炭鉱電車が走った頃

当ブログは、かつて大牟田・荒尾の街を走っていた“炭鉱電車”をメインにしています。かつての「三池炭鉱専用鉄道」の一部は、閉山後も「三井化学専用鉄道」として運行され、2020年5月まで凸型の古風な電気機関車が活躍しました。“炭鉱電車”以外にも、懐かしい国鉄時代の画像や大牟田・荒尾の近代化遺産を紹介していますので、興味がおありの方はどうぞご覧下さいませm(_ _)m         管理人より  

イメージ 1


旭町支線を行く 19号機 45t機関車

1994年の正月初撮りは、旭町1号踏切でした。
電源車を連結した9号機 20t機関車の後は、19号機 45t機関車のお出ましです。

この電気機関車、1937年2月 東芝製です。
18号機とは姉妹車の関係にあります。

17号機と同型ですが、17号は1936年4月製で少し先輩(^-^)
また、17号機とは、車体幅・固定軸距離・動輪直径が異なっています。

このほかに、20・21・22号機の計5台の45t電気機関車が三池では活躍してきました。
これらの機関車については、また後ほど詳しく触れることとしましょう。


イメージ 2


浜本線を右側にみて 宮浦を目指す19号機

浜本線の線路脇を、JRから引き取ったタンク車を従え19号機がやってきます。
踏切と大牟田川を渡れば、もうそこは宮浦です。

浜本線には、まだ架線が張られていますね。
残念ながら、この築堤を通る列車を一度もカメラにおさめることなく、閉山を迎えてしまいました・・・。


撮影日:1994年1月2日
撮影地:旭町支線

イメージ 1

ひっそりと眠る 万田坑の地下道

昔から万田坑に行った時は、必ずこの地下道を通りました。
万田坑の旧正門横から、桜町の方に抜け出ます。

しかし、炭鉱閉山後に地下道は閉鎖・・・。

途中の天井には3ヶ所の明かり取りがあって、今も地上からやわらかな光が差し込みます。
明かり取りの下には、大きな羊歯が生えていました。

この地下道の上を、石炭満載の列車がひっきりなしに通っていたのも、いまや夢のかなた・・・。
ひっそりと、地下道は万田坑のすぐ脇に今もたたずんでいます。


撮影日:2007年10月14日
撮影地:万田坑跡

イメージ 1

夕闇せまる 宮浦停車場

定番、宮浦停車場の20t 11号機関車と電源車です。

以前「炭鉱電車」コーナーの“1993年の記憶”では、宮浦の11号機と題してホッパー跡をバックに撮影した写真を載せました。
あれから、すでに14年余りの歳月が流れています。

ホッパーは解体されてしまいましたが、宮浦坑の煉瓦煙突は健在です。
そして、いつも美しく整備された機関車は、時の流れを感じさせません。
機関車の整備をされている方々の誇りを感じます。

いつまでも、美しい三井三池のマルーン色を見ていたいものです。

撮影日:2007年10月14日
撮影地:宮浦停車場

イメージ 1

コスモスに彩られ、幸せな余生をおくる大平駅

秋の日の休日、久しぶりに玉名支線跡を訪れました。
旧宮内駅や切り通しを巡り、旧大平駅へ・・・。

今も往時のまま残るホームに至る階段を上っていくと・・・
幸せなことに、大平駅はコスモスの花に彩られていました(~o~)

ホームの先には、しっかりと線路敷きが残されています。

撮影日:2007年10月14日
撮影地:玉名支線 大平駅跡

イメージ 1


撮影日:1973年7月中旬
撮影地:鳥栖駅にて


鳥栖駅6番線ホームの先端にたたずむ“さくら”号牽引機関車DD51619
この撮影時には、ヘッドマークが取り付けられていた
ホームから駆け下り夢中で撮影した一枚
 

イメージ 1

第4回目は・・・

バルビローリの指揮になる、シベリウス交響詩名曲集からです。

仕事の疲れとストレスが少し残る休日の朝は、シベリウスです。
いつもは、このCDの1曲目、皆さんよくご存じの“フィンランディア”と“カレリア”組曲を聞きます。
“フィンランディア”はもちろんお気に入りですが、私は“カレリア”組曲の3曲目にある「行進曲」が好きです。この曲、シベリウスの曲の中では最も明るく快活な曲だと思います。
この「行進曲」を聴くと元気が出て、明日の活力がわいてきますよ!(^^)!

さて、この活力のもとを私なりに分析してみました(@_@)

これらの交響詩は、もともとフィンランドという国がロシア帝国の圧制下にあったことをもとに、そこからの独立心やレジスタンスとして作曲されています。
その歴史的舞台が“カレリア”地方で、ここはフィン人の発祥の地でもあります。シベリウスはこの“カレリア”地方の民謡や伝説(抒情詩「カレワラ」)に作曲のインスピレーションを得てこれらの曲を作曲したのでした。
“カレリア”はフィンランド人にとってはまさしく精神的な故郷なわけです。

ところで、このCDで元気がわいてくるとうい私・・・ 抵抗する相手は“仕事のストレス” (?_?)
それにしても、これらの曲にはフィンランドの人々の歴史と思いが詰まっています。
歴史や国は違っていても、これらの曲の底流に流れるものが聴く者に感動を与えていることは間違いありません。

最後に、“カレリア”地方のピエリネン湖西側(ロシアとの国境近く)に広がるコリ国立公園の写真を見ながら、このCDの続きを聴こうかな・・・


イメージ 2


イメージ 3


◆ウッコ・コリを頂点とした山からの森と湖の眺め
 ちなみに、ロシア帝国の首都であったサンクトペテルブルクは目と鼻の先です
 フィンランド政府観光局のHPより



Recording Data

THE HALLÉ ORCHESTRA

cond.by : SIR JOHN BARBIROLLI

Recording :23-24 Jan.1966

Sibelius

SYNPHONIC POEM “FINLANDIA”Op.26
“KARELIA”SUITE Op11
SYNPHONIC FANTASY “POHJOLA’S DAUGHTER” Op.49
VALSE TRISTE Op.44
RLEMMINKÄINEN’S RETURN(From Four Legends Op.22)
 

1992/東芝EMI 
          

イメージ 1


撮影日:1975年12月14日
撮影地:長崎本線・鳥栖付近


DD51重連の1レ さくら号が、鳥栖駅を発車し一路終点の長崎・佐世保をめざします。
窓枠のHゴムもまだグレー時代の14系 さくら号です。

イメージ 1



イメージ 2


旭町支線を行く電源車連結の20t機関車

1994年の正月初撮りは、旭町1号踏切でした。
例のキャノンオートボーイの簡単カメラにての撮影(^_-)
(黄色の日付表示が何ともいえず素人ぽいでしょ)

横断歩道橋の上からの撮影でしたが、久々の撮影で焦ってしまい〈ポール電車〉になってしまいました。
宮浦から仮屋川操車場へ、20t機関車に引かれてタンク車が出て行きます。
現在では20t機関車による旭町支線の仕業がありませんので、貴重な記録となってしまいました。

仮屋川操車場にタンク車をおいて、単機で20t機関車が宮浦に戻っていきます。

実は、この踏切での撮影はこれが初めてでした。
いつも走っている・・・・、という感覚があってありふれた風景の一部という感覚でした。

閉山の声が聞こえ、今一度鉄道趣味の復活をとげたばかりの頃の撮影です。


撮影日:1994年1月2日
撮影地:旭町1号踏切

イメージ 1

     『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年 1/1.6万(一部)

開港12年後の三池港 その4   幻の臨港鉄道篇

地図から三池炭鉱専用鉄道を探るシリーズ第6回目は・・・

いつものこの地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年4月発行)による、開港12年後の三池港を探索するシリーズ最終回です。

今回の話題は、“臨港鉄道予定線”についてです。
この臨港鉄道予定線、以前報告した地図中にも登場していましたので、すでにお気づきの方もあると思います。この地図「複写版のコピー」ということもあって、地図中の記載事項が見にくいことから、今回も赤ラインで“臨港鉄道予定線”をたどってみました。
(文字が見えにくい時は、クリックし拡大してご覧下さい)

地図にある通り、九州鉄道 鹿児島本線の大牟田停車場(当時)を起点として、三池港に至る約3㎞の鉄道予定線が見て取れます。
この臨港鉄道予定線、大牟田停車場を出てすぐ右に大きくカーブした後に、本町六丁目の大通りを越え三池港をめざします。すぐ脇を臨港県道線(これも計画中の道路)が寄り添うように走っています。
途中、大牟田市から三川町(当時)に入りますが、一部干拓予定地をかすめ諏訪川を渡り三池港の外港岸壁に至ります。
(当時の堤防を、青ラインで示しています)

いつもだと、「ここで絵葉書を見てみましょう」ということになるのですが、今回ばかりはありません。
そこで、かわりに「新聞記事」を用意しました。
それでは、福岡日日新聞(大正5年6月7日より)の記事 『三池築港の将来』 (一部)をお読み下さい。

(前略) 昨今同地の商工談話会は築港着手当時の希望を貫徹すべく漸く其企画に着手せんとし之れが為めには其前提として先ず大牟田三池港間を連結せしむべき物貨の輸送機関の設備を要するを以て三池開港の当初即ち十年前鉄道院が企画して既に土地の買収を了し居れる三池臨港線の速成を促さざるべからずとして近く其交渉を開始せんとしつつあり
一方三井側においても右臨港線の敷設は刻下の急務となれり (後略)

◆出典:神戸大学附属図書館>デジタル・アーカイブ>新聞記事文庫による。
詳しく知りたい方は、このHPにて検索を試みてください。
また、大牟田とはなんぞや>大牟田の歴史にも同様の資料があります。

記事中の注目すべきは、【三池開港の当初即ち十年前鉄道院が企画して既に土地の買収を了し居れる三池臨港線】という部分でしょう。
その後、何度かこの臨港鉄道案が浮上しては消えていき、結局は敷設されることなく以後の地図からは姿を消してしまいます。
想像するに、三池港は三井の私港であったことから敷設計画が頓挫したのではないかと思われます。

次に、もし現在に臨港鉄道がよみがえったら!(^^)! と想定して、 1/2.5万地形図に臨港鉄道を敷設してみました。 

現在の地形図に臨港鉄道予定線を敷設する

イメージ 2

当時は、有明海を越えた対岸には島諫鉄道(現島原鉄道)がすでに開業していました。
同じく、福岡日日新聞 (大正1年9月・10月より)の連載記事『西九州の港湾(一~十七)特派員 田中紅二』によると、こんな記事も見うけられます(@_@)

    (前略) 三池港の対岸多比良港は港湾の改修を企て島原より更に線路を延長して多比良に索き三池港との間を連絡し大牟田駅と多比良駅との汽車発着毎に連絡船を運航せしめ長崎市へ往行せんとする旅客及貨物の鳥栖迂回を便にする事を得べく (後略)


最後に、この“臨港鉄道予定線”の遺構(?_?)  を探索してみましょう・・・。

市街図にて、大牟田駅近くを詳しく探索してみると・・・

イメージ 3

地図中の、緩やかに弧を描く道路に挟まれた土地、どう見ても線路敷きにしかみえません(^O^)
細長い公園(本町公園)も、あやしい!!

ちなみに、赤で線路敷きと思われるラインを記入してみました。
細長いこの土地には、現在では民家も建っていますが、とにかく臨港鉄道の計画路線とバッチリ重なります。おまけに、一部はJR九州の管理する土地(水色の部分)となってます。
この細長い一連の土地が、先に述べた「鉄道院が企画して既に土地の買収を了し居れる三池臨港線」の一部ではないかと予想してみました。
確証はありませんが、市役所などに聞いてみればはっきりするでしょうか?


最後に、臨港鉄道予定線のなれの果て? を報告して、今回の記事は終了です。

臨港鉄道予定線のなれの果て(@_@)

イメージ 4

撮影日:2007年10月14日
撮影地:大牟田市本町6丁目付近 本町公園(大牟田駅方面を望む)

(つづく)



〈増補〉 航空写真(2001)に見る臨港予定線

イメージ 5

◆本町公園に連なる住宅が、きれいにカーブして横並びしているのがおもしろですね。
撮影日:2001年(Yahoo 地図情報> 1/3000 大牟田 航空写真より)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

  11月 3日(文化の日)は大牟田・荒尾に皆さんおいで下さい。
  日頃は公開されていない近代化遺産があなたを待ってます。
時間がゆるせば、三池カルタ・歴史資料館にも足をお運び下さいね。『地図にみる三池鉄道』で紹介している地図の実物や貴重な写真・絵葉書を見ることができます。


今年は、三池炭鉱閉山10周年、  来年は三池港開港100周年です。  大牟田・荒尾の近代化遺産を堪能してみませんか(*^_^*)     もちろん、われらが炭鉱電車も公開されます(~o~)                    ★無事に公開が終わりました。 新聞報道によるとわが炭鉱電車には、約400名の方々が訪れたとのこと。    他の公開場所の2倍近くあったようで、一番の人気でした。     マニア以外に、往時を懐かしんでの来訪者が多数見うけられました。★

イメージ 1


撮影日:1975年12月14日
撮影地:長崎本線・鳥栖付近



DD51重連の1レ さくら号が、鳥栖駅を発車し一路終点の長崎・佐世保をめざします。
この頃の長崎本線はすでに電化工事が始まっていて、この築堤下の線路にはずらりとコンクリートのポールが立ちはじめていました。

今回も、久々の更新です(*^_^*)
お待ちかね?  いよいよ、明延鉱山のクライマックスに近づいてきました。

インクライン下の坑木列車を撮影した後は、いよいよ本日のお楽しみ!(^^)!
以前に紹介した、鉱山事務所脇から北が伸びるナローの線路探索です。
まずは、再度 1/2.5万の地形図にて線路の確認をしてみましょう。

イメージ 1

          ◆国土地理院 1/2.5万 地形図大屋市場 昭和49年2月28発行(一部)

明延鉱山の竪坑から、約380mの等高線に沿って1本の線路が北に伸びていますね。
鉱山の事務所などの建物群を抜け、大きく右にカーブして谷間をはいつくばるようにして線路は進みます。ここにも、4つの建物があるのが読めます。その後も山肌をぬう様にして400mくらい走った線路は、大小2つの計500mのトンネルを抜け、ズリ捨て場に向かいます。

当時のメモを次に載せておきます。
このズリ捨て列車は、1週間に運行されるのが1~2回ほどのメモがあります。
訪問した日が、ズリ捨て列車の運行日に当たっていて幸運でした。
私は、世に有名な“1円電車”よりも、このズリ捨て列車の方がお気に入りです。

イメージ 2


それでは、鉱山事務所脇を抜け山肌を縫うようにやってくるズリ捨て列車をご覧あれ。

谷間の向こうから、ズリ捨て列車がやってきます

イメージ 3

◆事務所脇を抜け、山間の谷間をぬってズリ捨て列車がやってきました。(左端の黒い車体に黄色のパンタグラフがついた機関車です)こうしてみると、どうしててどうして雄大なスケールのロケーションではありませんか!(^^)!

イメージ 4

◆ゆっくりした足取りで、その姿が近づいてきます。初めて目にする明延鉱山500mm軌道の電気機関車です。
(つづく)

撮影日:1978年9月12日
撮影地:明延鉱山

イメージ 1

第3回目は・・・

最近、仕事に追われ毎日忙しい日々です(*_*)
そんな時は、G・グールドのバッハに決まりです

仕事をしながらのBGMに、よくこのCDを取り出します
G・グールドの『フランス組曲』です
エンドレスで聞き流します

『フランス組曲』でなくても、『イギリス組曲』や『インヴェションとシンフォニア』もOK
とにかくG・グールドのバッハで、仕事への集中力とリズムが私の中に生まれてきます

今もCDを聴きながら、仕事のあとの疲れた体と頭にG・グールドのバッハが聴くともなくしみこんでいきます・・・・


ところで、G・グールドといえば沢山の逸話の持ち主であることは、皆さんよくご存じのことです。

最近は、当ブログのあるコーナーにて地図を取り上げてあれこれ思索を巡らしていますが、G・グールドの『北の理念』を思い出しました。
カナダ生まれの彼は、カナダの面積の大部分を占める「北」の大地にあこがれていました。
それは、1967年に『北の理念』というラジオ・ドキュメンタリーに集約されています。
後にテレビ番組化もされました。
その『北の理念』のLPレコードライナーノートの冒頭に、《幼い頃から私は北に魅せられてきた。学校では、北の地図を手当たり次第に細かく読んだ》とあります。
そして、《その後、しばらくして、私は北の航空写真や測量地図を見始めるようになり、北にはA・Yジャクソンのような魔術師ですら絵の具で描ききれないほど、はるかに理解しにくいものが備わっていることを知った》とも。

「北」の地図とG・グールドとバッハ、
私には、彼が地図をむさぼり読む姿と、ピアノを演奏するあの独特の姿が重なって見えてきます。

最後に、BGMのG・グールドの『フランス組曲』を聴きながら♪♪♪・・・
A・Yジャクソンの絵を1枚どうぞ。

イメージ 2

oil on panel
19.5 cm by 24.9 cm
A bequest of Mrs. Nora Thomson DePencier.

Recording Data
GRENN GOULD:Piano

Recording:Eaton's Auditorium、Toronto、Canada
          1972~1973

JOHANN SEBASTIAN BACH
French Suites,BWV812-817
Overture(Partita)in the French Style,BWV831

1974/Sonny Music Entertainment Inc

*輸入盤CDです(Made in Austria) 
          

イメージ 1

仮屋川操車場を出発し、宮浦に向かう炭鉱電車

お彼岸の里帰りに、再び旭町1号踏切を訪れあとは、JRからの貨車を引き取った炭鉱電車の撮影です。

単機で旭町1号踏切を通過していった18号機を追って、旭町駅近くにやってきました。
一日に午前の一往復しかない貴重な列車を撮さないてはありません!(^^)!

いつくるかとかまえるカメラの前を、JR九州のリレーつばめ号がさっそうと通過していきます。
わが炭鉱電車は、ゆっくりと仮屋川操車場をあとにしたところです。
旭町駅の係員の青旗が振られ、炭鉱電車がいよいよ近づいて来ました。  

旭町駅を通過する炭鉱電車

イメージ 2

       
イメージ 3


炭鉱電車を見送り、『10年後の三池鉄道夏物語』もいよいよ終わりに近づきました。


再び旭町1号踏切にまい戻ってきた私・・・。
踏切小屋近くの線路上に、夏草の蹟を見つけました。

過ぎゆく夏の鉄路上に、三池の残映をかいま見た思いがしました。

(終わり)

過ぎゆく三池鉄道 夏物語り

イメージ 4


撮影日:2007年9月24日
撮影地:旭町支線

イメージ 2

     『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年 1/1.6万(一部)

開港12年後の三池港 その3   三池港倶楽部篇

地図から三池炭鉱専用鉄道を探るシリーズ第5回目は・・・

前回に引き続き、1908(明治41)年に完成した三池港よりお伝えします。
いつものこの地図(大阪心斎橋駿々堂旅行案内部『大牟田市街新地図~四ツ山築港及三池市街地図』 大正9年4月発行)の左端には、『大牟田市官公署及著名会社其他一覧表』と題した表があります。
今回は、この一覧表の中から2つの倶楽部(色枠)を取り上げて探索を試みましょう。
(わが三池鉄道は、今回登場いたしません)

まずは、皆さんよくご存じの“三井港倶楽部”から・・・

“三井港倶楽部”は、清水組(現清水建設)によって1907(明治40)年8月10日に起工、翌1908(明治41)年2月26日に棟上げされた記録(注1)が残っています。
開館は、1908(明治41)年8月15日で、三池港の開港と同時に開館されました。
(注1 昭和43年8月10日、当時の港倶楽部支配人であった岡崎茂馬氏と古賀一俊氏によって、3階頂上の屋根裏から棟札が発見されたことによる)
開館当初から、外国高級船員や政財界の社交・宿泊所として長く利用されてきました。

さて、今回も古い絵葉書によってこの“三井港倶楽部”を見てみましょう。

絵葉書に見る、建設間もない頃の“三井港倶楽部”

イメージ 1

この写真は、建設間もない頃のものと思われます。左端にはダンクロも写っていますね。
当時は、まだ三川鉱はありませんでしたので、港倶楽部(注2)の周りは眺望もよかったことでしょう。
(注2 絵葉書には、“三池港倶楽部”となっています)

それでは、平面図(太田静六著 『長崎の天主堂と九州・山口の西洋館』 理工図書 1982刊より)を見ながら港倶楽部の探索をしてみましょう。

イメージ 3

正面の玄関を入ると、両側にマントルピースのある大ホールが出迎えてくれます。1階には、この大ホールの他に、2つの食堂と会議室があり、会議室から大食堂にかけてはベランダが廻らされていて、美しい庭園を見ることができます。
2階は、寝室専用で4つの寝室が配置されています。
本の解説によると、『全体は急勾配の屋根やハーフ・チンバーの壁面などできるだけ英国風にしていながら、屋根は日本瓦葺であり、壁面も漆喰壁ではなく板壁なのは面白い』とあります。
建築にはまったくの素人ですが、すべての部屋にマントルピースが設置されたお洒落な建物であるくらいは分かります。

ところで、この“三井港倶楽部”、所有者であった三井鉱山の経営難から一時期閉鎖された後、地元経済界が「三井港倶楽部保存会」を設立、港倶楽部を買収して引き続き結婚式場・レストランとして経営が再開されることとなり現在に至ったという経緯があります。
それでは、今年9月 「三井港倶楽部保存会」の手によって、美しく化粧直しされたばかりの港倶楽部をご覧下さい。

美しく化粧直しを終えた港倶楽部

イメージ 4

撮影日:2007年9月24日

今では、すぐ隣にあった三川鉱は正門や一部の施設を残して更地になっていますし、同じ明治生まれのダンクロ3号機の姿も見ることができません・・・。
有明海沿岸道路が開通したあかつきには、三池港界隈も大きく様変わりしているかもしれません。



次に、2つめの倶楽部を見てみましょう。
先の『大牟田市官公署及著名会社其他一覧表』にある港倶楽部の右隣 “大牟田倶楽部”が次なる探索目標です。三池港からは離れていますが、いつもの大正9年の地図にて位置を確認してみましょう。

イメージ 6

宮浦から横須浜に向かう三池鉄道 浜本線の南側の丘の上に“三井倶楽部”が確認できます。
一覧表に「山上町」とあるので、この場所に間違いはないと思われます。
“三井倶楽部”近くの鳥居標記は、今も現存する金比羅宮です。

それでは、いつものように絵葉書にて“三井倶楽部”を見てみましょう。

瀟洒な“三池炭坑クラブ”の西洋建築

イメージ 5

 提供:地図の資料館

思えばこのクラブ、一覧表では“大牟田倶楽部”・地図中標記では“三井倶楽部”・絵葉書では“三池炭坑クラブ” といくつもの呼称を持つようです。
時代や人々によって呼名が変化してきたのでしょうか?
ここに載せた絵葉書の建物が“大牟田倶楽部”ではないかと思われますが、私には詳しいことは分かりません。

ちなみに、異風者からの通信によると、「山ノ上クラブは三井鉱山幹部職員の社交クラブであった」という記述があります。“山ノ上クラブ”(@_@) またまた新たな呼称が出てきました。
どこかのHPで、「港倶楽部の洋食もいいが、山ノ上クラブの和食もうまかった」といったような記述を読んだ覚えがあります。
誰かこれらの事情に詳しい方ありませんか? どうぞご教授下さいませ。

今回は、ここまでです(*^_^*)
次回も三池港からの話題をお送りいたします。

(づづく)

イメージ 1

旭町1号踏切

今回は、旭町1号踏切シリーズの増補版 その4です。

以前の報告にて、こんなこと書いてました。
ところで、旭町支線の開通は、1897(明治30)年ですので、優に100年以上の歳月が流れています。
この100年あまりの間、メンテナンスを繰り返しながらここにあることになりますね。
このような観点から旭町1号踏切を見てみると、あらたな感慨をもってせまってきます。
踏切小屋を覗いてみると、何だか時代がかったレバーが見えます。
こんど行った時は、踏切小屋の内部をぜひ観察させてもらいたいと思いますね。

お彼岸の里帰りに、再び旭町1号踏切を訪れました。
あのレバーのついた踏切昇降機を見たいと思い、踏切小屋に出向きました。

係員の方にお願いして、写真を撮影させていただきお話も伺いました。
それによりますと・・・
○レバーの付いた機械はいつの時代のものか定かでない
○戦後にハンドルから電動式に改造された
○以前は1本のワイヤーにて上下させていたが、現在の2本ワイヤーよりも調整が難しかった
○猛暑の夏などは、鉄製の踏切支柱が伸びたりして、ワイヤーの調整が必要である
○踏切遮断と踏切信号機が連動しているが、交通量が多い国道にあるので、踏切遮断の際はかなり気をつかう

JRからの貨物引き取り列車が通るまでの間に、お話を伺いました。
この有人踏切も、日々人の手が入り整備され、今もここにあることがよく分かります。

ところで、あのレバーの横には入・切の文字があり、かつてはレバーで上下させていたことは確かでしょう。国道が今のように拡幅されたのは戦災後だと思いますが、旭町支線の開通は、1897(明治30)年ですのでこの機械、踏切があった戦前から存在していたのは間違いなさそうです。

時代がかった2つのレバー

イメージ 2



イメージ 3


かつては手動ハンドルを使ってました

イメージ 4


撮影日:2007年9月24日
撮影地:大牟田市旭町

イメージ 1



イメージ 2



イメージ 3


三池港の検査工場前に集う20t機関車達

さて、ホッパーから三池港の駅舎を過ぎ、検査工場や機関庫にやってきました。

いました!(^^)!
これまた懐かしい20t機関車達が。

まずは仕立工場前の5号機。工場横の側線にはセナ形炭車が連なっています。
う~ん・・・、しばし佇んで5号機と冬枯れの工場周りの線路敷きを眺めます。
いい眺めです(^-^) 時がここでも止まってます。

5号機には、朽ち果てそうなハト96が連結されていました。
しばらく動いたような形跡はありませんね。
ところで、この20t機関車の5号機は、S.S(シーメンス・シュッケルト社)製の1~4号機をモデルに造られた最初の国産20t機関車です。(ちなみに1915年の日本車輌・三菱造船製造)

お隣の検査工場前には、1号機と12号機が並んでました。
12号機にはデ-1(電源車)が連結されています。
1号機は、もちろんS.S(シーメンス・シュッケルト社)製、12号機は三菱製です。
実はこれらの20t機関車は、車体の拡幅などの改造をされていて、いずれも原型とは異なります。

なんと、この時お目にかかった3両の20t機関車は、すべてが現存します(~o~)
これまた、偶然です。1・5号機は、前回紹介した15t機関車の5号機と同じように大牟田市に寄贈されています。

12号機は、宮浦の三井化学専用鉄道にて現役のはずです。(最近見てませんが、機関庫の中だと思います)
この年の再会劇はここまでで、次の年 1994年から私の三池港通いが始まるのでした。

(1994年につづく)

撮影日:1993年12月12日
撮影地:三池港

イメージ 1

仮屋川操車場北端のポイント転轍機

前回に引き続いて、仮屋川操車場からお伝えいたします。

今回は、仮屋川操車場の一番奥にやってきました。
4線の線路が収束し、機廻しのポイントにつながります。
ここが、北端にあるポイントです。機関車1台分の線路の先は、操車場の線路へとつながってきます。

いつものように、宮浦からの列車がもうじきやってきます・・・。

切り離された機関車がやってきました

イメージ 2

       

機関車が北端のポイントを越えます

イメージ 3


イメージ 4


側線に入線し、宮浦へと帰って行きます

イメージ 5


撮影日:2007年9月24日
撮影地:仮屋川操車場

今回で博多駅シリーズはひとまず終了です。

竹下客車区にて20系“あさかぜ”を撮影した後、ついでに南福岡電車区まで足を伸ばしました。
もちろん徒歩です(^_^)v

で、今回も主役の“あさかぜ”はお出になりませぬ(>_<;)
お出迎えしてくれのは・・・

クハ481形先頭のボンネット“有明”です。
スカートは、赤で60Hz用のクリーム帯付き。
私は、この赤いスカートの方がお気に入りでしたね。きりりと締まって見えます!(^^)!

南福岡電車区のボンネット“有明”

イメージ 1


お隣を覗いてみましょう・・・
こちらは、クハ481形200番台先頭車の485系“にちりん”と583系の“金星”です。
当時の南福岡は、国鉄型の特急電車のオンパレードでした。

電車区に憩う特急列車達

イメージ 2


撮影日:1975年12月14日
撮影地:南福岡電車区



◆今回で、博多駅シリーズをひとまず終了ということで、おまけの写真を用意しました。

この写真は、井上孝治撮影のポストカードです。
唐草模様の風呂敷といい、日本食堂のネオンサインといい古きよき時代を感じさせてくれます。
現在、九州新幹線の博多駅開業向けて工事が進行中ですが、今のビルが過去帳入りするのも時間の問題ですね。

さて、この写真は私のお気に入りの写真集の1つである、井上孝治さんの写真集『想いでの街』の中の1枚です。
(詳しくは、先の井上孝治のリンク先をお読み下さい)
「福岡にゆかりのある方なら、ぜひお家に1冊はおきたい」そんな素敵なレトロな写真集です。

1956(昭和31)年の旧博多駅

イメージ 3


◆S31.11.19~S32.3.9
 東京-博多(下り)7レ “あさかぜ”の編成は以下の通りでした。

 1号車 スハニ32
 2 〃  ナハネ10
 3 〃  ナハネ10
 4 〃  ナハネ10
 5 〃  ナハ10
 6 〃  ナハフ10
 7 〃  マシ35
 8 〃  スロ54
 9 〃  マロネ40
10 〃  マロネフ29        ちなみに、九州での牽引機はC59です(@_@)

イメージ 1



イメージ 2


三池港のホッパーにたたずむ5号機と19号機

宮浦をあとにし、本線にそって宮原坑・万田坑をまわっていよいよ三池港にやってきました。

おー、久々の三池港のホッパー!(^^)!
いました、石炭を満載して出発の準備がととのった19号機が。

この写真を撮影した1993年の段階では、すでに本線上の列車の設定はなく、九電港発電所と三池火力発電所への運炭鉄道としてのみ機能していました。
それにしても、短い路線ながら石炭満載のセナを牽引する姿が見れるというのは感激です。
(この日の撮影時には、運行はすでに終了していました。私が行く時間帯は午後の夕暮れ時が多く、こんな炭鉱電車の風景ばっかり、なくなるまでの数年間飽きずに撮ることになります)

そしてもう1台の主役が・・・ 
15t電気機関車の5号機。
これまた、久々の対面に感激(^_^)v
聞くところによと、動きませんが職員の方がきれいに整備し直して保存展示しているとか。
昔はこの機関車、 黒色の塗装でした。この色の塗装になってからは初めてのご対面です。
何だかあかぬけて見えますよ、ガメ電さん(*^_^*)

1908年のGE製ですから、今年で101歳を迎えることになります。
ちなみにこの5号機、閉山後は大牟田市に寄贈され現存します。
残念ながら、公開されていません(>_<;)
このことについては、また後ほどふれることにしましょう。

さて、次は機関庫の方に行ってみよう(^-^)

(つづく)

撮影日:1993年12月12日
撮影地:三池港

↑このページのトップヘ