炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

イメージ 1

第2回目は・・・

今日、9月29日(土) 午後3時 薄曇り 気温26℃ 湿度76%(とある九州のある地方)
こんな天気の昼下がりは、エルガーのバイオリンソナタにバイオリン小品集です。

昨日までの、ぎらぎら指すような日差しがやっとおさまり、秋を感じさせる空気です。
そこで、1枚のCDを取り出しました。
それが今日の一枚、若きナイジェル・ケネディーの手になるエルガーです。

ジャケットのケネディーを見てください!!
その端正な写真からは、上品なイギリス音楽が漂ってきませんか(*^_^*)
すぐ左隣のエルガーも、さぞかしご満足なことでしょう。

ところでナイジェル・ケネディーといえば・・・
(ここ10年くらいはクラシックCDともご無沙汰で、最近の様子はよく分からないのですが)
髪はパンク・カット、「コンサート」は「ギグ」・「ヴァイオリン」は「フィドル」と言ったりしてましたが、今もその活動スタイルは同じなのでしょうか?
1989年にヒットしたヴィヴァルディの「四季」くらいで、彼についての私の記憶は止まったまんまです。

さて、このCD私のお気に入りです。
ほんとに、ジャケットのケネディーの写真の様に上品で懐かしく、そしてイギリスの風景が目に浮かんでくるような優雅な演奏です。
このCDを手にする前は、チョン・キョンファのバイオリン小品集(エルガーは2曲のみ)で聴いていましたが、何といってもご当地、そしてエルガーのバイオリン曲集であるこのCDにはかないません。

このナイジェル・ケネディー、メニューイン学校に学んだようですが、そこでメニューイン直伝の演奏をきっと学んだことでしょう。
ちなみに、輸入盤にて購入しました。
Recording Data
Nigel Kennedy  :violin
Peter Pettinger :piano

Producers : Brian Couzens
Engineer  : Bill Todd
Recorded in the Church of St George the Martyr,Bloomsbury,London 
January 6th and 7th,1984

Op.82 Sonata for Violin and Piano in E minor
Op.22 6 Very Easy Pieces in the First Position
Op.12,13,15,70
Canto Popolare from In the South


1984 /Chandos Records Ltd.

宮の陣から数えて5つめの駅、大城駅近くまでやってきました。

北野駅を出た電車は、床島用水と筑後川に細く流れ込む陣屋川を越え大城駅へと進みます。
民家の脇をかすめて、4連の200形がのんびり走ります。


北野~大城間を行く200形電車

イメージ 1


イメージ 2

撮影日:1978年2月26日
撮影地:西鉄甘木線/北野~大城

ここでちょっと沿線散歩 その2 今村天主堂
大刀洗の「今」には今村教会と呼ばれる美しい赤煉瓦造りの建物があります。
筑紫平野のど真ん中に、どうしてこんなにも堂々とした煉瓦造りの天主堂があるのか(?_?)
誰もが驚く、その規模のすごさにロケーション!!
一度は、訪れたい“全国赤れんが建築番付で西の横綱”と称される建築物です。

ところで、「今」の地域は江戸時代の長きの間、キリスト教禁教のもと“隠れキリシタン”としてひそかに信仰を守り続けていた人々が住んでいた場所です。
信仰が自由になった明治時代には、フランス人神父ソウレが今村にきて、木造の教会が建てられます。
そして、この赤煉瓦造りの教会は、本田神父の時代にフランスなどからの寄付や信者の努力によって1913(大正2)年に完成しました。
美しいステンドグラスや絵はフランス製、柱は高良山の杉、煉瓦は迎島(旧佐賀県神埼郡千代田町)瓦は城島で焼かれたものが使用されています。
そして、この教会の設計者はかの鉄川与助であります。


今回も散策地図を用意しました。

今村は、大城駅の北、直線で約2キロの地点にあります。
(地図中には、「今」と標記されている)
老人ホームの標記近くに今村天主堂があります。

1/5万 地形図で確認を

イメージ 3

◆国土地理院 1/5万 地形図 甘木 平成8年8月1発行(一部)

イメージ 1

     『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年 1/1.6万(一部)

開港12年後の三池港 その2    四ツ山発電所篇

地図から三池炭鉱専用鉄道を探るシリーズ第4回目は・・・

前回に引き続き、1908(明治41)年に完成した三池港よりお伝えします。
いつものこの地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年4月発行)は、三池港が開港して12年目の様子を今に伝えていることは、すでにお伝えした通りです。

さて、この地図は「複写版のコピー」ということもあって、地図中の記載事項が見にくいことから、今回は赤で標記を追加記入してみました。(文字が見えにくい時は、クリックして見てください)
早速 『次に、地図中の発電所の遺構を探って・・・』のつづきといきましょう。

地図中、トンネル貯炭脇の築堤東側にある発電所に注目してみましょう。
この発電所は、1907(明治40)年に竣工した“四ツ山発電所”です。三井関係の工場や炭鉱はもとより、わが三池炭鉱専用鉄道への電力も供給していました。
この発電所、1925(大正15)年には“三川発電所”と名称を変えた後、1937(昭和12)年に廃止となっています。(相前後して、九州共同発電 → 後に九州火力発電が設立されています)

次に、今回も絵葉書によって、この発電所施設を見てみましょう。

絵葉書に見る発電所とその煙突

イメージ 3

この写真は、三池港の外港側から閘門越しに内港を見渡したものです。
(ここでは、大正9年のこの地図標記に準じて、外港・内港と表現しています)
遠くに三池山の姿が写し出されていますね。
写真右隅に2本の煙突が見えます。内1本からは、もくもくと煙がはき出され、北にたなびくのが見えます。これが、今回の発電所の煙突ですぐ左下が発電所の建物となります。
時代的には、ダンクロが3機揃っていますので、1911(明治44)年以降の撮影ということが分かります。
(更に詳しい年代の予想は、次の大正15年の地図解読時の宿題としておきましょう)

発電所内の様子については、前回紹介した、九州大学デジタル・アーカイブ>GALLERY>福岡百景>三池炭鉱に1枚の写真があるのでそちらをご覧下さい。(登載の絵葉書と同じものもあります)

ここで、いつもの様に『この発電所の遺構を探ってみましょう』というパターンになるのですが・・・、今回ばかりは現地に行っても『何もない・・・』とあきらめかけていたところ、ある1枚の写真が思い浮かびました!(^^)!

それが、次の写真です。


炭鉱電車と煙突2本

イメージ 2

撮影日:1976年1月18日
撮影地:三池港駅付近(当時のメモ)

この手前にある煙突、当時は『何の煙突かな?』ぐらいしか思いませんでした。
(奥の赤白煙突は、九州電力港発電所 ・ 昨年解体されてしまいました)
でも、今回調べていく内に“旧四ツ山発電所の2本あった煙突の内の1本である”という結論に達しました(^_^)v

次の航空写真を見てください。
昭和49年度 福岡県大牟田市 国土情報ウェブマッピングシステム>400dpi

九州電力港発電所から東に目を向けていくと、三池鉄道築堤横に空き地が見えます。この空き地の北と南に離れて、2本の煙突があるのが見て取れますね。この空き地が発電所の跡地で、離れてある2本の煙突は、その遺物です。(実は、煙突は4本ありました。詳しくは、次の大正15年の地図解読時に)

南側にある煙突が、私が1976(昭和51)年に撮影した煙突です。
(発電所跡地東側の公園から撮影したもので、公園のシーソーや柵が写真にも写っています)
この発電所跡のすぐ南側には、今も大切に使われている(保存されている)三川変電所があります。

ちなみに、現在の発電所跡地には知る人ぞ知る信号機の会社信号電材(株)の第3工場などがあります。
残念ながら、煙突はすでに存在しません。(いつ頃壊されたかは不明です)

またまた、長くなりました・・・。
それでは、本日はここまでとしましょう。
(つづく)

イメージ 1

第1回目は何にしようか・・・

あれこれ、わが家のCD棚を眺めていましたが決めました(~o~)
それでは、「はじめて購入したCD」にしよう!!

それが、今回第1回目のトップをかざるクーベリックのモーツァルトです。

モーツァルトの交響曲といえば、長くオトマール・スイットナー指揮シュターツカペレドレスデンを聴いてきました。当時の東ドイツのオーケストラの響きは、なんともいえず懐かしように響いてきて、お気に入りのレコードの1つでしたね。(ちなみに、大学時代に廉価版のレコードを仕入れました)

さて、クーベリックのモーツァルトは、後期6曲が手兵のバイエルン放送交響楽団で録音されています。
このCDはその中の1枚なわけです。
ライナーノート(小石忠男さん)によると、クーベリック66歳の録音とあります。
ずっと以前に、ウイーンフィルと録音したレコードがありましたが、1981年にリリースされたこの版がクーベリックにとっては久しぶりであり、かつ最後のスタジオ録音となりました。

当時は、初めて聴くCDとして音のクリアーさとともに、しっかりと構成されたその演奏に感激したものです。
今も時々取り出して聴きますが、ライブ版などの雰囲気かお好きな方には少し不満かも知れませんね。

ところで、レコードやCDに限らず書籍などを購入する時は、ジャケット・表紙・パッケージなどやはり重要なポイントですよね。最近、往年のに日本文学の名作文庫のカバーを若者向きに変えたところ、売上げがすごく伸びたという記事を見ました。
(例えば、集英社は太宰治の『人間失格』のカバーを自社の人気コミック『DEATH NOTE』にしてるなど)
そんな観点から、CDジャケット見直して見るのも面白いかも知れません。

で、このCDジャケットは、ウィーン/王宮庭園 にあるモーツァルトの像です。


最後に、ジャケット裏面のRAFAEL KUBELIK です。

イメージ 2

Recording Data
RAFAEL KUBELIK,Conductor
SYMPHONIE-ORCHESTER DES BYERRISCHEN RUNDFUNKS

Producers : David Mottly,Friedrich Welz
Engineer : Martin Wöhr
NO.40 9/17,18/1980
NO.41 6/8/1980
Herucuiessaal Munich 

1981 CBS/Sony Inc

イメージ 1


イメージ 2


イメージ 3

ゆっくりと列車が進入してきました

今回は、仮屋川操車場よりお送りいたします。

久々の列車の登場です(^_^)v
たっぷり、三池の炭鉱電車を堪能して下さい。

ここ仮屋川操車場は、自動車学校をはさんでJR九州・西鉄の線路が並んで走っています。
3つの列車の並びを撮ろうと、わがコンパクトデジカメをかまえましたが・・・・

あせってしまって、ぶれてしまいました(>_<;)

まあ、お遊びのデジカメで撮っていますので、画像や望遠機能もたいしたことはありませぬ。
ここは、web上で多くの方々の写真を見ることができますが、こんな仮屋川操車場の風景もあると思って見て下さいませ(*^_^*)

それでは、一挙9枚公開です!(^^)!


操車場の中程で停車

イメージ 4


イメージ 5
 

西鉄2000系・JR九州815系との競演

イメージ 6


電気機関車 今日は18号機の切り離し

イメージ 7


機廻しを終えて戻ってきました

イメージ 8


これから単機で、一旦宮浦まで戻ります

イメージ 9



撮影日:2007年9月1日
撮影地:仮屋川操車場にて

前回で終わるはずだった(^_-) 旭町踏切のおまけ編です。

今回の話題は・・・
2001(平成13)年発行の1/2.5万地形図(国土地理院発行)をみて驚き(@_@)

な、なんと旭町支線がありません。
『ついに旭町支線も廃線になった?!』  ウッソ~(*_*)

この地形図 《1970(昭和45)年測量,2000(平成12)年修正測量,現地調査は2000(平成12)年3月実施》とあります。
この時点では、浜本線の線路は撤去されていて廃線になっていましたが、な・なんと今だ存続中(@_@)

いったい、何を現地調査したのでしょうか?
こうなると、地形図にて線路をたどるということ自体があやしくなってしまいます・・・。
国土地理院さん、しっかり地形図作成お願いいたしますよ!!

旭町支線 ついに廃線か(*_*)

イメージ 1

◆たぶん、旭町支線については記入もれでしょう。旭町1号踏切の先、道路が支線を通るところでとぎれてます。



心配になった私、地図閲覧サービスの1/2.5万地形図をチェックしました。

これは、正確な地形図でした!(^^)!
ちなみに《2002(平成14)年4月発行,現地調査は2001(平成13)年》をもとにしています。

ちゃんとあるじゃないの!(^^)! 旭町支線

イメージ 2



最後に写真を2枚。
旭町踏切と仮屋川操車場のタンク車・コンテナ車でござんす。

大牟田ガーデンホテルの駐車場より  旭町1号踏切を望む

イメージ 4

撮影日:2007年8月24日
撮影地:大牟田市旭町

次回は 仮屋川操車場からお伝えします(予告編)

イメージ 3

撮影日:2007年8月16日
撮影地:仮屋川操車場

イメージ 1

     『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年 1/1.6万(一部)

開港12年後の三池港   貯炭トンネル篇

地図から三池炭鉱専用鉄道を探るシリーズ第3回目は・・・

1908(明治41)年に完成した三池港よりお伝えします。
いつものこの地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年4月発行)は、三池港が開港して12年目の様子を今に伝えています。

まずは、三池港の歴史を簡単にひもといてみましょう。

開鉱当初は、小さな帆掛舟で大牟田港から口之津港(長崎県島原半島→ここで大型船に積み込む→海外へはさらに長崎港に運び外航船に積みかえる)へ運んでいた石炭も、出炭量が増加するにしたがって大型船が入港できる港が必要となってきました。
そこで、三池炭鉱の近代化に大きな足跡を残した團琢磨(だん たくま)らによって、有明海の干満の差を克服した日本唯一の閘門式の港である“三池港”がここに完成するに至ります。

さて、そこで坑口から三池港へ石炭を運ぶ役目を担ったのが、わが三池炭鉱専用鉄道であります。
すでに1905(明治38)年に本線(横須浜~三池港間)が開通し、1912(明治45)年からは20t電気機関車(シーメンス・シュッケルト社製)の使用も始まっていました。

今回も前置きが長くなりました(^_^;)
早速、本題の三池港界隈の線路について見ていきましょう。
まず目に付くのは、複線の本線から分かれて築堤を行く線路でしょう。その先は、いくつもに分岐した線路が伺えます。そして、最も注目すべきは、発電所近くの途中で短くとぎれた3つの線路です。
実は、この線路はとぎれている訳ではありません。
高架式貯炭施設の下に潜り込んでいます。

今回も絵葉書によって、この高架式貯炭施設を見てみましょう。

◆三池港に関する詳しいことは、大牟田の近代化遺産>三池港に詳しい解説や写真、それに加えて大変に美しい大正15年の地図があります。もっと知りたい方はぜひこちらのHPへ。


絵はがきに見る高架式貯炭施設

イメージ 2

私には、この高架式貯炭施設の構造がよく分からないのですが、貯炭された石炭をこのトンネルから運び出し、左奥に見える船積機(ダンクロ・ローダー)まで運んで積み込んだと考えられます。
(地図には、船積機は内港に3つの四角い構造物として描かれています)
トンネルの出口には、15t電気機関車(ゼネラル・エレクトリック社製)と思われる姿が写っていますね。

ちなみに、1925(大正14)年から1929(昭和4)年にかけて、3機あった船積機(ダンクロ・ローダー)が順次ベルトコンベアー式に改造されていますので、このトンネルも役目を終えることになったことでしょう。

次に、地図中の発電所の遺構を探って・・・
と思いましたが、長くなりそうなので今回はここまでとしましょう(*^_^*)
(つづく)

◆三池炭鉱に関する絵葉書については、九州大学デジタル・アーカイブ>GALLERY>福岡百景>三池炭鉱に貴重な写真の数々が公開されています。もっと古い絵葉書を見てみたい方は、ぜひこちらのHPへ。

イメージ 1

最初の自作郵便車 オユ10

今回から、自作(グリーンマックス)の郵便車や荷物車を順次紹介します。

トップバッターは、今から15年前に作成したオユ10です。

まずは、オユ10のお話から・・・。
郵便車の代表格は、オユ10でしょう。
オユ10は、10系軽量客車に準じて昭和32年度から製造された郵政省(当時)所有の郵便車です。
従来のスユ42と同様の車内設備で、郵便車特有の明かり窓付き・片デッキとなっています。
登場時は非冷房で、屋根には11個ものベンチレーターが並んでいました。
台車は、TR50 Cまたは200 A(昭和37年以降製)です。
実はこの模型、二日市にあった双葉模型さんにて購入したキットでした。
当時の双葉模型には、古~いアイテムが沢山あることでその筋の方々には有名だったようです。

このキットもGMの古いキットで、車体の郵便マークなどが出っ張っていて必死に削った覚えがあります。     (インレターがなかった時代ですかね?)
また、床下機器は金属製(ダイカストっていうんですか)で、それ自体がおもりになっていて、ネジで留める形態になっていました。
この床下機器も含めて、黒のスプレーにて塗装したと思います。

明かり窓の塗装と窓周りのHゴム、それに銀屋根の塗装に苦労しました。

ちなみに、オユ10 25はこの世に存在しません(*_*)
作成当時、詳細な資料もないままに適当な車番をつけました(^o^エヘヘ)
それでは、サイドビューや床下をご覧あれ。


◆詳しくオユ10や郵便車のことを知りたい方は、以下のHP参照をお勧め致します。
    国鉄型車両ファイルhttp://jnr.site.ne.jp/PC/yuni/htm/yubin1_frm.htm


オユ10 サイドビュー

イメージ 2

イメージ 3

すみません(>_<;) 脱線してました・・・

オユ10の床下 

イメージ 4

イメージ 1

有人踏切なり 旭町1号踏切

今回まで、旭町踏切よりお送りいたします。

この旭町1号踏切は、今では貴重な鉄道施設である有人踏切です。
『ニッポン 鉄道遺産を旅する』交通新聞社刊(2005年)によると、
「全国59ヶ所(平成17年3月現在)」に手動の有人踏切があるようです。
そのほとんどが、この三池のような列車本数がすくない貨物線です。

貨物線の有人踏切といえば、西濃鉄道昼飯線にあったかわいらしい踏切を思い出しますが、現在はどうなっているでしょうか?

ところで、旭町支線の開通は、1897(明治30)年ですので、優に100年以上の歳月が流れています。
この100年あまりの間、メンテナンスを繰り返しながらここにあることになりますね。
このような観点から旭町1号踏切を見てみると、あらたな感慨をもってせまってきます。

踏切小屋を覗いてみると、何だか時代がかったレバーが見えます。
こんど行った時は、踏切小屋の内部をぜひ観察させてもらいたいと思いますね。

それでは、ワイヤーや滑車などこの踏切の心臓部をご覧下さい。

時代がかった2つのレバー

イメージ 2

       窓に反射して見にくいですが・・・

滑車とワイヤーがこの踏切を支えます

イメージ 5


イメージ 4


国道208号に立つ踏切柱

イメージ 3


撮影日:2007年8月24日
撮影地:大牟田市旭町

久々の更新です(*^_^*)
お待ちかね? (ほとんど関心ある人ないかも・・・)

インクライン下の坑木列車のつづきです。
木工所がある南側の全景を見てみましょう。

線路が二股に分かれれて、木工所や坑木置き場に続いています。
この先は、川を渡ってさらなる坑口へ。
(下の、メモ参照)

斜めに立った電柱が時代を感じさせてくれますし、
左には、45°ちかくの急角度でズリ山の下部が見えます。

このズリの上に、明延の1円電車の線路や鉱山関係施設がありました。
(つづく)

木工所の全景です

二股に分かれた線路の先は、橋を渡り坑口につながります
イメージ 1


手前が西部鉱区行きの坑口、左に分かれる線路もあるな・・・
イメージ 2


おまけ・・・訪問当時のはしりがきメモ用紙
イメージ 3


撮影日:1978年9月12日
撮影地:明延鉱山

イメージ 1



イメージ 2



イメージ 3



イメージ 4

電源車とのコンビで活躍する 20t 9号機

前回のつづきの写真です。
宮浦の駅舎前に、パンタグラフを上げた9号機がたたずんでいます。

実はこの線路、今では駐機用となっていますが、かつては工場の引き込み線へと続いていました。
道路を横切り、大牟田川を渡ると三井東圧化学(当時)の工場です。

さて、タンク車を工場内に送り込んだ後の9号機が単機で戻ってきました。

レンガ塀が今も昔のままに残っていますが、すぐ横の側線には現在 20t 2,4号機、そして45t 20号機の廃車体が、部品取りのために放置されている光景をよくネット上でも見かけますね。

近年、ヤードの周りに新しく金網や扉が設置されましたが、この頃は古枕木を利用したおんぼろ? 柵でした。
旧宮浦駅の通勤ホーム跡付近には柵もない、これまたのんびりした専用鉄道でした。


撮影日:1993年12月12日
撮影地:宮浦停車場 三井東圧化学(当時)工場引き込み線

イメージ 1

マヤ20 11 サイドビュー

久しぶりの更新です。
今回は、自作のマヤ20を紹介します。

まずは、マヤ20のお話から・・・。
簡易電源車マヤ20は、1963年にオハシ30から改造された20系用の電源車です。
当初は、分割により電源車が必要になった日豊本線大分行き“みずほ”の編成に活躍しましたことは皆さんご存じのことと思います。
その後、1965年からはスハ32からの改造車も登場して、長崎・佐世保線で“さくら”“はやぶさ”“あかつき”の編成で活躍しました。
この車両は、スハ32からの改造車である“マヤ20 11”の設定です。
種車は、グリーンマックスのスハ32とKATOの旧製品カニ21でござんす。

一昨年の夏に、それこそ汗だくになって2日間で仕上げました(~o~)
まあ、例によって細かいところは抜きにして雰囲気だけはでてるのではないかと思いますね。
ちなみに、荷物室の窓保護棒には KSmodel の客車窓保護棒を取り付けています。

バックサインは、KATOのナハネフ23用の余りものですね。
それでは、色んな角度からマヤ20を見てみましょう。

色んな角度のマヤ20 11

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5



実は、KATOの旧製品カニ21は、Nゲージをはじめた当初の思い出深い車両でしたが、
カニ21の屋根のファン部分が必要なので、やむなく解体(>_<;)

その残骸は捨てれずに、いまだにとってます。
カニ21さん、ありがとさん。

KATO 旧製品 カニ21の残骸

イメージ 6


おまけの付図です  マヤ20 1,2(オハシ30改造車)

イメージ 7

イメージ 1

撮影日:1958年 大牟田 松屋屋上にて

ハレの日の大牟田 松屋

エレベーターにエスカレーター
水洗トイレ・・・

どれも、大牟田 松屋に行かなければないものばかり

6階に行けば、必ず立ち止まる
赤いダルマの絵のついた不思議の鏡

近づいたり背伸びしたり、ひとしきりわが姿のデフォルメを楽しむ

次は、屋上展望台に飛行機だ
松屋の屋上からは、大牟田市内360°の大パノラマが広がる

展望食堂で、国旗のついたお子様ランチ
はたまた屋上にてソフトクリームを食べれば、完璧な? 松屋デーだ 


大牟田 松屋の屋上展望台

イメージ 2

撮影日:1955年 大牟田 松屋屋上にて


戦災で焼け残った松屋の屋上には、展望台があった

そして、その時代時代で観覧車あり・まわる飛行機あり・コーヒーカップありと、
親子づれがつどう市民憩いの場所であった


イメージ 3

撮影日:1958年 大牟田 松屋屋上にて


大牟田 松屋の不思議の鏡

階段を上って、6階のすぐ右手に凹凸状の不思議な鏡があった
この鏡の提供者は、大牟田に本社をおく“だるまわた”
築町踏切のそばにあったネオンサインを思い出す方も多いであろう

鏡には、赤いダルマ
と『天下一品』の文字があった

いまごろ閉店した松屋の6階で、ひっそりと何を映し出しているだろうか・・・

今回も、旭町の踏切からです。

ここは、現在でも時間が止まった空間のように感じます。

大牟田ガーデンホテルなど、周りの空間は確実に近代化してきましたが、
この踏切だけは、昔のまんまです・・・。

まあ、踏切小屋の窓がアルミサッシになったりしてますが、私の心の中のイメージのまんま(^o^)
『止まれ ふみきり』の表示も新しくはありますが、古き良き時代を感じさせてくれます。

『この踏切にて、ひねもす炭鉱電車を待つのも悪くはないな・・・』と私には思えます。
(ひとりごと・・・でも現実には、石炭を満載したした列車は通ることはありません)

この先は今では単線になってますが、かつては沢山の線路がひしめきあってました。

止まれ ふみきり

イメージ 3


旭町踏切の踏切小屋健在なり

イメージ 1


ここを、タンク車やコキ車の貨物が通過してゆきます

イメージ 2


撮影日:2007年8月24日
撮影地:大牟田市旭町

イメージ 1



イメージ 3



イメージ 2



イメージ 4

三井東圧化学の工場線に活躍する 20t 9号機

何年ぶりでしょうか?
久しぶりに“鉄ちゃん”しました!(^^)!

ゆっくりしたスピードではありますが、久々の撮影に思わずシャッターを押す手に力が入ります。
タンク車を連ねた列車が、工場の引き込み線から宮浦のヤードに出てきました。

この風景は、幸いにも現在でも見ることができます。
とても喜ばしいことです(~o~)

さて、実は炭鉱の閉山に合わせて、この化学工場内では機関車の内燃化計画があるやに聞いいていましたが、工場内の都合により内燃化は無理との結論になったようです。

(ひとりごと・・・記憶が定かではありません・・・。理由が化学製品の関係だったか、工場内の施設・線路の関係だったのか? お話を聞いたのですがうる覚えです。以後もそうですが、閉山までのメモや写真撮影日などの記録をほとんどしていないのです。記録の保管や整理・ブログやHPなど、頭の片隅にもありませんでした?!)


撮影日:1993年12月12日
撮影地:宮浦停車場 三井東圧化学(当時)工場引き込み線

久々の“あさかぜ号”の登場です(^_^)v
(ひとりごと・・・題名のわりには主役がめったに登場しません)

前回の博多駅にての撮影行を終え、次なる撮影の構想がわいた私。

次は、博多駅から竹下客車区への回送シーンを撮るぞ。
そして、竹下客車区と南福岡電車区もついでに訪問だ!(^^)!

2ヶ月後の12月、何とか博多~竹下間の線路脇に入り込みカメラかまえて回送“あさかぜ”を待ちます。
この区間は、列車の本数が多いのでちゃんと撮せるかちょっと不安です。

そうこうしてる内に・・・
回送線をED73に牽引された“あさかぜ”がやってきました。

ED731006牽引の回送“あさかぜ”

イメージ 1



竹下客車区に入線するために、一旦停車中の“あさかぜ”です。
そばを、これまた回送列車の485系“にちりん”が通り過ぎて行きます。

よく見ると、7号車・ナハネフ23かな? 乗降口の扉が開いたまんまです。

“にちりん”回送列車とすれちがいます

イメージ 2



大好きな20系“あさかぜ”の長~い編成写真が撮れて満足でござんす。
いやー、やっぱり20系はすばらしい!(^^)!

回送列車は、ゆっくりと竹下客車区の洗浄線へと入線していきます。

すばらしい(*^_^*) 15両の20系“あさかぜ”編成

イメージ 3

撮影日:1975年12月14日
撮影地:博多~竹下


竹下客車区の南端まで歩いてやってきました。

32年前の竹下客車区です。
のんびりした雰囲気が伝わってきますね。カニのすぐそばで、子どもが遊んでます(@_@)
当時は、ちゃんとした柵もなく、近所の子ども達のいい遊び場だったんでしょう。

この洗浄線は今もありますが、“あさかぜ”なき後は入線する客車もなく寂しい限りです。

竹下客車区で一休みの“あさかぜ”

イメージ 4

撮影日:1975年12月14日
撮影地:竹下客車区(当時)

イメージ 1

国道208号を横切る三井化学専用鉄道

旭町のガードをくぐり、踏切にやってきました。

この踏切は、今だ現役です(^-^)
ここを朝に1往復だけ、タンク車やコンテナ車を牽引した列車が通ります。

突然に、初めて三池鉄道の古風なる電気機関車と遭遇したドライバー達は、
一様に驚きの表情を見せます(*_*)

ここは、歴とした現役三池炭鉱鉄道なのであります。

古線路柵に守られて

イメージ 2


柵越しに見る線路敷き

イメージ 3


旭町第1踏切(宮浦方面を望む)

イメージ 4


おまけ
 ちょうど、お昼になりました。
 ここは、白瀧屋に行くしかないでしょう!(^^)!
 久留米発祥の豚骨ラーメンではありません。
 鰹だしのような和風ラーメンですが、幼い頃に食べなれた者にとっては忘れがたい味です。
 本日は、ちょっとだけ奮発してチャンポンを食べよう(^_^)v
 
 東新町の三池製作所正門前、白瀧屋からでした。

本日のお昼は、白瀧屋のチャンポン

イメージ 5


撮影日:2007年8月24日
撮影地:大牟田市旭町

イメージ 1

     『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年 1/1.6万(一部)

七浦坑への運炭軌道

地図から三池炭鉱専用鉄道を探るシリーズ第2回目は・・・

七浦坑と大浦坑を結ぶ鉄道についてです。

この地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年4月発行)の鉄道標記によると、今回話題にする鉄道は三池炭鉱鉄道の路線と同じような標記になっていますが、若干細いような気がします。

実は、この鉄道1.067mmではなくナロー(実際の軌間は610mmではないかと思われる)の軌道で、大浦坑から七浦坑への運炭軌道でした。
少し長くなりますが、当時の大浦坑、七浦坑の状況を簡単に解説すると・・・、

大浦坑は、官営時代の1877(明治11)年開坑の三池では最初の近代的な坑口ですが、1883(明治16)年に七浦坑が開坑されると、選炭などの主要施設は七浦坑に集約されてしまいました。
先に、大浦坑から横須浜までの馬車軌道が敷設されていましたが、この軌道を廃止し七浦坑までの運炭軌道を新たに敷設したわけです。
今回話題にした軌道が、この運炭軌道であります。

1917(大正6)年からは電気機関車による運転が始まったという記録が残っていますので、この地図の時代は、たぶんポールのついた鉱山用機関車が炭函をつらねて走っていたのではないかと思われます。
ちなみに、大浦坑は1926(大正15)年に閉坑になりました。

◆七浦坑・大浦坑に関する詳しいことは、大牟田・荒尾 炭鉱の町ファンクラブ>資料館に詳しい解説があります。もっと知りたい方はぜひこちらのHPへ。

さて、次に七浦坑の写真が戦前の絵はがきとして残っていますので見てみましょう。


絵はがきに見る七浦坑

イメージ 4

竪坑がまず目に入りますが、当時は2つの竪坑と1つの斜坑がありました。この竪坑の右側に炭車が並んでいるのが見えます。
更に竪坑の下には、単線の引き込み線らしき線路が見えます。

地図を見ると、本線から分かれて七浦坑に伸びる引き込み線が確認でき、この引き込み線と運炭軌道が丁度七浦坑で繋がるような標記となっていますね。

次に、この七浦坑に関する遺構を探ってみましょう。


七浦坑の遺構探索を試みる

一つめは、今も多分残っているであろう? 旧第一竪坑捲揚機室についてです。
イギリス積みの建物ですが、閉坑(1931-昭和6年)後はポンプ室として利用されてきたようです。
写真にあるように、周りには排水用のパイプらしきものが赤茶けてありました。

イメージ 2

               撮影日:1997年3月9日   撮影地:大牟田市合成町


最後に、藪に覆われた廃線跡の写真を1枚。
これは、合成町近くの本線脇に残っていた、勝立支線の線路跡です。

三坑町の踏切からしばらく本線に寄り添って走ってきた線路は、大牟田川の手前で勝立坑へと進行方向を変え、1回目に見た宮原坑からの線路と逆様川にて合流します。

立木に分け入って、何とか写真を撮りました。
(写真左手が本線側、宮浦方面を望む)


イメージ 3

     撮影日:1996年3月24日   撮影地:大牟田市合成町

イメージ 1

旭町のガードにて

栄町のガードと鉄橋を見たあとは、
国道208号を渡って、旭町のガードをチェックしましょう。

ここは、石組みの橋台ですね。
かつて、このガード裏には三井三池製作所への通用門がありましたが、今は駐車場になっています。

今も活躍する旭町の踏切はすぐこの先です。
国道のすぐ脇ですが、人通りはなくひっそりたたずんでいます。

ここでもやはり築堤に登ってみましょう。

きれいに夏草が刈られている脇に、キロポストが残っていました。
宮浦側と三池浜方面をそれぞれ望んで、往時に思いを馳せるひとときです。
(つづく)

キロポストが残る線路敷き跡(宮浦方面)

イメージ 2


夏草か刈り込まれた砂利の線路敷き跡(三池浜方面)

イメージ 3



撮影日:2007年8月24日
撮影地:大牟田市旭町

イメージ 2



イメージ 1

ホッパーの下(もと) たたずむ20t11号機

1978年頃の玉名支線記録に続いて、『1993年の記憶』に進みましょう。

15年の時を越えて、炭鉱電車に戻ってきました(^-^)

しかし、通勤列車が消えて早9年の年月が・・・。
おまけに、以前使っていた愛用の PENTAX K2 は盗難にあい、手元になし(-_-;)

少し余裕が生まれ“おじさん”になった私は、Canon オートボーイ(?_?)を手にして久しぶりに三池の鉄道を訪ねたのでした。
(ひとりごと・・・日付が印字されているのはご愛嬌ですな)

なにはともあれ、いざ宮浦へ!(^^)!
いました!! 久しぶりの再会です。
15年前とまったく変わることのなく、美しく整備の行き届いた機関車がそこにありました。

当時は、まだ宮浦にもホッパー跡が悠然と鎮座していました。
許可をえて、ホッパーを背にして11号機を撮ります。

鉄骨の骨組みだけになっていたホッパーの後ろ(万田寄り)には、コンクリート製のホッパーがあります。
草生すホッパー、その下から11号機を望みます。

これら炭鉱の遺構も、閉山とともに消え去ってしまったことは返す返すも残念なことです。

撮影日:1993年12月12日
撮影地:宮浦停車場

↑このページのトップヘ