炭を掘る姿と重なって聞こえてくる


撮影日:2007年8月16日   
撮影地:大正橋近くより松屋を見上げる


松屋のミュージックサイレン

1958(昭和33)年から、鳴り始めた。

 6時55分『ヴォルガの舟歌』  ロシア民謡
11時55分『春の小川』      文部省唱歌  1912年(岡野 貞一 曲)
16時55分『埴生の宿』       イギリス民謡 1852年(Henry Bishop 曲)
21時55分『菩提樹』        ドイツ歌曲  1872年(Franz Shubert 曲) 

松屋の屋上サイレンが、1日4回それぞれ違った曲で大牟田の時を刻んだ。

◆【ヴォルガの舟曳き】
イリヤー・エフィーモヴィチ・レーピン(1844~1930)
1870~1873年制作,131×281cm
モスクワ,トレチャフ美術館

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◆『ヴォルガの舟歌』
ロシア民謡
帝政ロシア時代のヴォルガ川の舟曳きたちによって歌われた歌。
非常に安い賃金で農奴たちを使い、重く大きな船を曳いてヴォルガ川を登らせた。

えいこーら、えいこーら
もひとつ、もひとつ、
えいこーら、えいこーら
もひとつ、もひとつ、
(綱を巻いた)白樺を強めよう
そう、巻きを強めよう
アイダダアイダアイダダアイダ
そう、巻きを強めよう

takapyxxxxさんのコメントにあるドア付近のポールについて

昨日、takapyxxxxさんから以下のようなコメントをいただきました。
(大平駅の写真のページ参照)
私が利用していたときはドアも開いたまま平気で走っていました。
客車のデッキの開放ドアと違いこういうドアで開いたまま走るのは結構面白かったです。
“ドア付近にポールがあった記憶がありますが”
ドアを開けそこで遊んでいても誰も気にも留めなかった時代です。
このコメントいただいて、閉山までずっと三池港車庫の奥に鎮座していた客車(ホハ201)を思い起こしました。
しばらくは鉄道関係の機材置き場として利用されていたようですが、晩年は車内も荒れ放題でした。

その車内を写したのが下の写真です。(1995年頃の撮影)
見ての通り、takapyxxxxさんご指摘のドア付近のポールが写っています。
白いポールでした。
よく見ると、右側のポールには鎖が掛けてあります。
左側はというと・・・編んだヒモみたいのが下がっていますね。

天井からは、【乗車心得】がぶら下がっています。
つり革もたくさん並んでいました。

奥の車掌室?も気になるところです。

元は国電63形の3枚窓より、西日がさしこむ廃車体の車内からでした。

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大丸別荘(二日市温泉)の庭へ

今日は、機会あって二日市温泉の老舗旅館“大丸別荘”に行きました。
創業は慶応元年(1865年)、博多の奥座敷の温泉です。

二日市温泉は1300年以上の歴史を持つ温泉地です。
江戸時代には黒田藩主のための御前湯も設けられました。
その名は今も市営の公衆浴場「御前湯」として残っていますよ。
(入浴料は、200円だったと思います)

★もちろん、わが家の裏庭なんてもんではありません<(_ _)>

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回廊を通ります

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この庭で、わが庭にも応用できるいいこと見つけました。
そっか!(^^)! “落ち葉をそのまま散り敷いいとけばいいんだ”
雑草に悩める庭に、早速取り入れます。

庭の全景

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庭の中程には池に橋がかかっています。
屋根付きのなかなか風情のある橋です。
こんな橋の造りのことを何というでしょうかね?

もちろんお風呂に入りました

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玉砂利が敷き詰められたお風呂は最高です(^_^)v
磨りガラスにうつる木々の葉っぱもいい感じです。

ご覧の皆様も、二日市においでの際は安上がりでは「御前湯」へ
高級感がお望みでしたら「大丸別荘」へお越し下さい。

★ちなみに、宣伝費用は一切いただいておりません(?_?)

博多駅8番ホームから、突然ですが鹿児島本線の東郷~福間(当時)にひとっ飛び(^O^)

以前から、“20系あさかぜの15両編成を撮りたい”と思ってあたためていた場所がありました。
それは、東郷駅を通過してしばらく行ったところにあるカーブです。

地形図で確認してみると、ほぼ南北にまっすぐ走ってきた線路は、このカーブで90度方向を変えて西に向かいます。
ここだここだ!(^^)!
7月の日曜日 “20系あさかぜの15両編成を撮るためにだけ”出かけた私でした。

天気は薄曇りで今ひとつでしたが、念願の長大編成が撮れました。
1,2,3,・・・・14(@_@)、最後尾の1両だけが写ってませんが、いいことにしましょう。

当時の記録を見ると・・・40分遅れの、この日の“9レ あさかぜ1号”です。
牽引機関車は、わたくし こと “ED731003” かな?

鹿児島本線を下る“あさかぜ1号”

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撮影日:1976年7月11日
撮影地:鹿児島本線/東郷~福間

地形図で撮影地の場所を確認

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◆国土地理院地図 閲覧サービス(試験公開) 503054  2万5千分1地形図名:筑前東郷 [南西]

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トンネルを出てすぐに停車です

前回の続きです。

3.9㎞のトンネルを越えると、電車は乗降所に一旦停車です。
3名ほど、朝の通勤だと思います。鉱山関係者の方達でしょう。

地形図を確認すると、近くには坑口の標記はありませんが、何らかの施設があったのは間違いないと思いますが、これ以上のことは私には分かりません。


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明延までもう少し

先の電車の後追い写真です。

線路の川側に1本、山側には5本のパイプが縦にきれいに並んで敷設されいます。
排水用でしょうか?

撮影日:1978年9月12日
撮影地:神子畑~明延

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まずは住宅地図にて予習

これは、昭和58年(1983)の荒尾市住宅地図(一部)です。
通勤列車が廃止(1984年10月1日)される1年前の地図ということになります。

平井駅ですが、1つ気になる点があります。それはホームの北側にも線路がありますが、わたしの記憶では写真を撮影した1978年の時点ではなかったと思います。後で敷設されたとは考えにくいので、間違いではないでしょうか。(もちろん、以前に敷設されていた可能性はありますね)

さて、ホームのすぐ南側は「三池商事 緑ヶ丘店」とありますが、これは三池炭鉱直営の“売店”を出発点とする、いわばスーパーです。大牟田栄町にあったのは染料(三井染料-現三井化学)の“売店”といってましたが、それぞれ「サンショー」に「山西ストアー」と後ほど名称を変更したと思います。

三井グリーンランド(1966年開園)はこの当時からありましたが、果樹園のマークは実は葡萄畑で、かなりの面積を占めていました。その名の通り“グリーンランド”だったんですね。

この地図にはありませんが、南側や北側に社宅がひろがっていました。


それでは、空中写真で確認を

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◆国土交通省 国土計画局 「ウェブマッピングシステム」より 1974年 荒尾(一部)

三池シリーズ最終回は、やはり通勤列車でしょう(^o^)

わが鉄道には、現在ホハ204の1両のみが保存車両として在籍しています。
残念ながらコハ100は現存しません・・・。

てなわけで、例によって2号機に引かせます。
鉄コレのホームをセットしてと・・・、かんたん三池鉄道の再現です。
例によって、モノクロバージョンを用意致しました。

カラー編も、結構いけてますよ(^O^)

モノクロ編

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カラー編

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★追記★
ホハ204の種車は、グリーンマックスのクハ79ですね。例によって、お手軽改造です。こまかいところはご容赦を。行き先の表示板もパソコンで適当に作りました(^^) 凝ったところといえば、出入り口の屋根の・・・なんて言ったらいいんでしょうかね? 雨水よけ? “へ”の字形したやつです。ほんとはベンチレーターも、もっとでかいんだけどな~。

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鉄橋を渡る200形+60形

30年前の西鉄甘木線を散策してみましょう。

1枚目の写真は、大刀洗川の鉄橋を渡るモ200+ク60です。

中島での撮影の1ヶ月ほど前、1978年2月26日好天につられるようにして甘木線を訪れました。
記録のよると、古賀茶屋(こがんちゃや)にて電車を降り、甘木方面に向けて線路沿いを歩いての撮影行です。

まずは古賀茶屋駅のすぐ先、甘木方面に行ったところにある鉄橋で1枚!(^^)!

小春日和の暖かい日差しを受けての1ショットです。
[ひとりごと・・・本物のコダクロームスライドを見ると、もっといい発色してるんだけどな]



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ク62がやってきました

同じく、古賀茶屋駅の近くでもう1枚。

大川線からの転入車両である60形を先頭に、甘木行きがやってきました。
昼間の閑散時には、このような2連の運行もあったと思います。

サ250を組み込んだ3両・4両の編成からなる堂々の200形もいいですが、2連のこの電車もなかなか可愛いでしょ(^_^)v

枚数は10枚ほどと少ないのですが、しばらくは甘木線をお楽しみ下さい。


撮影日:1978年2月26日
撮影地:西鉄甘木線/古賀茶屋駅付近

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1975年10月26日の博多駅8番ホーム

東京より、9レ“あさかぜ1号”博多駅にただいま到着。

20系“あさかぜ”が、まだまだ輝いていた頃です。
当時最も豪華であった個室を含む、堂々の15両編成!(^^)!
15両の編成を電源車・1号車に続いてのぞいてみましょう・・・

カニ21・ナロネ22・ナロネ22・ナロネ21・ナハネ20・ナハネ20・ナシ20・ナハネフ23
ナハネ20・ナハネ20・ナハネ20・ナハネ20・ナハネ20・ナハネ20・ナハネフ22

今となっては、KATOのNゲージで再現して楽しむ他はない編成ですね・・・ため息ものです(T_T)


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ホームの端っこにて

8番ホームの、ほとんどぎりぎりに止まる20系“あさかぜ1号”です。

何とか、隣のホームの延長部から撮ったのかな?
正面からナハネフ22を撮影しようとしましたが、無理だったのでこの構図にしたように思います。

この20系のまん丸いフォルムが何ともいえません(^_^)v
大好きな車両でした。


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竹下への回送発車

何とか“海坊主”のマスクを正面から撮りたくて、回送発車をホームの途中でねらいました。
撮影時のメモをひもとくと・・・

『そのうち20系も見られなくなるかもしれない。個室を見てみたが、聞いていた通り少し狭苦しい様子であった。また、外装のブルーもだいぶくたびれていて、18年の時を思い起こさせる』

撮影した年から約2年半後の1978年2月1日、24系の編成に置き換えられた“あさかぜ1号”でした。


撮影日:1975年10月26日
撮影地:博多駅8番ホーム

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トンネルをぬけ、神子畑から電車がやってきます

前回の撮影地から、少し神子畑寄りにやってきました。

ここは、明神電車の短い地上部にあり、かつ唯一の鉄橋上の写真です。
鉄橋の横から撮影しようかなど、構図をあれこれ悩んだ記憶があります。

結局、トンネルを出てすぐの鉄橋を渡る電車を、正面から撮影することにしました。

実は、トンネルを出てすぐのところで、電車は一旦停車して神子畑からの乗客を降ろします。
トンネル出口付近にカーブミラーがありますね。
その手前が乗降所となります。

次回は、この写真のカットのつづきからです。


撮影日:1978年9月12日
撮影地:神子畑~明延

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折り返し 三池港行き

平井駅ホームのすぐ先にある踏切の警報機が、ゆったりとした鐘を鳴らします。

遮断機が降り、折り返しの三池港行き炭鉱電車の発車です。

炭鉱は、三交代制で休みことなく石炭を採掘していました。
一番方は朝4時に出て夕方4時に帰り、二番方は12時に出て夜0時に帰り、三番方は夜8時に出て朝8時に帰りでした。

当時の、通勤電車の時刻表をひもとくと・・・、

平日と社休日の2つの設定がありました。平日の平井行きの列車は、三池港発4時55分発から0時45発の列車まで、計18往復の設定があります。社休日もほぼ同程度の列車の設定がされていましたが、私が写真を撮った午後の時間帯は、通勤というよりは“社宅のおばさん達の買い物列車”的な利用の仕方が多かったように思います。

隣の三井グリーンランドには、今のようなジェットコースターはなく葡萄畑が広がっていて、まだまだのんびりした時代でした。

◆なお列車時刻については、以下のHPにある三池港駅の写真を参考にしました。
 HP 『ちょっと古い鉄道のお話』 特集2 軌道めぐり より “三池鉄道”
  http://www.ne.jp/asahi/tetsudo/miyata/home/index2.html


影日:1978年2月12日
撮影地:玉名支線・平井駅

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125レ 普通列車

上田浦シリーズの第5弾は、旧型客車の普通列車です。

当時は、まだまだこのような旧型客車のスジが何本か残っていました。
できるだけ客車列車を選んで、ゆったりと過ぎる列車の旅を楽しんだものです。

客車は、停車するとまったくの静寂です。電車や気動車のようにモーターやエンジンの音はしません。
ガタン・・・と機関車のノッチが入るとゆっくりと動き出します。
「今日の機関士さんはうまいな~」なんて、窓を開けたモケットの座席に身を置いてしばしご満悦(~o~)

今ではイベント列車や大井川鉄道にでも行かなければ、こんなのんびりした旅も不可能です。
桜島や天草・阿蘇など、夜行急行列車が懐かしく思い出されます。

[上田浦シリーズはひとまず終了。2回目の訪問は2年後です?!]


撮影日:1976年3月21日
撮影地:上田浦~肥後田浦

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暮れゆく海に浮かぶ“初島”

《ゴー・・・ゴー・・・》
特に、冬晴れの朝には地底から響いてくる

《ゴー・・・ゴー・・・》
中学・高校の頃までは何とも思わなかった
大学に入学し、大牟田を離れて久しぶりに帰省した時にそれはきた

《ゴー・・・ゴー・・・》
「有明の海の底深く 地底にいどむ男たち・・・」

◆作詩 上野信幸・森田ヤエ子/作曲 荒木 栄 『組曲・地底のうた』の序章(合唱)より

石炭は、有明海の底深く毎日毎日掘られていた
その深き海底の坑道に向けて、毎日毎日新鮮な空気を送る・・・

《ゴー・・・ゴー・・・》
そうだ、坑道にいのちを吹き込むその音!!
冬枯れの寒い朝にはよく響いてきたそれは、初島にある送風機の音

その響いてきた音に、わたしは三池の炭鉱の歴史とそこに生きてきた人々の証を聞いたように思う
(つづく)


撮影日:2007年 早春
撮影地:昭和開の干拓地堤防より初島を望む

三池炭鉱の人口島
初島は1951年に完成。沖合い2キロメートルほどに位置する。三川坑の採掘が沖合いに伸びるに伴い、通気坑を設ける必要からつくられた。当初は入気立坑として使われたが、1970年に三池島(入気立坑)が築造され排気立坑に変わった。

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鉄橋を渡る20形

3連の20形普通電車が鉄橋を渡っていきます。
1000形に似たマスクの20形のシルエットはいいですね。

100形や300形の普通電車が、まだまだ大牟田線で活躍している頃です。
でも、ほとんどこれらの電車にカメラを向けたことがありませんでした (-_-;)

みなさんも同じような思いをされたことがあるでしょう・・・

“あの時、もっと撮っとけばよかった”

20形は宮地岳線に転出して120形となりましたが、鉄道趣味はしばらく休眠状態でしたので二度とお目にかかることはありませんでした。


【中島の鉄橋シリーズはとりあえず今回にて終了/次回からは甘木線です】


撮影日:1978年4月2日
撮影地:西鉄中島~江の浦

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三井三池の“セナ”形石炭車です

三池の模型シリーズ第4弾は、石炭車です。

やっぱり、炭鉱鉄道はモノクロですよね!(^^)!
前回の写真に味をしめて、今回もモノクロ風(正確にはグレーモード)にしてみました。
車両は、最後まで運炭に活躍していた“セナ”形石炭車です。

三池港車庫の先にあった、九州電力の貯炭場をイメージしてみましたよ。
(ひとりごと・・・バックがただの土じゃいけませんね、黒い石炭じゃなくっちゃ)

本物は10両編成で、貯炭場ではショベルカーで石炭を積み込んでいました。

“セナ”形石炭車は、元国鉄のセラ1形の払い下げを受けたものがほとんどでした。
写真の模型は、ホラ1形の改造車設定です。(本物は、炭車の上部がかさ上げされていました)

三池港にごろごろしていた“セナ”も、今は1両もありません・・・。


★追記★ 
この車両は、オークションで4両手に入れました。(私には、細かいデカールを作る技はありません)
まさか、三池の石炭車がオークションに出るなんて思いもしませんでした。作成者の方、もう6両作って下さい!!

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1/2.5万 地形図で撮影地の確認

明延訪問2日目です。
朝の一番電車をねらいます。

1/2.5万地形図にて、地上部分を確認しましょう。
神子畑を出た電車は約3.9Kmのトンネルを抜け、短い地上部分(約400m)を走行します。
そして500mのトンネルを越えると明延に到着です。

この約400mの短い地上部分が今回の撮影地です。
線路脇を明延川の支流が流れています。

◆国土地理院 1/2.5万 地形図大屋市場 昭和49年2月28発行(一部)


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一番電車が走ります①

明延から、神子畑行きの電車がやってきました。

明延川の支流は、山に囲まれた谷間を流れます。その谷間をちょうど400mの等高線に合わせるように762mmの線路が敷設されています。(高低差はほとんどありません)

朝靄のなかの一枚です。


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一番電車が走ります②

石垣の上を、電車がだんだん近づいてきます。

写真下の道を、明延の町から歩いてやってきました。
今日の天気も今ひとつ('_')・・・ まだ少し薄暗い山の谷間です。

機関車の次位には、元貴賓車だった唯一のボギー式人車“くろがね号”そして“わかば号”、書類運搬車。
幸いにもこれらの車両を含めて、すべての明神電車の車両が保存されていることは非常に喜ばしいことです。
地元の方々の、“1円電車”にかける思いが今も強いのだと感じます。

次回は、この撮影地のすぐ先にある、明神電車唯一の鉄橋上からです。(つづく)


撮影日:1978年9月12日
撮影地:明延~神子畑

◆参考文献:岡本憲之著『全国鉱山鉄道』 JTB 2001年10月1日発行

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終点の平井駅にて、三池港への折り返しの出発を待ちます。

こうしてみてみると、かつて近鉄のナローである・・・たしか八王子線で見られたデ46の引く客車列車みたいな雰囲気ありませんか(@_@)

電気機関車のデ46の前面に、[八王子行き]のマークを付け客車を牽引している写真をどこかで見た覚えがあります。(当時のデ46は、緑色してたように記憶してます)

そしてこの写真、客車のコハ1両しか連結してないように見えます(?_?)
ホームの駅舎に隠れて2両目の63形のホハが見えません・・・。

もう何十年もまえから、ずっと時間が止まっているかのように感じる1枚です。
(つづく)


撮影日:1978年2月12日
撮影地:玉名支線/終点・平井駅

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下り有明3号 1007M

上田浦シリーズ第4弾は、583系の特急有明号です。

山の上にあった神社の階段からの俯瞰です。
撮影した当時は、自分では“バッチリの構図でとれた”と記録ノートにメモしてますね。
いかがなもんでしょうか(?_?)

さらに記録ノートをひもとくと・・・串木野発7:45の普通列車で上田浦に行ったことになってますね。串木野には伯父さん宅がありました。
(後ほど、鉱山軌道のコーナーで、串木野金山の鉱石列車レポートをします)
撮影終了後は、熊本から14系座席車の阿蘇に乗ったらしい(@_@) 臨時列車だったのかな。

おまけで、同じ場所から撮った荷物列車もどうぞ。
(こっちの方がよく写ってそうじゃん?!)

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下り 31レ 荷物列車

懐かしい列車です。

日本の線路上から郵便・荷物列車消えて何年が過ぎたのでしょうか?
模型をはじめたときに、いの一番に作ったのがグリーンマックスの郵便車や荷物車でした。
オユやマ二を連ねた凸凹の編成が、今にして思えばとても味があっていいですよね。

そういえば、ホームにあるポストにはがきを出したりして、郵便車の消印を楽しんだりしてました。

撮影日:1976年3月21日
撮影地:上田浦~肥後田浦

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600形急行

中島の鉄橋シリーズ第3弾は、600形急行大牟田行きです。
(たぶん・・・それにしても、車内に人のシルエットがぜんぜん見うけられんな・・・あやしい記憶です)

西日が随分と傾いてきました。
中島の漁港には、陸に上げられた船もあります。木造の漁船です。

有明海は、豊かな海として知られています。
ノリの養殖に、アサリ、ムツゴロウ、タイラギなどなど・・・。
有明海でしか見られない魚介類も沢山あります。

近年、諫早湾の干拓事業による影響か?さまざまな異変がおきていることが報道されてきました。
有明海内の潮の流れの変化や、九州山地に元を発する川からの豊かな水の供給が減少するなど、
有明海を取り巻く環境は厳しいものがあります。

荒尾や三池港の浜で、ざくざくとアサリがとれていた頃の環境に戻すことができるでしょうか(-_-)



撮影日:1978年4月2日
撮影地:西鉄中島~江の浦

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1997年5月11日 1/3万 空中写真(荒尾・一部)

国土地理院の空中写真閲覧システムを使って、玉名支線(緑ヶ丘線)の廃線跡を見てみましょう。
写真の東側を、荒尾駅を中心に南北にJR鹿児島本線が走っています。
駅の南西には荒尾競馬場が見えますね。

このJR鹿児島線と、写真の北側で直角に交わっているのが専用鉄道の本線です。
北西の角に【西原駅】・・・高圧線の鉄塔が本線の線路上を等間隔に通っています。

この写真が撮影されたのは、ちょうど三池炭鉱閉山の年の5月です。まだ、線路は撤去されていませんでしたし、使われなくなった機関車たちは、三池港の車庫にいました。大牟田市へ譲渡予定の電気機関車達が宮浦へ回送されたのが、この年の7月14日でした。
九州 鉄道の記憶Ⅱp274の写真を参考にしました)

さて、JR鹿児島線とオーバークロスしてすぐが支線の分岐点である【原万田駅】です。
写真でも、はっきりと南にカーブして本線から分岐する玉名支線の築堤跡が見えます。

廃線後もしばらくは、原万田を出てすぐの道路をわたる鉄橋などもそのままでしたが、閉山ともに撤去されてしまいました。
さて、築堤跡は【大平駅】をめざします。途中に道路がつくられ、築堤が分断されているのが痛々しいですね。写真中の[大平]の表示の北側のため池脇の小山から、この築堤をやってくる列車を撮ったのがこのブログの最初の写真です。

築堤をこえ【大平駅】を出た列車は、切り通しに入りますが・・・・なんとこの写真の時点では、東側の山が開発されてしまい、当時の面影はありません。ただ、線路沿いにあった舗装されていなかった道は健在ですね。
この切り通しをこえたところが【宮内駅】です。

写真の赤○は、ちょっと南にずれすぎかな?
写真の東側は、三井グリーンランドのゴルフ場です。

閑話休題・・・今日のところは、ここまで。



☆追記☆
ネタが無くなったはずでしたが、もう一つ忘れてました。それは・・・荒尾市電気鉄道の廃線跡です。
(1964年10月廃止・元々は旧日本陸軍が兵器工場まで敷設した線路でした)
荒尾駅の南、国道208号線と平行に南東に鹿児島本線から分かれるような道が廃線跡です。この先、国道208号とアンダークロスして緑ヶ丘へ向かいます。

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